夏の終わり 前編
黄巾党の本隊討伐から早ふた月が経とうとしていた。
以前との大きな変化というと、都市を行き来する商人からは声援を送られるようになり、民から向けられる視線には心なしか頼もしげな色が付いたことだ。黄巾党本隊討伐はもとより、その他数々の小規模暴動――黄巾党残党による――の鎮圧という功績が世間に認められたおかげだろう。そのせいなのか訓練にも力が入るようで、黄寛隊の面々の顔つきは以前に増して逞しくなってきた。気のせいかもしれないが。
このような状況の変化と共に季節は流れていくもので、稲の収穫時期が近づき、大地が金色の輝きを放ち始めたのだ。年に一度の収穫祭も近い。
畑を耕していた頃なら“今年も無事この時期を迎えられた”と安堵しただろうが、今の俺にとっては素直に喜ぶことはできそうもない。なぜかというと祭りが近いせいで所構わずはしゃぐ人が増え、警邏の仕事が忙しくなってしまったからだ。それはもうすんごく面倒くさく感じるけど、今日みたいに午前中の休みをくれることだけは嬉しく思う。まだまだ暑さの残る南陽で、午前の涼しい時間にゆっくり休めるからだ。
そんな事情があり、畳の上で思いっきりくつろぎながら横になっている時だった。
第二十五話 夏の終わり 前編
「一大事なんだなー」
「びっくり仰天なんだなー」
張豊班に与えられた兵舎の一室に、大して慌てていない様子で駆け込んできた李兄弟。
「どうしたんだい?」
年齢を気にしてか、毎日欠かさず念入りに柔軟に励んでいた張さんはそれをやめて居直った。
取り立てて重要ではなさそうな話しなのに、こうやって皆の声に耳を傾けてくれるのが張さんを班長にした理由なのかな、と思うようになったこのごろ。いわゆる人望で選ばれた班長だ。将軍になる上で人望も昇進する理由になるだろうから、張さんを見習って少しずつでも身に着けていきたいと思う。無理に言うことを聞かせようとしたり、なんでもかんでも拳に頼ろうとする上官の下で働きたいとは誰も思わないだろうから。
(甘寧将軍のようにはなりたくないし)
刃物で脅されたり腹を殴られたり。さんざん怖くて痛い思いをしたのになんの昇進もないんじゃ恨まずにはいられない。甘寧将軍に良くない思いを抱く者は少なくないはずだ。絶対に。
「どうせ大したことないんだろ」
万修の冷たい台詞に意識を戻される。また苛々してしまったと内心反省。
張さんのようにおおらかな心を持たなきゃ人望を身に着けるなんて夢のまた夢。とにかく大きなことも一歩からと、将軍という大きな野望のため李兄弟に耳を傾けることにした。
「皇帝が死んじゃったらしいんだなー」
「んでもって董卓とかいうのが都を占拠してるらしいんだなー」
「それってけっこう前から言われてるじゃん」
「今更かよ」と万修。
ちょうど黄巾党本隊の討伐が終わったころから耳にするようになった話だ。別段面白い話ではなかったから話題にしなかったけど、李尋と李和は知らなかったようだ。
やっぱり大したことなかったなと俺と万修は寝返りを打つが、張さんにとっては違ったらしく、どことなく沈んだ調子で言った。
「そうみたいだね。たぶんだけど、これからまた世の中が荒れていくと思うよ」
「どうしてッスか?」
俺が体を起こすと、張さんは「ちょっと長くなるよ」と前置きをして話し始めた。
「皇帝陛下が崩御され、陛下の次子であらせられる劉協様が即位されたんだ」
「次子……?」
居直った万修は顔を曇らせた。何か問題でもあるのだろうか。
「長子であらせられる劉弁様はいざこざの末失脚し、その代わりとしてらしい」
「そのいざこざってのは?」と再び万修。
「話によると何進将軍が亡くなられた事と何か関係があるようだけど……。洛陽では箝口令が敷かれているらしくて詳しくは分からないんだ」
「箝口令ってなんスか?」
「この話はしてはいけません。もし話したりしたら打ち首ですっていう厳しい取り締まりだよ。そのせいで情報が出回らないんだ」
「そんな事態になってるんスか……」
俺や万修だけでなく、珍しく李尋と李和も苦々しく顔を曇らせた。関係ないことだと高を括っていたけど、都ではとんでもない事が起きているようだ。
「劉協様はまだ十にも満たない。とてもではないが政治を動かせるような御年齢ではない」
「十歳って……」
俺がまだおねしょしてたぐらいの年齢だ。――――いや、もうちょっと若かったかな。
「だから政治を代行する者が必要になるんだ。それが今は董卓様ということになる」
「じゃあ問題ないんだなー」
「ぜーんぶ丸く収まってるんだなー」
確かにそうだと頷く。既に皇帝の代わりに政治を行う人がいるのなら問題は無く、政治に関していえば心配事は無いはずだ。
「いや、むしろ逆だ」
しかしながら意に反して張さんは首を横に振った。
「現在の董卓様の地位は、言い方は悪いけど、どさくさ紛れの……いわば火事場泥棒によるもので、とてもではないが盤石と言えるような体制が整っているとは思えない」
「泥棒なんかに人がついて行くもんかよ」と万修は口を尖らせる。
「その通りだよ。仁と義を欠いた者に国を治める資格は無い。だから董卓様のことを悪く思う人は必ず出てくる」
温かみのない厳粛した面持ち。めったに見ることのできない張さんの“怒”の表情だった。
「皇帝陛下の代行というのは天を掴むと同じ――即ち漢そのものを思いのままにできる権力を手に入れるということになる。その地位を巡って諸侯同士でとんでもない争いが起きるだろうね」
皇帝の代行だとか天を掴むとか。まるで知らない、別の世界での出来事のようで想像しにくいだけど、一つだけはっきりわかったことがある。
「つまり戦争が起きるってことッスか……?」
「――そうなるだろうね」
張さんは重く頷いた。
黄巾党との戦いのような、もしくはそれ以上に大規模の戦争が起こる。きっと俺たちも無関係ではいられない戦争――。今更ながらどうして軍に来てしまったのかと後悔の念が湧いてきた。将軍になるには戦いで功績を挙げなければならない。功績を挙げるにはたくさんの戦いに出なければならない。
(正直生き残れる気がしない)
諸侯同士の争いということは、敵になるのは各地の正規兵のような者たちということになる。賊相手でも精いっぱいだったのに、正規兵が相手となるともうお手上げだ。兵士としての練度も経験も段違いなのだから。
「俺たちにとっては好都合だな」
「――あだっ」
しょげる俺の背中に発破をかけたのは不敵に笑う万修だった。
「戦が多けりゃ名を売る好機が増えるってもんだ。なにも悲観することはねぇ」
「僕たちはごめんなんだなー」
「行軍が多いと疲れるんだなー」
力強く吠える万修とは裏腹に、李尋と李和は勘弁してくれといった声調だった。けれどそこに悲観の色はない。
張さんは「頼もしいね」と、ぼそり言って柔和な笑顔を浮かべると。
「あくまで『たぶん』の話だからね。段階を踏んでいくなら、まずは政治的な根回しや闇討ちとかで、そこで決着がつくかもしれないからね」
「えぐい話ッスね……」
「はは。それでも私たちとは関係ないところでの争いだから」
張さんはふっと表情に陰を落とした。いつだったかに見た暗い顔だが、張さんは切り替えるように息を吐くと。
「そろそろ警邏の時間かな」張さんはよっこらせと立ち上がろうとする。きっと交代時間と連絡事項の確認に行くのだろう。
「あ、俺が行ってくるッスよ。張さんは休んでてください」
いつもお世話になっている分はこういうところで返していかないと。
張さんは逡巡するが「ありがとう。じゃあ任せてもいいかな」と腰を落ち着けた。
「おーい、太史慈いるかー」
張さんが座り込むと同時にがたつく扉を開けて入ってきたのは、俺たちと同じ装備を身に着けた黄寛隊の隊員だった。
「なんスか」
「あーっと。お前の知り合いが……訪ねてきたというか……行き倒れていたというか……」
「知り合い?」
歯切れの悪さも気になるが、それよりも知り合いが南陽まで来たという方が引っかかった。訪ねてきそうなのは母ちゃんと親父と村の皆。それから文謙――楽進の字のこと――ぐらいだろうか。
考え込む俺を他所に目の前の男は「医務室にいるからな。確かに伝えたぞ」とすぐさま走り去っていった。警邏の仕事に戻ったのだろう。
「行ってきなよ、子義君」
「でも警邏が……」
「子義君の分は私が請け負うから何も問題は無いよ」
張さんは立ち上がり兵士としての装備に着替え始めた。
「しょうがないから僕もやってあげるんだなー」
「僕もやるんだなー」
李尋と李和も着替え始める。そしてもう一人、隅の方で横になっていたはずの万修は既に着替え終わっていて「さっさと行ってこい」と装備の確認をしている。
好意は無碍にするものではない。これも親父の教えだ。
「あざーす」
素直に受け取ることにして、俺は部屋を飛び出した。
そうしてやってきた医務室。その扉の前にはきらりと光る頭部の無精髭のおっさん――黄寛隊長が腕を組んで立っていた。
「おう、遅いぞ」
「なんで隊長がいるんスか」
隊長は怪しげに口角を吊り上げると「中を見ればわかる」と医務室の扉を乱暴に開け放った。すると医務室特有の薬草の臭いが――ではなく。医務室の中には何やら美味そうな香りが充満していた。
香りの元を辿ると、医務室の一角に山盛りの料理と空き皿がいくつも積み上げられており、その脇に設置されている寝台の上で号泣しながら料理を貪る三人の男たちに行きついて、俺は息をするのも忘れて立ち尽くしてしまった。
「うまいっす! うまいっすよアニキ~」
両の手にある点心に交互にかぶりつく鼻の高い、いかにもずる賢そうな小男。
「い、生きててよかったんだなー! ぶふぅ」
大盛りの麻婆豆腐を、まるで酒を飲むかのように流し込む肥え太った間抜け面の大男。そして――。
「うおおおおお! うめぇー!!」
そして顔中を米粒だらけにしながら炒飯をかき込むのは、頭に布を巻き、鼻の下にちょび髭を生やしている幸薄げな中年の男。
「アニキ……!」
全身は薄汚れていて頬は痩せこけ、服装は黄色のものではない土色の庶民服だが、その風貌は間違いなくアニキ本人だった。
胸から込み上げる感覚が目頭を熱くする。あの戦いで命を落としたとばかり思っていたのに。
「南陽郊外で倒れているところを我が隊の者が偶然見つけてな。話を聞いてみれば貴様の知り合いだということで保護したのだ」
隊長は医務室のお姉さんに目配せをすると。
「して、容態は?」
「極度の飢餓状態でしたので、米粥のような食べやすい食事を用意していたのですが……」と言葉を濁すお姉さん。
この食べっぷりを見る限りだとそれでは足りなかったようで、おそらく厨房から急遽料理を運んでもらったのだろう。それ用に使われただろう押し車が数台置かれている。
「見た目は元気そうですが、まだ休養が必要な状態…………のはずです」
「儂には活力が有り余っているように見えるがのぉ」
「俺にもそう見えるッス」
やつれてはいるが、料理をかき込む動作はまさに万修の剣戟に匹敵する速度だ。弱っているようにはとても見えない。
(元気そうでよかった)
そう頬を緩ませていると、ぽんと毛の濃い熊のような手が俺の肩に置かれ、隊長の快活な声が耳に入ってきた。
「もちろんこいつらの食費は貴様の給金から引いておくぞ」
およそ二か月分ってとこかいのぉ。二つに割れた顎をさする隊長の、意地の悪そうな笑みだった。
「はい……?」
減給ッスか。それとも二か月間給金なしッスか。
俺は怖くてそこの確認ができなかった。
ぎりぎり八月中に更新できました。次が完成してからあげたかったのですが間に合いませんでしたが、近日中に更新しますので少々お待ちくださいな。
“”を使ってみました。「」内では『』を使いますが、そのほかでは“”に変更します。書き方をいろいろ変えて申し訳ないです。
それとこれも今更ですが、これは史実に沿おうとはしますが、それとは異なる物語です。気候も実際の古代中国とは異なりますので、一応ここに記しておきます。
最後に読んでくれている方、いつもありがとうございます。