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美味しい浅蜊と怖い鷹

作者: 尻毛生子

 私は突然あさりのガーリックオイル蒸しが食べたくなって家を出た。数日前近所のファミリーレストランで食べたあさりのガーリックオイル蒸しは、ファミリーレストランで出てくる料理に必要以上の期待をしてはいけないという私の偏見をはるかに裏切っていた。にんにくの香りのする透明なスープがひらいた貝の実にほどよく染み通り、貝たちは海水に浸かっているときのように生き生きとして見えた。

 料理が運ばれてきたとき私は新聞の一面記事をテーブルに広げ、わりと熱心に目を通していた。記事は若い女性を狙った連続強姦、殺人事件を扱ったものだったと思う。殺人の手口屋が凶器が同じであったため、一連の犯行は同一犯によるものと断定されたようだ。

 被害者は今のところ全部で四人おり、一人は途中で逃れて何とか警察に駆け込み、一人は抵抗もできずに刃物で首を切られて殺され、一人は複数の箇所を切りつけられたものの発見が早く一命を取りとめたということだ。

 最後の一人がどうなったのかはわからない。店員が料理を運んできたので、慌ててテーブルを占領していた新聞を片づけた。

 私は凶悪な事件を聞くとその状況を頭の中に描かずにはいられないのだが、あさりのガーリックオイル蒸しはそんな記事を読んだ後でもとにかくおいしかった。もしかしたらその日朝から何も食べていなかったことや、外が息の凍るくらい寒くて体が温かな料理を求めていたことも、あさりのおいしさに大いに貢献したかもしれない。しかし特別の好物でもないあさりがあんなにおいしく感じられたからには、あのあさりたちには何か特別なものがあったのだ。

 私は家の鍵を閉めながら、あさりの実が殻からぺろりとはがれるところを想像してみた。フォークの先を貝の実と殻の間につき立てると、彼らはいとも簡単に殻を離れ、こちらに身を任せてくる。貝柱だけはしつこく残るので、実を食べ終わったあとでフォークでそぎ落としてそれも食べる。最後に殻をそっとつまみ、わずかにたまっているスープを厳かにすする。意地汚く見えてしまわないように、おごそかにというところに意識をおかなくてはいけない。それでも店員がテーブルの前を通る時はスープをすするのをぐっと我慢する。自分がそんなにあさりに夢中になっているのを誰かに見られるのは、恥ずかしかったからだ。その間にもあさりのおいしさは舌や喉やテーブルのあたりを漂い続ける。

 私はそんな至福の回想を現実のものとするべく、ジーパンのポケットに財布が入っていることを確認して歩きだそうとした。

 しかし家の前の通りは、空間のひずみに巻き込まれたとでもいうように荒れ果て、道のあちこちにあらゆる混乱の跡が刻み込まれていた。地面を多い尽くす大量の葉っぱ、どこからか吹き飛ばされてきた風俗のポスター、骨の折れたビニール傘。道沿いの植え込みの木の太い枝が何本も折れ、床にこぼされたお菓子のような気軽さで、重なり合いながら地面を埋め尽くしている。

 そういえば昨夜はひどい嵐が来るとテレビで言っていた。もっとも私は早々と眠ってしまったから、嵐の到来を予告するキャスターの強張った顔と今夜は外に出ないようにという再三の注意を聞いただけで、風のうなりや木の折れる音は耳にしていない。昨夜は洗ったばかりの布団が気持ち良くて、いつになく深く眠り込んでいた。

 朝起きて窓から見る空はきれいに晴れ上がり、少し前に嵐がきたとはとても思えない柔らかな陽光が、窓辺の埃をあたためていた。それから黒い塊のようなものが点々と空に散っていた。目を凝らすと、左右にまっすぐ翼を広げた巨大な鳥だった。人食い鷲だ。普段ここらへんで見かけることはないが、嵐や台風のあとはどこからか流されてきて、太陽を背に旋回を繰り返す。小さい頃母親に小うるさく、風の強く吹いた次の日は人食い鷲が出るから外に出てはいけないと言い聞かされたものだった。

 通りに点在する黒い水たまりを数えながら、私は前に進むことを躊躇した。どこからやってきたのかわからない砂や泥がまざりあって、水たまりは墨汁のように隙のない黒色をしていた。私は立ちつくしたまま、おろしたての白いスニーカーを眺めた。

「お姉さん、お困りですか」

 靴を見ていた私の隣に、身長一五〇センチくらいの小男が立った。彼は小さな黒目をうろつかせて、臆病な小動物のように私を見上げた。彼より一〇センチほど視線の高い私には男の頭部がまじまじと眺められた。髪の毛は枯れ残った草のようにところどころにあるばかりで、色白の地肌がやけにまぶしい。

「昨夜はずいぶんひどい嵐でしたからね。今日は町のどこもこんな感じでしょう。私も長靴を履いてはいますが、この通り、倒れた木につまずいたり底なしみずたまりにはまったりして傷だらけ。腰まで泥んこです」

 私は突然話しかけてきた見知らぬ禿げ男に、少しだけ同情の眼差しを向けた。

「底なし水たまりのことは知っていますか」

「いえ」

「大きな嵐のあとにできる水たまりのことです。といっても水というよりほとんど泥で、小さな底なし沼といった感じですが。入ってしまうとどこまでも沈んで、出てこられなくなります。私はうまく抜けるコツをつかんでいるのでなんとかなりましたが。この町はどうも底なし水たまりができやすいようです。色が真っ黒で、太陽の光も映さないようなやつは要注意です」

「そうなんですか。それじゃ今日はどこも歩けませんね」

「はい。そこで私は道を売り歩いているわけです。どうです、おひとついかがでしょう。一番安いものでしたら三百円からお求めいただけるんですが」

「なるほど。道売りの方でしたか」

 道売りを見るのははじめてだった。道売りはもっと田舎や人の少ない奥まったところにいるものだと思っていた。

 道売りは背中に大きな籠を背負い、その中にはたくさんの絨毯のような物がぎっしり丸めて詰められていた。それが彼の売る道なのだろう。籠は男の背中に収まりきらないほどの大きさで、道売りは籠を背負っているというより、籠についた小さな付属品のように見えた。おもちゃのおまけのついた子供向けの菓子の主役が、しばしばおもちゃにすり替えられているのと同じような風だ。

「お洋服が泥だらけですけど、自分のために道を使ったりはしないんですか」

「はい、大切な商品ですからね。それに私は底なし水たまりには慣れておりますから。ええ、でも、底なしみずたまりは大変危険なものです。道が売れるように言っているのではありません。もしご用事が次の機会でも良いものなら、今日は外出なさらないほうがよろしいくらいです」

「いや、今日はどうしても出掛けたいんです。持ち合わせはあまりないんだけど、その三百円の道というのはどういうものかしら」

 私はあさりのガーリックオイル蒸しのことを思いながら尋ねた。滅多にない機会だから、道売りから道を買ってみるのもいいかもしれない。底なし水たまりは怖いが、私の心はすっかりあさりのガーリックオイル蒸しが食べたいという一念に支配されてしまっているのだ。今さら抑え込んだり次回に持ち越したりすることはできない。

「なんせ低価格なもので歩き心地が特別快適ということはございませんが、丈夫なスニーカーで歩く分には不自由ないでしょう。おでかけ先は遠いのですか」

 道売りは服についた乾いてしまった泥を払い落しながら言った。

「いいえ。ここから十分程のところのレストランです。食事をして、帰ってくるだけです」

「ええ、ええ。でしたら問題ありません。安い道は何度も往復するとすぐに傷んでしまいますが、そんなこともないでしょう」

「道はどのくらいもつものなんですか」

「三百円だと三日くらいですかね。大体一日百円くらいにできてます。底なし水たまりは三日もあれば干上がってしまいますよ。その間お天気が良かったらという話ですが」

 道売りの足元には乾ききった泥のかけらが群がるように落ちていた。

 私は道売りに三百円を払い、道売りは古いコートのポケットに百円硬貨を一枚一枚愛おしむようにしまった。それから背の籠を地面に置いて、詰め込まれた道のひとつをひっぱり出した。彼は絨毯型の道の両端をしっかりと掴み、禿げた頭のほうに勢いおく振り上げた。丸められていた道は鮮やかにほぐれて、荒れ果てた地面の上にまっすぐ伸びた。道が伸びるのに際限はなく、私は道売りが手を離して道の始めの両端を慎重に地面に下ろしてしまうまで、目を丸めてその光景に見入っていた。

 私は道売りに礼を言って、「お気をつけて行ってらっしゃい」という彼の言葉を聞き終わらないうちに出発した。新しく敷いた道と水たまりで濁った地面の境目は、うまく馴染んでほとんどわからなかった。新しい道は水たまりや吹き飛ばされてきたゴミがないだけで、見た目に美しく舗装されているわけではない。ところどころに小指の爪ほどの小石が転がっているが、三百円という値段を考えればまあ上等だろう。道をはずれなければ底なし水たまりにはまることもない。

 とにかく私はあさりの肉汁の想像を夢のように巡らせていて、一歩一歩と自分が足を動かすのもぼんやりとして幻を歩くようだった。一瞬背後で叫ぶような人の声が聞こえた気がしたが、そんなものは耳の浅いところをかすめるばかりだった。



 レストランに到着すると私はメニューも見ずに席に案内した店員を引きとめ、あさりのガーリックオイル蒸しを注文した。まったくとり憑かれたように私はあさりのガーリックオイル蒸しが食べたかった。朝食を取ってからさほど時間は経っていないが、レストランの重いガラスの戸に触れた途端、痛むような空腹がやってきた。

 それはあさりのガーリックオイル蒸しのための空腹だった。ラーメンや牛丼やカツカレーなんかを何杯食べてみたとしても満たされるものではない。複雑な鍵穴に合う鍵がひとつしかないように、あさりのガーリックオイル蒸しを待望する空腹はあさりのガーリックオイル蒸しを食べることでしか解消されない。

 一秒一秒時を数えるように椅子の上で待ち続け、いよいよ私の期待の全てを乗せたあさりたちがやってきた。

 白い皿の縁を軽く撫でて、皿が自分の胸のまっすぐ正面にくるようにずらす。香ばしい香りをのせた湯気を、体に染み込ませるように吸う。万が一にでも手を滑らせたりすることがないよう、慎重にフォークを持ちあげた。そしてお気に入りの服を大切に畳んでタンスにしまう時のような丁寧な気持ちで、あさりの身を刺した。

 私は一粒一粒のあさりに対して愛情を感じていた。フォークに貫かれたあさりの色艶をじっくりと眺めた。下唇に触れる貝の温度は調理によるものというより、生き物の体温のように生々しかった。

 私はいくらこの食事の瞬間を待ちわびていたからといって、餌を与えられた空腹の犬のように勇んで食べ物を口に運んだり、ろくすっぽ咀嚼せずに胃に送り込んだりすることはしなかった。確かに私の胃は激しくあさりたちがやってくるのを待ち望んでいたけれど、私の舌はあさりたちが喉の奥へ消え去ってしまうのを痛切に惜しんだ。私は上下の歯を幾度となく噛み合わせて、あさりたちが全く形を失ってしまうまでしつこく咀嚼した。長く噛んでいると調味料の味は次第に後退していき、純粋なあさりの味だけが残った。私はどこかの海辺の音を聞いた。



 すっかり満足した私が家まで戻ってみると、そこには無数の鳥の羽が散らばっていた。二十センチ以上はあろうかという大きな灰色の羽だ。そしてその羽にまざって、泥まみれで元の色のわからない二足の靴が落ち、道売りの籠が倒れていた。隙間なく詰め込まれていた絨毯状の道は半分以上が外に出てしまっていた。あたりには人通りもなく、道売りも姿を消していた。

 そうしているうちに私はやっと気付いて慌てて家の中に入った。玄関のドアノブに触れるまで数歩走っただけなのに、服の内側にはじっとりと重い汗がにじんだ。

 私はすぐに鍵をかけ、扉の前で哀れな道売りに黙祷を捧げた。彼は人食い鷹にとられたのだ。話には聞いていたし嵐の後に空高く飛ぶ鷹たちを見ることはたびたびあったが、まさかこんなにも自分の近くに現れることがあるとは思ってもみなかった。

 祈りの間頭をうなだれながらも、私の舌は先ほど食べたあさりを思い出していた。私の鼻は、服や体の奥からあさり料理の素晴らしい匂いが漂ってこないかしきりに探しまわっている。私は不動の姿勢を保っていたが、味覚と嗅覚は意思とは無関係にあさりたちの

記憶を引きずり出して、私の目の前にばらまいた。

 黙祷を終えた頃には、私は次はいつあさりのガーリックオイル蒸しを食べに行こうかという考えでいっぱいになっていた。

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