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「天幕の数足りてねぇぞ! 東門詰所に二張り追加してくれ!」

「こっちは五張りだ! 迷子が多すぎて対応できてねぇ!」

「西の広場で喧嘩だ!! 十人ほどまわしてくれ!」

「高楼軒で裸の筋肉達磨が暴れてるぅ! 手が付けられねぇんだ! 応援求む!」

「東の商店街で孫策様を確認! 周瑜様に報告してくれ!」

「米の搬入に手間取ってんだが、応援まだなの!?」

「酔いどれ亭の方はどうなってんだ! さっきから黄蓋様が――」

「おい! 山川拉麺前で――――」


 街の中央に位置する立派なお城。そのすぐ後ろにある、普段は兵士の訓練場として使われるこの広い土地には百にも及ぶ天幕が立ち並び、俺たち黄寛隊を含む南陽の半数以上の隊が街中の揉め事への対応に追われていた。

 その原因が、今日から始まってしまった収穫祭にあることは言うまでもない。


「忙しそうなんだなー」


 天幕の方を見ながら呟いたのは李尋。いつもの呑気な様子とは違う、どこか沈んだような声調だった。


「祭りなんだから、俺らの仕事が増えるのはしょうがねぇよ」


 街中が浮かれているようで、そこらかしこで面倒事が起こっているのだ。俺たち一般兵はそれらの収拾に向かうのが役割。しょうがないと受け入れるしかない。


「喧嘩が減ればまだマシになるんだろうけどさ」


 その面倒事の中で一番厄介なのはやはり喧嘩だ。大勢の人員を割かなければならないし、何より危険だからだ。下手したら刃物が飛び交う場に踏み込まなければならないのだから勘弁してほしい。


「無理なんだなー。がある限り争いはけられないんだなー」

「……あーうん。そうだな」


 たまにこんなことを言い出すのが李尋だ。正直な感想を言ってしまえば拗ねてしまうから、ここは当たり障りのない対応で切り抜ける。

 ただ、李尋の言うことはもっともだと思う。酔うと俺を含め、何をしているのかわからなくなる人っていうのがいるからだ。そういう人たちの仲裁に入るのが一番危ない。


「とにかくやることもないし、昼までは休んでようぜ」


 俺たち黄寛隊は、朝の警邏が終わってからは昼まで休憩ということになっている。張さんと万修は知り合いの手伝いに。李和は午前の警邏が終わってからは見ていない。たぶん屋台の食い歩きでもしているんだろう。


「なら、僕はトン汁貰ってくるんだなー。子義もいるかー?」

「豚汁か……そういやあったな」


 祭りの間、兵士向けに豚汁の配給があったのを思い出す。寒くなってきたこの頃、俺たち兵士が体を冷やさないようにという上からの気づかいなんだろう。小腹が空いてきたしちょうどいい。


「いる。頼むぜ」

「あいー」と李尋は体型からは想像もできない素早さで駆けていった。


 食べ獲物が絡むと行動がはやくなるのが兄弟そろっての特徴だ。いつもとは言わないから、せめて陣形の訓練だけでもこれぐらいの動きをしてほしいものだ。

 そう李尋の後ろ姿を眺めていると、ひらひらと手を振りながらこちらに近づいてくる人物に気がついた。忙しなく動く兵士たちの中、頭一つ分抜きんでた長身の女性――。


「やぁ。えーと……太史慈クンだったね」 

「お久しぶりッス、丁奉……将軍補佐官」


 先日、将軍の補佐役に昇進した丁奉さんだ。字は承淵しょうえんというらしい。相変わらずへらへらした笑みを浮かべている。

 面倒な人に出くわしてしまった。あの潜入任務以来、運よく一度も顔を合わせることは無かったのに……今日はついてない。


「あ、昇進おめでとうございます」


 遅くなってしまったが、昇進に対するお祝いの言葉を述べておく。こういうのを社交辞令っていうらしい。


「お、ありがとう」と、丁奉さんはどこか嬉しそうに頭を掻いて「でもねぇ、肩書きまでつけなくていいよ。あたしと太史慈クンの仲じゃあないの」と俺の肩をぽんぽんと叩いてきた。


 俺と丁奉さんの仲ってなんだよ、と思っていても口に出しちゃいけないのが一般兵の立場なのだ。丁奉さんといえども上官――それも将軍の付き人みたいなものだ。

 とにかく最低限の礼は尽くした。変にいじられる前にさっさと逃げよう。


「それじゃあ、俺、これから用事があるんで」

「急ぎのってわけじゃないんでしょ。豚汁だっけ? おいしいよね」と、いじめっ子のような笑みを見せた丁奉さん。

「聞いてたんスか……?」


 俺が丁奉さんに気付いた時点でも天幕二張り分の距離はあった。加えて兵士たちの怒鳴り声が飛び交うこの場では――普通の人では、とてもじゃないけど俺と李尋の会話を聞くことなんてできないはずだ。もしかして、ものすごく耳がいいのか。

 ところが丁奉さんは、俺の予想が的外れだといわんばかりに「まさか」と肩をすくめた。


「唇の形と動きでなんとなくわかるんだよ。さっきの太っちょなんて唇が厚くて読みやすかったしね」

「――はぁ、すごいんスね」


 盗み聞き――ここでは盗み見か――に、こんな特殊な技を使うのはどうかと思うけど、武力だけじゃなかったんだなと素直に感心する。潜入部隊に選ばれていたのは伊達じゃなかったようだ。

 これに丁奉さんは得意げに口を綻ばせてから、慌ただしく動く兵士たちに目を送った。


「見るからに忙しそうだね。やっぱり下っ端てのは忙しいんだ?」

「そうッスね。やることだけはたくさんあるんで」


 賊共の討伐とか前線での戦いを除けば、今日みたいな騒動の鎮圧、迷子の保護、催し物の舞台設置、街の警邏などなど。雑用仕事ばかりが絶えず押し寄せてくるのだ。


「偉くなると楽だよ~。忙しいのは準備まででね、本番は見ての通り暇なのさ」

「それって暇じゃなくて――」

 

 怠けてるだけなんじゃ、と出かかった言葉を慌てて飲み込む。丁奉さんが放つ空気に気が緩んでしまったのか、つい言ってしまうところだった。相手が丁奉さんとはいえ、いらないことをいって心象を悪くするのは昇進に響くだろうし、思いとどまれて良かったと安堵するが――。


「太史慈クン!」と丁奉さんはいきなり俺の肩に掴みかかってきたのだ。

「な、なんスか……!?」


 心臓が飛び上がり、反射的に力が入ってしまったけど肩を動かせなかった。それほど強い力。もしかして見透かされてしまったかとびくびくするけど。


「太史慈クンは才能あるからね。ぱぱっと昇進しちゃいなよ」

 

 丁奉さんの口から出たのは誉めるような言葉。それだけで手を出そうとする素振りはまったくなかった。

 肩透かしを食らった気分になり、考えすぎたか――――と思ったが違う。丁奉さんの浮かべている笑みは、さっき見たいたずらっ子のようなのと同じだった。絶対わかっててやったな、この人。 


「……ありがとうございます」 


 それでも誉められたことに変わりはないからお礼を言うと、丁奉さんはよこしまな気などまったくないという風に頷いて続けた。


「君の同期じゃあ、間違いなく君が一番だ。甘寧将軍の評価もそう悪くなかったし、自信持ちなよ。……あぁ、甘寧将軍と言えば――」

「よぉ、丁奉」


 背後から聞こえたのは、聞きなれた男の声――万修のだ。振り向けば案の定、兵士姿の万修の姿があった。


「おやぁ~」丁奉さんはやけに間延びする声と共に俺の背後に目を向け「誰かと思えば、泣き虫の季然きぜんクンじゃないの」と馬鹿にするような声調でいった。


 季然――初めて耳にする呼び方だ。万修の真名まなだろうか。


「俺のあざなだ」


 万修は俺の心中を察したようにそう言って足を進めると、俺を挟む形で丁奉さんと対峙した。

 二人の身長に差はほとんどなく、改めて丁奉さんの身長が高いことを――ついでに二人の胸元までしかない俺の身長の低さも――思い知らされた。


「昔みたいに『承淵ちゃ~ん』って呼べばいいのに」


 丁奉さんの言葉に、より鋭さを増す万修の目つき。そして何か言い返そうとしたのか口を開こうとしたが「ほー、何? 兵士になったの? あんた」と素っ気ない丁奉さんの言葉に遮られ、万修の表情に険しさが表れた。


「見りゃわかんだろ。目までイカれちまったか」


 間に挟まれた俺の事なんてお構いなしに、険悪な空気をぶつける万修。

 しかし万修の今にも殴りかかりそうな空気に対し、丁奉さんは冷静というか余裕があるというか「魅力的イカしてるの間違いじゃないの。こんな綺麗な目してる奴、そうそういないよ」と、指でまぶたをぱっちり開いて万修に見せつけた。

 丁奉さんのは余裕じゃなくてふざけてるだけだな、と呆れていると。


「……そうやってられんのも今の内だ。テメェなんぞよりすぐに偉くなってやるよ」


 万修は眉間に険しい皺を刻みながら、にやつく丁奉さんにその拳を突きつけたのだ。


「あたしにも勝てないくせにかい?」


 ところがその拳は、相手にならないというのを思い知らせるかのようにあっさり弾かれてしまった。

 そして拳を弾いた勢いのまま、丁奉さんは俺の肩に手を回してきたのだ。

 

「はっきり言ってあげるよ。あんたじゃ、あたしどころかこの太史慈クンにすら勝てないね」

「なんで俺を引き合いに出すんスか……」


 万修の突き刺さるような視線が飛んでくる。けれど仮にも将軍補佐の地位にある丁奉さんの手を振りほどくのはいけない事のように思えて「俺は関係ないから」と目を逸らすことしかできなかった。

 もちろん俺の心境が二人に通じたなんてことはなく――片方は知らないふりをしてそうだけど――丁奉さんは続ける。


「才能ないんだからさ、あんたは。剣よりくわの方がお似合いだよ」

「その才能のない剣でも、テメェぐらいならやれるだろうぜ」


 万修は火のように真っ赤な顔を怒りに歪めながら、腰にある剣に手をかけた。


「おいおい」と肩をすくめた丁奉さんは「あたしは将軍の補佐役だよ、将軍の。立場、わかってる?」と、さっきのお返しとばかりにその細長い指を万修に突き付けた。


 煽るような口調。それに我慢の限界を迎えたのか、剣を握る万修の手が今にも暴れ狂うかのように震えだした。――これ以上は不味い。


「やめとけ、万修」


 間違ってもそれだけはしちゃいけないと、堪らず割って入ってしまった。

 決闘でも仕合でもないかぎり、階級が上の奴に斬りかかるというのは軍規に反する行為だ。更に言うなら、俺たちのような一般兵が行ったなら死罪は免れないだろう。これは軍に身を置く人間なら誰だってわかっていることだ。もちろん、万修だって――。

 俺がいることなんて忘れているかのように、万修の目は丁奉さんから離れない。こうなったら、力づくで取り押さえるしかないと心を決めたのだけれど。


「……クソ野郎が」


 万修は剣から手を引いてくれた。しかしその剣幕な雰囲気を収める様子はなく、荒々しい足取りで天幕が立ち並ぶ訓練場の方へと去っていった。


「万修! おい!」


 呼びかけるが当然返事はなく、すぐに他の兵士に紛れてしまった。 


「ほっときなよ、あんな玉無し」

「た、玉無し……!?」

「あんだけ言われて引き下がるようじゃあ、男とは言えないでしょ」と、つまんなさそうに言い捨てた丁奉さん。


 万修との間に何があったんだろうか。丁奉さんも苛立っているようで訊きづらいし、これに首を突っ込むのはやめておいた方がよさそうだ。

 早くどこかに行かないかなと丁奉さんの顔色を窺っていると、急に「あ、そーだ」と何か思い出したかのように手を叩いたのだ。


「『装備を整えて城の中庭に来い』ってさ」と、誰かのマネをするようにキリッとした顔つきで言った。

「なんスか、それ?」

「甘寧将軍からの伝言」


 まさに不意打ちの一言だった。 


「えっ!?」

「だいぶ話し込んじゃったからね。急いだ方がいいよ~」と、ひらひら手を振りながら去っていく丁奉さん。


 もし、丁奉さんがこの伝言を引き受けてからふらふらしていたのだとしたら。俺と丁奉さんとのやり取り、万修の一件でかなりの時間が経っている今、甘寧将軍はきっと――。

 ぞっと背筋が寒くなるのと同時に「なんで早く言わないんスかッ!!」と遠ざかる丁奉さんの背に怒りをぶつけてしまった。

 やっぱり丁奉さんは苦手だ。


 


第二十七話 縁




「なるほど」 


 太陽が真上に上った頃。手にしていた湾刀を地面に落とすように突き刺し、甘寧将軍は呟いた。


「やっと……終わりッスか……」


 どれだけの間、将軍の攻撃を防いでいたことか。体は水を吸ったように重く、手からは痺れが引かない。脚もくたくただ。今すぐにでも地面にへたりこみたいけれど、それは無礼だと思って、剣を杖に見立てて体重を預ける。もちろんこれも失礼なのはわかっているけど、座るよりましだと見逃してほしい。


「今の攻防で、何か思うところはあるか」


 流石の将軍と言えどあれだけ動けば疲労するのか、顔色は変わらないけど頬には汗が光っていた。

 

「す、すんません……ちょっと待ってくだ……さい」


 俺なんか顔は燃えるように熱く、しゃべるのも辛い。なのに同じだけ動いていたはずの将軍は平然としている。どうしてこんなにも違うのだろうか。


「感想でも反省でもなんでもいい。何か言ってみろ」


 急かすような将軍の一言。いらないことを考えてる暇はないみたいだ。


「そう……ッスね……」


 一番訊きたいのは“どうして俺は将軍と仕合をしていたのか”ということなんだけど、この質問をしたら問答無用で却下されるだけでなく、ついでとばかりに拳骨が飛んできそうだ。将軍はあくまで“今の攻防で”としか言っていないのだから。

 

「……戦いやすかった気がしました」

「理由は?」


 万修のとは比べ物にならない剣速、威力を持つ将軍の攻撃は受けるだけでいっぱいいっぱいだった。にもかかわらず、俺はしのぎ切ることができた。その理由となると……。


「見えないところからの攻撃がなくて。こう……将軍がわざと受けやすいところに斬りこんで来たって、そんな風に感じました」

 

 これに将軍は「なるほど」と頷いてから、背後へと体を向けた。

 どうやら悪い回答ではなかったようだ。良かったと肩の力が抜けてしまうが、この後の“祭りの警邏”という大切な仕事が頭を過ぎった。

 そろそろ黄寛隊は当番の時間だ。将軍のもとにいることは李尋にすら言ってないからみんな心配してるかもしれない。それに脚の疲労も心配だ。街中を歩き回る警邏をこの状態でこなせるだろうか。


思春ししゅん。取り込み中か」


 そう不安に思っていると将軍の向こうから声が聞こえた。女性のものだ。その顔は将軍の背に重なっていて見ることはできない。

 “思春”というのは将軍の真名――字は興覇こうはのはずだし――なのだろう。ということは甘寧将軍とその人物は深い間柄ということになる。


「いえ。何か御用でしょうか」


 ところが甘寧将軍は、真名を預けた人物の前なのに公の場に立った時のような丁寧な口調だった。

 あの乱暴な甘寧将軍が敬意を払い、かつ真名を預けた人物――――どんな方なんだろう。甘寧将軍の丁寧な口調から察するに、相手の地位は将軍と同等かそれ以上だろう。


「西の広場で飲み比べの催し物があるだろう? その開幕挨拶を任されていてのだが……暇を持て余していてな」


 その人物の足元に目を向ける。

 真っ白い靴は上質な絹で作られているのか、滑らかな光沢を放っている。つま先部分は黒い革のような材質で作られていて、金色の金具――もしかしたら本物のきんかも――で絹の部分とを繋いでいる。白と黒という単純な色合いだけど、その材質ゆえか高価な装飾品のように見える。

 こんな高価な靴、間違いなく軍人が履くようなものではない。とすると政務官か。

 

「息抜きも兼ねて街へ繰り出そうと思うのだ。手が空いているようなら思春もどうだ?」


 靴から続く絹の生地が太ももまでを覆う。靴と言うよりはそういう履き物なのかもしれない。こと細かに採寸をとった特注品なのだろう、丸みを持った女性特有の脚の線がはっきりわかる作りになっている。


「私の立場としては、可能であるなら外出は控えた方がよろしいと考えます」


 ちらちらと見える衣服の色は紅色べにいろ。生地はやはり高級な絹だ。染料も高価な物を使っているのか色ムラは全く見当たらない。ただ、一つ気になることは……丈がものすごく短いのだ。太もも丸出しの甘寧将軍といい勝負なのを考えると、丈が短いのが女性の間での流行なのかもしれない。

 ……なんだかイケナイコトをしているようで恥ずかしくなってきた。幸いにもというべきか、そこから上は甘寧将軍に重なって見えない。


「ここ数日、多くの民衆、行商が南陽を出入りしております」


 しかし、この高価な服装の人物が誰なのか、ますます気になってしまった。周瑜様の声ではないし、陸遜様だろうか。それとも――と考えるけど浮かんでこない。そういえば偉い人の事をそんなに知らないことに思い至った。

 わからないなら考えてもしょうがない。いっそのこと、甘寧将軍の脇から堂々と顔を出して確認してしまおうか。


「いくら検問を厳しくしようと、不逞の輩が紛れている可能性は否定できません」


 でも予想通りに将軍並みの地位の方だったら、この行動は無礼にもほどがある。とすれば、ばれても怒られないような覗き方をしなければならない。

 今の俺は訓練が終わった後の汗だくの兵士――他人からは疲労困憊ひろうこんぱいに見えるであろうこの見た目を活かす。


「立場ぐらいわきまえている。だからこそ、供にお前を選んだのだ!」


 “疲労のあまりよろめいてしまった兵士と目が合った”

 相手がそんな風に考えてしまう覗き方をすればいい。

 二人の会話に熱が入ってきたようだ。これなら少しぐらい物音を立てても、こちらに背を向けている甘寧将軍には気づかれないだろうし、やるなら今か。


「私とて万能ではありません。ひとりでは手が届く範囲にも限度があります」


 杖代わりにしていた剣から脚に体重を戻し、膝から力を抜く。

 ガクンと体が沈んでしまう。思ったよりも疲労が溜まっていたようで、気を抜くとすぐにでも倒れてしまいそうだ。もちろんそうならないように踏ん張り、体幹を駆使して傾いた体を横――その人物が見える位置に持っていく。

 そして――――その人物と目が合った。




 

 青い瞳がそこにあった。

 強くぶれない、どうしようもなく惹き寄せられる輝きを秘めた瞳。

 遥か遠く、空の月ように届かないものだと思っていたあの瞳が――ほんの数歩先、手を伸ばせばすぐにでも届く距離に。

 

 胸が――苦しい。

 戦いの時のとも訓練の後のとも違う。緊張したときのに似ているような気がするけど、それとはまた違う、妙な高揚感を伴う感覚。

 

 どうして胸が苦しいのだろう。どうしてこんなに胸が熱いのだろうか――。




 


「…………――おい!」


 ガツンと鈍器で岩を叩くような音。


「あで」 


 遅れて頭頂部にズキズキする痛み。

 何事かと上を見上げれば、降り注ぐのは甘寧将軍の刺々しい視線と「どうしたと訊いている」と苛立ち交じりの声。

 心臓が消え入りそうな苦しさが襲う。ここ数か月で何度も経験している苦しさ――――思い出した。これは怖い時のやつだ。


「すんません!」


 大急ぎで立ち上がる。どうやら踏ん張れずに倒れてしまっていたようで、装備が埃まみれになっていた。汗のせいでなかなか払い落とせない。

 俺が装備を必死こいてはたいていると、甘寧将軍は小さくため息をついて視線を前に戻した。


「失礼致しました」


 甘寧将軍の視線の先にいる人物とは――そう、俺たちの主である孫策様、その妹である孫権様だったのだ。南陽に居るなんて知らされていなかったから、寝耳に水なんてもんじゃない。熱湯をぶちまけられたような衝撃だ。

 いつの間にかそのお姿は、甘寧将軍の姿に重なって見えなくなってしまったがその方がいい。目が合ってしまえばさっきと同じような状態になってしまうだろうから。


「この者は?」


 若干の幼さを残す、孫権様の可愛らしくも美しい声。ただ一言耳にしただけで胸が苦しくなってしまう。そういえば声を耳にするのは初めて孫権様に会った日以来だ。


「紹介が遅れましたが、この男の名は太史慈。黄寛こうかん隊の者にございます」と甘寧将軍は身を翻した。

「え」


 視界が開け、孫権様と対面する形になってしまい、変な声が出てしまった。

 青い瞳が俺に向けられる。


「知っているとは思うが、こちらにおわす方は孫権様だ。孫策様の妹君であらせられる」


 脇から甘寧将軍の声。

 正面には、腰に手を当てて悠然とたたずむ孫権様の姿。

 さっきの比でないほど顔が熱く、心臓はうるさいぐらいに暴れている。熱のせいか、視界がぐるぐる回りだして立っているのか飛んでいるのか、はたまた落ちているのかすら分からなくなってきた。


「え……」


 何をどうすればいいのかもわからない。霞がかった頭でなんとか甘寧将軍に助けを求めると「挨拶しろ」と小声で指示をくれた。

 おはよう。こんにちは。こんばんは。

 こんな言葉が次々に浮かぶが、違う。これじゃない。目上の方と初めて顔の合わせた時――孫権様は俺の事なんて覚えてないだろうから――の挨拶だ。


「お初にお目にかかります! 黄寛隊所属、張豊班の太史慈ともうします!!」


 ぱっと浮かんだ言葉と共に、赤くなっているであろう自分の顔を見られたくない一心で頭を下げる。これが礼儀のなっていない、勢いだけのお辞儀になってしまったことに気付いたのは動作を終えてからだ。

 そしてふと“第一印象が後の関係に大きく影響する”というのが頭に浮かんだ。言うまでもなく張さんの言葉だ。これぐらいで罰せられることはないだろうけど、無礼者だとか言われて孫権様に近づける機会を永遠に失ってしまうかもしれない――――そこに至ると、全身から熱が引いていく代わりに冷やかな汗が背筋を伝う。季節のせいか氷のように冷たかった。

 挽回しようにも今は孫権様の返事を待つことしかできない。がくがく震える脚を見ながら、孫権様の言葉を待つ――。


「威勢がいいな」 


 ところが、返ってきたのは弾むような声調。


「孫権、字を仲謀ちゅうぼうという。以後、宜しく頼むぞ」


 そこに含まれる柔らかな声調。直接見て確認できないけど、それだけで笑っていることがわかって、一気に心が軽くなった。


「はい! よろしくお願いします!」


 ようやくまともな返事をすることができた。安堵の息を漏らしていると、再び甘寧将軍が俺の前に出て。


「さて、外出の件ですが。この者の同行を許可してくださるのであれば、護衛の任、謹んでお受けしますが」

「もちろん構わない」と二つ返事の孫権様。


 甘寧将軍の口から出た“同行”という言葉。しかも“この者”ときた。もしかして俺の事か。


「あのぅ……」


 安心しすぎたのか上手く声が出せず、二人は何事もなかったように話しを続けている。


「では身支度を整えてきますので、少々お時間をいただきます」

「ならば、私はここで待つことにしよう」

  

 気が付けばいつの間にか解散の流れになってしまい、甘寧将軍は孫権様に一礼すると廊下の方に体を向け「太史慈、お前もだ。その汗ぐらい何とかしろ。早急にな」と言い残してきびきび歩いて行った。


「はい……?」


 この疑問の声に答えることはなく、すぐに甘寧将軍の姿は見えなくなってしまった。後ろにいる孫権様に訊くわけにはいかないし……。

 “孫権様”“同行”“護衛”――――聞こえたこれらの言葉から推測すると、何かものすごく重大な任務を負わされてしまったことしかわからなかった。






 大きな飲食店から怪しい物売りまで、様々な店舗が立ち並ぶ南陽の大通り。いつもなら人気店や、たまにみかける凄腕の大道芸人のような特別な何かがあるところにしか人だかりはできないのだけれど、今日は違った。

 次から次へと積み上げられていく米俵の横で豊作を喜ぶ米屋の主人。季節の野菜を並べ、多くの客入りに汗をたらす野菜売り。途切れない注文に嬉しい悲鳴を上げる露店の料理人。普段とは比べ物にならない見物人に張り切る大道芸人。路上で彫り物の実演をする職人などなど。あらゆるところに人だかりができ、大通りは押しくらまんじゅう状態となっていたのだ。


「――あ、すんません」


 見知らぬ人とぶつかってしまったのは今ので七度目だ。


「ごめんなさっ――――!?」


 相手の女性も頭を下げてくれたが、いきなり鼻をつまんで、渋柿を口にしたような表情でそそくさと逃げていった。


「またか」


 この反応も七度目だ。あんな風に逃げられた原因はもうわかっている。


「くっさぁ……」


 ゲ○を拭いた雑巾に男臭さを注入したような激臭。身に着けている鎧からだ。近くまで寄らなければわからない程度なんだけど、ぶつかるほどの近距離ともなれば、あんな顔して逃げられてもしょうがないと思えてしまう。

 もちろんこれは俺の鎧じゃない。兵舎の倉に入っていた、誰のとも知れない鎧だ。隊の備品であることはわかっているから俺が身に着けても問題ないはずだけど。


「着ない方がよかったか」


 この鎧、黒いおかげでぱっと見では錆びているというのは分からないけど、内側はカビだらけというとんでもなく汚らしい装備なのだ。焦っていたせいで、俺がこれに気がついたのは孫権様や甘寧将軍の元に駆けつけてからだ。


「なんか臭くなーい」

「……うん。なにか臭うね」


 隣を歩いていた二人組の声が耳に入る。やっぱり臭うか……。

 今になって考えてみれば、この鎧を身に着けるのは軍の評判を下げてしまうことに繋がるのではないか。誰かに鎧の状態がばれて“この軍隊は、兵士にこんな貧相な装備を使わせているのか”と勘違いされてしまったら大変だ。軍隊としての信用に関わる。

 

「将軍も怒るだろうし……どうしよう」


 前を歩く甘寧将軍を見る。隣りにいる孫権様と露店に目を向けながら楽しげ――表情に大きな変化はないけど、どこか柔らかいように感じたから――に話している。距離があるせいで会話は聞こえないけど、こちらの臭いも届いていないはず。

 孫権様の手前、やはりこんな装備でいるのは良くないだろう。脱ぐなら早い方がいい。どこか人目につかない脇道に入って――。


「って馬鹿か、俺は」


 今は護衛任務中だ。目を離した隙に孫権様に何かあれば取り返しのつかないことになる。更に言うなら、持ち場を離れることの方が甘寧将軍の怒りを買うことになるだろう。

 護衛で重要なのは役割に沿った位置取りだ、と甘寧将軍は言っていた。

 護衛対象である孫権様は道の中央を歩いてもらい、建物の影などの通路の外側からの不意打ちを防ぐ。そしてできることなら、孫権様の周囲を武装した兵士でがちがちに固めるのが一番なんだけど、ここには甘寧将軍と俺の二人しかいない。

 甘寧将軍は前方の警戒と飛び道具への対応。それから俺の取りこぼしの確保――いわゆる最終防衛線として孫権様の右隣に位置取っている。


「将軍、気合入りすぎ……」


 腰の湾刀から手を離さず、時たまこちらに飛んでくる視線は鋭い刃のようで“注意を怠るな”と語り掛けているようにも思えた。孫権様に向ける視線とは大違いだ。あんな風に警戒しているせいなのか、二人の付近に人は寄り付かず、常に人一人分の空間が空いている。俺としては護衛しやすくて良い環境だ。

 そんで俺の役目は、孫権様たちの後方から近づく不審者を取り押さえること――つまり不審者の早期発見と確保だ。そのため俺は二人の姿と、少しばかり広い視野を確保できる距離を保って行動するということになっている。いまは甘寧将軍のおかげで人は近寄ろうとしないから、飛び道具への警戒を強めよう――と周囲を見渡した時だった。


「なんだぁ!?」


 こちらに飛来するこぶし大の物体を寸でのところで躱す。

 ガシャンという音を立てて地面に飛び散ったのは、陶器の――茶碗のようなものの欠片だ。


「きゃー!」


 続くように女性の悲鳴。孫権様らの方からだ。

 通りを歩く人々に嫌なざわつきが広がり、その足並みを乱していく。こうなっては甘寧将軍の眼力むなしく、二人の姿は人混みに飲み込まれてしまった。

 騒ぎに乗じた奇襲――そんな状況が頭を過ぎる。


「将軍!」


 人混みをすり抜け、二人のもとへ。いつでも抜けるように、腰にある剣の柄から手は離さない。


「喧嘩か?」

「そのようです」


 ところが、俺の心配なんてまるで無意味だという風に落ち着いた様子の孫権様と甘寧将軍。

 その視線を追った先にはまばらな人だかりができていて、更に向こうには四人掛けの机が五台入るかどうかという小さな飲み屋があった。


「やめてぇ! 私のために争わないでっ!!」


 その入り口には、ひっくり返った机の裏で叫ぶ女性が一人。店内には二人の男が取っ組み合い、周囲には料理だったものが無残に散乱している。もったいない。

 店内にはこの三人だけのようで、たまに飛んでくる食器類にさえ気を付けておけば怪我人が出る心配はなさそうだ。とはいっても野次馬が増えてきたから早めに収拾しなければならない。


「兵士はまだかー!!」


 いや、もう一人いた。取っ組み合う二人の男、その更に向こう側から壮年の男性の必死の叫び。店内が狭いせいで逃げられないようだ。

 まだ警邏の人間は駆け付けていない。護衛の任務はものすごく重要だけど、街の平和を維持するのは俺たちの仕事だ。飛び出すべきかどうか、甘寧将軍の指示を仰ごうと目を送ると。


「太史慈――」と甘寧将軍は何か言いかけるが「私が行く。貴様は引き続き護衛の任にあたれ」

「俺がッスか!?」


 予想外の命令。孫権様の護衛なら、地位的にも実力的にも甘寧将軍の方が適役のはずだ。暗にそういう意味を込めて言ったのだけれど、甘寧将軍は「やれるだろう」と平坦な声調で言うと、孫権様の方に体を向けた。


「無理ッスよ~」


 その背に向けて抗議しても甘寧将軍の反応はなくて「孫権様、すぐに追いつきますので」と一礼し、人混みをかき分けて行ってしまった。

 俺の意見なんて全く聞かない甘寧将軍。でもこればっかりはきちんと言わなければと喧嘩の場に向かおうとしたのだけど。


「行くぞ」と孫権様は足を進めたのだ。


 孫権様がそう言うのなら反対のしようがない。


「は、はい!」


 俺は不安と緊張を押しとどめて、その後を追った。






 右正面。台車を引いている馬が人混みをかき分けて進んでくる。行商のだろうか。台車の影を利用しての奇襲があるかもしれない。用心しなければ。

 後方には浮浪者のような、一際目立つ小汚い格好の男。手には布でぐるぐる巻きにした棒状の物を携えている。長さは俺の剣と同じくらいか。こっちも要警戒だ。

 

「太史慈……といったな」


 注意が散漫になっていた左側から予想外の奇襲。孫権様の声だ。


「はいィ! 合ってます!」


 咄嗟の事に声が裏返ってしまい、顔が熱くなる。孫権様の事を意識しないよう警護に集中していたのが良くなかった。

 信じられないことだけど、俺は今、孫権様と肩を並べて歩いているのだ。こう並んでみてわかったのだが、孫権様の方が肩の位置が高い。悔しいことに、身長は俺の方が低いみたいだ。

 

「そう肩肘張らずともよい」と微笑みをくれた孫権様は「甘寧に随分と気に入られているようだな」と、それこそ予想外のことを言いだしたのだ。

「そうなんス――……ですカ?」


 危うくいつもの調子で答えてしまうところだった。相手は武官とか文官とか、そういう枠組みを超えたところにいるお方なのだ。言葉遣いはもちろん、礼儀作法にも十二分に注意しなければならない――と気合を入れるけど。


「言ったろう、肩肘を張る必要はないと。いつものように話せばいい」


 そんな緊張をほぐすように、孫権様は物柔らかに言ってくれた。 

 孫権様のようなとんでもなく偉い人が、俺みたいな一般兵にここまで気を遣ってくれる。体が脈打つような喜びを感じる反面、申し訳ないという気持ちが込み上げてきた。


「すんません」

「謝る必要はもっとない」


 今度は可笑しいといった風に頬を緩ませた孫権様。そして「ふぅ……」と気分を入れ替えるように息を吐いてから。


「甘寧が個人の鍛錬に付き合う者など両手で数えるほどしかいない。ましてや、あの中庭でとなると私だけだと思っていた」

「なんで中庭なんスか? それに俺、鍛錬ってのに誘われたのは今日が初めてなんスけど……」

「あの中庭ならば、よほどのことが無い限り邪魔が入ることはないからな。気を入れて鍛錬をするにはうってつけなのだ」


 それはそうだろう。城の中心部に近いあの中庭なら、訓練場とは違って浮浪者や犬やらが乱入してくることはないだろうし。

 少ししてから、孫権様は思い出したように「移動も楽だしな」と付け加えた。


「お城の中は広いッスからね」 

「そういうことだ」


 いちいちあの長い廊下を渡り、階段を下りて訓練場まで行くというのは確かに面倒だと納得。

 

「鍛錬は今日が初めてと言ったな」

「はい。そうッス」

「甘寧と知り合ったのはいつだ」


 前の任地といいたいのだけれど、あの時のは知り合ったとは言わないだろう。


「黄巾本隊の討伐の時ッス。甘寧将軍の指揮で潜入任務にあたりました」

「……なるほどな。ならば説明がつく」と孫権様は納得したように頷いてから「本隊討伐後、残党狩りで派兵続きだったのは……言うまでもないか」

「実際に戦いに出てたッスからね」


 黄寛隊は本隊討伐後の一か月の間、何度も出陣していたせいで南陽に居たのはほんの三日程度だったのだ。思い出すだけでも嫌になってくる。


「将軍のほとんどが部隊の指揮にあたっていてな。甘寧も例に漏れず、出陣続きで各地を転々としていたのだ」

「将軍も大変だったんスね……」

 

 孫権様はこれに頷いて。


「最近になって落ち着いたかと思えば、収穫祭の準備やら――――いや、この頃慌ただしかったからな。今日ぐらいしか暇がなかったのだろう」


 準備よりも本番の方が忙しい気がするけど、それは俺たち一般兵だけらしい。どうやら丁奉さんの言葉は本当だったようだ。


「お前には自分の時間を割くだけの価値がある。甘寧はそう考えているからこそ、僅かな息抜きのをお前の鍛錬に費やしたのだろう」

「そう……なんスかね」


 甘寧将軍が俺を評価してくれている。丁奉さんも言ってたけど本当なんだろうか。俺はまだ何の功績も挙げてないし、剣の腕だって未熟だ。戦だって、賊の討伐を含めてもまだ十回程度しか経験していない。 


「あぁ、そうとも。だから胸を張れ」と柔らかい表情、力強い口調で言ってくれた。


 俺が弱気になっているとでも勘違いしたのかもしれない。疑問に思っただけなんだけど、その気遣いにまた喜びが込み上げてくる。


「あ、ありがとうございます。……あ、でも、将軍には殴られてばっかなんスけどね」


 ただ、一つ。評価されているのだとしても、甘寧将軍の拳骨だけは勘弁してほしい。頭の芯にまで響く拳骨だ、会うたびにくらっていたら頭がパーになってしまう。

 孫権様は「ふふっ」と、こぼれた笑みを隠すように口元に手を当てた。


「見た目通り不器用なのだ。甘寧なりの愛情表現とでも思ってくれ」


 その上品なはずの仕草が、なんだかとても可愛らしく見えて――――また、胸に痛みが。


「……どうかしたか?」と首をひねる孫権様。

「――あっ、いえ」


 少しぼーっとしてしまったようで、変にが空いてしまった。

 また顔が熱い。胸の痛みといい頭の鈍さといい、熱でもあるのか。最近は祭りのせいで夜間も警邏をしていたし、時節柄寒さも増してきた。あながちないとも言い切れないな。

 いや、こんなこと考えてる場合じゃない。何か言わないと……。


「そ、孫権様と甘寧将軍って仲いいのかなぁって……」


 ぱっと頭に浮かんだのは、軍に入ったばかりの頃の事。孫権様を見かけると、その横には必ずと言っていいほど甘寧将軍がいた事だ。

 誰かに訊くのはどうしてか気恥ずかしくてできなかったけど、今なら本人にだけ訊く事ができる。孫権様の話しぶりからすると浅からぬ仲であるように見受けられるし、気分良く話せる話題だろう。悪くない質問じゃないかと考えるが。


「仲、か……?」と意に反して、孫権様は戸惑うように動きを止めた。

「あっ、な、なんかお気に障ったッスか……」

「そういうわけではない。甘寧との関係か……。言葉にしようとすると難しいものだな」


 仲が悪いというわけではなかったようで、内心胸をなでおろす。話題をふってこんなに不安になったのは初めてだ。

 孫権様は顎に手を当てて二、三拍ほど考え込むと。


「臣下というわけではないし、教育係というわけでもない。剣の指南役というほどではないだろうし、友人というには……少々違和感があるな」

「臣下じゃないんスか?」

「甘寧は呉の将であって、私の直接の臣下ではないからな」


 甘寧将軍とは常に一緒だったから、お付きの人とばかり思っていたけど違ったようだ。

 しっくりくる関係が浮かばないのか、孫権様はうんうんと頭を悩ませていたが「そうだな……」と声を出すと。

 

「――甘寧は私にとってかけがえのない大切な存在だということ。これだけは天地が在るのと同じぐらい確かな事だ」


 “大切な存在”。そう言いきった孫権様の表情は誇らしげで、心の底からの穏やかな微笑みが滲み出ているようだった。

 また胸に違和感を感じたが、はっとしたような表情を見せた孫権様に意識を戻される。

 

「あぁ、そうか。甘寧は私の――――……いかんな」と口を手で覆うと「祭りせいか気が緩んでいたようだ。すまないが、ここまでにしてくれ」と眉尻をちょこっと下げて微笑んだ。

「いえ、そんな……」

  

 初めて見せた表情に鼓動が早まってしまう。

 それにしても、何か不都合な事でもあったのだろうか。これまで会話を思い出しても何が問題なのかわからないし、気になる。


「遅くなりました」


 深く考えようとしたところで、後ろから声。振り返ってみると、そこには甘寧将軍が立っていた。

 甘寧将軍は孫権様の方を向くと、いきなり頭を下げてきたのだ。


「護衛の任を離れ、申し訳ありませんでした」

「あの場では早急な対応が求められた。お前が頭を下げる必要はない」


 孫権様の言うことは正しいのだけど、なんで俺を護衛に残したのか訊いてくれないかな。これだけはどうにも理解できないし、納得できないのだ。

 こんなことを思っていても通じるわけがなく「ありがとうございます」と甘寧将軍が謝罪とは違う一礼をしてこの話は終わってしまった。そして甘寧将軍の目が俺に向けられ。


「太史慈。お前は先ほどと同じように後方からの警護にあたれ」

「はい」


 それは緊張からの解放を意味する命令だった。

 肩の荷が下りて楽になったと思ったのだけど、何故か気分が沈むような感覚に襲われ、全身に軽い脱力感を感じた。この複雑な気分といい、やっぱり風邪でも引いてしまったかな。


「――太史慈」

「は、はい」

  

 妙な感覚を疑問に思っていると、いきなりの孫権様のお声。

 ばっと顔を上げてみると、孫権様の青い瞳と目が合った。

 

「警護の任、引き続き頼んだぞ」


 不安を取り除くような凛々しい表情。心に入り込んでくる力強い言葉。

 胸の内に熱い活力が湧き上がり、それが全身を血のように駆け巡るのを感じて――。

 

「はい!」


 まるで曇天の空が一気に青空になるかのように、不思議と気分は晴れた。 


「行きましょう」


 甘寧将軍の言葉。それに孫権様は頷くと歩みを進めた。

 俺も自分の役割を果たすべく、さっきと同じ位置につく。そしてどんな不審者も見逃すまいと神経を集中しようとした時、二人の姿が目に入って。


 ――甘寧は私にとってかけがえのない大切な存在だ。


 何故か、孫権様の言葉とあの表情が蘇った。

 その時に感じた胸の痛みは、それまでの心地よい熱さ伴った苦しさとは違った“痛み”だった。そして、今も――。

 前の方で、互いに笑い合う孫権様と甘寧将軍を眺めている今、同じような“痛み”が胸を突っついている。


 


 この“痛み”は――――何だ。



 

 こんなに遅くなってしまい申し訳ありません。読んでくださっている方々、ありがとうございます。

 次回こそ、早めに投稿します。今度のは短めの予定ですから、きっと大丈夫です……。

 それと以前「史実に沿う」とか書きましたが「原作に」の間違いです。訂正させてください。

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