周瑜と陸遜
「賑わっているな」
眼下に広がる街の様子を眺め、周瑜は小さく呟いた。
収穫祭――例年通りなら進行の指揮をとるのは周瑜だったのだが、今回は特別な事情により収穫祭自体に関わることすらできなかったのだ。
己の関与しないところで祭りが進行している――――毎年楽しみにしていた祭りを“外”から眺めることしかできない周瑜の胸には一抹の寂しさが滲んでいた。
「穀物の収穫量は例年の二割増しですからね。食が充実すると知れば心だって豊かになりますよ~」
そんな寂寥感を吹き飛ばしたのは、背後からの嬉々とした声。
周瑜は窓から顔を離すと声の主に体を向けた。
「それは嬉しい報告だな、穏」
周瑜の視線の先。黒くがっちりした来客用の椅子に腰かけているのは小さな丸眼鏡をかけた女性。彼女の名は陸遜、字を伯言。穏とは彼女の真名のことだ。
陸遜はのほほんとした垂れ目を嬉しそうに細めると一巻の竹簡を取り出した。
「はい~。詳しくはこちらをご覧ください~」
竹簡の題は“本期的収穫量”。それを、漆を何層も重ねたであろう優美な光沢を放つ机に置き、周瑜に差し出すよう中央付近まで押し進めた。
周瑜は机を挟んで陸遜の対面に腰かけると「確かに受け取った」と竹簡を手に取った。
第二十八話 周瑜と陸遜
机の上にあらかじめ積んでおいた竹簡。その内のいくつかを手元に引き寄せた周瑜は改めて陸遜に目を向けた。
「穏。軍備の状況はどうなっている」
「既に予定の八割方は整っております。残るは食糧の搬入と、薪など必需品の調達ぐらいですかね~」
「順調だな」
「大舞台に出遅れるわけにいきませんからね~。全力で取り組ませていただいてます~」
眉を吊り上げ、ぐっと拳を握った陸遜。そのなんとも可愛らしい気迫に周瑜の頬が思わず緩んでしまう。
「頼もしいが、根を詰めすぎて倒れてくれるなよ。お前の代わりを果たせる者などいないのだからな」
自覚はあるだろうがなと周瑜は内心呟きながらも、万一を考え釘をさした。
無邪気な少女の雰囲気を纏う陸遜だがその軍事、内政の手腕は傑物揃いの孫呉の中でさえ群を抜いている、大陸を見渡してもそうはいない人材だ。そのため陸遜が取り扱うのは肝心要、重大な案件ばかりで、もし彼女が倒れでもしたら周瑜や文官らの負担がどえらいことになるのは明白なのだ。
「ありがとうございます~。もちろん心得ていますよ~」と、ほんのり紅潮した満面の笑顔の陸遜。
他者の目には未熟な少女の笑顔に映るだろうが、陸遜の性格、能力を知る周瑜には頼り甲斐のある自信に満ちた笑顔に映っていた。
心配が杞憂であることを確信した周瑜は「さて、本題に入ろう」と手元にあった竹簡を一巻、陸遜に渡した。
「洛陽に潜っている明命配下の者からだ。事のあらましが記されている」
「拝見します」
陸遜は表情を引き締め、竹簡を広げた。
この竹簡は前皇帝が崩御してから、現皇帝――劉協が即位して、董卓が都の実権を握るまでの報告書だ。内容は以下の通り。
・前皇帝こと霊帝が崩御した後、宦官ら擁する劉協を押しのけ、何進ら擁する劉弁が皇帝に即位。
・何進は宦官を排除しようと、各地の諸将に兵を率いさせ洛陽に集結させる。しかし、間もなくして宦官らの手によって暗殺される。
・激怒した何進の腹心らは、兵を率いて宮中の宦官を掃討。この時、宦官を掃討した諸将の中に董卓の姿あり。
・董卓が劉協を擁立し権力を握るに至ると、諸将の半数近くが董卓に従属。詳細は別書にて。
・董卓が圧政を敷いているというのは嘘であり、民衆らは宦官の圧政から解放された恩からか董卓に協力的。
・尚、事件前後の宮中の人間関係、出来事の詳細は不明。
「やはり宮中の詳細はわからずじまいですか……」と陸遜は肩を落とした。
「市中で情報は得られず、当事者らも口にしようとしなかったのだ。仕方あるまい」
間諜が僅かな情報をかき集めてようやく形にしたのがこの報告書だ。無理に調べようとすれば、どうしても足がついてしまうことを考えるとここいらが潮時だろう。周瑜はそう頭を切り替えると、また一巻、竹簡を取り出した。
「こっちは今朝届いた物だ」
「拝見します」と陸遜は広げた竹簡を目にして「何進将軍の元に集った諸将。それに――宦官によって廃されたかつての名士達の名がありますね」
名を見ただけでその人物の背景まで見抜いた陸遜の知識量と思考の瞬発力。
これも日々の研鑽を怠っていない証拠かと周瑜は感嘆の念を覚えつつ頷いた。
「そうだ。ここには現在も洛陽に留まっている名のある人物――つまりは敵対勢力が記されている」
「名士らも……ですか?」
「おそらくな。董卓は何らかの手法で諸将を取り込み、宦官を一掃した勲功を背景に名士らを取り込んだのだ」
「宦官によって失脚させられた名士たちが、宦官を皆殺しにした董卓に大なり小なり恩義を抱くのは至極当然。であるなら、名士らを取り込むのは容易だったでしょうね……」
「その結果として、内部からの圧力として名士らを、外部からの圧力として民衆を用い、諸将や反発する者共を抑えつけることに成功した――と推測できる」
方法は不明だが董卓は諸将の兵力を吸収した。どのような手段であれ不満や反発は免れなかっただろうが、それを押し殺さざるを得ない更なる圧力として名士と民衆の力を使ったのだと周瑜は推測した。
董卓に組しない者は“宦官の手先”と吹聴するとでも脅されたのだろう。もしそれを実行されたのなら報復に燃える民衆が黙ってはいないし、諸将の兵力を吸収してより強大となった董卓軍による粛清の対象になってしまう。従属以外の道を封じられた諸将ら。その動きを内部から監視する職権を名士らに与え、宮中や軍に登用したのだ。
「足りない人員を補い、かつ脆弱な権力基盤を強化する……。手際の良さといい、董卓は優秀な軍師を抱えているようだな」
皇帝の崩御から僅か三か月足らずで都の権力を掌握したという、並の者には実現不可能な智謀。周瑜はひと月後に控えた戦に苦戦を予感せずにはいられなかった。
これに陸遜は表情を硬く引き締めて頷いた。
「その上、華雄、張遼、牛輔……董卓の傘下には智将、勇将が揃っているように見受けられます」
「あぁ。中でも相手にしたくないのは――」と周瑜は竹簡のある一点を指さした。
陸遜はその人名を目にすると、苦々しく顔を歪めた。
「――飛将軍、呂布ですね」
剣術、槍術、弓術、馬術――おおよそ考え得るあらゆる武術に秀で、万の軍勢に匹敵する武力を持つといわれる人知を超えた怪物。
「伝え聞いた話では、ひとつの戦場で三万もの賊を斬り殺したらしい。……真実なら手の付けようがないな」と周瑜の口からため息が漏れてしまう。
「可能であれば交戦は避け、不可避であるなら防衛に徹して援軍を待つべきですね~」
「状況が許してくれるのならな……」
これに陸遜は珍しく眉を顰めた。
「反董卓連合――……それほど緊迫した関係になるとお考えですか?」
反董卓連合――。
“皇帝を傀儡にして洛陽で暴政を振るう董卓を討つ”という名目のもと、大陸中の有力諸侯によって構成される連合体のことだ。陸遜に任せている案件も、洛陽の動向を探っていたのも、全てはひと月後に控えた反董卓連合による董卓討伐の下準備。
ひとつ注意すべきは、連合に参加する諸侯は大義のためではなく、あくまでそれぞれの思惑があるからこそ董卓と戦う道を選んだという点だ。
「己の利を求めて集まった集団だぞ。しかも大陸で最も『欲』の強い者が、私が知っている限りで二人もいる」
「袁紹さん達ですね」
陸遜は口に出さなかったが、ここに袁術が含まれていることを察した周瑜は「わかっているのなら言うまでもないな」と頷いた。
袁紹と袁術。
名門袁家の出身としての知名度を持ち、皇帝を除けば大陸で一二を争うほどの富豪だ。数ある諸侯の中でも随一の発言力をもつだろう。
極端な利己主義であるこの二人がいる限り――袁術に関しては周瑜らが参加を促したのだが――弱小勢力は前線で使い潰されるか、まともに出番が与えられないかの二択と考えられるだろう。孫呉も袁術の客将という立ち位置――実際には使い勝手の良い駒程度の扱い――にあるため、弱小勢力と同じような扱いになる可能性は十分あり得る。
「ともあれ、だ」
今考えることではないと周瑜は思考を振り払う。
「穏、この報告書を参考に軍備の最終調節を任せる」
「はい~。お任せください~」
「さて、次だ。――こいつを見てくれ」
間髪を容れず周瑜が取り出したのは一枚の紙――書状だ。正式な場で使用されるような限りなく白に近い書状。
途端、陸遜は姿勢を正し丁寧に書状を受け取ったが書状を目にすると「紹介状ですか……?」と“なぜ今?”という疑問を抱えた表情に切り替わった。
新たな指令状かなにかと勘違いしていたようだ。
「推薦人といい内容といい……。不審な点が多くてな」
見ればわかる。そう伝えるように周瑜は手で読むように促す。
「推薦人……?」と陸遜は紹介状に目を通すと「そういうことですか~」と納得して頬を緩ませた。
「尚、紹介状の受取人は我が軍の者だ。穏、お前の意見を聞きたい」
これに陸遜は「う~ん」と首をひねり、しばらく天井を見上げてから「失敗を前提とした工作員――つまりは囮の可能性が高いですね~」と周瑜に微笑みを向けた。
「ふむ。根拠を聞かせてくれ」
「はい。潜入任務の目的は大別して諜報活動、工作活動の二つと考えられます。諜報を目的とするなら目立たぬよう秘密裏に潜入するでしょう。ですが今回は大胆にも紹介状を送り、推薦人の名を偽ることもせず『兵卒として使ってほしい』とのこと。なのでこちらの可能性は低いと考えられます。仮に諜報が目的であったとしても兵卒という階級の指定がある以上、あまり問題にはなりませんしね」
「……兵卒であれば五人一組の班に組み込むことができる。故に丸一日行動を共にする班員に監視させれば大した労力を割かずに済む――――ということでいいか?」
「はい。監視する対象がわかっていれば行動を制限するだけで情報を遮断できますし、意図的に誤った情報を流すこともできます」
どうでしょうか。そんな風に顔色伺う陸遜に周瑜は「ふむ。続けてくれ」と何も意見することなく先を促した。
陸遜は「はい」と眼鏡の位置を直して続けた。
「工作に関しても同様に考えられますので、暗殺や破壊工作等、重要度の高い任務ではないと考えられます。よって他から目を逸らすための囮、もしくは失敗前提の工作活動が目的であると考えられます」
一仕事終えたように陸遜は表情を緩ませるが、はっと思い出したように「もちろん無関係という可能性を考えないとすれば、ですよ~」と付け加えた。
「なるほど。では、この紹介状はどうすべきだ?」
「当然、受け入れるべきです。紹介状を蔑ろにするというのは相手の家に失礼ですし、世間には我々が礼を知らない野蛮人との風評が広がってしまいます」
「その通りだな」と周瑜は頷いた。
紹介状というのは“家の名にかけてこの者の能力、身分を保証します”という相手の家の面子に関わる重要な書状だ。それを撥ね退けるというのは相手の名を汚す無礼者の所業だ。
「今回のように被推薦人に間諜の疑いがあるというのは前代未聞だが、推薦人の置かれている情勢を察するになりふり構っていられないといったところか」
敵方の権力基盤は盤石ではない。諸将を抑えつけている現状、性急に構築された指揮系統等、内部には多くの問題を抱えていることだろう。それが戦にも悪影響を及ぼすのは考えずともわかる。
この推薦人としてはほんの僅かでも勝率を上げておきたいといったところなのだろう。周瑜はそうあたりをつけた。
「何はともあれ雪蓮の名に傷をつけるのは絶対に避けなければならない。やはり受け入れるしかないか……」
「はい。紹介状による推薦であれば現行犯でしか捕縛、処分はできないと解釈してます」
周瑜も同じ見解だった。
紹介状を受け入れてさえしまえば、後は内密に処理していけばいい。時間はかかるがやむを得ないかと周瑜は決断した。
「先ほども言いましたが、無関係の可能性も否定できませんよ」
「その通りだが、この時期に敵方からの紹介状だ。無視するわけにはいかないだろう」
「……そうですよね~」
陸遜の顔は浮かない。当然だ。
祭りに戦にと忙しい時期に厄介事を抱えるのは御免こうむりたい。こう思っているのは周瑜も同じだからだ。だが穏便に解決する手段としてはこれ以上はないのだ。
周瑜は肺に溜まった悪い空気を吐き出してから言った。
「受取人の男については班員に監視させる気はない。兵士が足りていない現状、連携に支障が出るであろう内部の不安は排除しなければならないからな」
反董卓連合集結まであとひと月。
受取人の男が所属するのは十数の戦場を乗り越えた経験を持つ部隊だ。動かせる兵士に制限があり、かつ部隊の練度を考えると前線から外すことはできない。
しかも部隊の面々は男に厚い信頼を寄せているとの報告が上がっている。
この男を部隊から外せば部隊や班員に不安や不満が広がるだろうし、男を班員に監視させた場合、班員が放つ不信感が部隊に広まるのは時間の問題だ。
「では明命ちゃんの所から監視をつけるのですか?」
明命とは周泰の真名。主に諜報、工作活動を行う部隊の指揮、育成を担う熟練の将だ。
無論のこと監視を行う人材も周泰のところから専門の者を選出することになっているのだが、周瑜は首を横に振った。
「貴重な間諜を割くほどではないだろう。幸い今日は手が空いてる。私が直接話を訊き、後に対応を決める」
「わかりました。それではこの件はお任せします~」
陸遜が同意したのを確認すると、周瑜は「誰かある!」と声を張り、手を二度叩いた。
直後「失礼致します!」と扉を開けて入ってきたのは装備に身を包んだ兵士。
孫呉の頭脳である周瑜。その執務室には軍事、政治問わずほぼ全ての案件が集まってくるのだ。そのため常に信頼できる五人もの精兵が配備されており、城で最も警護が厚い場所の一つと言えるだろう。
この兵士はその精兵の一人。
「何か御用でしょうか」
「この者を連れてこい」
周瑜は紹介状にある受取人の名を指し示した。
推薦人や被推薦人の名も見えているだろうが構わない。この兵士は絶対に口外しないと周瑜は信頼しているからだ。
「黄寛隊の……張豊にございますね」
「うむ。警邏で街に出ているかもしれんが、頼んだぞ」
「はっ! 至急お連れします! 失礼致しました!」
一礼して出ていった衛兵を見届けてから、周瑜は紹介状を手元に引き寄せると「では次の案件に移る」と紹介状を机の端に寄せ、新たな竹簡を取り出した。
その紹介状には五人の名が記されていた。
被推薦者として三名――兄貴、地備、出武。
受取人として一名――張豊。
推薦者として一名――張遼。
――――張遼 文遠。
この者こそ、洛陽に滞在する董卓配下の一騎当千の武人。
張 文遠その人だった。