潜入任務
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
正面には黒塗りの壁がそびえ立つ。
右を見れば暗闇。左を見ても暗闇。
昼はあんなに晴れていたのに雨でも降るのか、と不思議に思ったが空を見上げてすぐにその理由に至る。
「――い坊主」
幾千もの星々が煌めいている夜空には主役とも言える大きな月が見当たらない。そういえば今日は新月だったな。
「――――おい坊主!」
「はいッ――ッて!」
ガツンと後頭部に鈍痛が走る。
「声がデカい……――ッ!」
ほんの少しの焦りを含んだ抑え気味の声。
後ろを向けば兜を被り、無精髭を生やした壮年の男――名前は伯宗だったかな――が身を屈めていた。伯宗さんは顔を伏せながらゆっくりと俺の方を指差す。
「前?」
伯宗さんの意図に至りゆっくりと首を前に向けると、前にいた甘寧将軍と目が合った気がした。
「……何度も言わせるな。鉤縄だ」
将軍は催促するように左手を突き出していた。どうやらさっきから指示を出していたらしいが、無駄に考え込んでいたせいで耳に入っていなかったみたいだ。伯宗さんはそれを知らせてくれようとしたのだろう。
暗くて将軍の表情は伺えないが、どこか棘のある声色から心情を察してしまい、心臓が消え入るような錯覚に陥ってしまう。
「早くしろ」
「す、すんません」
将軍の指示に従い、すぐさま腰の帯に括りつけてある鉤縄に手を伸ばして急いでほどこうとするのだが――
「あ、れ……。ちょっと待ってください」
冷や汗が流れる。
荷物係として荷物を落とさないようにきつく締めたのがいけなかったのだろう、結び目が思いのほか固くてほどけない。
「このッ!」
縄を引き裂くつもりで力を込める。すると結び目はあっけなく緩み、それまでの固さが嘘のようにしゅるりとほどけた。
多少の時間はかかったが鉤縄がほどけたので少しほっとして、後は手渡すだけという時だった。将軍はほどいたばかりの、まだ俺の帯に巻き付いたままの鉤縄を奪い取り、無言で背を向け外壁に向かっていった。
「……やっちまった」
自分の仕事を全うしようと張り切りすぎたのが仇になってしまった。将軍のあの怒りようではもう出世は望めないだろう。
大きなため息が漏れる。
「怒らせちまったな」
そう大きくない声で言ったのは伯宗さんだ。元気づけようとしているのか軽い口調で続ける。
「気にすんな。殴られなかっただけマシだと思え」
な、と伯宗さんの物柔らかな態度はどこか張さんに通じるところがあってほんの少し気が楽になる。身長は俺とそう変わらないのにどっしりとした安心感を醸し出せるのは年の功ゆえなのだろうか。
「そうそう、生きているだけでも幸運だと思わないとな」
女性特有の高い声が伯宗さんの背後から聞こえてきた直後、暗闇からぬっと巨大な影が浮かび上がる。その影が伯宗さんと肩を並べると、闇に慣れた瞳がその正体を映した。
それは女性の姿。
「あの人、賊上がりで血の気が多いんだ」
肩口まである散切りの赤髪を鬱陶しそうに掻きながら、
「無傷なのは奇跡だぜ」
と、軽薄そうに言った女性の名は丁奉。同じ潜入部隊の一人だ。
伯宗さんよりも頭一つ分抜きんでた長身に僅かに気後れする。
「そ、そうなんスか……」
天幕での一件を思い出せば丁奉……さんの言葉も納得できる。あの暴力的な眼光と喧嘩っ早さ――暴力は振るわれていないが――は前の職業柄だったのか。
甘寧将軍の知られざる一面を知り、寒くもないのに鳥肌が立つ。下手をしたらあの場で命を失っていたかもしれないのだから……。
丁奉さんが口を三日月にして更に話を続けようとすると、
「やめとけ丁奉。あんまり口が軽いと――」
こうなるぞ、と首を刈り取る動きを見せ、冗談めいた風に話す伯宗さんに、
「……へいへい」
と、丁奉さんはものぐさに返事をし、興がさめたのか将軍の元へゆるゆると歩いていき、その気の抜けた後姿が暗闇に紛れる。
「あいつには注意しろよ。まともに相手すると面倒だぞ」
伯宗さんの言になるほどと頷く。
丁奉さんのおもちゃを見つけたかのような笑顔からは、趙雲と同じような空気を感じたのは気のせいではなかったようだ。用心しよう。
第二十一話 潜入任務
頂の見えない山脈のような外壁でも案外簡単に登れるもんだなと外壁から見下ろすと、下の方は真っ暗闇で井戸の底を覗き込んでいるような感覚にとらわれる。
落ちたら命はないだろう。
「全員いるな」
甘寧将軍は周囲を警戒しつつ、絹ずれのようなかすかな声で問いかけた。
俺を含む隊員が、将軍を中心に弧を描くように集合する。
「繰り返しになるが」
将軍は変わらぬ声量で言い出した。
「我々の任務は食糧庫を焼き払うことだ。くれぐれも――」
じろりと険のある瞳を俺に向け、
「無意味な騒動は起こすな」
念を押すように瞳に険しさが増した。俺は息をのみ、重々しく頷く。
他の隊員もそれを重く受け止めたのか、同じように首を振る。さっきまでの軽々しい態度はどこにもない。
「……行動を開始する」
将軍も刺々しい空気を消し、静かな足どりで階段を下り始めた。
俺たちが目指すのは南側の軍用施設の区画。その二か所の食糧庫だ。
南側の外壁――その絶壁側――から侵入したから、現在地からはそう遠くない位置にあるはず。たぶん。
「ザルってやつだね、こいつぁ」
前方を歩く丁奉さんの呟き。
確かに、黄巾党は油断しているのか見回りを行っている人間はごく少数で、ほとんどの人間は家屋に引っ込んでいる――寝ている――ようだ。たまに外で寝そべっている奴もいるが、特にこちらを気にした様子はない。
大都市を占拠したことによる自信か、あるいは二十万という大軍勢ゆえの慢心か。どちらにせよ動き易くてありがたい。
「しょーぐん。これ脱いでもいいかい?」
丁奉さんは羽織っている黒い外套をひらひらと見せびらかす。潜入にあたって、闇に溶け込むために全員が羽織ることになった外套のことだ。
布が厚くて動きづらい上に、見るからに怪しい仕様になっている。けれども建物の影に隠れながらの移動なのだから将軍の答えは一つしかないはず。
「駄目だ。着ていろ」
「えー」
予想通り、後ろを振り向くことなく淡白に答える将軍。
丁奉さんは細めの眉を顰め、露骨に不満を見せつける――将軍は見ていないが――が、将軍はその不遜な態度を咎める気はないようだ。
……この扱いの差はなんなんだ。
「そりゃあ実力の差だろ」
こう言ったのは後ろを早足で歩く伯宗さんだ。
「俺、声に出してたッスか?」
「……気づいてなかったのか」
呆れ声が耳に入る。後ろの伯宗さんに聞こえていたってことは――
「……」
「あーあ」
将軍や丁奉さんが聞こえてなきゃおかしいよな。
前を見れば、冷たい瞳を向ける将軍と、にやにやする丁奉さんの姿が。
「い、いや別に不満があるとかじゃなくって……」
「はは、正直に言いなよ太史慈クン。だいじょーぶだって」
しょーぐんだって取って食いやしないよ、と丁奉さんは気の合う友人に接するかのように将軍の肩に手を回すと、将軍の目尻がピクリと動く。
「図々しいぞ」
「あら」
将軍がすかさずその手を払うと、丁奉さんは捉えどころのない笑みを浮かべ、
「照れなくてもいいのに」
ねぇ、と首を捻り、俺に同意を求め、それと共に将軍がこっちに目を向ける。
頼むから変に巻き込まないでくれ。失敗や失言でただでさえ低い評価がさらに負の方向に進んでしまう。
俺の穏やかでない心情を察してくれたのか、
「大丈夫だ。将軍だって丁奉の性格はわかってるからよ」
と、伯宗さんは俺を挟む形で丁奉さんを指さすと、丁奉さんは飄々と微笑んで、大きく後ろを――伯宗さんの方に――振り向いた。
「酷い言いようだね」
「事実だろ? あんまり子供を苛めるなよ」
反射的に「子供じゃねぇ!」と叫びそうになるが慌てて口を塞ぐ。丁奉さんは伯宗さんに気がいっていたのか感づいてはいない。伯宗さんの気配りを無駄にしてしまうところだった。危ない危ない……。
伯宗さんの声の調子からして、喧嘩腰ではなく、このやり取りを楽しんでる節があることに気づいた。二人の付き合いは結構長いと推測した。
そして丁奉さんはとうとう後ろを向きながら歩きだし、
「かわいい少年のために、お姉さんが優しく声をかけてあげてるのさ」
と、わざとらしく身振り手振りを交えながら語るその姿は、いつかに見た旅芸人のお芝居に似ていた。
「……余計なお世話ッスよ」
そんなことで怒られたらたまったもんじゃない。
俺が反抗することも面白いのか、丁奉さんの目には嬉々とした愉悦の火が灯った。
「そんなこと言わないで――」
と、いきなり丁奉さんの言葉が切れると、突如として点心のような柔らかい感覚が顔を包み、視界が塞がれる。
「えっ」
「あちゃー……」
何が起きたのか判断するよりも早く、丁奉さんの上ずった声を鼓膜が捉える。次いで柔らかさの中に温もりと早まる鼓動を感じて、ようやくその感覚の元を知覚した。
「すんませんッ!」
丁奉さんの胸部から後ろに飛び退き、赤くなった顔を隠すように両手で覆う。
しかし、丁奉さんは俺よりも、自分の前にいる人物に意識を送っていた。そう――
「前を見て歩け、馬鹿者」
――将軍だ。立ち止まった将軍の背にぶつかってしまったらしい。
丁奉さんの影に隠れて見えないが、こめかみに青筋を浮かべているのが容易に想像できた。早く謝った方がいいのでは、と丁奉さんに視線を送る。
「ごめんなさーい」
深く頭を下げる丁奉さんだが、その謝り方は年端もいかない子供のように見え、将軍をもっと怒らせてしまうのではないかと心配になるが、
「……行くぞ」
将軍はため息交じりにそう言って、叱るような素振りは見せなかった。
「あ、呆れてる……」
将軍が部下に厳しいのは身をもって感じていたのに、まさか呆れているとは。
「言ったろ。将軍もわかってるって」
伯宗さんも肩を落としている。そして伯宗さんに押され、移動を再開した二人の後に続くのであった。
丁奉さん、一体何者なんだ……?
潜入して半刻ほど経ってからだろうか。
居住区を抜けたのだろう、軍用施設がちらほらと目に映るようになる。そして馬小屋――五十頭は収容できそうだが、中には一頭もいない――の前を通りかかろうとした時だった。
「……ッ!」
突如馬小屋の中から現れたのは、しなびれた黄色い布を身に纏った男。それも二人。
男共は俺たちに気づくとぎょっと目を見開いた。
――不味い……!
鼓動が止まった気がして、妙な浮遊感に襲われる。
既に軍用施設の区画に入っているのだ。こんなところで叫び声でも上げられたら大勢の武装した黄巾党が押し寄せてくるだろう。それは即ち任務遂行が困難になる、もしくは失敗。
本当に最悪の場合は――と、悪い方向へと頭が働くが、そんな俺の思考を切り開くように甘寧将軍が疾走する。
「丁奉」
将軍の呟きに並行して、無言で丁奉さんも動き出す。賊との距離は歩幅にしておよそ十歩。
男共は呆けたように口を開いていたが、
「あぼっ!」
将軍は距離を詰め、一方の賊の口を鷲掴みにし、そのまま流れるような動作で喉を切り裂いた。
「 !」
もう一方の賊は叫び声を上げようとしたのか、口を大きく開く――が、賊の口を封じるように槍先が侵入し、次の瞬間には丁奉さんの長槍によって頭部を地面に縫い付けられ、その命を散らした。
槍を引き抜くと、赤い噴水が丁奉さんの髪をより紅く染めるが、そんなことは構わないといった風に男の死体に手を伸ばす。
将軍も死体を担ぎ、二人は即座に馬小屋の影に飛び込んだ。
「何してる!」
「え、うわっ――」
急な引きに頓狂な声が出てしまった。伯宗さんに手を引かれ、将軍たちの後に続いて影に隠れる。そして伯宗さんはほんの少しだけ顔を出し、辺りを見回す。
「見られていないな?」
将軍は湾刀にこびり付いた赤い液体を布――賊の衣服――で拭き取り、警戒態勢のまま伯宗さんに問う。
緊迫した空気が漂うが、ほんの二、三拍してから伯宗さんは将軍に向き直り、
「人影は見当たりません」
と、安全の意を示した。
「よかった……」
肺から安堵の息が漏れる。どうやら危機は免れたようだ。
だが伯宗さんは緊張を解くことなく、ですが、と続ける。
「あの血溜りでは……」
言葉を濁した伯宗さんの目線を辿れば、おびただしい量の血液が雨上がりの水溜りのように広がっていた。水捌けが悪いのか、地面に染み込んでいく様子はない。
あれを見ればどんな馬鹿でも異変に気づくだろう。そうなればここにある死体にも気づかれ、犯人捜しが始まってしまう。
「いやぁ、悪いね」
ははは、と明るく笑ったのは血に濡れた丁奉さんだ。伯宗さんは賊の衣服を切り裂いて、丁奉さんに「拭け」と、投げ渡した。
なるほど、あれは丁奉さんが斬った――刺した――方の跡か。目を凝らせば、地面を抉った跡と僅かに飛び散った肉片が見える。
しかし、誰も丁奉さんを責めるようなことはしない。将軍は顎に手を当て、いつも通りの仏頂面――俺にはそう見える――で静かに話し出す。
「では二手に分かれて行動する」
将軍は都市内の見取り図を広げ、馬小屋の前にある照明用の松明を取ってきた。
「危なくないかい?」
丁奉さんが顔を拭きながら聞いた。確かに、いかに相手が訓練をしたことのない賊だとしても大勢で掛かってこられたらひとたまりもないだろう。こちら人数が少なければ尚更だ。
だが、将軍は丁奉さんの心配も考慮していたらしく。
「時間の猶予はなくなった。迅速さを優先するならばこれが最善だ」
違うか、と揺るがない瞳で語りかける将軍に丁奉さんは気怠そうに息を吐くと、口を噤んだ。
それを納得と受け取ったのか、将軍は丁奉さんから目を離す。
「組み合わせは…………」
と、将軍は考え込んでいるのか全員の顔を見比べながら沈黙するが、何かを確信したのか一つ頷いてから口を開いた。
「伯宗と丁奉、私と太史慈だ」
熟練兵が互いに悪いところを補い合う組み合わせと、最も腕の立つ将軍が、最も弱い一般兵の面倒を見るという――そう考えると少々癪に障るが――組み合わせは、この場で考え得る最善の組み合わせだと思う。
しかし伯宗さんはチラッと訝しむように俺を見て、
「よろしいのですか?」
と、将軍に確認をとる。
当然だ。逆に考えれば頼りない一般兵が、呉にとって重要な将軍と共に行動するということになるのだから、その分危険性が増すということにもなる。
だが、将軍は口角を吊り上げて、
「安心しろ。邪魔になったら置いていくさ」
と、流し目で俺を見ながら言い切った。
「た、助けてくれないんスか……」
俺がそう言っても、将軍はただ不敵な笑みを浮かべるだけだった。
これは将軍なりの冗談かもしれないが、はっきり言ってたちが悪い。下っ端は何も言い返せないんだぞ。
これに便乗して、丁奉さんは妙に語尾の調子を上げ、
「残念だったねぇ、太史慈クン」
と、愉快そうな顔で言い、伯宗さんも、
「こればかりは仕方ないな」
と、顎をさすりながら陽気な声を出す。
どうやら下っ端は人として扱われないみたいだ。
「ひどいッスよ~」
こう口に出したことが、俺のせめてもの抵抗――将軍たちには何の影響もないが――だったが、将軍たちは素知らぬ顔で話に戻っていた。
この扱いの差は何だ!
「――地図を見てくれ」
……とにかく広げた地図に目を戻す。
「現在地は……ここだ」
と、将軍が侵入経路をなぞって、現在地を示す。
俺たちは敵拠点のかなり深いところにいるらしい。侵入口も正門も遠い現在地で見つかれば無事に撤退するのは難しいだろう。
「伯宗たちはこの倉へ」
将軍の細くしなやかな指が、地図の東側に記された点を指さす。二人は異論はないらしく、黙って耳を傾ける。
「私たちはもう一方に行く」
そして西側に記された点を指さす。
どうやらこっちの方が現在地から遠いみたいだ。足の速さには自信があるが、荷物を落とさないか心配だ。後で確認しておこう。
「任務遂行後は合流せず、各自の判断で撤退しろ」
それに俺たちは首を縦に振る。
「太史慈、点火用の道具を渡してやれ」
「はい」
将軍の指示通りに、油の入った小壺と、火打石を、それから残り二本の鉤縄の内の一本を伯宗さんに渡す。各自脱出となると、もうここで会うことはないだろうから。
俺の判断は正しいらしく、将軍は何も言わずに武器の手入れをしている。
伯宗さんは道具を身につけ、丁奉さんは武器の確認を。将軍は地図をしまい、周囲の警戒を。
俺も身に着けてある荷物を確認する。なにかを落として任務失敗なんて目も当てられないからな。
そうして全ての準備は整った。
周囲の状況を探るが、特に異常はない。
影から踏み出し、将軍の強い意思を秘めた眼差しが俺たちを捉えた。
「任務遂行を第一に考えろ。私たちの失敗は呉の敗北に繋がると思え」
ゴクリと生唾を飲み込むが、こんなところで躓く気はないと精一杯の力を込めて見返し、汗が滲むのは不安のせいではなく、闘志によるものだと思い込む。
将軍は俺たちを見回し、僅かに間を開けてから、
「各員の武運を祈る」
と、今までよりも柔らかな口調――俺の気のせいかもしれないが――で言い放った。
将軍は黒い外套を翻して俺たちに背を向け、
「――行くぞ」
前に踏み出した。
遅くなって申し訳ありません。パソコンの購入に手間取ってしまいまして……。
Windows8を買ったのですが、動作がすごく早いです。なかなか使いやすいです。でも真・恋姫†無双(新装版)が遊べません。最悪です……。皆さんはパソコンの買い替えには注意してください。
これからも更新が遅れることが多々あると思いますが、今年もよろしくお願いします。