白い朝
1 白い朝
変な夢を見てしまった。まだ幼い俺と若い頃の父親が、近所の公園で遊んでいて、もうそろそろ帰ろうって家に帰ったら、素っ裸の母親と、同じく素っ裸の見知らぬ男が一緒に寝ていたって夢。……ああ、でもこれ実話だった。これが原因でうちの両親は離婚したんだっけ。幼い頃の記憶をそのまま夢で見るなんて、とても胸クソ悪い体験だと思った。母親の浮気現場を目撃してしまった事よりも、その情景を今さら夢で見てしまう事の方が、よっぽどタチが悪い気がするのはなぜだろう。もう、ずっと昔の事なのに。
最悪な夢を見たおかげで、げんなりした気分の朝だ。ゆっくりと首だけ反らして頭上の目覚まし時計を見ると、なかなかキワドイ時刻がデジタル表示されていた。
このままでは遅刻する……。そう思ってもだるくて動けず、諦めの気持ちがみるみる押し寄せてよけいに身体を重くさせる。砂に埋もれていくみたいに。どうせ今から急いだって間に合わない。遅刻は決定だ。
だから「遅刻しそうなので急ぐ」だなんて、今の俺には全く無意味な行動。無意味なのに頑張るだなんて、俺にはできない。人生には、最初から決まっていて頑張っても変えられないものが山ほどあるんだ。今日の俺が遅刻するのもきっと最初から決まっていた事。ならば俺に変える術はない。
母親が浮気した事も、その現場に俺と父親が出くわしてしまった事も、そのあと両親が離婚した事も同じ。最初から決まっていた、変えられない事だったのだ。
ため息を、一つ。それは俺の口から出た後、ほんの数秒だけ白い煙になってすぐ消えた。室内なのに息が白くなるなんて。どうりでさっきから寒いと思っていたら、暖房がついていないせいだった。目覚まし時計もそうだが、エアコンもタイマーをセットし忘れていた。昔の人が悪戦苦闘した末に生み出した、生活上便利な機械。それを現代人の俺はろくに感謝もせず便利なのは当たり前みたいに生活し、タイマーをセットし忘れるという失態を「機械も結局、人間の手が加えられないとダメなんじゃねえかよ」と非難して責任転嫁している。
布団の中からそっと手を出し腕を伸ばして、そばのテーブルの上に置いてあったリモコンの電源を押す。ピッという音がして、下した命令を受けたエアコン本体が、ゴゴゴゴッと唸ってご主人様の俺に暖かい風を送るべく働き出した。
部屋が暖かくなるまで時間がかかる。このエアコンは相当古いのだ。暖かくならないと、布団から出ていく気なんてさらさら起きない。部屋が暖まるまで待つが、それまで何をしていようか。二度寝しようにも、さっき変な夢を見たから妙に目が冴えてしまった。
俺は首を傾けて、テーブルの上を見た。エアコンのリモコン、テレビとDVDのリモコン、ビールの空き缶が数本、読みかけの雑誌、吸殻が山盛り積まれた灰皿、ライター、そしてまだ中身が残っている煙草の箱があった。俺はさっき、ため息が白くなったのを思い出し、再び手を伸ばして煙草を一本取り火をつけた。ジュッという音と共に、くわえた煙草の先端が燃え始める。味が広がる。べつに苦くはないが、うまいのかどうかはわからない。ただの暇つぶし。若さ故の好奇心というのも昔はあったかもしれないが、今は何となく、癖で吸っている。
肺に入れた煙を吐き出した。今度の白い煙は、やはりさっきのため息なんかと比べ物にならないくらい、ふわっと高く天井へと上ってしばらく漂っていたが、エアコンの弱々しい風にあっけなく溶かされた。
と、そこで隣で寝ていた世津子がもぞもぞと動いた。寝返りを打ってこちらに顔を向けると、おはようも言わずに文句をぶつけてきた。
「ねえ、ベッドで煙草吸わないでって言ってるでしょ。灰が落ちるから」
眠くて目を細めているつもりかもしれないが、世津子の腫れぼったい一重まぶたは、なぜか見ているといらいらする時がある。
「はいはい、ごめんなさい」
不本意だが、仕方なく煙草を灰皿に押し付けて火を消す。布団に深く潜り、世津子に抱きついた。温かくて、ぷよぷよと柔らかくて、甘い香りのする世津子。顔さえ見なければ、最高の抱き枕だ。少しくすぐってやると、世津子は高い声で笑い出した。
「いいから、早く学校行きなさいよ」
身をよじりながら逃げる世津子。でもその突き放した態度と台詞に、自分一人がふざけているみたいで馬鹿らしくなった。
「わかったよ」
まだ肌寒い部屋で、布団から器用に腕や脚を伸ばしながら、床に脱ぎ散らかしてあった制服を着た。
ここに辿り着くまでに、一体何度の白いため息をついた事だろう。どんよりとした曇り空までもが、俺の気持ちや足取りをより重たくする。学校に行きたくない。
それでも来てしまったという矛盾。俺のせいじゃない。社会の問題だ。若者は学校へ行きましょう、という誰かが勝手に決めたルール。俺はその被害者の一人だ。
それに、確かこの時間帯は、とポケットの中から携帯電話を取り出し時刻を見る。やっぱり、「魔」の時間帯だ。絶対にいる。奴らがいる。俺はそっと学校のそばの曲がり角から、校門周辺を覗いた。
いた。奴らだ。「遅刻撲滅委員会」。
遅刻撲滅委員会、略して「チコボク」とは、その名の通り遅刻者をゼロにしようともくろむ、世にも奇妙な団体だ。八時二十分から八時三十分までの時間帯にやって来た生徒を遅刻と見なすのだが、その時間帯に毎朝校門の前に並び、遅刻者の名前をチェック表に書き込む。それがチコボクの仕事だ。
俺はよく疑問に思う。そんな、遅刻者をチェックするなんて事をしているだけで、果たして遅刻を撲滅できるのだろうか、と。無理だろう。たかが遅刻だ。それを人の揚げ足取るみたいにして、一体何が楽しいのだろう。
それに、遅刻とは定時までに来なかった者の事を言うのであって、登校時間内であるはずの八時二十分から八時三十分に遅刻と判断するのは間違っている。未遂なのだから。しかも、細かい事を言えば、チコボクのメンバーだってこの時間帯に教室にいないのだから、結果として同罪だ。
チコボクを嫌がって、あえて奴らが解散した時間帯に来る生徒もいる。しかし、奴らがいないからといって、遅刻が免除されるわけではない。そこは抜かりなく、一限目の授業を受け持っていない教師が残り、遅れてきた生徒をチェックする。
だから、もう諦めるしかないのだ。八時二十分を過ぎたら。どうせ罰を受けるなら、早めがいいと俺は考える。
意を決し、曲がり角を出て校門まで歩き出す。近づくにつれ、奴らの視線が俺に集まるのがわかる。
「よう、日向」
声を掛けてきたのは、以前チコボクの委員長だった、三宅という三年生の男だ。
「おはようございます」
「今日も遅刻だな」
丁寧な俺の挨拶を無視し、三宅は銀縁メガネの奥の瞳を、嬉しそうに輝かせている。本当に性格の悪い奴だ。こいつは俺が遅刻するのが面白くて仕方ないに違いない。だから、もうチコボクの委員長じゃないのに、こうやってボランティアで校門の前に立っているのだ。三年生だから、この時期はもうほとんど授業はないのに、わざわざ俺の遅刻を見るために学校へ来ているかのようだ。ガリ勉の三宅だから、もう早くに推薦で大学が決まったらしいし、きっと暇なのだろうけれども。
権力を握っている者によるイジメ、とはまさにこの事なんじゃないかと思う。
「翠ちゃん」
三宅は次に、そばにいた女子生徒に声を掛けた。
「一年B組、日向青葉をチェック。また遅刻だ」
振り向いた女子生徒は三宅を見て、そして俺に視線を移した。
「わかりました」
うなずくと、腕に抱えていたチェック表に素早く書き込みを入れた。
何が、翠ちゃん、だよ。気持ち悪い。
倉橋翠。俺はこいつも知っている。倉橋は現在のチコボク委員長で、前に俺と同じクラスだった。俺は、どうにもこいつに好印象を持てない。
すべてを突き放しているように見えるんだ。落ち着きすぎて逆に冷たく思える態度とか、化粧もせず長い髪を後ろに束ねただけの洒落っ気のなさとか。三宅に負けないくらい勉強はできるみたいだけど、女子高生を楽しむ事はできないみたいだ。
「何か、言いたい事でもあるの」
倉橋の声でふと我に返った。迷惑そうに、眉をひそめている。その時初めて、自分が倉橋を無意識に見つめていた事に気付いた。
「何でもない」
俺はそう言って、身体の向きを変えて校舎へと向かった。