夏の終わり 後編
食事を終えた小男と大男は糸の切れた人形の如く寝台に倒れ伏した。
医務室のお姉さんは慌てて駆け寄ると二人の手首や首筋に触れた後、閉じた目をこじ開けて覗き込んでから「眠っただけです」と、ほっと息を漏らした。それから間もなくしてお姉さんは食器を荷台に乗ると、隊長と共に医務室から出ていった。
第二十六話 夏の終わり 後編
「すげーうまいメシだな。いつもこんないいモン食ってんのかよ」
アニキは膨れた腹をさすりながら爪楊枝で歯の手入をしている。
これだけ見ているとそこら辺にいるオッサンと何ら変わりがない。どう見ても悪人には見えない普通のオッサン。
「そりゃここで兵士やってるからな」
うらやましいだろとわざとらしく胸を張って言うが、アニキの反応は乏しく「うらやましいぜ」と仰向けに寝転ろんで口を閉じた。
(……なんでだろう。すげー気まずい)
なんてことない、ちょっとした沈黙に居心地の悪さを覚えてしまう。久しぶりに会って緊張しているからかもしれない。やつれたアニキのどことなく寂しげな横顔のせいかもしれない。はっきりした理由はわからないけど――話を切り出しづらい。
小男と大男はいびきすらかいていない爆睡状態で、医務室にはセミの鳴き声だけが淋しく響いている。
「なぁ子義」
沈黙を裂いて低く落ち着いた声が耳を掠めた。呆けていたせいか、それがアニキのものだと気づくのに時間がかかってしまい「な、なんだよ」と思わず裏返ってしまった声。しかし、それを恥ずかしく思うより先にアニキが言葉を紡いだ。
「なんで俺が黄巾党にいたのか……。訊きたいんだろ?」
それは潜入任務の時に問いかけ、甘寧将軍にうやむやにされたもの。
「アニキ……覚えて――」
「あんな風に泣きつかれちゃよぉ、話さないのは寝覚めが悪いってモンだろ」
にんまりと唇を三日月にしたアニキに、俺はあの時の自分を殴ってやりたい気分になるが。
「泣いて頼んだわけじゃねぇよ……」
大きく反応してはアニキの思う壺だと、そう言うぐらいしか反撃する方法は無かった。
アニキは口元を隠して忍び笑いをしてから「賊になる前、俺ァ何やってたと思う?」と、にやつきながら指さしてきた。
俺は羞恥心を押しとどめて、特に考えることなく「畑仕事?」と無難な答えを選んだが。
「はいハズレー。バーカ」
アニキはわざとらしい間抜け面をよりしわくちゃにして、嘲るように言い切ったのだ。それはもう変に頭にくる顔で。その人を小馬鹿にしたような表情に腹が立って、俺はアニキの胸ぐらを掴み上げてしまった。
「こ、のっ……ハゲ野郎……」
「落ち着け落ち着け! 俺、動けねぇんだから殴らないで! 勘弁してッ!」とアニキはあたふた抵抗してきたが、子供のようなか弱い抵抗だった。
お姉さんの言うように弱っているのは本当のようだ。そこに至って急に熱が冷めた俺は、乱暴にしては不味いとゆっくり手を離してアニキを寝台に下ろした。アニキは目を白黒させていたが、そんなのは気にしないでそばにあった椅子を引き寄せる。
「そんで、何やってたんだよ」
俺が椅子に座ると、アニキははっと上体を起こして話に戻ってきた。
「今はこんなんだけどよ、俺ァ役人やってたんだぜ」
役人と聞くと知的で冷静な周瑜様のような人物を想像してしまう。もちろん勝手な想像だが、その立派な役人像とアニキの風貌を照らし合わせてみると。
「役人だぁ? 嘘つけ~」としか思えなかった。
「家柄はそれなりだったからな。いろいろと縁があって、下っ端みたいなモンだけど勤めてたんだぜ」
しかし俺の冷やかしなどどこ吹く風と、へへと得意げな顔を見せるアニキ。
「そんでよ。気立てのいい嫁さん貰って、目に入れても痛くない、それはもうとびっきり可愛い娘だっていたんだぜ」
こんなアホみたいなオッサンが妻子持ちだなんて。自慢気に語るそのアホ面にほんの米粒ほどだけどイラッときて、俺はさっきの仕返しのつもりで顔を変に歪ませ「え~」と喉を震わせてみた。
「バッカおめぇ……! お前がうらやましがるくらいかわいい嫁なんだぜ! 娘だって向日葵みたいに元気で真っ直ぐな子でよぉ!」
大げさに顔を赤くしながらまくしたてるアニキ。口調は怒ってるっぽいが、その顔が垂れそうなくらい緩んでいる自覚はあるのだろうか。うちのぶっきらぼうな親父とは大違いで、アニキはさぞ親バカなのだろう。
「面倒な仕事終わって家に帰れば、かわいいかわいい嫁と娘が笑顔で迎えてくれる」
これまでの幸薄げな印象を吹き飛ばす程生き生きとした表情。
「あぁ、幸せってこういうモンなんだろうなぁって。これがずぅ~っと続くんだと思ってたぜ」
それが次第に、人が歳をとって老いていくように輝きを失っていく。
「なにかあったのか?」
アニキの辛そうな姿にいたたまれなくなり、思わず口を挟んでしまったが、アニキは安心させるように口元を緩ませてから遠くを見るように目を細めた。
「上司の野郎が治水事業の予算を横領してやがって、それが原因で大勢の人が死んだ」
予算の横領――つまりは汚職。この呉においてはまるで耳にしたことのない単語だが――俺が知らないだけだろうけど――いまの世の中ではこれが日常的に行われている地域も多々あるという話を張さんから聞いた覚えがある。
「んで、原因を知ってる俺に責任を押し付けて即解雇。職場なくして、親から縁切られて……散々だったぜ」
アニキは両手を上げて肩を竦めると、寝台の脇に置いてあった水呑を手にした。味わうようにゆっくり水呑を傾けていくが、中身があまりなかったのかすぐに唇から離してそのまま黙りこくった。
待っていてもアニキは手の中の水呑を眺めているだけで、何かを話そうとするそぶりすらない。まるでこれで全てを話し終えたかのような沈黙だった。
しかしそこで話が終わりだというなら、後ろで寝ているのが二人の男であるはずがない。
「――――嫁さんと娘さんは?」
さっきまで話に出ていた二人こそ、アニキが一緒にいなければならないはずの人たちだ。たとえ仕事も親をも失っても、賊に身を堕としたとしても、この二人だけは男として、父親として守らなければいけない人たちなんじゃないか。
ところが俺の期待に反して、アニキは沈んだ表情で「もういないぜ」と空になった水呑を投げるように元の位置に戻した。
“もういない”――これがどんな意味を持つのかを、俺はアニキのその態度から瞬時に理解した。理解してしまった。
「クソッタレの上司が兵士引き連れて、わざわざ俺の目の前でやりやがった」内容とは裏腹に、怖いほど冷静なアニキ。そしてふっと顔を緩ませ「よっぽど俺の事が嫌いだったんだろうぜ」と自嘲気味に閉めた。
その晩年の老人が嫌な過去を振り返った時のような自嘲の笑みにカチンときて「アニキは、何もしなかったのかよ」と責めるように突っかかってしまった。するとアニキはそれまでの無気力さから一転して、黒くたぎる瞳で睨み返してきた。
「手元にあった鉈持って切りかかってやったさ。…………けど、結果はこの様よ」
アニキは堪えようのない痛みに耐えるように体を打ち震わせながら、頑なに取ろうとしなかった頭の布を取り払った。
「その傷……は……」
目に飛び込んできたのは頭のてっぺんからおでこにかけての痛々しい裂傷の痕。西瓜を割ったような亀裂の痕を埋めようと盛り上がった肉は、薄く張られた皮を押しのけるように歪に変形し、その周囲には無数の青筋が浮かんでいた。
いったいどれだけの力で殴られたらこんな状態になるのだろうか。あまりの惨たらしさに吐き気がこみあげ、俺はすぐに目を逸らしてしまった。
「護衛の兵士に頭かち割られて返り討ち……。情けないったらないぜ」
理不尽な暴力。その傷痕は、まさにその言葉を連想させるほどの醜さを秘めていた。きっとアニキの嫁さんと娘さんもこんな、これ以上の暴力を受けて。そしてアニキはそれを目の当たりにして――――
「ごめん…………」
嫁さんと娘さんのことをアニキがどれだけ思っていたかを軽んじてしまったこと。アニキがどんな気持ちでその場に居合わせたかを考えもせずに責めてしまったことへの、せめてもの謝罪。それしか言えなかった。
「謝んなよ」
アニキは至って温和な口調でそれだけをいうと、深呼吸をしてから傷を隠すように布を巻きなおした。
「そんでまぁ……街の外に捨てられてたところをこいつらに助けられたってわけだ」
後ろで寝ている小男と大男を差して、ようやく親しみのある微笑みが表れた。照れ隠しのように頭をかいて「だからよ、こいつらには感謝してる」と寝ている二人を起こさないように言った。
「黄巾党に入ったのは、そんな腐った役所連中をぶっ殺せるって聞いたからさ」
こんなところだと、アニキはそれが全てだという風に今度こそ口を噤んだ。もの淋しそうな、それでいてどこか穏やかな微笑みを浮かべて。
アニキは復讐を果たせたのだろう、きっと。その結果にまで踏み込むのはいけない事のように思えて、俺はそれを訊こうとは思えなかったけれど、一つだけ気になっていたことがある。
「最後に、ひとつ訊いていい?」
「おう」
「アニキみたいに、その……クソ野郎を叩きのめしたいってのはわかるよ。単純でわかりやすい理由だ」
アニキの動機に当たる部分はものすごく理解できるし当然の権利みたいなものだと思っている。
「けど、ガリガリに痩せてて戦えるような力なんて無いのに、歯ァ食いしばって向かってきて苦しそうに死んだ奴とか。ガタイ良くてすげー強いと思ったら……笑って、嬉しそうに死んだ奴とか」
けどこれまで見てきた黄巾党どもは何を考えていたのか。どう思って戦っていたのか。
「なんつーか……訳わかんねぇんだよ。理解できないっつーか」
俺には理解できない、俺の知らない生き方。それが俺には無性に気になって仕方が無かったのだ。
「そいつらって何を目的に戦ってきたんだ。黄巾党ってなんのために戦っていたんだ」
その一員として戦ってきたアニキなら答えてくれる。
そう思って俺はこの問いを投げかけたのだがアニキは間をおかずに「生きるために戦おうとしたんだろ。たぶん」と自信なさげに答えた。
「大雑把すぎるだろ」
「あのなぁ……。戦う理由なんて人それぞれ、十人十色だ。他の奴のことなんて俺にわかるわけがねぇ」とアニキは冗談じゃないという風に眉間に皺を寄せていた。
その通りだとは思う。俺だって張さんや万修たちとはそれなりの付き合いになるけど、どうしてここで兵士をしているのかは聞いたことが無いからわからない。
だけど金を得るために大都市に人が集まるのと同じように、人が集まるっていうのはひとりひとりの差はあっても共通の“何か”があるからだと俺は考えている。
「だけど――」
「だがよ、黄巾党にいたのは肥溜めみてぇな現実から抜け出したかったって野郎ばかりだった」
怒りとも憐れみとも取れる複雑な表情のアニキ。
「誰もが認められねぇ、認めたくねぇ今から抜け出すために戦っていた。そんな気がするぜ」
「認めたくない、今……」
苦しくて辛い“今”が認められなかったから、そこから抜け出すために戦った。そして抜け出せなかったから苦しそうに死んでいった。それならなんとなくだけどわかる気がするけど。
「じゃあ、笑って死んでいった奴はどうなんだ。笑ってた奴はその苦しい現実ってのから抜け出せなかったんだろ……?」
「『もう終われる』」
胸の隙間にストンと、怖いぐらい何の障害もなく落ちてきた一言。
「もう……終われる…………?」
「そう思ってたんじゃねーの。死ねば生きてる上での苦しみなんてのは関係ねぇ。死ねば全部が終わるんだからな」と、アニキは若干苛々した声調だった。
死ぬ――。ただそれだけのために戦いの場に出て、それだけのために敵に斬られる。
俺は想像しただけで胸が苦しくなってしまうのに、笑って逝った奴は怖くは無かったのだろうか。辛くは無かったのだろうか。俺にはその心の内がどうしてもわからない。
「そんなことよりもよォ!」
俺が頭を悩ませていると、変に湿った空気を吹き飛ばすような大声が飛んできた。
「な、なに?」
「そーいやぁ、すっかり忘れてたぜ」アニキは大げさに声を張って快活に言うと「子義。お前に頼みがある」と、かつてない真剣な眼差しを向けて来たのだ。
アニキの頼み。それはこの呉の地で兵士として働きたいというものだった。
職もなければ伝手もない。これじゃあ賊に逆戻りだということで、やり直しがしたいと俺を頼ってきたということらしい。しかし俺には募集の事なんてわからないし、伝手というほどのものも持っていない。ということで、警邏の詰所に居る張さんに詳しい話を訊くことにしたのだ。
「兵士の募集? 今もやってると思うよ」
張さんはそれまで目を通していた竹簡を机に置いた。
「アニキさん……でしたか?」
「おう、合ってるぜ」
松葉杖に寄りかかりながらついてきたアニキ。本当に力が入らないらしく、膝が小刻みに震えている。張さんはその様子を目にすると、すぐさま自分が座っていた椅子を空けて「どうぞ」とアニキを座らせた。
「それで、今はどちらにお住まいですか?」
「根なし草だ」
張さんにはこれまでの経緯を伝えてあるから、アニキに住処が無いことは推測していたはずだ。それでも張さんは「そうですか」と軽い落胆の色を見せた。
「応募の際に簡単な身元確認があるのですが……」
「そういえばあったッスね」
俺の募集のときもやってたなぁと、まるで大昔の事のように思い出した。
「でも口頭だけの確認だし、住所なんてでっちあげればいいんじゃないッスか?」
「あの身元確認。嘘は通じないんだよ」張さんはそう断言して「専用の情報収集部隊があって、密かに住所の確認をしに行っているらしいんだ。虚偽の申告をした人が強制除隊になったのを見たことがあるから本当なんだと思う」と衝撃の事実を明かした。
「げ! ……じゃあ、俺詰んでんのか!?」
張さんは首を横に振るが、浮かない表情で告げる。
「身元を保証する文書があれば問題ないですよ。ただ、それなりに知名度のある家柄でなければ審査を通るのは厳しいと思います……」
「……実家は残ってねぇし、んな伝手もねぇよ」
アニキは頭を抱えて黙り込むと貧乏ゆすりをしだした。焦りだとか不安のような、どうしようもない気持ちが溢れ出ているようだった。
「なんとかなんないんスか?」
他の方法はないか張さんに目を送るが、やはりその顔は浮かない。張さんがお手上げとなると俺なんかじゃもうどうしようもない。
「アニキさん」
ところが張さんは近くにあった椅子を引き寄せて、アニキと目線が合うように腰かけた。
「なんだよ……」
「どうしてもやり直しをしたいのですね」
一本芯の通った背筋、神妙な顔つきで、張さんは確認するようにアニキに問う。
アニキは一瞬たじろいだが「――……あぁ、そうだ」と、張さんと同じように背筋を伸ばして頷いた。
「それは何故ですか?」
加えて張さんの厳格な雰囲気に触発されたのか、アニキから軽薄な空気が消えていかめしい面構えに変わる。
「――俺は黄巾党としてこの場で殺されてもおかしくないクズだ。……それだけのことをした」
辛そうにしながらも、決して張さんから視線を逸らすことのないアニキ。
「でも俺みてぇなクズでも本気で心配してくれた奴がいて、本気で慕ってくれてる奴等がいる。そいつらに報いるには、俺が真っ当な道を歩いて生きるしかねぇ。そんで恩を返していくしかねぇと思ったからだ」
子分に報いる。恩に報いる。
聞こえのいい誰もが好感を持てる誠実な理由だ。誰もが手を差し伸べたくなる清らかな言い分。もちろんそれが真実であるなら、だ。
張さんは疑っているのか、それともただ考え込んでいるだけなのか固く引き締まった顔つきのままだ。
だが俺にはこの言い分に嘘があるように思えなかった。アニキの心の真ん中の“芯”の部分にあるもの。アニキが真に信じているもの。それが“真っ当な生き方”であり“恩返し”なのではないだろうか。そうでなければ、ここまで真剣な目はできないのではないかと、俺は未熟ながら思った。
張さんはその苦渋に満ちた瞳をつむると、逡巡するように、何かを吹っ切るように黙り込んだ。そしてほんの二、三呼吸分、間をおいてから開いた瞳には頼りがいと優しさにあふれた普段の張さんが戻っていた。
「わかりました。それなら私がなんとかしましょう」
「なんとかなるんスか!?」
「これでも私の実家はそれなりだからね。少なくとも身元の審査で落とされることはないと思うよ」
それは事実上の問題解決を示す、これ以上ない救いの一言だった。
「何とかなるのか…………?」
「良かったなアニキ!」と俺は喜びの余りアニキの肩を小突く。
アニキはなにが起きたのかわからないように呆けていたが、徐々にその瞳には露が溜まり「だ、旦那ぁ……!」と、ぼろぼろと大粒の涙と共に首を垂れた。
張さんは頭を下げるアニキに近づき、その肩に手を置いて、まるで親が子に言い聞かせるように優しく告げる。
「文書が届くまで時間がかかると思います。だから、それまでゆっくり身体を休めてください」
もはや大人としての体裁などなく、ただ首を縦に振りながら泣き崩れるアニキの姿に、俺は我がごとのように涙してしまった。
それから五日後の正午。
街の北東部にあるそれなりに大きな料理店。そこには汗水たらして料理を運ぶアニキの姿があった。ちょうど人員が不足していたらしく、文書が届くまでの間は住み込みで働かせてもらうことになったらしい。
「おう、子義! 見回りご苦労さん」
アニキはこちらを見るや否や、張りのある大声を飛ばしてきたので、俺は軽く手を上げて応えた。
「お疲れ様っす子義のアニキ。今日も髪型、バッチリ決まってますぜ」とアニキの脇から出てきた、黒ずんだ雑巾を持つ小男ことチビ。
「お、お疲れなんだな」と李兄弟――ではなく、店の裏方から顔を出し頭を下げてきたのは汗だくの大男ことデブ。
二人の主な仕事は掃除と荷物運びといったところだろうか。兵士の間でもそれなりに有名なラーメン屋だから仕事が忙しいのだろう。挨拶を終えると二人は仕事に戻っていった。
「今日も賑わってるなぁ」
「美味しいお店だからね」
俺の後から店に入ってきたのは、一緒に見回りをしている張さんだ。
「おわッと!」急に短く声を上げたアニキは「張の旦那もご一緒でしたか!!」と下っ端が大親分をもてなすような態度でへこへこ頭を下げて張さんに近づいてくると「おう! おめぇら!!」と店内に向けて怒鳴り声を上げた。
「すいやせん、旦那ァ! すぐに綺麗にしますんで!」と、チビは張さんの前方を大急ぎで雑巾がけしていく。
「お、お冷やをお持ちしたんだな」と、デブは跪き、お盆に乗せた水呑を献上するように差し出した。
店内の誰もが目を丸くする光景。彼らの視線はもてなしを受ける張さんに注がれ“一体何者なんだ”という話し合いが客たちの間で展開されていく。
「私の事は気にしないでいいから……」
店内の異様な雰囲気に押されたのか、張さんは冷や汗を流しながら抵抗するが、アニキは大仰に頭を振ると。
「そういう訳にはいかねぇんですって!」
さぁと、どこからか椅子を持ち出し、張さんに座るように勧めてきた。
張さんに会うたびにこのような対応をするアニキたち。これがこいつ等なりの敬意の表し方なのだろう。そう思うといくら張さんが困っていても、俺にはそのもてなしを止めようとする気にならなかったが。
「やかましいッ!! てめぇら首にすっぞ!!」
厨房の方からあたり一帯を揺るがすほどの怒号が飛んできたのだ。そう雇い主――店長の怒鳴り声だ。
アニキたちは見る見るうちに青ざめていき、その意識が張さんから一斉に離れた。
「す、すいやせん親方!」
三人はびくびくしながらすぐさま厨房へと駆けこんでいった。これから店長にこっぴどく怒られるのが目に見える。
「じゃ、じゃあ行こうか」
これ幸いと張さんはそそくさと店から出ていく。アニキたちのもてなしは、張さんには見るからに迷惑そうだ。俺もチビとかデブに“アニキ”と呼ばれるのは照れ臭いが、そんなものより遥かに恥ずかしいのだろう。
珍しく動揺する張さんの背を見ていて、ふと気がかりだったことを思い出した。
「そういえば張さん」
「なんだい?」
その声色には普段通りの余裕が戻っていた。
「なんでその……文書の事をどうにかしようと思ったんスか? 嫌そうだったのに」
「あぁ、それはね――」と張さんの唇がためらうように動きを止めたが、それも一瞬の事。「私にも子供がいるからかな。アニキさんの『真っ当に生きなくちゃ』って気持ちがすごくわかるんだよ」
張さんが子持ちというのは初耳で、これまでそんな素振りは全く無かったから驚いて声も出なかった。
「子は親の後ろ姿を見て育つって言うよね。その言葉の通り、自分が『正しい道』を行けば後ろで見ている子も『正しい道』を。自分が『誤った道』に逸れると子も『誤った道』に逸れてしまうんだ」
なんだか難しそうな話しだ。張さんはわかりやすい話し方をしてくれるけど、話自体が小難しくて理解しづらい所が多い。俺の頭が足りないのが原因だけど。
けれど俺が訊いたことだから、理解できずともせめて一言も逃さないようにと注意して耳を傾ける。
「もちろん必ずそうなるわけじゃない。だけど、親の持つ価値観というものは、子供の中のどこかに必ず反映されているものなんだ」
価値観――ものの見方とか考え方とか、そういうものだったか。
「例えば子義君は他人に対して誠実で、年齢や役職が上の人たちには礼儀正しくあろうとする気質があるよね。だから子義君の両親のどっちかは自分に対しても他人に対しても厳格な方だと考えられるけど、どうだい?」
「ただの頑固者ッスよ」
なんでもかんでも“子供だから”で済ませて、俺のやりたいことにはほとんど反対してきた馬鹿親父。厳しいというは合っているけど、厳格なんて立派なものではないと思う。
俺が首をひねる横で張さんは「そういう一面もあるんじゃないかってだけだから、そんなに真剣に考えなくていいよ」と付け加えてから。
「話を戻すけど『正しい道』とか『誤った道』なんて一概に言えないのが世間の難しいところなんだけどね。アニキさんの場合は自分についてくる人たちが『社会的に誤った道』を歩まないように自分がお手本を見せようってことなんじゃないかな」
“社会的に誤った道”というと。
「……つまりチビとデブが犯罪者にならないようにってことッスか?」
「私はそう思ってるよ」張さんは一つ頷くと「やさぐれて脇道に逸れたとしてもまた『正しい道』に戻れる。こういう考え方ができるアニキさんはすごく立派な人物だと思うよ」と、いつもの微笑に似つかわしくないどこかしんみりした物言いだった。
「アニキが立派か……」
口は悪いし喧嘩っ早いけど張さんの言うように、そこまで考えて行動しているのだったら立派というほかないだろう。
「念を押しておくけど、これは私が勝手に思っているだけだから必ずしも正しいというわけじゃあないよ」
「張さんの言うことに間違いはないッスよ」
張さんは俺なんかよりもずっと物知りで、訊いたことにはいつも何か答えをくれる。その中には俺にわかるぐらい明らかな間違いなんてひとつもなくて、少なくとも的外れな回答を耳にしたことは一度もない。
「そんなことないよ」と張さんの眉が謙遜するように下がり「詰所に戻ろう。万修君たちが待ちくたびれているかもしれないよ」と早足に切り替わった。
「万修なんか待たせとけばいいじゃないッスか」
昼時が終わり、働く人たちでごった返す大通り。その雑踏の中を進む張さんには俺の冗談が届いていないのか反応はない。
それも仕方のないことだ。聞き耳を立てずとも耳に入ってくるのは収穫祭の話題ばかりで、いつにも増して街が騒がしいように思える。こっちは警邏やらなんやらで忙しいのに陽気なものだ。少しばかりの苛立ちを他所に、張さんに追いつこうと俺は人混みをかき分けて早足で追いかける。
――私は間違ってばかりだ。
その陽気な雑踏の中、誰のとも知れないひどく後悔するような言葉が耳に入ったのは、きっと、気のせいだろう――
またしても遅くなって申し訳ありません。次回はできればひと月以内にあげられるように頑張りマッスル。
読んでくれている方、ありがとうございます。