甘寧と丁奉
――今日は特に暑いな
城の中では、今朝からその言葉がさも挨拶であるかのように飛び交っていた。
いつもならまだ午前中の、それも風通しの良い日陰で活動しているにも関わらず、汗水たらす文官や侍女たちを見れば誰もがなるほどと納得するだろう。
しかしそんな怠そうに働く者たちを脇目に、汗一つ流さずきびきびと進む気難しそうな女性がいた。
姓は甘、名は寧、字は興覇。
彼女こそ孫呉が誇る剣術の使い手であり、主である孫策の妹――孫権から絶大な信頼を置かれる孫呉の忠臣である。
第二十四話 甘寧と丁奉
「おはようございます、将軍様」
すれ違う者は文官だろうが侍女だろうが仕事の手を止め、挨拶と共に深々と頭を下げる。そこには先代の主、孫堅の代から仕えている宿将――黄蓋に向けられるものと変わらぬ敬慕の情が込められていた。
それに対して甘寧は「ご苦労」といつもの素っ気なさに加えて、妙な硬さを伴う労いの言葉で答えていく。
「慣れんものだ」
誰もが頭を下げる中で甘寧はぽつりとそう零した。
甘寧は将軍としてずいぶん長く孫呉に仕えているが、未だにこの目上の者に向けられる尊敬の眼差しというものには抵抗があった。
孫呉に来る前――江賊時代には怒りや憎しみ、あるいは侮蔑など悪意の視線ばかりを向けられ、好意の視線――特に尊敬や羨望の情――というものには欠片も縁が無かったのだ。それが今では、ただ城内を歩いているだけで好意に蜂蜜を塗りたくったような甘ったるい視線を浴びせられ続けるのだから、甘寧がむず痒さを覚えてしまうのは仕方のないことなのだ。
とはいっても、このようなちっぽけな戸惑いであろうとも将軍の動揺を下の者に見せるわけには行かないと、甘寧は背筋を一層ぴんと張り、頭を下げる文官たちの列を通過していく。
「おはようございます、将軍様!」
そして新たに現れた数人の文官に甘寧は同じように「ご苦労」と短く返し、外見上は威厳に満ちた様子でその場を離れた。
文官や侍女たちの仕事の場を離れ、中庭の見える渡り廊下に差し掛かる。正午になれば昼食を兼ねた休憩所として賑わう中庭だが今は閑散としている。人影といえばほんの四、五人ほどの文官が竹簡の山を抱えて廊下をよたよた歩いているぐらいだ。
ちなみにこの中庭、城内では孫策が政務をずるけた時の避難場所として有名な場所だ。
「しょーぐん」
そんな中庭の方から間の抜けた女性の声が響いた。それは甘寧だけでなく周辺を歩く文官たちの耳にも届いており、その声が甘寧を呼ぶものだということに誰もが気づいていた。しかしながら甘寧は我関せずと途端に歩行速度を上げて中庭を通過していく。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 甘寧しょーぐん!」
声の主は慌てて飛び上がると、さっきとは比べ物にならない大声ではっきりと甘寧の名を呼んだ。
それに甘寧は軽く溜息を漏らすと、名前を呼ばれては仕方がない。そんなうんざりした顔をどたどた近づいてくる声の主に向けた。
「なんだ、丁奉」
甘寧の視界に入ったにもかかわらず、声の主は乱れた赤髪を直そうともせずにへらへらと軽い笑みを張り付けている。
この赤髪の名は丁奉、字は承淵。つい先日の周泰の補佐役――つまり将軍付きの副官となったばかりの人物だ。
本来なら将軍になっていてもおかしくない実力の持ち主だが、その性格が災いして任務を怠けることが多く、たいした実績を持っていなかったのだ。本人曰く、面白い任務ならやりたいとのことなので、孫策の計らいで数少ない特殊任務で実績を積み、先の潜入任務での実績をもってようやく昇進したという少々おかしな経歴を持つ。
甘寧はこの丁奉という人物が気に入らなかった。
確かに腕は良いし、勝負勘も優れている。戦場での活躍も甘寧は認めているし、礼儀知らずなのは仕方がないと思っている。甘寧自身、登用された当初は無礼者の謗りを受けていたことから、それについてとやかく言う資格はないと考えているからだ。
ただ、丁奉が醸し出す能天気な雰囲気が甘寧は嫌いだった。
「そんな嫌そうな顔しないでよ」
甘寧の心情が滲み出た、いかにも『あなたを嫌っています』といった表情に、丁奉は苦笑しつつ肩口まである散切りの赤髪を困った風にかいた。
「今は訓練の時間だろう」
今の時間、それなりに地位のある武官たちは一般兵の指導のため訓練場にいるのが常日頃の業務であり、丁奉も例に漏れずそのはずだと甘寧は強い眼光でもって問い詰める。
ところが丁奉に怯んだ気配は欠片もなく、のんびりと目を細め「今日は暑いからねぇ」と燦々と輝く太陽を仰いだ。
「……働き者になれとは言わんが、少しは伯宗を見習ったらどうだ」
丁奉と同時に副官へと昇進した伯宗。その働きを一言で表すなら堅実というのが一番しっくりくるだろう。
事務仕事が苦手な伯宗だがその書類の処理速度は決して遅くはない。もちろん早いというわけでも無いが、ひとつひとつの事案に真剣に取り組み着実に解決していくその姿は、直接の上官でない甘寧から見ても誠実で好感の持てる働きぶりだ。
せめて丁奉にもこの真剣さが少しでもあれば――。
甘寧は丁奉の上官である周泰を不憫に思い、せめてもの戒めの言葉を浴びせたのだが、当の本人は反省するどころかその言葉を待っていたといわんばかりに口角を吊り上げると。
「いやいや、これでも仕事はしてるよ」
ほら、と丁奉は小脇に抱えた竹簡を見せびらかせて得意げに言った。
「周泰しょーぐんに頼まれてね。おつかいに行ってきた帰りだよ」
「ならばなぜ中庭にいた」
竹簡を取りに行ったというのなら、その行先は全ての情報が集まる周瑜か陸遜の執務室。そうでなければ城に一つしかない大型の資料室。この三か所しかない。そして今の時間なら周泰がいるのは周泰個人に与えられた執務室だろうと甘寧は推測した。仮にそうであるなら同じ棟にある行先の三か所と、周泰の執務室を往復する際に中庭を通る必要は全くない。もちろん何かしらの用事でもあれば話は別だが丁奉のこの様子だと――と甘寧は浮浪者を見るように丁奉の呑気な瞳を覗き込む。
それに丁奉は心外だと目を丸くして「暑さで倒れないように小休止をいれていただけだよ」と当然のことのように言い切った。
丁奉の瞳に揺らぎはなく、それが本心であることを悟った甘寧は重々しく頭を抱えた。
副官の役目は将軍と下士官との橋渡しが主になる。ここが正常に機能しなければ下への情報伝達は途切れ、組織の運営に重大な支障をきたしてしまう極めて重要な役目だ。だというのにその副官がまだ半日もしないうちに業務を怠るなど、将軍である甘寧にとっては見過ごせない行為だ。
「貴様は――」
「そんなことよりもさぁ、聞きたいことがあったんだよね」
ところがそんな甘寧の叱責を差し止めたのは、丁奉のやはりのんびりしたひと声だった。
甘寧はむっと表情をこわばらせるが、いつもの事だと出かかった拳を押しとどめて「なんだ」と熊も逃げ出す形相で丁奉を睨み付けた。
これには丁奉も堪らずたじろぎ、息を呑んだ。
「えーと、ほら。前の任務で一緒だった…………たのしいクン?」
「……太史慈、だ」
また始まったか、と甘寧はうんざりして丁奉から視線を切った。
「あれぇ、間違えちった?」と丁奉はおどけた風に頭をかく。
こうやって主導権を握り、なんだかんだと煙に巻いてしまうのが丁奉の常套手段だ。
甘寧は過去の経験から丁奉がこうなっては何を言っても聞かないことを知っていたのだが、それでも穏やかではいられず舌打ちを一つ。
――私は貴様のそういう浮ついたところが嫌いなんだ。
そう怒鳴り散らして力の限り殴り飛ばせればどれほど爽快な気分になるだろうか。甘寧が何度それを思い描き、我慢してきたことか。孫策の推挙という後ろ盾が無ければ、甘寧がこれほど頭を悩ますことはなかったのに。
「冗談ですよ、じょーだん。忘れようがないよ、あんな子をさ」
その心境を知ってか知らでか、丁奉は調子を取り戻したように軽い笑みを浮かべる。
またつまらない冗句を聞かされてはたまらないと甘寧は小さく息を吐き「それで、太史慈がどうした?」と平静を装って話を進める。
すると丁奉は珍しく姿勢を正し、真っ直ぐ甘寧に向き直った。
「なんであの子の昇進に反対したんですか?」
普段の間抜け面とは違う引き締まった面構え。
「能力的に劣っていると判断したからだ」
「いやいや、将軍について行けるってだけで相当なモンだよ。筋肉の付き方もイイ感じだし、経験さえ積めば化けると思うんだけどなぁ」
冗談半分で世辞やおべっかを言うことはあっても、真面目に他人を絶賛することはなかった丁奉を甘寧は怪訝に思う。
何か裏があるのか。ただの気まぐれなのか。それとも本当に気になっているだけなのか。
「私の言い方が悪かったな」
なんにせよ教えて何かが変わるわけでもない。甘寧は大雑把過ぎた言い回しを訂正する。
「精神面での未熟さが問題なのだ」
「未熟……ねぇ」丁奉は首をひねって一考するが「そうは感じなかったけど」と同意はしなかった。
「太史慈は感情的になると周りが見えなくなる」
甘寧の脳裏に太史慈と、太史慈の言うアニキとの問答が蘇る。敵地であることも構わずに子供の様に喚くさまは、甘寧から見れば短絡的としか考えようがなかったのだ。
「あれに部下を持たせてみろ。きっと部隊の全滅では済まないぞ」
「そこまでかい?」
「私はそう感じた」
ふーんと丁奉は再び一考してから「でも」と切り出した。
「精鋭部隊の一員としてなら使えるでしょ? 全く昇進させない理由にはならないと思うんだけどねぇ」
その言い分ももっともだと甘寧は頷いた。
「もちろん理由はある」
甘寧は目つきの悪い少年――太史慈を思い浮かべ、続ける。
「太史慈には生き残るために最も重要なモノが欠けている。それは個人においても部隊においても、致命的な隙となり得るだろう」
「――その、最も重要な物ってのは……?」
丁奉の眼差しに重みのある真剣みが加わり、甘寧の額に薄く汗が滲んだ。
この真剣みに嘘は無いと、なんとなく喉のつっかえがとれた甘寧はゆっくりと口を開くが。
「ここにいたのか、思春。探したぞ」
思春――甘寧の真名を呼ぶ声に二人の視線が途切れ、甘寧はその人物を目にしてはっとした。
「蓮華様」
割って入ってきたのは甘寧の主である孫権だった。額には汗が滲み、顔は上気して赤みが差しており、城中を歩き回ったのではないかという程だった。
「鍛錬の約束をしていたであろう」
決して強い口調ではないが、どこか苛立ち交じりの孫権に甘寧は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「四半刻も遅れるなど思春らしくもない。何か急な案件でもあったのか」
甘寧は羞恥のあまり顔を上げられなかった。
丁奉に捉まっていたとはいえ自らの主に無駄な時間と労力を使わせてしまった。それは甘寧の従者としての自尊心には許容できない失態だった。
弁解の余地はないと今一度謝罪の言葉を述べようとしたが。
「甘寧将軍は悪くありません。私めが甘寧将軍を引き止めしてしまいまして……」
突如脇から飛んできたのは聞きなれたはずの、まったく別人のような発言。それに甘寧はぎょっとして顔を上げた。
「要件は済みました。お時間をとらせてしまい大変申し訳ありませんでした」
丁奉はこれまでの大胆さが嘘のように深々と頭を下げる。政務に精通しているようなひどく丁寧なお辞儀だった。
そこでようやく孫権は甘寧に話し相手がいたのを認識したが、見覚えのない人物だと首をかしげた。それを察した甘寧は一応の礼儀として――できることなら孫権に近づけたくなかったが――丁奉を紹介しようと「この者は」と口にしたのだが、その必要は無かったようだ。
「確か……丁奉と言ったか。周泰の副官となった者だと聞いている」
「はっ。つい先日の事であります」
「噂はかねがね聞いている。相当な槍の使い手らしいな」
丁奉は口元を緩ませ、軽く頭を下げると「甘寧将軍には遠く及びません」と普段の丁奉からは考えられない低姿勢を見せた。
甘寧はぞわっと全身に鳥肌が立ったが、孫権は違った。
「謙遜はよい」孫権は感心したように頬を緩ませ「これからもその腕、孫呉のために振るってくれ。期待しているぞ」と激励した。
「――もったいないお言葉」
俯いたまま、感動に打ち震えるように肩を震わせる丁奉。それに孫権は清々しく微笑むと「行くぞ、思春」と呆然する甘寧を引き連れて行く。
ところが丁奉は離れ行く二人に「孫権様」と静かな口調で語り掛けた。
「今日は日差しが強いので体調には十二分に気を配ってください。孫権様が倒れられては国の大事です」
孫権は思いがけない台詞に嘆声を漏らして。
「ありがとう。丁奉も無理はせずに職務に励んでほしい」
「はっ」
丁奉の礼を受けた孫権は颯爽と廊下を進み、甘寧もその後に続いた。だが気味の悪さから丁奉が気になってしまい後ろを振り向くと、今ようやく頭を上げた丁奉と目が合った。
――怒られなかったでしょ?
そんな台詞が聞こえてきそうな満面の笑みだった。
「丁奉は礼儀知らずだと城の者から聞いていたが、なかなか殊勝な物言いをするではないか。あれほどの者が居たとは聞いていなかったぞ」
孫権は丁奉に高評価を下したようだ。その顔には険しさは微塵もない。
「あまり信用なさらない方がよろしいかと」
対照的に甘寧の眉間には皺が寄っていた。
「なぜだ」
孫権は甘寧がそう言った理由が本当にわからないといった様子だ。
甘寧は武官としての付き合いがあったから南陽に戻る以前からの顔見知りだが、孫権は初対面なのだ。
「そのうちわかります」
こればかりは付き合っていけば嫌でも目につくようになるだろう。
甘寧は近い将来、孫権が丁奉にどのような評価を下すのかを密かな楽しみとして胸の内にしまっておくことにした。
書くのが遅いのに読んでくれてる方、本当にありがとうございます。次はできれば八月中に上げられればと思っております。保証はありませんが……。
それと今更ですが、文章評価とストーリー評価って5段評価なんですね。本作品の評価が4以上って高すぎて驚きました! 少しでもこの評価に追いつけるように頑張りたいと思います。評価してくださった方ありがとうございました。