黄巾党本拠地
冀州。
大賢良師こと張角率いる黄巾党の巣窟。
その内の一大都市を占拠し、巨大な外壁と後方の絶壁という地の利を生かした堅牢な要塞を根城としている。
張さんの説明の通り――いや、想像していた以上に守りは頑強そうだ。
黒塗りの煉瓦による外壁は都市をぐるりと囲い込み、その山のような外壁からの侵入は困難だろう。
後方にそびえ立つ絶壁は外壁の倍以上の高度を持ち、それを乗り越えて攻め入るのは絶対にできないと断言できる。
その上、敵は二十万にも及ぶ大軍勢。
結論、攻略はほぼ不可能。
「やだなぁ」
村の皆宛に遺書でも書いておくべきだった――字は書けないけど――と少し後悔。仮病を使ってでも寝込んでおくべきだったと大きく後悔した。
今からでも逃げればと夢想するが、敵前逃亡は……言うまでもないだろう。
「後悔はするだけ無駄か……」
終わった事を考えてもしょうがないと、気分を入れ替えるため深呼吸を一つ。
雲ひとつない快晴。太陽を覆い隠すものがないからか、いつにも増して日差しが強い。
「――そういえば鳥がいないな」
いつもなら空を見上げれば視界の中に一匹はいるであろう鳥の姿が無かったことに気付く。
鳥だけじゃない。
耳を澄ませば、僅かに聞こえるのは人の足音だけ。他には何も聞こえない。
鳥の鳴き声も、虫の音も、風の囁きも、自然が発する音という音は何一つ感じられない。
――嵐の前の静けさ、というのか。
俺にはそれが、よくない事が起きる前触れのように感じられた。
第十九話 黄巾党本拠地
『曹』、『袁』、『公孫』。そして――『孫』。
燦々と太陽が照りつける中、黄巾党本拠地を取り囲むように諸侯の旗が悠然と並び立つ。
「壮観だね」
張さんは童心に帰ったかのように目を輝かせながら呟いた。
「袁紹様以外わかんないんスけど……」
黄金の旗は袁紹様のものだとひと目でわかった。袁紹様と言えば袁術様の親戚で、ものスゴイ金持ちって聞いたことがあるからたぶん合っているだろう。
他の旗のは見てもわからない、というか字が読めん。
張さんはいつもの柔和な笑みを浮かべながら「いいかい」と話し出す。
「あの旗は曹操様。宦官の曹騰様の御息女で、陳留の州牧をされている御方だよ」
「へー」
「ほら、あの金髪の御方が曹操様だよ。黄巾党の討伐で名を上げている有名人だから覚えておくといい」
あの背が低くて金髪の巻き毛が曹操様ね。生意気そうな金髪で覚えておこう。
そんで次は。
「その向こうのは公孫賛様」
赤毛で下げ髪の女性。遠すぎてよく見えないが、多分あの人がそうなんだろう。
それにしても――
「綺麗な馬ッスね」
公孫賛様が跨っている、滑らかな毛並みを持つ美しい白馬についつい目が行ってしまう。
「そう!」
いきなり張さんが目を見開き、大声を上げた。
「公孫賛様は『白馬長史』と呼ばれ、北方の異民族たちから漢を守っている英雄なんだ!」
張さんは興奮した様子で語り続ける。
「『白馬義従』という騎馬隊を指揮し、黄巾党討伐でも大活躍してるんだよ!」
公孫賛様の後ろには無数の騎馬隊が控えている。
その艷やかな毛並みは風に揺れ、その神々しいまでの純白は陽の光に煌めいている。数百騎にも及ぶ白馬の軍勢からは、物語の中でしか聞いたことがないような雄大で崇高な印象を受ける。
……しかし疑問が一つ。
「……でも、今回は攻城戦なんスよ」
今回は野戦ではなく攻城戦。
「敵が外に出てこなきゃ騎馬隊は使えないんじゃないんスか?」
現在、敵拠点に動きがないことから、黄巾党は篭城を選択したのだろうと予測できる。仮に敵拠点に攻め込めたとしても、建物やらなんやらでで自由に動き回れるとは思えない。
俺の問いに、張さんの動きがピタリと止まる。
「…………そう、だね」
意表をつかれたように目を見開く張さん。
「あの、張さん?」
「確かに、野戦でもない限り馬は使えない、が牽制程度なら……白馬義従ならば可能だ。しかし牽制と言っても効果は微々たるものだろう。二十万もの軍勢に対し有効ではない。…………敵の食料の備蓄はそう多くないはず。それが尽き、敵が出て来さえすれば……駄目だ、趣旨が変わっている。牽制以外には……――」
俺の声は聞こえていないらしく、張さんに反応はない。敵拠点と公孫賛軍を交互に見ながら、何事かを呟くだけだ。
すごく不気味だ。こんな状態の張さんは初めて見た。
「いい加減手伝えよ、お前ら……」
「ん? 万修か」
振り返ると数本の細い丸太を抱え、汗だくになった万修が。
「あ!」
そういえば今は陣の作成途中だった。すっかり忘れてた。
「張さん」
張さんに作業に戻ろうと声を掛けたのだが――
「――それだと前線への負担が大きすぎる。その場合、あえて接近しつつ…………また趣旨から外れている。前提条件は都市外での戦闘なのだから……――」
まだやってる。そんなに真剣に答えようとしなくてもいいのに。
しょうがない。張さんには普段から世話になっているから休んでいてもらって、その分俺が頑張ろう。
そう思い、俺は最後に白馬の群れだけでも見ておこうと公孫賛軍に目を向けた。
「…………なぁ万修」
「あ?」
「アレ、誰の旗だ?」
さっき見たときより、一本旗が増えていた。たぶん公孫賛軍に隠れて見えなかったのだろう。
俺はその旗を指差し、万修に訊ねた。
「『劉』ってアレだろ。天の御使いが云々っていう……」
天の御使い。
乱世に舞い降りた救世主とかで噂になっていたな。そいつが居るところか。
「名前は……劉……劉……――」
なかなか出てこない名前をなんとか思い出そうと頭を掻く万修。
――万修の言葉を聞いて、俺の頭には一つの名前が浮かんだ。
「劉備!」
「そうだ! 劉備だ! って知ってンのかよ」
ブゥンと鈍い風切り音をさせながら丸太を振る万修。俺はそれを避けつつ答える。
「どっかで聞いたことがあるだけだろ」
かなり噂になってたし、たぶんそうだろう。
「そんで。噂の御使いサマってのはどいつだ?」
「……ここからじゃ見えねぇな」
万修は目を細めるが、どうやら今は見えないらしい。
「メチャクチャ目立つ服装らしいから、見ればすぐわかンだろ」
そんなことより仕事しろ、と軽く怒り、万修は作業へと戻っていった。
合同訓練での臨時報酬があって以来、万修の態度は目に見えて良くなり、そうそう噛み付いてくることはなくなった。
正直鬱陶しかったから、かなり嬉しい。これからもこんな感じで接してくれると助かるな、と思いつつ俺も作業へ向かう。
日が傾き、一日で最も暑い時間が終わる。
作業を終え、汗だくになった俺たちは陣での待機を命じられた。
「暑い~」
団扇代わりに手ぬぐいで扇ぎながら天幕に入る。
熱がこもるので出入口を開け放って風通しを良くする。……風は吹いていないが。
「なー……」
「溶けそうだなー……」
今日は気温が高かったせいか、日陰にいるのにやたらと暑い。
李兄弟はぐでーっと寝転んでだらけていて、万修も疲れているのか言葉を発さない。
俺もこいつらに習うように装備を外して寝転ぶ。寒さには慣れているが、暑いのはどうしようもないから苦手だ。
「水貰ってきたよ」
「な~!」
「な~!」
水の入った桶を持ちながら張さんが天幕に入ってくる。
その言葉を聞き、李兄弟は飛び跳ねるように四肢を動かし、張さんの元へ四つん這いの状態で駆け寄っていく。
「気持ち悪ッ!」
さながら蜘蛛のように素早く、奇妙に動く李兄弟に思わず叫んでしまった。
だが彼らの耳には届いていないらしく、一心不乱に水を求めて張さんに縋り付く。
「ほら、慌てないで」
張さんは盃に水を汲み、丁寧に二人に渡す。
李兄弟はそれを乱暴に受け取ると、厚い唇を盃つけて一気に飲み干す。
「――ッ! 生き返るんだな~」
「な~」
「万修君も子義君も、ほら」
「すんません」
張さんから盃を貰って一気に飲み干す。
「ふぅ」
喉に染み入る水が身体の熱を取り払っていく。
万修も盃を受け取り、水を口に含んだその直後――
「万修! 太史慈! 居るかぁ!?」
「――ぶほッ!!」
突然の怒号で天幕が震えた。黄寛隊長の声だ。
隊長の不意打ちに、万修は驚きの余り水を吹き出し、
「きったねぇ!」
一度口に含まれた水がこっちに飛来する。
「なんなんだなー?」
「今度は何やったんだなー?」
李兄弟の能天気な野次が飛んでくるが、万修は噎せているせいで反応できない。
俺は覚えがないと言おうとしたが――
「おう! ここに居ったか!」
李兄弟に返答するよりも早く、隊長が天幕へと足を踏み入れてきた。
不意の出来事だが、張さんは至って冷静に指示を出す。
「整列!」
張さんの号令に従い、俺たちは慌てて整列しようとするが、
「そのままで良い」
隊長は必要ないといった風に軽く手を振り、穏やかそうな笑顔を見せる。
その表情や口調から判断すると、どうやら悪い事が起こるわけではなさそうだ。少しだけ不安が薄れる。
隊長は俺たち二人を指差す。
「万修。太史慈」
「はっ!」
「はい!」
また何か褒美でもくれるのかと僅かに期待が膨らむが、隊長の口から出たのは俺の予想を遥かに超え、空の彼方まで飛んでいきそうなほど突拍子もない言葉だった。
「将軍様がお呼びだ。装備を整えて付いて来い」
「…………は?」
どうやら俺の耳はおかしくなってしまったらしい。
風邪を引いてしまいまして、頭が回らないのなんのって。変な部分とか有りましたら教えてください。すみません。
皆さんは風邪予防をしっかりして、私のようにならないでください。辛いですよ。