罰と主
荒れた大地を駆ける赤の軍団。その塊は二つ。
対峙している二つの軍の後方には、それぞれ馬に跨った軍師がいた。
一方は四角い眼鏡をかけた黒い長髪の知的な女性。
肩を露出し、その豊満な胸元からへそに掛けて大きく開いた赤い服を着ることで、情欲的な魅力を放っている。
もう一方は丸い小さな眼鏡をかけている女性。
その碧色の髪は肩口ほどまであり、癖っ毛なのか、後髪が左右にひろがり癖でまとまっているという特徴的な髪型。童顔で可愛らしい顔立ちなのだが、先の女性と同じか、あるいはそれ以上の胸からは並々ならぬ母性を感じる。
「横列陣!」
「こっちは三角陣でいきますよ~!」
軍師の号令により二つの塊は形を変えていく。
その足は止まらず、両軍の距離をどんどんと詰めていく。
双方共に統率のとれた動きだったのだが、片方の軍の一部に乱れが生じた。
「右翼!遅れているぞ!」
知的な女性が動きの鈍い隊を叱り飛ばす。
それに応えるように、その隊の速度が上がるのだが――
「ちょっと遅かったみたいですね~」
童顔の女性が微笑む。
既に両軍の距離は、目と鼻の先という程までに縮まっていた。
そして、激突。
前線では激しい攻防が繰り広げられており、僅かに遅れながら、先の隊も参戦した。
しかし、その隊の所を中心に、じわじわと戦線を押し上げられているのがわかる。
「陳誠隊は右翼の援護にまわれ! 急げ!!」
即座に指示を出すのだが、時すでに遅し。
相手の行動が素早いため、兵士たちの必死の抵抗も虚しく、戦線は崩壊。
それから半刻もしない内に瓦解してしまった。
もちろん敗北したのは知的な女性が指揮する軍だ。
その女性はため息をつき、皺の寄った眉間を指で押さえる。
「……銅鑼を鳴らせ」
後ろに控えていた兵士に力なく指示を出し、遅れた者たちにどんな罰を与えるかということに思考を巡らせた。
第十話 罰と主
「だから食いすぎだって言ったじゃんか」
「ごめんなんだなー」
「悪かったんだなー」
目の前には李兄弟、後ろには腕を組んだ不機嫌そうな万修と、苦笑を浮かべる張豊。
李尋と李和は、共に申し訳なさそうに頭を下げている。
先の演習で知的美女――周瑜様の指揮の元で戦っていた張豊班。
現在は黄寛隊に組み込まれており、新兵として扱われている。
呉軍の標準装備である赤い胸当てと腰当て、手甲。そして首には緑色の襟巻き、額にも同様の布を巻いている。
もちろん装備が足りないなんてことはなく、班全員に支給されている。
「やれやれだな」
「李尋君と李和君もそんなに落ち込まないで。次で挽回しようよ」
万修は吐き捨てるように言うが、張豊は優しく励ます。
班長としては少し甘いんじゃないかと思うが、これが張さんらしさなのだ、と社は思う。
演習の敗北の要因はこの李兄弟にあるといっても過言ではない。原因といってもいい。
訓練兵の頃よりもほんの少し上等になった食事。
李兄弟は制止の声に耳を傾けることなく、山盛りの食事を完食し、昼前の演習中に腹痛を訴え、行軍に支障をきたしてしまったということだ。
「わかったんだなー」
「次がんばるんだなー」
「お前らなぁ……」
当の本人たちは立ち直りが早いのか既にいつも通りの態度に戻っている。
これじゃ成長しないな、と思ってしまうのも無理はないだろう。
万修が李兄弟に説教を垂れている時、ふと演習前の話を思い出した。
「そーいや、負けたら罰があるって言ってませんでしたっけ?」
「あぁ。そんな話があったね」
張豊も思い出したらしくこちらに目を向ける。
「キツイのは勘弁してほしいな……」
「周瑜様がそんな優しい方に見えるかい?」
「……望みはないってことッスか」
ガックリと肩を落とす。
張豊も周喩様の罰を想像しているのか、どこか遠くを眺めている。
「黄寛隊、集合!」
野太い声、黄寛隊長の号令が響く。
その声に従い張豊班は話を切り上げ、一斉に行動を開始した。
それまでの話し声が消え、百人の人間が淀みなく隊長の前に整列する。
毛のないつるりとした頭が太陽の光を反射する。二つに割れた顎には無精髭が生えており、親父並みに高く大きな体は筋肉に覆われている。
この男の名は黄寛。百人隊の隊長である。
「演習敗北の罰として、我々は街の外周を二十周することとなった!」
ざわざわと周囲が騒がしくなる。
罰の内容を聞き、視線だけを街の方に向ける。
大きな煉瓦の壁に覆われた街はとてつもなく広く、その外周を二十周ともなるとどれほどの体力がいるのか見当もつかない。
ざわついている隊員を見て、黄寛隊長のこめかみに血管が浮く。
「黙れぃ! 私語は厳禁だと言ったはずだ!」
隊長の一喝で兵士たちは背筋を伸ばし、口を閉ざす。
「貴様らが新兵とはいえ、負けは負け! 他の五つの隊でも同じ罰を受けるのだから黙って受け入れんかぃ!!」
負けた原因は李尋と李和にあるのだが、と社は内心毒づく。
話が終わったと思いきや、隊長の隣に立っていた男が隊長に耳打ちをする。
「それと行動が遅れた……張豊班!」
「はっ!」
張豊が返事をし、一歩前に出る。
「貴様らには他に罰がある! 外周終了後、着替えた後に兵舎前に集合せぃ!」
「はっ! 了解しました!」
「よし! 全員右向けぃ右っ!」
一拍目で右足を右に向け、二拍目で体ごとそちらを向く。
一糸乱れぬ行動に頷く黄寛。
「駆け足始めぃ!!」
赤く照らされる兵舎を背に、黄寛隊長を待つ張豊班。
汗を拭き、私服に着替えてはいるが、その顔には疲労の色が見える。
「二十周とか辛いんだなー」
「足腰、がたがたなんだなー」
「……誰のせいだと思ってやがる!」
李兄弟の愚痴に万修が怒る。
なんとか二十周は走り抜いたのだが、まともに動けそうなのは社と万修だけだった。とはいっても、万修の膝は小刻みに震えており、相当足腰にきているであろうことがわかる。
張豊も辛いらしく、隊長が来るまで休ませて欲しいと地面に座り込んでいる。
顔は青ざめ、伸ばしている足が小刻みに震えており、弱っているのが目に見えて明らかだ。
それからほんの少しだけ待っていると、兵舎の中から黄寛隊長が現れた。
それに気付いた張豊はよたよたと立ち上がり、整列の号令をかける。
「おう。思ったより早いじゃねぇか」
手には木の桶が五つある。それを全員に配る。中には雑巾が一枚。
これは、と弱々しい声で張豊が尋ねる。
「これから城内の厠の清掃をしてもらう。報告は明日でいいから、しっかりやってもらおうか」
報告を明日にするという事はつまり、今日終えるとしても相当時間がかかるということだ。これを察した張豊班の面々は、力なく返事をする。
そして城に向かおうとしたとき、社だけが呼び止められた。
「なんスか?」
その言葉使いに隊長は太い眉をぴくりと動かすが、それを注意することはない。
「貴様の髪の毛がちと長すぎると思ってな」
確かに士官してから髪を切ることはなく、ずっと伸ばしていたなと髪を掻く。
隊長は袖の下からハサミを取り出す。
「わしが格好良く切ってやろう」
並びの悪い歯を見せ、にかっと笑う。
その笑顔には嫌味などなく、本当にそう思っているから善意でやろうとしていることがわかる。
しかし、こんなおっさんが髪を切るのがうまい訳がない、と訝しむ社はこの申し出をやんわり断ろうとする。
「い、いや。大丈夫ッスから……」
「なに遠慮することはない。息子の髪を切っていたのは儂なんだからなぁ」
「いやホントに大丈夫――」
「いいからほれ、そこに座れぃ」
肩を掴まれ兵舎の長椅子のところに座らされる。
相手は隊長なので逆らうわけにはいかない。力ずくで、というわけにはいかないので、渋々だが応じることにした。
「……お願いします」
「はっはっはっは!任せろぃ!」
満月の光だけを頼りに、城の廊下を歩く社。
「やっと終わったぁ」
仕事を終えた開放感から体を伸ばす。
社と万修以外は外周のせいでバテバテだったので、動ける社と万修がその分多く掃除をしたのだ。
おそらく万修は先に掃除を終え、兵舎に戻っている。薄情だと思わなくもないが、疲労で他人に気がまわらないというのは仕方のないことだと思う。
さて、隊長に切られた髪の毛だが、坊主頭や角刈りではなく、若者らしい、短くツンツンとしたものとなっていた。
癖っ毛のおかげで少しお洒落に見える髪をいじりながら、意外とやるなぁ、と隊長のことを褒める。
社が中庭の通路を歩いていると、こちらに向かってくる人影が目に入る。
月の光が当たらないのではっきり見えないが、その影から女性で、髪が長いということと、自分よりも背が高いということがわかる。
もしかして周瑜様か、と思い身構える。身構えるといっても、背筋を伸ばし、きびきびと歩くということだけであるが。
そして自分の十歩ほど前まで近づいたところで、足を止める。
張豊から礼儀作法について最低限のことを習っていた社はその内容を思い起こすが、慣れていないせいで少しぎこちない礼をしてしまう。
それを見て、周瑜も足を止めた。
「あら、ちょうどいいところに」
聞こえた声は周瑜様のものではなかった。ではいったい誰が、と社はすぐさま頭を上げる。
そこにいたのは思いがけない人物だった。
「そ、孫策……様……?」
孫策伯符。呉の王、小覇王と称されるお方だ。
孫権様と同じ桃色の長髪。額には『華』を連想させる特徴的な模様。
手には酒瓶と盃が握られていた。
社の顔を見て、猫のように目を細める。
「ちょっとつきあいなさい」
「ふふふっ。それは災難だったわね」
可笑しそうに笑いながら盃を煽る孫策。
その前には縮こまる社の姿があった。
中庭の広場にある休憩所のようなところに座り、今日の出来事について語らされた社。
なぜ、このようなことになっているのかわからない社は、困惑しながらも孫策の話し相手を務めていた。
「それで今の時間までいたのね」
「ハイ。ソウデアリマス」
しかし、極度の緊張でまともに話せていない。
何か一つでも粗相をしてしまえば、社の首が、胴体と永遠の別れを告げることもありえるのだから。
その社の緊張を感じた孫策は、見るに耐えないといった風に頭を振り、飲み終えた盃に再び酒を注ぎ、突然こちらに突き出してきた。
「飲みなさい」
「お、俺……いや、私は酒を口にしたことがなくて……」
「いいから、ほら!」
強引に渡された盃を手にする。ここで飲まないのは不敬になるのかと考え込んでしまう。
チラッと孫策の顔を伺うと、頬杖をつき、ニコニコとこちらを眺めていた。
期待を裏切るのはまずい。
意を決し、盃に口を付け、勢い良く煽る。
「――かはぁ」
熱い息が漏れ、強い苦味と体が火照るのを感じる。
「おっ、いい飲みっぷり! もう一杯!」
「えっ!?」
盃に酒を注ぐ。
孫策という美女に酌をしてもらえば酒も進むだろう。しかし、それは酒が飲める大人に限って言えば、だ。
本人は否定するだろうが、社はまだ、酒も飲めない子供なのだ。
この苦い飲み物のどこがうまいのか、という状態である。
だが、自分の主の酒を断ってはいけないものだと思っている社は、再び酒を飲む。
「いいねいいね! どんどんいこー!」
それに気を良くしたのか、孫策は酒を注ぐのをやめない。
社も必死にその供応を受ける。
「あははははは!」
「うるせぇ! 笑うんじゃねぇ~!」
先程のやりとりからしばらくして、顔を真っ赤に染めた社と、大声で笑い転げる孫策という絵が出来上がっていた。
一応言っておくが、社の顔が赤く染まっているのは怒っているからというわけではない。
酔いでなにも考えられなくなり、無礼にも素の口調で話してしまっている社。
それを咎めることなく、むしろ楽しげに話し合う孫策。
「だ~か~らぁ~! 好きな娘とかいるんでしょ~?」
「いたらわりぃ~か!」
「ん~。あっ、なくなっちゃった」
空になった酒瓶を下に転がす。そこには既に十本程の瓶が転がっていた。
一本では足りないと思った孫策が、厨房に忍び込んで取ってきたのだ。
新しい瓶を開け、酒を飲み出す。
「っぷは! でぇ~どんな娘なのよ~? お姉さんに言ってみな~」
ふらふらと歩き、社の隣に座る。どうやら孫策も相当酔っているようだ。
カラカラと笑いながら、一方的に社と肩を組む。
「……あの方はなぁ」
盃を両手で持ち、ぽつりぽつりと語りだす。
その顔がにやけているのが見えた孫策は、それに耳を傾ける。
「あの方は……綺麗で、可愛くて、美しくて、胸おっきくて、髪が綺麗で――」
延々と外見のいいところだけを語る社に、痺れを切らした孫策は口を開こうとしたが、やめた。
社がぴたりと言葉を止めたからだ。
少しだけ待ってみるが、話さない。
「……どうしたの?」
孫策は社の顔をのぞき込む。
視線は盃に向けられているのに、どこか遠くを見る目をしていた。
「――目が合ったんだ」
空に浮かぶ満月を見上げて社が語りだす。
「青くて宝石みたいな瞳だった」
その顔は赤くても、目には理性が宿っていた。
「あんなにドキドキしたのは初めてでさ!」
子供のような笑みを浮かべ、言葉には喜びの感情が込められている。
「あぁ、俺はこの人のために生まれてきたんだなっていう。なんていうのかな……。――そう!」
孫策の手を振り払って、勢い良く立ち上がる。
「――運命だ! 運命を感じたんだよ!」
満月に向けて手を伸ばす。
口を閉ざし、辺りは深い静寂に包まれる。
社の視線を追うように、孫策も月を見上げる。
少しの間、虫の鳴き声に聞き入っていたが、社が再び語りだす。
「でも、遠いんだよ。すごく」
伸ばしていた手を中空にさまよわせて、しなだれるようにゆっくりと下ろした。
「すげぇ方だからさ、話しかけることもできない。あの月みたいなんだ。手を伸ばしても届かないって感じ……」
その瞳には涙が滲んでいた。
孫策からは見えないが、なんとなく、雰囲気でそう感じてしまった。
「……そう。そんなに好きなんだ。その娘のこと」
すっと立ち上がる孫策。
社は泣いているのを隠すために、孫策に背を向ける。
孫策は大きく手を振り上げ、社に向けて振り下ろす。
「おわぁ!?」
スパーンという快音とともに社が声を上げる。
孫策が社の背を叩いたのだ。
昼間の疲労と酔いのせいで足に力が入っていなかった社は、簡単に転んでしまった。
「なにをッ――」
「悩める少年にお姉さんが助言をしてあげよう」
立つこともできないくらい酔っている社は、なんとか体を仰向けにして顔を孫策に向ける。
仰向けに寝っ転がる社に向け、得意げな顔で語りだす。
「色々と考えすぎなのよ。君は」
しゃがみこんで社と視線を合わせる。
艶やかな太ももの間から下着が見えそうだが、社の視線は孫策の瞳に吸い寄せられていた。
青く綺麗な、あの方と同じ瞳。
「考えるよりも行動しなさい! やってやれないことはないんだから!」
慈しみの笑顔を社に向ける。
「――君。名前は?」
突然名前を聞かれた社は反射的に答える。
「……太史慈。字は子義」
独り言のような小さな声だが、それを聞き取った孫策は満足げに頷く。
「うん、いい名前ね。じゃあ子義。貴方の恋が実ることを祈っているわ」
またね、と手を振りながら遠ざかっていく孫策。
それを上半身だけを起こして見送る。
一人中庭に残った社が、鈍い思考で思い至ったことが二つ。
一つ。これは今までの行動についてだが。
「なんで孫策様と酒を飲んでいたんだ……?」
班の皆に言っても、嘘だと言われるのだろうなと考える。
そして二つ目。
「……この瓶の片付けって俺がやるのか」
周囲に散らばった酒瓶を眺めながら一人ごちる。
動けるようになってから瓶を片付けようとするが、どこに持っていけばいいのかわからなかったので、中庭の隅に目立たないように置いてその場を後にした。
翌日、孫策は周瑜にこっぴどく叱られ、その日の書類仕事が倍近くになってしまったことを、社は知らない。