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任務完了

 三か月……。

「よっ、   !」


 誰かが俺の名を呼ぶ。

 子供のような高い声ではない。かといって大人と言えるような渋味のあるモノでもない若々しい声だった。

 俺は訝しむことなくその爽快な声の持ち主に体を向けた。


「久しぶり」


 光の中から一人の青年が現れた。逆光になっているせいでその風貌は確認できないが、爽やかで張りのある声からなんとなくそのぐらいの年齢だと判断した。

 突然現れた青年に普通なら抱くであろう警戒心は何故か沸かず、むしろ長い付き合いのある友人のような安心感を感じる。

 青年は無警戒な俺の隣りに並び「行こうぜ」と、それこそ親友のような気軽さで告げると光の中へ消えていった。

 ぐるりと周囲を見回すが人影はない。正確に言うなら物という物は何一つ視認できず、ただ白い光――この表現が正しいかはわからないが――が広がっているということしかわからない。


「早く来いよ」


 正面から声が聞こえると、光の中から先ほどの青年の姿が浮かび上がった。

 現実にはあり得ない現象。だが、またも不信感は沸かず、青年の元へ自然と足が進む。


「そんなんじゃ遅刻するぞ」


 青年は俺に背を向けると、光の中へと駆けていった。

 俺は速度を上げて青年を追うが、走っても走っても距離を縮めることはできない。微かに視認できた影すらも徐々に光へと溶けていき、間もなくして青年の姿は完全に消え去った。

 それでも俺は足を止めなかった。

 青年に追いつかなければならないという強迫観念にも似た、ある種の焦燥感のような気持ちが足を止めるのを許さなかったからだ。

 

「にゃー」


 そんな時、耳に入ったのは甘く囁くような鳴き声。次いで尻尾のようなものが視界をよぎった。

 俺は足を止めてその声の主を素早く目で追うが、その尻尾のようなものはどこにも無い。


「にゃー」

 

 また猫の声。今度は背後から聞こえたそれに飛びつくように振り向くと、そこは一匹の若い猫がいた。

 気高さを思わせる見事な褐色の毛並を持ち、額には『華』を連想させるような印象的な模様。空の蒼を映したような美しい瞳は興味深そうに俺を捉えている。

 その瞳が放つ揺るぎない輝きにひどく心魅かれ、俺は誘われるままに手を伸ばしていた。  

 するとその猫は持ち前の瞬発力で、歩幅にして五歩の距離を一瞬で後退すると「フゥー」と唸り声を上げ、髭をピンと張って警戒心を露わにした。

 もう一度猫に近づいてみるが、俺が一歩進むと、猫もその歩幅の分だけ後退する。

 一歩進むと、一歩分後退される。これが三回続き、ならばと思い切って大きく踏み出したのだが――

「ニャー!」とその猫は耳を刺すような鳴き声を上げて飛び上がり、光の中へ消えていってしまった。  

 猫の姿探してあちこち視線を彷徨わせるが、見えるのは白い光だけ。だけどあの猫の瞳が頭から離れなくて、当てもなくその跡を追おうとした時だった。

 

「危ないッ!!」


 いきなりの悲鳴にも似た叫び声。

 近くにも遠くにも聞こえたそれに咄嗟に振り返ると、凄まじい速度で迫る鉄の壁がすぐそこまで迫っていた。けたたましい騒音が耳をつんざき、冷たい汗が頬を伝う。絶望感が心身を支配し、身動きすらできない。

 鉄の壁はもう目の前だった、そんな時――


「にゃー」


 激痛と轟音の中で確かに聞こえた猫の鳴き声。

 反転する世界。

 青ざめた青年の姿。

 蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々。

 赤く染まる信号機。

 灰色の道路。

 蒼い瞳の猫。



 そして俺は――





第二十三話 任務完了




「――――あ?」


 天井の木目が目に映る。やけに遠くに見えるそれに疑問を覚え、寝ぼけ眼を擦る。

 見覚えのある兵舎の天井ではないことは確かだった。


「ここは……?」


 まるで脳にロウソクでも流し込まれたかのように頭が働かない。気分も最悪だ。


「確か伯宗さん達と別れて……アニキに会って……倉の中にいて……」


 頭を働かそうと渇いた唇を動かして確認する。寝起きのせいなのか、やたらと喉が渇く。


「……火を着けて……それから……」


 そのことを思い出して、そういえばと再び目を擦る。


(そういえばなんで食糧庫ここで天井が見えるんだ?)


 入った時は真っ暗で何も見えなかった食糧庫だが、今は天井の木目まではっきり見える。それこそ木目を数えられるほど鮮明にだ。

 暗闇に目が慣れたというにはあまりにもはっきり見えすぎだし、夜にしては明るすぎる。太陽が差し込んだような明るさだが、日の出を迎えたとは考えられない、というか考えたくない。


「それにしても……暑いな」


 今になって意識できた、真夏の昼にも匹敵するうだるような暑さが思考を遮る。そのせいで滝のように流れ続ける汗を拭っていると、やっと戻ってきた嗅覚がいぶしたにおいを嗅ぎ取った。

 そしてすぐにその原因に思い至り「まさか!?」と上半身を飛び上がらせる。


「う、うおおおぉぉ!!」


 目に飛び込んできたのは真っ赤な炎だった。風に煽られ、直前まで迫るそれに慌てて飛び退く。


「うわッ! 縮れた!」


 だが避けきれなかった炎が前髪を掠め、俺のくせ毛をさらに縮れさせた。


(これならそんなに切らなくても大丈夫……だよな)


 密かに気に入っていた髪型だから念入りに調べるが、どうやら燃えたのはほんの毛先だけのようだ。これなら黄寛隊長に切ってもらう必要はないな。

 この被害の少なさにほっとして、改めて前方に目を向ける。


「ヤバいな、これ」


 暑さの原因はついさっき――気を失っていたからついさっきとは言えないかもしれないが――米俵に放った火だ。

 山積みにいされていた米俵はもはや形を識別することはできず、巨大な火柱となって遥か上方の天井に届くかという程に勢いを増していた。至る所に燃え移っている火は炎の海となって足場を奪い、食糧庫の主柱にすら飛び火している。

 これだけ火の勢いが強ければ、食糧庫が崩れるのは時間の問題だろう。そう思い、立ち上がって出口を見据える。

 幸いにも出口までの直線上には邪魔な障害物は見当たらないので、走っていけば靴が焦げる程度で済みそうだ。危険の少ないうちに早く脱出しようと一歩踏み出すが。


「あ?」


 足元への注意が疎かになっていたせいで、何か硬く平らな物を踏みつけてしまった。

 それは長方形で厚みのある物体。大きさは手のひら二つ分だろうか。食糧でも農具でもない、食糧庫の中にあるであろう物のどれにも該当しない形だ。

 気になって足をどけると、一冊の黒い書物が目に入った。


「こ、これって!?」


 予想だにしない物の存在に息を呑む。少なくとも食糧庫なんかにあってはならない代物だ。


(もしこれが本物なら……)


 逸る気持ちを必死に抑えながら、割れ物を扱うように丁寧に持ってみて確信した。


「すげぇ、紙の本だ……!」


 それは竹簡とは違う、紙でできた書物だった。

 紙は高級品だ。南陽で紙の書物を何度か見かけたことはあるが、俺の給料じゃ買う気がおこらないほどべらぼうに高価な物だった。高額の理由は材質のみならず、書かれている内容も専門的で素晴らしい物ばかりだから――張さん談――だそうだ。

 

(持って帰って売れば……稼げる!)


 材質が紙なら相当な値打ちものだ。損傷の程度で値段は変わってくるが、見たところ大きな傷や汚れは無い。

 そんな皮算用をしながら書物を裏に返すと、表紙なのだろう、にょろにょろとした字で大きくこう書いてあった。


 『太平要術~恋愛覇道編~』


 聞いたこともない題名。ぱっと見、書き手の名前は書かれてない。

 孫子とか有名な書物なら南陽の市で高額で取引されているが、無名となると価値は下がりそうだ。実際はどうなのかわからないが。


「名前でも書いてあればいいんだけど……」


 大抵の書物には書き手の名前がでかでかと記されているらしい――これまた張さん談――ので、有名な書き手の記した書物ならば、という淡い期待を込めて表紙を捲る。

 すると黄ばんだ紙面の右側に大きく『はじめに』と書かれているのが目に映った。


「えっと、『この本はどうやっても叶わない恋を実らせるための恋愛指導書です』」


 年頃の女の子が好きそうな見出しだ。表紙の暗い雰囲気からは見当もつかない内容に肩の力が抜けてしまうが、書き手の情報を得るためにと更に読み進める。


「『気になる彼女との出会いから円満な結婚生活までを完全サポート! さぁ、今こそ彼女との永遠の愛を手に入れませんか?』……」


 この項には他に何も書かれていない。欲しい情報は何も書いていなかったどころか、本当に高値で売れるか心配になってきてしまった。

 これ以上読んでも不安だけが増えそうだから、後は帰ってから確認しよう。


「――……ん?」


 そう考えていると、頭上から木が軋むような、裂けるような音が耳に入った。

 次第に大きくなるその音が気になって頭上を見上げたら――


「げぇぇぇ!」


 見上げると同時に柱同士を結んでいたはりが埃と破片をまき散らしながら焼け落ちてきたのだ。その数は――数えきれないほどたくさん。

 俺は無我夢中に出口の方へ跳んだ。

 その直後、炎の塊となった梁は破砕音を立てながら俺のいた所に降り注ぎ、突風と共に埃が巻き上がった。

 

「げほッげほッ! 危ねぇ……」


 埃と煙をもろに吸ってしまったが、どこにも痛みはなく、ただ埃で服が汚れてしまっただけだ。

 

「ふぅ……ってあああぁぁぁ!」

 

 回避に成功してほっとしたのも束の間、手の中にあった書物がなくなっていたことに気付いた。見回してもあの黒い表紙はどこにもない。

 どうやら書物は燃える瓦礫の下敷きになってしまったようだ。


「もったいねぇ……」


 体の無事を喜ぶのが普通なのだろうが、失った物が物だけに、素直に喜ぶことはできそうにない。

 この炎の勢いでは仮に書物を掘り起こせたとしても無傷で倉を出ることはできないだろう。怪我でもして将軍の元へ戻れば叱責だけで済むはずがない。


「ちくしょ~」


 惜しい気持ちは尽きないが、書物の事を諦めて俺は出口に急いだ。


 ――そういえば、なんで俺は字を読めたんだ?


 この疑問の答えを追及せずに……。





 

 倉の外には数えきれないほどの死体が散らばっていた。薄暗くて近場しか見えないが、その全てが武器を持った黄巾党であり、首の血管から喉にかけてを断つ正確な一撃によって命を失っていた。

 こんなことができるのはあの人しかいない。そう確信して顔を上げると、倉から少し離れた所にただ一人立ち尽くす人物を発見した。


「大丈夫ッスか?」


 湾刀に着いた血を拭いているのだろう、自慢の愛刀を丹念に磨く甘寧将軍へと駆け足で向かう。

 すると将軍は顔も上げずに「遅いぞ」と突き放すような言葉を浴びせてきた。

 

「すんません。なんか色々とあったらしくて……」


 どうしてああなったのかは覚えていないが「気を失っていました」なんて言えるわけがない――言ったら間抜けとか言われて殴られそう――ので、俺は言葉を濁すことしかできなかった。

 

「なんだ、そんな他人事みたいに」


 将軍は武器を磨いていた布を放り投げ、懐疑的な眼差しを向けてくる。


(怖ぇー!)


 将軍の肌に付着した返り血は建物から僅かに漏れる炎の光を反射し、この惨状の凄惨さを際立たせている。

 グサグサと弓矢のように突き刺さる視線が緩む気配はない。このままではいつ物理的な制裁がきてもおかしくないだろう。


「そ、それよりこいつらは一体……?」


 とにかく話題を変えようと、周囲に散在する死体を指さして問う。

 露骨な話題変更だが将軍に追及する気はなかったのか、俺から視線を外すと普段の無愛想な雰囲気に戻った。


「貴様が倉に入った直後に襲ってきた奴等だ。少々時間はかかったがなんてことはない、ただの雑兵だ」

「そうなんスか? 何も聞こえなかったッスけど……」


 倉に入った直後というのなら、雄叫びやら悲鳴やらが聞こえてもおかしくないはずだが、そんな騒音は全くなかった。それにこれだけ大人数なのに足音が聞こえないのは異常だ。黄巾党の隠密部隊とかなら足音を消す術ぐらい持っていそうだが、将軍曰くただの雑兵ということなのだからそれはないだろう。

 

「あぁ、それはそうだろう」


 将軍は当然だと言わんばかりに大きく頷くと、一面に散らばる死体に目を配った。


「なんせこいつら、喚くどころかうめき声すら上げなかったのだからな」


 そう言った将軍にはいつもの凛とした張りのようなものを感じられなかった。そして眉間に深い皺を刻むと「不気味な奴等だ」と愚痴のようにこぼした。

 将軍の周囲に険悪な空気が立ち込める。何があったのか気になるが、これ以上聞くのはやめておこう。


(とばっちりで殴られたくないからな……)


 内心冷や汗をかきながら、標的にならないようにと黄巾党の死体に手を合わせていてふと思い出した。


「……そういえば、アニキは?」


 この衝撃的な光景のせいですっかり忘れていたが、将軍に任せておいたアニキたち三人の姿が見当たらないのだ。


「そこに縛っておいたのだが――」と細くて暗い路地を差して言うが、そこには乱暴に切り刻まれた鉤縄の残骸しか残っていなかった。

「もしかして逃げられたんスか?」


 縄の残骸付近に残っている大中小三つの足跡は倉とは逆方向に向かっているのがわかる。おそらく戦闘のどさくさに紛れて逃げたのだろう。

 そう推理し、しばらく待っても将軍は顔を合わせようとしない。もしかしたらアニキたちを逃がしたのを気に病んでいて、俺が怒っているとでも思っているのかもしれない。


(そこまで子供じゃないぞ、俺は)


 戦闘の最中にそこまで気を払うことなんてできないのが当然だ。それぐらい理解できる。


「どうしたんスか?」


 努めて平静にこう言って近づくと、将軍は急に大通りに顔を向け、次の瞬間には「来い!」と俺の手を掴んで走り出していた。

 咄嗟の出来事に俺は成されるがままに近くの建物の影へと引きずり込まれた。

 そして壁に押し付けられ「声を出すな」と将軍に耳元で警告されると同時に、口元を鷲掴みにされた。


(く、苦しい……)


 勢い余ってか鼻まで抑え込まれてしまったせいで息が苦しい。指の間に細かい隙間ができているおかげでなんとか呼吸はできているが、それでも辛いことに変わりはないのだ。

 将軍の意識は通りに向けられているせいで、俺の状態には気づいていない。これではどうしようもないので騒がず、呼吸を落ち着けて指示を待つことにした。

 耳をすませば、一つの足音が近づいて来るのがわかった。酷く乱雑な拍子と共に来たそれは、近づくにつれだんだんと弱くなり、俺たちのすぐそばで音は止んだ。


「倉が……燃えてる……」


 聞こえてきたのは大の大人が発した、か細く震える声。

 それを口火に豪雨のような喧騒を引き連れて、大勢の足音が押し寄せてきた。


「早く消火しろォ! 燃え広がるぞー!」

「人手が足りねぇ! 寝てる奴等ァ叩き起こして来い!」

「東の倉も燃えてんだ! 誰か来てくれ!」

「馬鹿野郎! この桶、穴空いてるじゃねぇか!」

「もう無理だお! 勢いが強すぎるお!!」

「お前らさっさと――」


 わらわらと集まってくる黄巾党共は、食糧庫を目にした途端顔を青ざめて声を荒げる。大して時間もたたないうちに、この場は賑わう繁華街なんて目じゃないほどの大騒動となった。

 浮足立つ黄巾党だが、それでも火を消そうと各々が行動を続けていた。中には立ちすくむ奴もいたが、他の黄巾党に喝を入れられびくびくしながら消火活動を始めるなど、黄巾党の士気はまだまだ萎えきってはいなかった。


「――来たか!」

「え?」

  

 将軍は何かに弾かれるように、再び大通りの方を見た。

 まるでそれが合図であったかのように、どこからか鐘の音が響き渡った。


「敵襲だあぁぁぁ!! 官軍が攻めてきたぞぉぉ!!」


 連続して響く鐘の音と共に聞こえたのは、絶望を知らせる――俺たちにとっては嬉しい――絶叫だった。

 消火活動に従事していた黄巾党共は、それまでの混乱が嘘のようにぴたりと騒ぎを収めたかと思うと、次の瞬間にはそこら中から思わず耳を塞いでしまうほどの悲鳴が噴き上がった。

 穴の開いた桶を手に雄叫びを上げながら正門へ向かう者。奇声を上げながら剣を振り回す者。泣きわめきながらどこかへと走り去る者――――。

 もはや場の収集などつかない、恐慌状態へと陥っている。


(追いつめられると人ってこんな風になるのか……)


 予想外の奇行の数々に若干引いてしまったが、すぐに気持ちを切り替える。

 黄巾党の一人が言った言葉、官軍――これを聞いて思い当たるのは一つしかない。


「孫策様だ……!」


 孫策様が軍を動かした。それは俺たちの任務の終了を意味しているのだと直感した。

 将軍は初めから知っていたのか、眉ひとつ動かさず「退くぞ」と告げて建物の屋根へと登り、俺もその後に続いた。

 冷静さを失った黄巾党には敵味方を判別する思考は残っていなかったのだろう、俺たちは何事もなく戦場から脱出することができた。


 


 来た道を引き返し、侵入した時に使った鉤縄を伝い外壁を下った。

 一刻ほどしか経っていないはずなのに、かなりの時間が経過したように錯覚してしまう。きっと潜入任務による緊張のせいだろう。

 それが終わったからか妙に清々しい気分だ。解放感がすごいというか、生まれ変わったような――そんな気分。


「ッしゃあ! 余裕!!」


 さらに無傷というのも原因の一つだったかもしれない。舞い上がってしまい、無礼にも将軍の前でそんなことを口走ってしまった。


「……あ」


 大急ぎで口を塞ぐが、とっくに将軍の耳に届いてしまっている。

 背後に降り立った将軍からの攻撃に身構えようとすると、何か布のようなものが視界を覆った。

 

「なっ!」

「褒賞は後日、正式な手続きを経て渡されるだろう」

 

 将軍の凛とした声が布越しに聞こえ、その足音が少しずつ遠ざかっていく。

 顔に掛かった布を引っぺがしてみれば、それは将軍が羽織っていた外套だった。

 

「今日はゆっくり休むといい」


 将軍はさっきより少しだけ柔らかな口調でそう言い残し、外壁沿いに隼のように駆け出ていき、暗闇へと消えていった。

 正門の方向へ向かったことから孫策様たちのいる本隊に合流することがわかる。

 戦いに行く。その心に余裕なんてないはずなのに、それでも俺に労わりの言葉を掛けてくれたのは将軍の優しさ、あるいは度量の大きさ故なのだろう。


「あざす」


 胸に生まれた尊敬の念を込めて姿の見えない将軍に頭を下げ、俺は本陣へと走った。


 この後他の諸侯らも大急ぎで駆け付けたのだろう、正門を突破した呉の本隊の後に続き、都市内へと攻め込んでいくのが見えた。

 本陣には伯宗さんに丁奉……さん、万修らその他潜入部隊の面々――周泰将軍だけはいなかったが――も帰還していて、皆は「甘寧将軍に捨てられたかとひやひやした」と口々に言いながら俺の無事を喜んでくれた。本気なのか冗談なのか……。なんだか複雑な気持ちだ。

 張豊班も人数不足ということで本陣待機だったらしく、万修と二人して戻ったら今度こそ、本当に俺たちの無事を喜んでくれた。「無事でよかった」と心配してくれた張さん。「なー」といつも通りの口癖で迎えてくれた李尋と李和。

 それで安心してしまったらしく、この日の記憶はここでおしまい。


 翌日になって張さんから聞いた話だが、黄巾党二十万の大軍勢は、呉を筆頭とした諸侯連合の大攻勢によって、昨晩、壊滅したそうだ。

 戦闘に参加していなかったからか、あっけなく感じてしまった。人が亡くなっているのに不謹慎だが。

 そんなこんなでこれから戦場の片付けがあるとのことで休んでいた天幕から出ると、いきなり黄寛隊の面々に囲まれ、「任務はどうだったか」とか「将軍はどんな人だったか」などなど、絶え間なく質問攻めにされた。もちろん黄寛隊長が黙っているわけがなく、朝から雷が落ちたのは言うまでもない。

 そして俺と万修は潜入任務に参加したおかげか、後片付けをやる必要はないと命令が来たのでその間は天幕で休むことにした。とは言っても、それが一日やそこらで済むはずもなく、やることがなさ過ぎて暇だったので、給仕の手伝いをしながら帰還までの間を過ごした。






 そして南陽に帰ってきてから一週間後の休日のことだ。

 昼ごろ、皆が食事をしている時に、人目のない兵舎の裏で今朝届いた竹簡を広げる。


「万修、頼む」


 しかし竹簡を読もうにも字が読めないので、同じく竹簡を広げる万修に手渡す。

 万修は無言で受け取ると、長椅子に座り緊張した面持ちで竹簡を読み始めた。

 

「どうだった?」

「今読み始めたばっかだろーが! 黙ってろ!」

「あ、悪い」


 内容が気になって仕方がないのだ、これぐらいは許してほしい。

 万修にも余裕がないのか、いつもはしない貧乏ゆすりが鬱陶しい。そんな状態で怒っても全く怖くないぞ。

 とにかく深呼吸で気分を入れ替え、万修をこれ以上刺激しないよう黙って待つことにした。

 既に夏を迎えている南陽では気温も高く、セミの鳴き声が至る所から聞こえてやかましい。


(実家の方がうるさいなぁ)

 

 セミの声に耳を傾けていると、周囲を林に囲まれている実家を思い出してしまう。

 そういえば母ちゃんは大丈夫だろうか。暑さに弱い母ちゃんのことだ、体調を崩していないといいけど。親父は――特に心配することはないだろう。俺と同じく体だけは丈夫だから。

 母ちゃんに何か薬でも買って送ろうか。そんな風に考えていると、読み終えたのか万修が竹簡から目を離し、顔を上げた。


「――どうだった?」

 

 今度こそいいだろうと改めて問うが、万修の口は堅く閉じられ、いつも以上に気難しそうな顔をしている。

 俺はただ万修の返事を待った。


 互いに不動のまま時間が流れていく。

 セミの鳴き声がうるさいのに、ドキドキと早まる心臓の音がはっきりと聞こえる。

 照り付ける日差しのせいだろう、噴き出す汗が止まらない。失われていく水分に加えて、暑さのせいで頭がくらくらしてきた。


(一体いつまで引っ張んだよ……)


 まったく話そうとしない万修をいい加減待ちきれなくなってきたが、俺は万修に読んでもらっている側なのだ。ここは静かに待つのが礼儀だと言い聞かせ自制心を働かせる。

 それからセミが十回鳴いて、どこかにいる犬が五回ほど吠えたころだった。とうとう万修が口を開いた。


「聞くな」と項垂れながらため息をつく万修。

「やっぱり駄目だったか……」


 正直、読み終えた万修の反応からなんとなくそんな気はしていたが、それでも落ち込まずにはいられない。なぜならあの丁奉……さんですら昇進しているのだから。

 

「丁奉さんは昇進だってよ、将軍補佐」


 今朝、張さんから聞いた話だから間違いない。

 丁奉さんは精鋭部隊の一員で、その中で最も強い人物だそうだ。甘寧将軍にも物怖じしないのはその実力故なのだろう。


「絶対あの人じゃ勤まらないよな」


 子供っぽくて意地悪な性格じゃあ、仕事なんてしそうにない。あの人の配属先の上司と部下が可哀想だ。

 気分を入れ替えて、冗談っぽく――といっても本音だが――明るく言ってみたが、万修の反応はやはり乏しい――ように見えたが。

 

「そうか」と万修は異様に鋭い、ギラリとした眼光を放ったがそれも一瞬のことで、深くため息をついて再び項垂れ「……伯宗隊長も昇進だとよ」と沈んだ調子で言った。

「そうなのか? すげーな」


 伯宗さんなら補佐なんかじゃなく将軍だって勤まるだろう。精鋭部隊でも指折りの実力者らしく、加えてあれだけ人間ができているのだ、あの人に従うのに不満なんてあるわけがない。

 丁奉さんと伯宗さんの昇進という豪華な褒賞に対して、俺のは金一封と書状だけで昇進は一切なし。

 

「あーあ、思うようにいかねぇなぁ」

「まったくだ……」


 万修もたぶん同じような内容なのだろう。同意の言葉には力が籠っていなかった。

 あれだけ危険を冒しても昇進がないのは割に合わない気がする。せめて班長ぐらいにしてくれてもいいのに、と思わなくもない。とは言っても、昇進できない原因は甘寧将軍の前でヘマをしすぎた俺自身にあるのだが。


(将軍に無能だとか思われてそうだな、俺)


 縄を渡すのに無駄に時間をかけたこと、黄巾党に知り合いがいたこと、火を着けてから何故か知らないけど気絶してたこと、などなど。

 過去の過ちが次々と思い浮かんでくるが、意味のないことだとため息と一緒に頭から追い出す。

 万修も何かやらかしていたのか、頭を抱えて唸っている。どんよりとした、雨雲のような暗さを思わせる万修の姿に親近感を覚えてしまう。


「……はぁ」


 どうやら俺も万修も当分の間は一般兵のままらしい。


 遅くなり申した。久しぶりに投稿したので恥ずかしいですが、お楽しみいただければ幸いです。

 これまで読みに来てくださっていた方々、待ってくれていた方々、申し訳ございません。そしてありがとうございます。

 少し詰め込みすぎた感がありますが、打ち切りとかはございません。大丈夫です。

 誤字脱字、またはご指摘等ございましたら、よろしくお願いします。

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