表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少年は幻想の夢を見るか?  作者: 門間円
第二章・フェミュルシア
9/16

~第四部・旅路~

馬車は全部で3台の構成で、縦に並んで自然と作られたであろう、踏み固められた道を行く。

親方の話によると、タンリの村から2~3日程度でグレンディ城砦国に入るらしい。

前を走る馬車の荷台に春が目を向ければ、護衛に雇われた冒険者が武器の手入れをしている様子が見えた。

「本当にいいんですか?」

手綱を握る親方に、荷台から顔だけ出して春が尋ねる。

「何がだ?」

振り返らないままに問い返す親方に、春は前方を指差して

「冒険者の方だけに警戒を任せてしまっても大丈夫なんでしょうか。何だったら、僕とウルもお手伝いしますけど」

既に3度目にもなる提案を持ちかける。

すると、親方はまたその事かと笑って片手を手綱から離してひらひらと振る。

「いいんだよ。あいつらはアレが仕事なんだ。それに、ハルっつったか。お前はまだ子供なんだから、そんな心配はしなくていい」

景色を見るように出した頭を押さえつけるようにやや乱暴にわしわしと撫でながら言う親方に

「これでも17歳なんですけどね」

苦笑しながら手から逃れるように頭を引いて言う。

「17はまだまだ子供だ。エルフっつーならなおさらだろ」

「ええ。まぁ……」

適当に相槌を打ちつつ、リックから予め耳打ちされていた事を思い出す。

龍人という種は、物凄い稀少度を誇る種族らしく、滅多に人前には出てこないそうで、一般的に魔術を行使していても違和感の無いエルフを名乗るのが妥当だろうという事になったのだった。

「ちっとばかし魔術が使えるからって、そんな細っこい腕に任せるほどあいつらも弱くねぇはずだぜ」

「……そう、ですか」

細っこい。という物言いに他意はないのだろうが、春としてはどうしても、自分はそんなにひ弱そうに見えてしまうのかと地味に頭を抱えてしまう。

「暇かい?」

そんな春の心境など知る由もなく、親方が笑いながら問いかける。

「僕が、というよりは、ウルが。ですけどね」

先ほどまでは自分の尻尾を追い回す遊びに興じていたウルだったが、それも数分もすれば飽きてしまうようで、今は外に出られないかとちょこちょこと歩き回っては、相乗りをしているほかの客に奇異の目で見られていた。

「そら乗ってるだけだとウルフは退屈だろうな」

「ハルにいちゃーん!ひーまー!」

「ほら、ウルフが呼んでるんじゃないのか?」

春以外の耳にはただ吠えているようにしか聞こえないウルの声を適当に言ったのだろうが、ぴたりと意訳した親方の言葉に、春は思わず笑ってしまう。

「そうですね。ちょっと見てきます」

「おう」

軽く答える親方は手を振ってそれに答え、春もまた荷台の中へ戻ってゆく。

屋根の所為で仄暗く、昼間という事もあって明かりもない荷台の中、ウルは退屈そうに身体を丸めて尻尾を床にぺしぺしと叩きつけては不服そうに春を見ていた。

「暇って、まだ出発して1日もたってないよ」

「でも、暇なものはひまー。ねー。外走ってきちゃだめー?」

『龍化したら皆が驚くでしょ?』

「えー。あっちにならなくても空と飛べるよ?」

「え?」

僅かに風を感じて、春は思い至る。

「……ああ。そっか」

ウルの飛翔能力はそもそも龍化とは関係のない、シルフとの契約の恩恵だった。

だからウルが空を飛ぶ事自体に姿は余り関係がないのだ。が……

「ウル……それじゃあ普通のウルフのふりをする意味がないじゃないか」

風をまとってふわりと春の頭の上に飛び乗ったウルを困り顔で引き剥がしながら春が言う。

「でも、ちょっとくらいいいじゃん!」

春の腕のなかでウルが不貞腐れて言う。人間の子供だったなら、頬を膨らませている姿が容易に想像がつく。

しかし、あくまでウルは外見上は紛う事なきウルフであり、本来ウルフは空を飛ばない。

先ほどからそこらじゅうを走り回っていたおかげで既に同乗している商人や旅行者などから奇異の目が集中してしまっている。

「はいはい。もう見られちゃってるし、仕方ない仕方ない」

周囲の視線が突き刺さる中、これはもうごまかしようがないと判断し、改めてウルを放してやる。

「やったー!」

春の許しを得たことで、気兼ねなく風をまとって春の周りを三次元的に駆け回るウルに、春は小さくため息をつく。

「でもまぁ、僕のわがままに付き合わせるわけにも行かないか」

考えてみれば、ウルがそれらしく振舞う事は、すでに純然たるウルフではなくなってしまったウルにとっては息苦しいものなのかも知れない。

「ハル兄ちゃん、何か言ったー?」

「ううん。なんでもないよ」

春の肩にとまり、春の頬に自身の頬を摺り寄せながら言うウル。

時折揺れる足場のお陰で落ちそうになるウルを支え、これからはもっとウルに気を使おうと思いなおす春に

「それよりもさ!ハル兄ちゃん、ボク、外散歩してきたい!」

耳元できんきんと響くウルの声が春の鼓膜に突き刺さり、思わず耳を塞ぐ為に手を離しそうになるのを我慢しながら、春は再び荷台から親方の居る前座部に顔を出す。

「うーん……親方さん」

「うん?どうかしたか?」

振り返らないままに応える親方に、春は先ほどから無茶な事ばかり言って困らせて居る罪悪感を感じつつ

「ウルが散歩がしたいみたいなので、少しだけ外へ出ても大丈夫ですか?」

頭の中で、散歩から帰ってくるための合流方法を思案しつつ提案する。

「散歩だぁ?何言ってるんだよ。お前らだけが客じゃないんだ、一度降りたら追いつけねぇぞ」

真に受けている様子のない親方の相槌を聞きながら、春は既にいくつか浮かんだ案を整理する。

まず最初に浮かんだのは《ポイントテレポーション》を魔法陣として馬車の床に残して出かける方法。

これならば何処にいようとこの場所に帰ってくることが出来るが、これではウルの事は言えない。

転移の魔法というのは一般で扱うには難しいらしい。

そう考えると、春が人前で扱える魔法というのも限られてくるのかもしれない。

続いて頭に浮かんだのは、予めキャンプ場所を聞いておく方法だ。

元々2、3日掛かるという話だったから、これならば日暮れまでに追いついて合流する事も可能だ。

「ああ、それでしたら、たぶん場所さえ分かれば追いつけると思いますよ」

後はどう説明した物かと考えつつ提案する春に、呆れたように親方が振り返る。

「……この先はずっと大きい森林地帯が続いててな。基本的に一本道だから迷う事はないはずだが」

「森林地帯の一本道ですね」

「途中開けた場所がいくつかあるんだが、俺達みたいな旅行者が寄り合ってキャンプを張ってるから、明日の朝までにそこに追い付ければ拾ってやれるかもな」

「無理ばかり言ってしまってすみません」

軽口を言うように笑う親方に、春が頭を下げて応える。

その後ろから、ひょこっと顔を出したウルが待ちきれずに

「ハル兄ちゃん!聞いた?じゃあ行こう、すぐ行こうっ!今すぐ行こう!!」

「あ、こら、ウルっ!」

ぐんっと身体を引っ張られる感覚と、視界が高速でぶれる衝撃。

春は一瞬だけ身を強張らせるも、ウルが自分の服をくわえて空高くに駆け上がったのだと知ると、抗議する様に言う。

「散歩だ散歩ー!」

しかし、そんな春の怒りも空しく開けた一面の碧い景色に木霊して風に飲まれて消えてゆく。

「――まったく……あまり人前でこの姿になっちゃだめって言ったじゃないか」

ウルの背に跨りなおしながら、過ぎてしまったことを諦め混じりに窘めると、ウルは風を気持ち良さそうに全身で受けながら頭だけを春に向けて応える。

「えー。ダメだった?空飛ぶのは良いんでしょ?」

「ああ……もう。まぁ、たしかにこの姿のウルに乗ってなきゃ馬車には追いつけそうにないけどね」

「でしょでしょ!?」

「今回は、たぶん一瞬過ぎて誰も見えてないと思うけど、次からはダメだからね?」

「はぁーい」

しぶしぶと言った様子でウルが頷いたのを見て、春は柔らかく微笑んで提案する。

「その代わり、人が居ない所だったら散歩も付き合うからさ。我慢できる?」

「分かった。我慢する」

「いい子だね」

「えへへー」

ウルの気が済むまで散歩に興じるのも悪くないと思い始めた春が視線を下に向ける。

一面に広がる森林地帯の中、まるで蛇のようにうねりながらも途切れる事無く道が一筋、遥か先まで続いていた。

暫くの間、キャラバンから離れすぎないように上空を旋回するように散歩していると

「――ハル兄ちゃん。あれ、なんだろう?」

ウルがフンフンと鼻を鳴らして道の先を示した。

春も促されてそちらへ視線を向けるが、何処を指しているか分からずに眼下に広がる森を見渡しながら首をかしげる。

「えっと、何処の事かな……」

『ハル。大きめの木が数本並んでいる場所の道の両脇だ』

「シンク!?――道の……あれは、ゴブリン?」

「そうみたい。あんな所で何やってるんだろー?」

『おそらく人通りも多いこの場所で強盗を働くつもりだろう』

「彼らにも何か事情があるのかな?」

『さぁ。ただ、ゴブリン達は元々人に良い感情を持っていない。特に理由は無いのかもしれないよ』

「……このまま行くと、親方さん達のキャラバンが襲われる事になりそうだね」

「倒しちゃう?」

「……馬車に戻って親方さんに一応報告しておこうか。もしかしたら迂回路を通れるかもしれない」

「わかったー」

『ハル。そこまで戦いを忌避する必要は無いよ。彼らだって命のやり取りの中で生きているのだから』

『……そう、なのかな』

『命の尊さを忘れないハルの優しさは大事にして欲しい。けれど、ハル達の事を心配する者がいる事も覚えていてくれないかい?』

『……そうだね』

「ハル兄ちゃんー。もうそろそろ着くけど、どうしよう?」

「――ああ。じゃあ、ウルは小さくなってね。僕が魔法で降下するから」

「わかったよー」

――ふわり。と、春の体が一瞬だけ宙を浮く浮遊感に包まれ、頭の上にウルが収まると同時に重力に引かれて地へと吸い込まれるように落ちはじめる。

「きゃっほーっ!」

「こらこら、あまり揺らさないでね」

真下から吹き付けるような風に気持ち良さそうにはしゃぐウルを窘め、春は大気のマナを操って速度を緩やかに落としてゆく。

「むー」

「親方さん!」

飛び込むように親方の居る真ん中の馬車に戻って春が声を張り上げる。

そんな春の帰還を親方が驚き、一瞬手綱がブレて馬が嘶いた。

「――うぉ!?どっから降って来た!!!」

「そんな事よりも、前方の大きな木の地点で、ゴブリン達が待ち伏せをしています。このまま進めば襲撃を受けます。迂回路はありませんか?」

親方の文句を遮って要件を告げると、親方はすぐに事態を飲み込んだようで、怪訝な顔をしつつも春に報告を促した。

「ゴブリンだぁ?数は。どれくらいの規模だ?」

「あ、それは――」

急いで戻ってきた為、ちらりとしか確認をしていなかった。

数と聞かれ、漸く思い至った春が言葉に詰まる。

「たぶんだけど20くらいじゃない?」

思わぬところから出された助け舟に、春は素で声に出してウルに尋ねてしまう。

「ウル、数えてたの?」

「うん。何してるのかなーって気になったときに」

「……20くらいだそうです」

ウルフと自然に会話をしている春に親方が怪訝な視線を向けてると、前方の馬車の荷台から声がかかる。

「おいおい。たかがゴブリンだろ。迂回する必要なんてねぇよ。俺達に任せときな」

そちらに目を向ければ、出発時に護衛を受け持つといっていた冒険者の一人、腰に下げた剣から察するに、剣士だろう男が荷台から顔を出していた。

「――発見したのは僕たちです。僕達も手伝います」

「おいおい。盗賊一人仕留めたくらいで粋がるなよ。ガキは中で座って待ってな」

春の提案を冗談としか思っていないのだろう。剣士風の男が手で追い払うようなジェスチャーをしながらカカッと笑って言う。

「……では、中央の車両は僕が守ります。おそらく奇襲は左右からになると思います」

「ああ。俺達は前後の馬車からゴブリンを迎撃する」

真剣な表情の春に気おされたのか、表情を引き締めて男は荷台の中に消えてゆく。

「お手本発見かなー?」

頭の上のウルが無邪気に笑う。

「お手並み拝見のこと?」

「んっと、んっと。そう!それ!」

やんわりと訂正する春に、ウルは何度も頷いて尻尾を振る。

「無理に難しい言葉は使わなくても大丈夫だよ」

「そうするー」

照れ笑いを浮かべながらウルが応えていると、荷台からマイカがおずおずと顔を出した。

「あ、あの……一体何が……」

「ご心配なさらずに。皆さん、一箇所に集まってください。これから戦闘が起こります」

荷台に戻りながら、同乗者全員に聞こえるように春が声を張る。

春の言葉がざわめきを呼び、落ち着きがなくなった人々を一喝する様に春が補足するように言う。

「冒険者の皆さんが守ってくれますよ。念のため、一箇所に集まって置いてください。お願いします」

どうやら納得してくれたようで、人々は戸惑いながらも春の指示に従って一箇所に寄り添う様に集まってゆく。

「ウル、外の様子はどう?」

同乗者の状況を見回しながら、春が小さくウルに問いかける。

ウルも、耳をピクピクと動かして外の様子を窺っていたようで、ピンと耳が立つと、尻尾まで全身を硬直させて

「そろそろ始まるかもー」

と、言葉だけはいつも通りだが、やや落ち着きをなくしたような調子で答えた。

「きたぞー!」

先頭の車両から、先ほどの剣士風の男の怒号が聞こえる。

それと同時に、ガクンと馬車が急停止した衝撃と、馬車を引く馬達の悲鳴が聞こえてくた。

直後から前後左右で剣戟の音や、魔術らしい爆音が響き始める。

肩を寄せ合って震える乗客達を一瞥し、春は静かに目を閉じてマナに意識を集中させて状況の把握に努める。

「《瞳に宿りし万象を示せ、ヴィジョン》」

――ヴン。と、鈍い音と共に、馬車の前方、後方の景色が鮮明に映される。

ゴブリンの集団が躍り掛かるが、それらを的確に切り落とし、打ち落とす冒険者達の姿は、なるほど、確かに心配の必要はなさそうだった。

「……これなら大丈夫そう――」

気を抜きかけた春の目が、ヴィジョンの中でゴブリンの一体が冒険者達の防御網を抜けたのを捉える。

「1匹抜けたぞー!」

「ボクがやる!」

春の頭から飛び降りながらウルが広く開けられた荷台に立つ。

「ウル!?」

そこへ、小柄な影が半狂乱の形相で飛び込んでくる。

緑色の体表はまるで爬虫類のように鈍い光沢を放っており、血走った目は元々の赤さを更に赤くしていた。

丁度、ウルが直線で対峙する形でゴブリンを見据える。

「ナゼ、おマエはマジュウのクセにヒトのミカタをスる!?」

「ハル兄ちゃんの敵ならボクの敵だ!」

一喝して飛び掛ったウルの爪が黒く鈍い光を放ち、一閃が的確にゴブリンを捉えて切り裂く。

「ガッ、うるふ……の、クセに……」

「ふんっ!べーっだ!」

断末魔を上げて事切れるゴブリンを見下ろしながら、ウルが舌を出して吐き捨てるように言う。

ウルの一瞬の攻防が終わり、呆気にとられていた春が我に返る頃には、すでに外の戦闘も終了したようだった。

「おーい。大丈夫か?」

先ほどの剣士風の男が、荷台を覗き込む様に上がり込みながら、頬についた返り血を拭う。

「はい。こちらはウルが倒してくれました。そちらも怪我は無いようですね」

怪我人が出ていない事を確認しつつ春が応えると、男は意外そうな顔をしてウルを見つめる。

「へぇ。お手柄だ。このワンコも飾りじゃいってわけだな?」

「えへへー。どんなもんだー!」

手を伸ばそうとした男にウルが元気よく主張すると、何を勘違いしたのか

「元気がいいな。……噛まないよな?」

躊躇うように手を宙に彷徨わせながら男が春に問いかけてくる。

「そんな事しないですよ。ねぇ、ウル?」

「何で噛むの?噛んで良いの?」

「ダーメ」

「はーい」

「いやぁ。怪我が無くて何よりだ。助かったぜハル」

顔を出した親方が後ろから春の頭を雑に撫でながら言う。

「僕はなにも……」

実際、戦ったのはウルだったので、春としては謙遜でも何でもないのだが、親方はそのまま豪快に笑うと

「さて、そろそろ出発するか。もう少しで今日の野営地に着くはずだ」

と言って、またすぐに操縦席へと戻っていった。

「さて。俺も前に戻るぜ。そうそう襲撃なんて起きないと思うが、次もあればよろしくな」

剣士風の男がウルの頭を撫でながら馬車を降り、ウルが尻尾を振ってそれを見送る。




その後は何事もなく、野営地だと言う場所に辿り着く事が出来た。

馬車を降りて周囲を確認すれば、森が自然に開けて道の端に結構な広さが確保されているのが分かる。

沈みかけた夕日が森を赤黒く染め上げ、一日の終わりを告げる。

各々が野営の準備に取り掛かる中、春は広場の外れで腰を下ろしていた。

「皆と一緒に居ないの?」

膝の上で尻尾を振って問いかけるウルに、春は小さく苦笑しながら答える。

「まぁね。僕の持ってきたキャンプセットだと、やっぱりどうしても目立っちゃうから」

「でも、寝る場所はどうするの?」

「少し森に入って場所を探そう。朝までに戻ってくれば問題ないはずだし」

「雨が降る前に準備しないとだね!」

春の膝から飛び降りて鼻をひくひくと動かしながらウルが言う。

「雨?」

「うん。なんか空気が湿ってるから。もう少ししたら降るんじゃないかなー」

「よく分かるね」

「ママが言ってたんだ!雨が降るときは足音が紛れるから狩りには最適だって!」

「そっか。じゃあ、降り始める前にテントを張れる場所を探そう」

鞄の中に入っているはずの折り畳み傘の場所を確認しながら立ち上がり、木々を分け入ってゆく。

朱に染まりつつある斜陽の空。

黄昏が連れて来る闇が、森を一層と暗く見せ、春とウルの足元を濃く映す。

時折聞こえる動物の鳴き声と、木々を抜ける風の音だけが春達の耳に囁きかけ、それほど野営地から離れているわけではないにも関わらず、野営地の喧騒が遠くに感じられた。

ふと、森が奏でていた僅かな音がピタリと止んだ。

「……ハル兄ちゃん」

ウルが毛を逆立て、周囲を威嚇するようにしながら小さく言う。

「うん。いつの間にか囲まれてた。のかな」

足を止めた春が首を巡らせ目を細めながら呟く。

すると、木の影から春達を取り囲むように、いくつもの赤い双眸が闇から浮かび上がる。

「さっきのやつらの仲間みたい」

小さく唸りながら威嚇するウルに、落ち着かせるようにあえてゆったりとした調子で問いかける。

「ここはゴブリン達の住処なのかな」

『彼らは特定の生息域を持たない流浪の種だ。おそらく、道を通る人々を襲って生計を立てているのだろう』

頭に響く、おそらくは今も春と同じ景色を見ているであろうシンクの声がそれに答えた。

「運が悪いなぁ。……ここで見逃しても、きっと彼らは野営地を襲うよね」

『そうだな』

じりじりと縮まるゴブリンの包囲網を気にかけつつ、春はどうするべきか迷う。

戦って勝つこと自体は問題にならない。しかし、彼らを生かしてこの場を収めたとして、彼らはヒトを襲うことをやめるだろうか。

逃げる事も一瞬頭を掠めるが、春が逃げればゴブリン達はおそらく野営地を襲う。

考えてみれば、野営地は他の旅行者が行き交い、常にある程度の集まりがあるからこそ整備されているはずだ。

しかし、今日到達したのは春達が同乗した親方のキャラバンのみだ。

そこから考えるに、ゴブリン達は以前からこの辺り一帯を通る旅行者を襲撃していたのだろう。

「僕たちが見つけたのが、不幸中の幸いというべき。なのかな?」

戦う以外に選択肢を見つけられない自分に疑問を抱くが、すぐにそんな春の思考を引き戻すように事態が動く。

「ハル兄ちゃん!くるよ!」

春の言葉を遮って、ウルが一喝する。

それと同時にゴブリン達が襲い掛かってきた。

手に、恐らくは略奪品であろう短剣などを持って、小柄な緑の魔物が春達に迫る。

「やるよ。ウル」

一瞬の躊躇いの後、春は短く宣言する。

その言葉を皮切りに春とウルが左右に飛ぶ。

別々のゴブリンと対峙し、眼前の敵に意識を向けつつウルが春に問いかける。

ウルは、春が優しい事も知っている。盗賊というやつを倒した時、敵を倒しただけなのに、それでも心を痛めている事を、ウルは知っていた。

だからこそ、ウルは春に戦って欲しくない。大好きな春に傷ついて欲しくないから、ウルが戦うと決めていた。

「ハル兄ちゃん、無理に戦わなくても、あいつらくらい、ボク一人でも――」

そんなウルの心境を知らない春は、緩やかに首を振る。

その手には既にマナが収束し、淡い光が渦を巻いていた。

「ううん。ウルだけに、背負わせたくない」

短く答える春の目に、煌々と龍の印が浮かび上がり、にじり寄る様な夜の闇をかき消す様な強い閃光が炸裂する。

「ハル兄ちゃん……」

「ウル。心配してくれたんだよね。ありがとう」

光の粒子が春の挙動にあわせて揺れて、その度にゴブリンの急所を的確に貫いてゆく。

ゴブリンの短い断末魔が淡々とした戦闘に唯一響く音となって春の耳に届くが、眉一つひそめず、ただ、自分が倒した魔物の亡骸を見据えて術を使い続けた。

程なくして戦闘が終わり、春の射抜いたゴブリンの亡骸と、地面を抉った微かな爪痕だけが、この場所で命のやり取りが行われた唯一の形跡となっていた。

「ふぅ。全然相手にならなかったね!」

「……そうだね」

「ハル兄ちゃん。大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ……」

「気にする事ないよ!こいつら、絶対に反省なんてしないし、今ここでやっつけなきゃ皆が襲われちゃうんだから!」

「そうなんだよね。うん……仕方なかった、なんて言葉は、好きじゃないけど。やらなきゃいけないことだったんだよね」

『ハル。力に溺れない事は大切だが、時には力に依ってでしか解決できない事もある。その時躊躇わない為にも、僕らは常に考えなければならない』

「うん。そうだね……」

相槌を打ち、春がふと空を見上げる。

既に日も大分暮れ、重い雲が圧し掛かるように葉の隙間から覗いている。

――春の頬に、まるで一筋の涙のように雫が伝い、それを皮切りに周囲に雨の音が満ち始めた。

「うっわっ!降って来ちゃったね。早く雨宿りできる場所探そうよ!」

「……そうだね」

降り始めた雨が、ゴブリン達の亡骸から溢れ、地面を満たした命の残滓を滲ませ、流してゆく。

その光景を視界に収め、春は再び歩き出す。

ウルもその後ろをついて歩き、雨の降り頻る冷たい音と、温度をなくした抜け殻のみがそこに残されていた。




ゴブリン達と遭遇した場所からやや離れた場所、既に野営地から大分離れてしまった場所に、広くはない物の、テントを張るには十分な大きさの空間が広がっていた。

幸い、生い茂る木々の葉が雨避けの役割を果たしており、テントを設置するにも悪くない場所だった。

慣れない作業ではあったものの、日が完全に落ちきる頃にはこじんまりとしたテントが完成していた。

テントを張り終え、額に滲んだ汗を拭う春の耳に、雨音に混じって草を掻き分けるような音が聞こえてくる。

その音は迷う事無く近づいて、次の瞬間には草が分かれて、灰色の獣がひょっこりと顔を出した。

その姿は大型の犬そのものだが、顔の周りや足、肩と言った一部に、光の加減によっては銀にも見える毛並みと同様の、鈍く光を反射する堅い鱗が生えている。

前足の肩部分には蝙蝠、もしくは龍を思わせるような翼が生えており、広がった空間に背を伸ばすように何度か広げては畳んでを繰り返す。

「うわっ!すごいね!これがテント!?」

もはや春にとっては見慣れてしまった、巨大化したウルが、興味津々といった風に尻尾を振って問いかけてくる。

「うん。初めて組み立てたからちょっと時間掛かっちゃったけどね」

「すごいすごい!今日はここで寝るんだね!」

「ウルは何処に行ってたの?」

鼻を近づけてテントの匂いを嗅いでみたり、爪で触っては弾力を確かめているウルに苦笑しながら春が問いかける。

「あ。そうだ。忘れてた」

春の問いかけで漸く自分が何をしにいっていたのかを思い出したウルが、ガサゴソと自分が出てきた茂みの中から何かを引きずり出してくる。

「ご飯取ってきたよ!ボクもうお腹ペコペコ。早く食べよーよっ!」

そう言って自慢げに口にくわえて持ってきたものは、どうやら鹿に似た動物の様で、ウルがどのくらい食べるのかはさておいても、春一人では食べきらないだろう量である事は容易に想像がついた。

春の手前に差し出すように置かれた鹿を観察すれば、目立った傷は急所の一箇所しかなく、鋭い一撃の下に仕留められた事が分かる。

「……うん、これなら食べられそうだね。ウル、えらいね」

ウルの狩りの手腕に感心しつつ、どう調理したものかと悩む春には気づかず、ただ、春に褒められた事が嬉しかった様で

「えへへー」

照れるように地面を爪で掘りながらウルが笑う。

「さて。どう調理しようかな……」

「ちょうりー?」

初めて聞いたと言う様に首を傾げるウルに、春は興味本位や一縷の希望を託して問いかける。

「ウルは普段どうやって食べてるの?」

「え?どうって。そのまんまだけど」

予想通りといえば予想通りのウルの答えに、春はがっくりと肩を落として呟く。

「……そうだよね。うん。聞かなくてもわかってた事だよ。うん」

「ハル兄ちゃん?」

悩んでいても仕方ないと割り切り、ウルがせっかく取ってきてくれた食材を無駄にすまいと覚悟を決めた春が、目の前で調理を待つ難敵をキッと見据える。

「切って焼けばどうとでも食べられるよね」

「やきにくー!」

春の言葉に反応して、ウルが嬉しそうに耳をピンと張って言った。

その後、調理器具を持ってきていないことに春は思い至る。

仕方なく魔法で代用できないかと思考を巡らせ、四苦八苦しながらも食事を済ませた頃には完全に夜になってしまっていた。

「ごちそうさまー!おいしかったねっ!」

口周りを拭うように舌でペロッと舐め、ウルは満足そうに笑った。

肉自体は上手に捌けたのではないかと春も同意したが、調味料を使わずに焼いた肉のみを食べるというのは、中々に慣れる物ではないと早々に自分の準備の甘さを痛感しつつ答える。

「味は、まぁ、調味料も無いから仕方ないとして、調理自体は問題ないみたいだったね」

「味?おいしかったけど、ハル兄ちゃんは嫌いだった?」

調味料を知らず、野生で生きてきたウルとしては、この鹿は上物だったのだろう。

暗い夜の森の中で明かりの為に調理中の片手間で灯された火の光に照らされて光った純粋な蒼い瞳が不思議そうに春を見つめる。

ウルがせっかく獲ってきてくれたものに対して文句などあろうはずもない。

「ああ、いや。嫌いじゃないよ。ただ、次はもっと美味しくできるかなって思ってさ」

擦り寄ってくるウルの顎を擽ってやりながら春が柔らかく微笑みかける。

何気ない春の一言がウルの琴線に触れた様で、勢いよく立ち上がると

「もっと美味しくなるの!?」

驚きと、それ以上に興味に満ち溢れた声音でウルが唸る。

「大きな街についたら、調味料とか探してみようか」

「うん!」

そんなウルの幼い好奇心を可愛らしく思いながらも春が提案すると、ウルはまだ見ぬ未知の味に舌なめずりしながら元気よく頷いた。

「今日はもう遅いし、明日も早めに合流しないといけないから、そろそろ寝ようか」

火の始末をしてテントの中に入りながら春が言うと、ウルは遠慮がちにテントの中を覗き込む。

「ボクも入って大丈夫?」

戸惑い気味のウルに、春はそんな事を気にしなくてもいいのにと軽く苦笑しつつウルを手招きする。

「おいで。大丈夫だよ。ああ、でも。一応小さくなっていてね」

「うんっ!」

嬉しそうに頷いたウルはうっすらとした光に包まれたかと思うと、軽い音と共に小さな灰色の子犬が春に擦り寄ってくる。

テントのチャックを閉めた春はウルを抱いて横になる。

ひんやりとした地面の感触がテントの生地越しに伝わってきて少々寒かったが、ウルの体温が心地よく、いつの間にか深い眠りについてしまう。

ウルも昼間はしゃぎすぎたのが春が眠りにつくよりも早く、腕の中で穏やかな寝息を立てて寝入ってしまっていた。




夜が明け始めた頃、謎の重苦しさに眠りを妨げられて春はうっすらと目を開く。

ぼやける視界を何度か瞬きする事で徐々に鮮明にする事で、自身に何が起きているのか理解する。

テントの外は薄く明るくなっており、朝を告げる鳥の鳴き声らしき物が遠くから聞こえてきていた。

「……ウル。寝ぼけてないで起きてくれないかな……重い」

完全に下敷きになってしまった身体を引き抜こうと力をこめながら、春はウルを起こそうと揺すりながら言う。

「んぅー……おはよーハル兄ちゃん……もう朝ー?」

巨体を捩じらせながら寝ぼけた声を上げるウルに潰されないように押し返しながら春は答える。

「うん、朝だよ。テントの片付けをしてキャラバンに合流しようか」

「分かったー」

大きく欠伸をしてウルが立ち上がる。

その隙にウルの下を抜け出した春がテントの入口をあけてやると、ウルはのそのそと緩慢な動作で朝露の滴る、朝独特の冷たさの漂った外へと出て行く。

テントの布越しに、外で大きく伸びをしているのがシルエットで分かった。

春も釣られて大きく欠伸をして、ウルが居なくなった事で暖を取っていた毛布をなくした様な感覚に身震いする。

「ハル兄ちゃんー雨上がってるよー」

テントの外で、ウルが呼ぶ声がして、春も外へ出て空を見る。

木の葉の合間から差し込む朝日が露に反射してキラキラと光り、春は僅かに目を細めて湿った土の香りのする外へと出た。

テントを畳む作業自体は組み立てたときの逆を辿ればいいので、思っていたよりもすんなりと片付ける事ができた。

「さて、合流しないと。また置いて行かれちゃうかもしれないしね」

テントを鞄に仕舞い、まだかまだかと待ちわびていたウルに笑いかけながら春が言う。

その言葉に、ウルはどう解釈したのか、嬉しそうに飛び跳ねながら

「また散歩出来る!?」

と笑って問いかけてくる。

春は苦笑しながら窘め、野営地へと戻る途を辿った。

歩き始めるとウルは子犬サイズに戻り、春の鞄の上に陣取って時折何かを見かけては、それを話の種に春に話しかけていた。

春もそれに答えつつ、朝の森の空気を森林浴気分で味わいながら歩く。

野営地が見えてくる頃には、ウルもすっかり飽きてしまったようで、ただただ春にしな垂れかかって、早くも二度寝の体勢に入ろうとしていた。

二人にとっては何気ない散歩のような軽快さだったが、野営地はどうやらそれ所ではなかったらしい。

ひょっこり顔を出した春達に、まず最初に声を掛けてきたのは先日の剣士風の冒険者だった。

「おまっ、何処行ってたんだよ。いつのまにか居なくなってたからやられたのかと思って心配しちまっただろうが」

「やられた……って、何かあったんですか?」

「昨日のゴブリンの残党だろうな。何匹か寝込みを襲ってきやがったもんだから、朝っぱらからてんやわんやだよ」

そう言って剣士風の男が示した先には、ゴブリンの亡骸が数体、折り重なるように纏められていた。

死体をそのまま放置してきてしまった春が思うのも何だが、あまりにもあんまりな扱い用に内心心を痛めつつ、春は呟く。

「……あれだけじゃなかったんですね」

その反応に、何かを察したように剣士風の男が眉を顰めて尋ねてくる。

「お前らも襲われたのか?」

襲われた事に間違いは無いのだが、春の感覚としては実害と呼べるものが無い以上、どうにも実感がわかないのだった。

「……ええ。まぁ。そんな所です」

適当に相槌を打っていると、マイカが春に気づいて歩み寄ってきた。

「リードヴェイルさん……無事でよかった」

ホッと息をついて言うマイカに、春はせめて一言伝えてから出ればよかったと内心反省しつつそれに応える。

「すみません。安全な所まで送るなんて言って置きながら……」

「あ、いえ……そんなつもりで言ったわけでは――」

そんなつもりで言った訳ではないとフォローするマイカに、それでも迂闊だったと春は思う。

「ええ。でも、やっぱり僕の責任ですから」

実際、春達が遭遇した分も含めても、春が野営地を出なければ纏めて相手をすることも可能だっただろう。

被害が出なかったのはあくまで結果論でしかない事を考えると、春の背筋をうっすらと寒い物が奔る。

そんな春の心情など知る由も無い剣士風の男が、マイカと春の間に流れる微妙な空気に耐えかねたように口を開いた。

「何だ。連れ合いって言うから恋人か何かかと思ったら。違うのか?」

「違いますよ……何だといわれれば説明に困りますけど」

無関係の人に気を遣われてしまった事で、春も今更思いつめても仕方が無いと切り上げて苦笑する。

「まぁ、深く詮索する気はねぇよ」

「ありがとうございます」

「いいって。それより、もうそろそろ出発するみたいだぜ」

視線をキャラバンの方へ向けながら男が言うので、春もそちらへ目を向ける。

「ですね」

既に野営の片付けも終了したようで、馬車に乗り込み始めている人達を確認した春はマイカを促して馬車へ向かった。




その後、一晩何処で何をしていたのかなど、いつの間にか戻っていた春は、同じ馬車に乗り合わせた冒険者に退屈しのぎとばかりに質問攻めにあってしまう。

退屈しのぎで話を振ってきた冒険者からも分かるように、先日の襲撃やらが嘘のように何事も無く進んでいた。

「お前、そう言えば冒険者になりたいんだったか?」

剣士風の冒険者の男が、暇を持て余して欠伸などしながら、いかにも退屈しのぎと言った風に春に声を掛けてくる。

ウルが暇を持て余してはしゃぎまわり、疲れて寝入った所だったので、春も暇になり始めていた頃だったので、男の雑談に応じるように顔を向ける。

「ええ。ですから、皆さんは先輩って事になりますね。……皆さんはどちらへ?」

「グレンディに帰るんだ。魔物討伐の帰りに行き先が同じこの商隊を護衛して小遣い稼ぎって事だ」

「依頼って同時進行で受けられるものなんですか?」

この際なので、冒険者だという剣士風の男から、今後の勉強のつもりも兼ねて話を聞いてみるのも良いのかもしれないと、春は問いかける。

「いや。普通は一度に一回までだ。ちょっとした小技って感じさ。依頼自体の完了報告は最寄のギルドでやるんだが、こうした突発の依頼は証明をもらって解決済みとして、ギルドで報告手続きをするだけで良いんだ」

「なるほど。一度に一つしか受けられないけど、報告した後に解決済みとして申請すれば実質二つ分の報酬がもらえるわけですね」

つまりは、同じだけの往復所要時間でこなせる仕事が増えるわけだから、報酬も増えてお得といった具合らしい。

「そういう事だ。これから冒険者になって色々な場所に行くんなら、こういう小技は覚えておくといいぜ」

「ありがとうございます。勉強になりました」

春が素直に感謝を述べると、男は気を良くしたのか、気軽な調子で春に語りかけてくる。

「昨日の事も考えて俺もこっちの馬車に乗る事にしたはいいが。暇だなおい」

「護衛が暇なのは安全な証拠です。楽してお金がもらえるならいいんじゃないですか?」

背伸びなどしながら言う男に、春は苦笑して応じる。

「まぁなー。っつっても、親方は太っ腹だからその辺は心配してねぇけど、中には働きに応じて報酬増減なんて商人もいるからな。マジでその辺は見極めないと儲からないぜ?」

「……事後報告の依頼だからこそ、報酬額の精査が為されてない分報酬が不安定になるんですね」

事後報告のメリットとデメリットを考えた上で、ギルドという組織の役割とはそういう物も含むのだろうと辺りをつけて春が言うと、男は一瞬驚いた顔をしたが

「お前、そんな事までよく分かるな。見た所戦士にゃ見えないが、学者か何かか?」

春自身の事について興味がわいたのか、探るような興味本位の視線で春を見据えて問いかけてきた。

「学者だなんて……ただの田舎っ子ですよ」

のらりくらり追求をかわそうと曖昧に笑う春だったが、それだけでは男の興味を削ぐには至らないようで、なおも男は質問を重ねる。

「田舎なぁ……田舎暮らしだった割には変わった服してるよな。見た所生地も良い物使ってるみたいだし」

「あ、はは……ああ。そう言えば、僕、実はお金って持ったことがなくて。この旅で初めて手にしたんですけど、どれくらいの価値があるのか分からないんですよね……」

話題を変えたかったのも事実だが、実際、春はリック達から貰った通貨の価値を理解していなかった。

いざ使わなければならない場面であたふたして不審がられて仕舞うよりは、早めに誰かに聞いておきたかった事もあり、男に尋ねてみる。

「お前……お金の使い方もわからないとか……マジでどんな生活してたんだよ……」

怪訝な顔をする男に、春は小さく笑いながら一言、付け足すように言う。

「教えてもらえます?先輩」

「よっし。一度しか説明しねぇから心して聞けよー」

春自身、やや露骨な持ち上げ方だったかなと内心苦笑していたが、男はそれ以上の追及をやめたようで、まんざらでもない様子で通貨について説明を始めた。

「金の使い方が分からないって言う割には、結構な金額持ってんだな。まぁいい、説明するからちょっと貸して貰うぜ」

そう言って春の持っていた通貨の入った袋からいくつか種類の違う硬貨を取り出して春に示しつつ男が言う。

「こいつはルアル金貨。まぁ、見れば分かるよな。基本的に、金貨は銀貨10枚。銀貨は銅貨10枚、んで、こっちの小さいのが小銅貨。こいつは10枚で銅貨1枚だ」

説明してくれる男の話を聞きながら、春もいくつか質問を重ねてやりとりをする。

そのお陰で、春は何となくではあるがフェミュルシアの通貨、ルアルというらしい通貨は、日本円に換算すると大よそ、金貨は1万、銀貨は千、銅貨が百、小銅貨が十円前後であると当たりをつけることが出来た。

解説を受けて、改めて手渡された貨幣を確認し、春は俄かに驚いてしまう。

入っていたのは金貨6枚と銀貨16枚、それに銅貨38枚に小銅貨が20枚。

日本円にしておよそ8万円。

通りすがりで泊めてもらった挙句、こんな大金を頂いてしまうなんてと、今更ながらにリック達に申し訳ない気持ちが浮かんでくる。

そんな春の狼狽はさすがに男にも伝わったらしく、怪訝な顔をして男が問いかけてくる。

「そう言えば、金の使い方も分からない奴が、どうしてこんな大金持ってたんだ?」

「それは――」

事情を掻い摘んで説明すると、男は納得というより驚きが先に来た様で、話を聞くうちに目を見開いて言葉を失っていた。

「そりゃ……また……とんでもねぇ事をしたなお前」

ようやく言葉にしたという様に漏らす男に、春は首をかしげる。

「そうでしょうか?」

「ああ。タンリは薬草を出荷する為に、今までは危険を冒して森へ入るか、俺達みたいな冒険者を雇って採取させてたんだ。その手間が今後一切掛からないとなると、この金額も頷ける」

どちらかと言うと、春に言うというよりは自分自身を納得させるという意味合いが強いように感じる男の言葉。

漸く春もリック達から金銭を受け取った事への折り合いをつけることが出来、男に相槌を打つように小さく頷いた。

自然と会話は途切れ、春としてもこれ以上無理に会話をする事もないだろうと思い、沈黙に任せるままに揺れる馬車の中を見回す。

男も一段落といった具合に立ち上がると、他の暇潰しを探すために春から離れて行ってしまう。

ふと、マイカと目が合った。

春が目を向けた時には既に春のほうを向いていた事から察するに、春よりも前からマイカは春達の様子に耳を傾けていたのだろう。

「あ……えっと」

困惑した様に言葉を濁すマイカに、春も困ったように頬を掻いた。

「すみません。うるさかったですか?」

苦笑気味に詫びる春に、マイカは慌てたように違うと身振りして答える。

「え、いえ、違うんです。その……リードヴェイルさん達の話がちょっと、聞こえちゃって……すみません」

ぺこぺこと頭を下げるマイカに、春は困ったように首をかしげる。

「……?何でクロクニスさんが謝るんです?」

「盗み聞きみたいになってしまいましたし……」

マイカが申し訳なさそうに答える。

「ああ。そんな事。気にしなくても大丈夫ですよ。誰に聞かれて困る話でもなかったですからね」

春のフォローのお陰か、マイカも落ち着きを取り戻して黙り込む。

そうなると馬車の中は一部の身内同士の細々とした会話があるのみで、ウルとの契約のお陰で上昇した知覚能力で意識を外に向けると、風が木々の間を駆け抜ける音まで聞こえてくる。

自身の周りが静かになった事で、春は改めて自分の知識量と、それだけでは立ち行かない経験の浅さを再確認していた。

いくらシンクの知識を自由に引き出せるようになったとして、春はやはり人間なのだ。

人間は、人間の中でしか生きられない。

春はこの世界の人間について、あまりにも知らない事が多いという事実に、改めて気を引き締める思いだった。

差し当たって、春が最初にぶつかる壁は文字だろうと春は思考の翼を広げてゆく。

地図を見る限り、タンリは立地上、僻地と言っても良い。

しかし、しっかりと文字が普及して書類などのシステムもあった。

その事から、フェミュルシアの識字率はかなり高い水準にあるのではないかという予測をたてる事が出来る。

だとするならば、出来る限り早く文字を知っておく必要がある。

文字とは、情報である。

理解できないという事は、それだけ選択の幅が狭まるという事だ。

最終的な春の目的は、人と魔族の相互理解と協和である。

選択肢は多いに越したことはない。

『ねぇ。シンク』

この世界の人を、自分は知らなすぎる。

『どうしたんだい?ハル』

『僕は、もっとこの世界の人を知らなきゃいけないね』

春のフェミュルシアの知識の大部分は、シンクの知識である。

それを踏まえたうえで、暗に、シンクに対してそう言った。

『……』

シンクの沈黙が何を意味するのか、春には分かる。

遠い。

シンクと人は、あまりにも遠い位置に居る。

その距離を縮める作業は、シンクだけではできなかった。

『僕も、これから多くを見て学ぶよ』

春はシンクに優しく語りかける。

シンクはただ、黙ってそれを聞いていた。




空が斜陽に染まり、木々の陰が黒さを増す。

タンリを経ってから二日目も終わろうというのに、未だに森の切れ目は見えない。

それだけ森が広大だという事なのか。

それとも、タンリはそれほどまでに僻地であったという事なのか。

昨日のような襲撃もなく、予定通りに中継地点まで辿り着く事が出来た。

春達の乗ったキャラバンが中継地点に到着すると、既にいくつかのグループが野営の準備をしており、親方が挨拶をすると快く迎え入れてくれる。

その様子を遠めに眺めながら、春はそろりとキャラバンの集団から離れてテントを張れそうな場所を探す準備を始めた。

ウルの既に起きており、春の腕の中で野営の準備をする人々を楽しげに観察している。

野営地に背を向け、木々の間に分け入って行こうとした時、後ろから声が掛かった。

「リードヴェイルさん」

春が振り返れば、心配そうな顔をしたマイカが春が何処へ行くのかと目で問いかけている。

「クロクニスさん。どうしましたか?」

柔らかく微笑んで、取り繕うように春が言う。

ウルが腕からするりと抜け、春に背を向けて木々に分け入りながら声を掛ける。

『僕、先に探してくるね!』

『ごめんね。僕も後で行くから』

口を閉じたままそれに答え、春はマイカに目を向ける。

マイカはどう切り出そうかと言う様な、曖昧な表情で春を見ていたが、ウルが木々の間に消えてしまったのを見て、

「あ、あの……ごめんなさい。ウルちゃん、大丈夫ですか?」

「ええ。先に行ってもらっただけです」

その言葉を聞いて、マイカは眉を顰める。

「先に……って言いましたけど、昨日も、どこに行っていたんですか?」

「……ただの散歩ですよ」

苦しい言い訳だった。

咄嗟に口をついたとはいえ、春自身、こんな言い訳が通るとは思えなかった。

「散歩……一晩中ですか?」

「……いけませんか?」

小さく笑う春の表情は、何処か静かな空気を伴っていた。

その瞳の奥が、斜陽の影の中で、静謐な黄金の色彩を宿して揺れる。

一瞬、マイカは怯んだ様に肩を震わせたが、暫く悩む様に俯いた後、ぽつりと呟いた。

「気に……なります。私を送ってくれるって……言ってたのに。夜、怖かったです……」

言葉を選ぶようにして紡がれたマイカの声。

春の目には、俯いた肩の震えも、小さなマイカの声も、その全てが、春に頼っているように感じられた。

見捨ててはいけない。

咄嗟に思ったものの、テントを見せるという事は、春がこの世界とは違う世界の住人であるという事を公言するようなものだ。

マイカをそこまで深く巻き込んでしまいたくない。

この時点で、春の中でのマイカの存在というのは、行き掛かり上、見捨てられなかったからある程度面倒を見たいという、他人行儀な親切心にほかならず、深入りしてしまうのは本意とは言えなかった。

しかし、そんな春の線引きも、当人のこの様相では、虚しいとさえ思う。

結局の所、春は一度味方すると決めた相手には弱いのである。

春は自身の弱点を重々承知しつつ、苦笑いを隠して微笑みながら目元を緩める。

「……わかりました。ただし、秘密ですよ?」

悪戯っぽく誤魔化して、春はマイカを手招いてウルの気配を辿る。

余談ではあるが、ある程度近い距離ならば、態々念話をしたり魔法で探索する必要がない事に、春はこのとき初めて気づいた。

道中、春もマイカも口数乏しく、お互いにどんな話をしていいのか、戸惑ったような沈黙を従えて木々の間を歩いた。

その間に春は、マイカが頼ってきた背景を、微かにだが想像する。

盗賊と共にいて、あの扱いから察するに、どこかで攫われたのだろう。

春が助けていなければ慰み者か、もしこの世界に奴隷制度があるならば、闇市に消えていた可能性が高い。

女性一人、普通の生活をしていた人が、突然そんな状況に置かれた時に絶望感や恐怖は計り知れないものがあるだろう。

そこから助け出した春は、文字通り光明に見えただろう。

春を頼るのも、その印象が強いからなのだと、春は結論付けた。




ウルを追って開けた場所に出ると、既にウルが待ちくたびれた様に何かの上で蹲っていた。

近づけば、それが熊の様な姿をした魔物である事が分かる。

それが普通の熊でない事は、春の頭に浮かぶ知識が教えてくれた。

肉付きが良く、鹿よりもおいしそうだとふと思った春は、順応が早いなと自分の事ながら笑ってしまう。

「ウル。お待たせ」

春が声を掛けると、ウルはピクッと体を起こして自らが仕留めた熊型の魔物から飛び降りてくる。

「ハル兄ちゃん!……あれ?結局連れて来ちゃったの?」

「ははは……」

首をかしげるウルに、春は苦笑するしかない。

マイカはと言えば、ウルが仕留めた魔物の方を、ただ呆然と見ていた。

ウルは一見子供のウルフでしかない。

そんな脆弱な魔物がこれほど大きな魔物を倒す事など普通ならばありえない事だ。

それは、魔物に詳しくないマイカでも容易に分かる。

しかし現実はそれを否定し、その小柄な魔物は優しげな少年に飛びついてじゃれている。

その光景は、タンリにいる間の短い時間では、到底慣れる事の出来ないものだった。

マイカが内心でそんな事を思っているとは露ほどにも思わない春は、熊の観察を終えてマイカの方を見て、困ったように笑った。

「あの、クロクニスさん」

思案の世界に浸っていたマイカは、春の声に呼び戻されてハッとなった。

「え!?あ、はい。なんでしょう?」

「料理って……できます?」

「は?」

唐突に投げかけられた質問に、マイカはまたもきょとんとしてしまった。

「ああ……ええっと、この熊っぽいのを夕食にしようと思ってるんですけど、先日はあまり上手に出来なかったので、もしクロクニスさんが料理できるのであればと思いまして」

さすがに言葉が足らなすぎたと、春が補足する様に付け加える様子に、マイカはクスッと口元を綻ばせる。

何故突然笑うのだろう。

春の疑問がそのまま顔に出てしまっていた様で、マイカは春の顔を見てハッと笑いを抑える。

「あの、ごめんなさい。リードヴェイルさん、いつも一人で何でも出来てしまう印象があったものだから……」

口元に手をやりながら弁明するようにマイカが言うので、春は首をかしげてしまった。

春自身、自分の事はあくまで普通の人間であり、普通の人間は出来る事もあれば出来ないこともあるというのが、自身の中での常識なのである。

春の事を完璧超人の様に捉えているマイカに疑問を抱いたが、これ以上この話題で準備を遅らせてしまうのは良くないと判断し、熊の魔物に向き直った。

「さて、さくっと切り分けて、昨日と同じく丸焼きでいいよね……考えてみれば、どうせ調味料もないから、料理が出来ようと出来まいと、同じようなものだと思うし」

あくまで気にしていないという態度を貫いて、春はマイカに笑いかける。

「拙い男の料理でよければ、クロクニスさんもどうですか?」

何度か向けられた春の笑顔。

さすがにそこまで甘えてしまうのは良くないと思い、遠慮しようと口を開きかけたマイカの代わりに、マイカの腹から空腹を知らせる音が小さく鳴る。

失態を晒し、顔を赤らめたマイカに、春は顔を背けて自身の笑みを隠しながら作業を開始した。

前日とは違い、雨もなかった事と、前日からの経験を活かした事で、調理もテントの設営も順調に進めることができた。

日が完全に落ちきる頃にはテントの中で2人と1匹。熊肉を切り分けて焼いただけの物を囲んでいた。

テントの中は魔法の光のお陰で仄かに明るい。

見たこともないような材質で作られた天幕にマイカは若干戸惑っていたものの、春に肉を薦められ、空腹だった事も手伝って、それ以上光について考えるのをやめた。

食べている間、春は幸せそうに最も大きい部分の肉に噛り付くウルを眺めながら自身も一口サイズに切っておいた肉を口に運んでいたが、さすがに飲み物がないのは辛く、鞄の中からコップをいくつか取り出して小さく呟く。

――途端、虚空から水が湧き出したように、春が用意した器の中に納まってゆく。

カップに溜まった水に口を付けて一息しつつ、春はマイカに別のカップを差し出す。

「クロクニスさんもどうぞ」

その様子を呆然と見ていたマイカは無意識的にカップを受け取ってから、ハッとなったようにカップの中の水と春を見比べて目を見開いた。

「どうかしましたか?」

何が不思議なのだろうと言わんばかりの春の問いかけに、マイカは改めて目の前の少年が規格外の存在なのだと再認識させられた気分だった。

「まるで、魔法みたいですね」

今の心情をそのまま口に出したマイカに、春は内心ドキッとした。

この世界では、人は魔法ではなく、魔術を使う。

魔法とはすなわち、失われた法則。それを模して今の人、それも、一部のものしか扱えない技術、それが魔術なのだ。

現代の人は、この程度もできないのか。

春は改めて意外に思ってしまうと同時に、今まで以上に力の使い方に気を付けなければならないと気を引き締める。

「そんな、魔法なんて……僕には僕にできることが出来るだけですよ」

曖昧に笑って水を含んで、春は誤魔化すように言った。




その後何事もなく朝を向かえた春達は、テントを片付けて野営地に戻ると、野営の片付けで多少慌しげな様子ではあったが、襲撃はなかったようで、どこか緩やかな雰囲気が漂っていた。

やや離れた所で、親方が誰かと話しているのが見える。

恐らくは別のキャラバンの雇用主なのだろう。

温厚そうな髭面の男性だったが、何処となく視線を巡らせている様だった。

一瞬、春と目があった。

本当に一瞬の出来事だったが、先ほどまで淀みなく視線を巡らせていた男の目が、春の一点で一瞬だけ静止した様だった。

マイカに先にキャラバンに戻るように言い、春は親方たちに近づいてゆく。

たまたま通りかかった風を装い、春はさりげなく声を掛ける。

「あれ。親方さん。おはようございます」

親方は春に気付いて振り返った。

「おお、ハルか。また夜歩きか?」

「ええ……そんな所です。えっと、そちらの方は?もしかしてお話の邪魔でしたか?」

軽く目を細めて問いかける春に、髭面の男性が春を見る。

「いや、話っつっても、雑談だからな。この人はパルカの商人だよ。お互い、ただの世間話だ」

乱雑に頭を掻きながら親方が言うと、親方と話していた口元が隠れてしまうほど多い髭を擦りながら壮年の男性が興味深そうに春に問いかけた。

「君は冒険者なのかい?」

気さくな調子で髭面の男性が言うので、春はなんとなく拍子抜けしてしまった。

「ええ、まぁ」

まだ冒険者と言うわけではないが、すぐにそうなるのだし、あえて訂正する必要もないと春は首肯しながら答える。

その足元へウルが擦り寄ってくる。抱き上げろ。と言う事なのか。

言葉には出さないものの、尻尾を振って春を注視するウルに、春は苦笑しながら抱き上げる。

その様子を見ていた髭面の男性は僅かに目を見開いて、納得したように口元を綻ばせながら春に言う。

「ウルフの子……ああ、君が件の魔獣使いのエルフなのかい?道理で若く見えるわけだ」

「件の、って何か話されたんですか?」

春が親方をちらりと見る。

親方は詫びれる様子もなくガシガシと乱暴に頭を掻きながら笑い、改めて春を紹介するように口を挟む。

「ただ、盗賊を捕らえた冒険者見習いが珍しいペットを飼ってるって話をしただけだぜ」

「珍しい……ですか。やっぱり魔獣連れって珍しいんですかね」

「グレンディでは見ないこともないが、他の国じゃあ滅多に見ないよ」

「そうなんですか……」

髭面の男性が春の独り言とも言えるような呟きに律儀に答えてくれるので、春は思わず感心してしまった。

「っと、そうそう。他の国って話でついでの話なんだけど」

自分で発した言葉で思い出したと言うように髭面の男が軽く手を打ち、話題を変えるように言う。

「親方さんの所はグレンディまでだったから、君らには直接関係のない話なんだが、リューデカリア王国周辺でキナ臭い噂を耳にしてね」

キナ臭い噂、という単語に、春の目がスッと細くなる。

腕の中にいたウルが春の変化に逸早く気づき、遊んでいい時ではないと直感した。

甘えるのを我慢して、腕の中で石のようにじっとしたままのウルを抱え、春は次の言葉を待つ様に髭面の男に相槌を入れる。

「リューデカリア……ヴァラステア皇国のさらに西にある国ですよね?」

「ああ。そのリューデカリアで、近々反乱が起こるかもしれない」

春の些細な変化にはまるで気づいた様子もなく、男はただ世間話をするような調子で言った。

隣で露骨に嫌な顔をする親方を尻目に、春はあえて気付かない振りをして話を進める。

「反乱……何でまた。為政者に問題があったんでしょうか?」

直接関わりがないとは前置きされた物の、やはり気になる。

人の世の情勢に疎い春にとって、こういった些細なやり取りからも情報を汲み取っていかなければならないのだった。

春は当たり障り無い様な言い回しで少しずつ、情報を引き出そうと心算を立て、柔らかな表情を崩さないままに尋ねる。

「どうだろうね。ただ、リューデカリアは数ヶ月前に王位が変わったから、それも関係しているんじゃないかな」

「王が変わったんですか」

どういった経緯で君主が変わったのか。即位した人物はどのような人なのか。春にとってはいずれ会って話をしなければならない人物である。

少しでも早い段階から情報があるに越した事はないだろう。

「ああ、新しい王は前王の娘で、なんでも、貴賎を問わない平等平和主義を掲げているそうだよ」

「……なるほど」

相槌を打ちながら、春は内心では既に新しき王国の若き女王について思案を巡らせ始めていた。

貴賎を問わない政治、と言うくらいなのだから、実力主義で人を見ることに長けた女性なのだろう。

それでいて公平であるならば、どうして反乱などと言う不穏な単語が浮かび上がってしまったのか。

「その分民衆からの信頼は得ていたようだけどね」

春の思考をなぞるように髭面の男が言うので、春は思っていた疑問を口にする。

「なら何故反乱の噂が?」

ヒヤリ、と、朝の空気の中に別の感触が混ざるのが分かった。

髭面の男の表情が一瞬強張って、辺りを気にするようにちらりと不自然にならないように視線をめぐらせる。

男の表情は鋭く、先ほどまでの温厚で気配りに長けた商人然とした雰囲気ではなく、どこかの国の諜報員であると言われたら信じてしまいそうな、静かで、それで居て冷たい印象の物に変わっていた。

「こういう商売柄、情報には敏くてね」

抑揚が極端に抑えられた声音で、春を試すような視線を向ける。

言葉の裏を探らなくとも、これで話を切り上げたいと言う意思が容易に伝わってくる。

男としては、世間話の延長、もしくは、ちらりと触れ回れればいいくらいだったのだろうが、春が察しよく尋ねてしまうので、このままでは核心まで辿られてしまうのではないかという懸念があるのだろう。

元々、親方から世間話として蒐集した話の中でも、春という少年は気に留める程度には興味を惹かれる存在だった。

あって話をしてみるのも面白いという好奇心から、男はあえて時間を延ばして親方と閑談していたのだ。

野営地の中はそう広くはない。それらしい少年、特に、ウルフを連れた少年など、すぐに見分けが付く。

春を見つけた段階で、親方との会話を切り上げて話しかけるつもりだったのだが、どういうわけか、春という少年はまるで話が聞えていたかのように自然と会話に入ってきたのだ。

髭面の男はますます春に対して興味を持ち、多少の自腹を覚悟で際どい話を試すように振ったのだったが……。

男は、春という少年を見極められずに居た。

名のある冒険者ではない。それどころか、まだ冒険者ですらないという。

世情に疎いという話は親方との雑談で聞き出した情報だったが、世情に疎いと言う割には、話の飲み込みが早く、理解力が高い。

まるで世界を知らないという訳ではない。何かを隠しているような風情も手伝って、男は春という少年を図りかねていた。

「……これ以上は企業秘密になりそうですね」

春はそう言って、自ら話を終らせるように小さく笑う。

ここで無理に出所について探る必要はないと春は思っている。

どうせ、この人のツテでなくとも、いつかはそういった情報を求められる立ち位置に居る人物と交流を持たねばならないのだ。

不用意に敵を作っても面白くはない。

涼やかな表情の裏で、着々と積みあがる打算の山を自覚しつつ、春がこれ以上踏み込んで聞くつもりはないという意思を示す。

その様子に、逡巡するように春を見ていた男は、ふうっと軽く息を吐いた。

再び目を見れば、柔らかな光が戻っており、先ほどと変わらない気さくで世話焼きそうな印象が戻って来ていた。

「察しがよくて助かるよ。ここからは世間話のつもりで聞いてほしい」

男は内心で感心していた。

春の察しの良さ、ではない。春の引き際についてだ。

この少年が情報を欲しているのは、長年の勘という奴で察しは付いていた。

にも関わらず、この少年は掌を返すように、あたかも商人との世間話だった言うように話を括るフォローも忘れずにしてみせた。

既に男は春に対して並々ならぬ興味を抱いたと言っていい。

通常人と共存しないはずのウルフを手懐け、聞くところによれば、偏狭の村でウルフとの共存を説いたという。

聞いたときは、さすがに眉唾であると思っていたが、直に会った事で、春ならばやるかもしれないという不確かな希望が、自身の深い部分で芽生えている事に、男は驚いた。

男は自然と、春に続きを話してもいいような、むしろ、続きを話してみたいという思いに駆られていた。

この少年は何かある。

今この場で情報を渡した事で、何かが起きるかもしれない。

そんな予感を感じさせる少年である事を、男は確信していた。

意外そうに頷く春に、男は柔らかく笑う。

本当に春は退くつもりであったし、男も先ほどまでは話を終らせるつもりで居た。

そこに何の変化があったかを推し量ることの出来ない春は、ただただ運がよかったと思うことにした。

「んじゃあ、俺は先に馬車に戻ってるぜ。渡る必要のない危ない橋は避けるに限るからな」

紹介した手前、隣で経緯を聞いていた親方が切り上げ時だと言うように笑って馬車に戻ってゆく。

去ってゆく親方に対し、男はその判断力の高さは商人として成功できるだろうと、春に対する感心とは別の意味で、好印象を抱いた。

親方が完全に見えなくなり、出発の準備をする者も疎らになり始めた野営地の様子を見回し、男は口を開く。

「さっきも言ったように、新しい女王陛下はまだ若い。恐らく実権を握っているのは側近の者たちだ」

春の中で王国の内情を描く地図が少しずつ書き出されてゆく。

側近に問題があるのだろうか。確かに、若い女君主など、お飾りにしかならない場合が多い。

ならば女王に非はなく、側近達が謀反を起す必要もない。操り人形を打倒して自ら台頭する必要がないのだから、反乱を起すとするならば、それを良しとしない敵対勢力か、女王の意思を確かに受けている者達か。

「女王は側近に恵まれたらしく、市政は概ね女王の掲げる平等平和に適う改革がなされているが」

男の言葉を聴きながら、描いていた勢力図を柔軟に修正する作業を繰り返し、いくつかのパターンを同時進行で構築してゆく。

「……勿論、前国王の庇護の下、私腹を肥やしていた貴族達が快く思う訳が無い」

「確かに、平等な政策を取る以上、貴族と言うだけで優遇されるという事はなくなるでしょうし、富裕層からは疎まれそうですね」

相槌を打ち、春が男の後の言葉を引き受けるように答える。

男の発言が補助輪となって、春の想定する内乱の内容が徐々に明確になってゆく。

「そういう事だ。暫くは大陸南部は荒れる事になるだろうな」

春の反応に満足する様に、男が言う。

髭面の男は春との会話を楽しいと思い始めていた。

察しが良く、聞いたことを頭の中で整理して道筋を立ててゆく。

気付けば話しきる前に理解されてしまっているような錯覚に陥るというのは、中々どうして面白い。

「荒れる、というのは……?」

春が疑問を口にするときは、頭の中で組みあがるべき絵柄に足りない色がある時だという事を、男は短い時間で理解していた。

おそらく、世情に疎いというのは本当なのだろう。

既に常識といってもいいような情報なのだが、春には国家間の関係性というものが分かっていないらしい。

「リューデカリアとヴァラステアは元々犬猿の仲だからな。リューデカリアが荒れればヴァラステアは意気揚々と戦争を再開させるだろう」

春は、その言葉で想像の枠が一国家から大陸南部の地図に投影されて、状況が徐々に見え始めていた。

「……そうなれば、隣り合った“傭兵の国”である、グレンディも巻き込まれざるをえない。と……?」

春の言い回しに、男は思わず苦笑してしまった。

グレンディを城砦国と呼ばずに、あえて傭兵の国、と言った辺り、春はしっかりと現状を理解している。

いずれ大陸南部はリューデカリアの政権内乱に乗じたヴァラステアが侵攻し、それに引きずられる形でグレンディも派兵――傭兵団の雇用による間接的参戦を、この短い会話の中で既に明確に見据えているという事だ。

そして、グレンディに帰属するという事は、その戦乱に嫌でも春は関わってゆかねばならない。

そこまで理解しているのだろう、春の目は既に何処か別の場所を見据えているように男には感じられた。

この少年をここで失うには惜しいと男は思う。

男は春が多少腕に覚えがあるという事は聞かされていたが、まさか、ドラゴンと同等たる力を用いる事までは知るよしもない。

「ああ。君は冒険者にしておくには惜しい位に察しがいいな。どうだい?私の部下になって世界を回ると言うのも、悪くない提案だと思うが」

ここまで察しのいい春だ。男がただの一商人であるはずがないことくらいは、とっくに想像の中にあるだろう。

そこまで分かっていて、あえて春にそういったのは、暗に、自分の部下にならないかという勧誘だ。

この少年を手元に置けば、多少世情などの教養は必要だろうが、すぐに飲み込み、いずれは自分の右腕、それ以上になってくれるだろうと、男は確信していた。

「……ありがとうございます。でも、まだ暫くは自由に回ってみたいなと」

男の誘いは確かに魅力的だった。

春にとって、情報はこの先どうしても必要になる物であるし、現状、人間社会の常識や知識が欠落している春にとって、それを埋め合わせてくれる人物であると言う事も分かっている。

だが、この男についていくと言う事は、常に情報の網の中に身をおくということだ。

それは、いずれは魔族を纏め上げるシンクという存在の傍らにある事を想定している春にとって、身を縛る枷になるだろう事を容易に想像させた。

髭面の男とは、つながりを持っておきたいとは思うが、それは近すぎても遠すぎてもよくないと春は思っている。

丁重に誘いを辞して、春は小さく頭を下げる。

そんな春の反応に、男は内心で悔しいと感じていた。

そしてその感情を自覚し、男はかすかに驚いた。

これ程までに春という少年を手元におきたいと思っていたのかと、今更ながらに男は春への評価を引き上げる。

しかし、それをおくびにも出さず、それでいて、諦めたつもりは無いと言う様に春に手を差し出して気さくに笑う。

「そうかい。私の拠点はパルカにあるから、気が向いたらいつでも来てくれ。君だったら歓迎するよ」

「ハル=リードヴェイルです。またいつかお世話になりますね」

その手をとりながら、春も微笑み返して答えた。

名を聞いて、男は今更のように自身がまだ名乗っていない事に気が付いた。

春の名前は既に親方から聞いていた為、自身もすでに名乗っていたような気になっていたのだ。

「ああ、そういえばまだ自己紹介もしていなかったね。いやぁ。うっかりしていたよ。私はアベルだ。パルカにきた時は是非頼ってくれ」

アベルと名乗った男性は力強く春の手を握った。

手が離された時、春の手の中に固い感触があるのに気づく。

見れば、金貨が一枚、日光に反射してきらりと光っていた。

「……これは?」

「挨拶みたいな物だよ。これも何かの縁だと思って持って行ってくれ」

金貨を裏返せば、流通しているルアル貨幣と模様が若干違う事にすぐに気がついた。

春は文様を見ながら、なるほどと内心感心する。

「……ありがとうございます」

春は答えながらルアルを仕舞ってある袋とは別のポケットに仕舞いこむ。

その様子を見て、アベルは意図が伝わったことを確認し、話は終わりとばかりに踵を返して自身のキャラバンへ戻ってゆく。

「お話終わった?」

腕の中のウルが小さく鼻を鳴らす。

よほど退屈だったのだろう。

そんな様子に春は小さく笑い、ウルの頭を優しく撫でる。

「うん。終わったよ。親方さんたち待たせちゃってるし、戻ろっか」

頭のふわふわした毛並みの感触を感じつつ、キャラバンにむかって歩き出す。

キャラバンへ戻ると、春達が最後の乗客の様だった。

親方が上手く出発を引き伸ばしてくれていた様で、キャラバンに戻ってきた春は特に何かを言われるわけでもなく、春を乗せたキャラバンが出発する。

キャラバンが離れていく様子を、アベルは静かに眺めていた。

アベルの後ろから声が掛かる。

「アルベール様。そろそろ」

アベルが振り返れば、一人の青年が仰々しく礼をしながら待っていた。

「ああ。……お前は彼をどう見る」

アベルは静かに頷き、馬車に乗り込みながら青年に尋ねる。

青年はしばし考え込むように口を噤んでいたが、やがて馬車を出発させながら静かに答えた。

「底が知れない。と思いました」

青年に手綱を握られた馬は、よく訓練された軍馬の様にしなやかに道を走る。

「底が知れない。か。……お前の目からみて、どうだ?」

アベルは青年の答えに納得していない様子で、再度問い返す。

それは、アベルから青年への、無言の問いだった。

青年の所作は洗練されており、見る人が見ればすぐに武人である事がわかる。

その青年から見て、春という少年はどれほどの実力を持つものなのか。

そういう意味で、アベルは尋ねたのだ。

青年は再度黙り込み、ややあってから主の問いに答える。

「……やはり、底が知れない。でしょう。立ち姿は隙そのもの。しかし、それを補って余りある程の力を感じました。あの隙が演技なのだとしたら、恐ろしいまでの実力者ですよ」

春の所作を思い出しながら答える青年は自身の手が震えるのを感じていた。

それは、春の底知れない力への恐怖ではなく、計り知れない春の力を、試してみたいという気持ちからだと、青年は理解していた。

「だとしたら、と言うのは、お前がそうは思わないからか」

「はい。彼の隙は生来の物でしょう。鍛錬を積んだ者の所作ではありませんから」

「だが……そうなると彼に力があると見えるのはどうしてか」

「……はい。底が知れないと、思う理由です」

「なるほどな。ハル=リードヴェイル……思った以上の収穫だったわけか」

大した揺れもなく走る馬車の中で、アベルは新しい玩具を得た子供の様に目を輝かせて言った。

そんな主の様子が背中越しに手に取るように分かる青年は口元を緩ませ、主に同調するように笑う。

「ええ。アルベール様は慧眼でいらっしゃる」

「思ってもいない事で褒めるのは良くないな」

窘める様にいう物の、怒っているのではない事が分かる。

「いえいえ。滅相も」

「……そういう事にしておこう」

「このままパルカへ戻りますか?」

「いや。タンリへ寄ろう。ハルが為した偉業を見ておきたい」

「かしこまりました」

淀みなく走る馬車は、タンリへと向かって森を駆けて行く。




ガタガタと揺れる馬車の荷台で、ウルは小さく寝息を立てている。

そんなウルを膝の上に乗せ、春は流れ行く外の木々を見やりながら思案していた。

先ほど話をしたアベルという名の男性。

アベルというのは恐らく偽名だろうが、パルカに拠点を持っているといっていた。

パルカ共和国は先ほどの話にも上がったリューデカリア王国よりも更に北西、大陸の西側の海に面した国だったはずだ。

今の位置的には大陸の反対側になる為、そこまで足を伸ばす様になるのはいつになるだろうか。

まだ見ぬ国に思いを馳せながら、春は懐に仕舞ったままだったコインを取り出して再度眺める。

目を凝らすと、微かに光を帯びているのがわかった。

「……?」

怪訝に思い、更に観察するようにコインを裏返したり、表に戻したりして細部まで観察する。

春の指先からコインの溝へマナの青白い光がゆっくりと流れ、コインを仄かに発光させる。

まるで、小さな庭園に張り巡らされた水路に水が流されていくような光景。

『ハル。その道具、魔術がかけられているみたいだよ』

春の疑問に答えるように、シンクの声が頭に響いた。

『魔術……何のだろう』

マナが、コインの溝の間を小さく走っているのを観察しながら相槌を打つ。

『マナの流れを操作する、本来は地脈などに使ってマナの正常化や特定の大規模魔法行使の準備に使うようなモノだ』

シンクの言葉で、春は納得がいったように小さく息を吐いた。

『ああ、なるほど。コインが、ではなくて、この魔術が鍵なのか』

『うん?どういうことだい?』

今度はシンクが尋ねてくる。春の脳裏にはシンクが首をかしげる様子が何となくだが、鮮明に想起される。

如何に魔法に詳しく、世界を知っていたとしても、人間の世界を知っているわけでは……ないのだ。

『割符って言ってね。合言葉ってあるでしょ?特定のキーワードに対して特定の返しをする事で、お互いの疎通を図る。あれ。あれを物品でやるんだよ』

『合言葉……割符というのだっけ。そんな物をハルに渡してどういうつもりだろう』

『勧誘……じゃないかな』

ますます分からないといった風にシンクの声が響く。

『商人の?』

『いや、きっと、アベルって名前も偽名だと思う。あの人は商人じゃない。何か、もっと別の、他の人に秘密にしなきゃいけない様な、そんな人だよ』

ガタガタと音を立てて走る馬車の中は静かで、常に埋め尽くさんばかりに流れ込もうとするシンクの知識や感情、悠久とも言える記憶の奔流だけが、春の頭の中を目まぐるしく駆け巡っていた。

僅かに残った自由な部分で、春は思考する。

『そんな人が、ハルを勧誘してどうするつもりなのかな?』

『そこまでは分からないけど、でもチャンスだとは思う』

『チャンス?何の?』

『僕らはこの世界の人を知らなすぎる。相手を知らなければ、相手と繋がる事なんてできない。それに――』

春は一旦言葉を区切る。

常に努めるように柔らかな調子、仕草をしていた。

その仮面が剥がれ落ちるように、春の表情がすっと消えて、瞳の光が入れ替わるように怪しく金に割れる。

まるで、そちらの方が本当であったかのような、静かな瞳の金色の龍眼。

何の感慨も浮かばない表情からは、春の心境は推し量る事はできない。

『……それに?』

春の言葉を待つシンクの言葉も、自然とトーンが落ちた重いものになる。

たまに吹く風に揺られて、ウルの耳が動くのを春は膝の上で感じるが、春は静かに思考を伝える。

『シンクが考えるほど、別の存在同士が分かり合うのは、簡単なものじゃないんだよ』

頭の中で響く春の声、静かで、どこか冷たい音が、ぐるぐると回ってゆく。

シンクには春の意図を理解できないが、しかし、春の奥底に沈んでいた物がぞわりと這い上がる様な感覚は、シンクにそのまま伝播して、異様な圧迫感をシンクに伝えていた。

『……どういう――』

「あの、どうかしたんですか?さっきから、何ていうか……難しい顔をしてますけど……」

シンクの声に被さる様に、頭にではなく、耳に空気の振動という音で、春に声が掛かる。

ハッとなって、春が顔を上げる。

覗き込むような形でマイカの顔がそこにはあり、心配そうに春の様子を窺っていた。

「え?あ……クロクニスさん……」

抑揚の乏しい、表情のない顔がマイカを見返す。

目が合った瞬間、マイカの脳裏に一瞬だけ、巨大な蔓と、冷え切った地面に出来た血だまりの上、表情のない金の瞳で悠然と立つ、春の姿が鮮明に、炙られるように浮かび上がった。

思わず身を引きかけたマイカはぐっと堪えて、震えてしまう身体をむりやり押さえつけるように口を言葉を紡ぐという行為の為だけに動かす意識を依り纏める。

「――もしかして、気分が優れないんですか?」

無理やり震えを抑えたマイカの口調は自然と抑揚に乏しい感情の見えないものになってしまったが、春を映す見開かれた瞳はマイカの内心を反映するように揺れ動いていた。

マイカの瞳を鏡にして、春は自身の表情を見た。

精彩に欠いた自身の表情、それは、久しく見ていなかった自身の顔。

「あ、いや。そういうわけではないんですよ。大丈夫。もう、大丈夫です」

慌てて普段どおりに出来るよう、今まで回していた思考のリソース全てを傾けて笑う。

再び目を開いた春はいつも通りの柔らかな表情で、瞳も、髪と同じ茶色の温かな光を取り戻していた。

「そう……ですか」

あまりの変貌振りに、マイカは先ほどまでの春が見間違いだったのではないかと疑問を口に出したい衝動に駆られたが、それをなんとか押さえ込んで無理やりに答える。

「暇ですか?」

普段の調子を取り戻した春が柔らかくマイカを見つめる。

微笑を浮かべて見上げるこの少年は優しく、とてつもないほどに強い。

それは間違っていないはずなのに、マイカにはその笑顔がどこか、今まででみた中のどれよりも、弱々しく、何かに怯えているように感じた。

「どうしましたか?クロクニスさん」

なおも言葉を重ねる春の様子は温かいはずなのに、まるで部屋の外と中の温度差のように、妙な疎外感と共にマイカの耳に届く。

「いいえ……ただ、悲しそうな顔をしていたような気がして……」

「そんな顔、してました?」

春が指を頬にあてて、わざとおどけた様に口をひっぱって笑顔のように形作って目を細めて見せる。

一瞬とはいえ、目に焼きついた表情がフラッシュバックし続けるマイカの目には、それがとてつもない違和感を放って、いつも以上に引きつった喋り方になってしまう。

「あの……えっと。上手く、説明できなくてごめんなさい」

「ありがとうございます。心配、してくれたんですよね」

しどろもどろになっているマイカをフォローする春は、自分でも滑稽だなと思う。

「えっと、気になっちゃって……」

自傷的な感傷に浸りかけていた春を引き戻すように、マイカが口を開く。

「リードヴェイルさん……時々、思い詰めている様に感じたから……」

「そんなつもりは、ないんですけどね」

曖昧に笑って誤魔化す春だが、内心では短い間にそこまで人のことを観察していたマイカに感心していた。

「ごめんなさい。私の勘違い、ですよね」

どう思ったかは春からは判断できないが、マイカはそれ以上の追及を諦めたようで、軽く頭を下げて柔らかく微笑んだ。

その微笑がどこか悲しげで、どこか、安堵を含んだ物だった事に、春は気づかなかい。

――カタカタ。

キャラバンの速度が落ちたのか、揺れが小さくなってゆく。

「そうですか。――ああ。そろそろ次の町に着きそうですよ?」

気づけば馬車の外が騒がしくなっていた。

意識を外に向ければ、キャラバンの外で人の話し声、雑談だと思われるような内容が聞こえてくる。

「え?あ……そうですね。ちょっと様子を見てきます」

話題を変えられた事には気づかなかったようで、マイカはそそくさと親方の居るほうへ向かう。

マイカの後姿を見送りながら、春は膝の上で寝息を立てているウルを優しく揺り起こす。

「ウル。起きて」

「――んにゃ?どうしたのー……?」

大きな欠伸をしながら眠そうな目をぱちぱちさせながらウルが唸った。

「次の町に着いたようだよ」

ウルを抱きかかえながら、春もまた親方の方へ向かう。

馬車の外が見える。

最初に感じた印象は、壁。

巨大な壁に向かって人が列になって道を作っている。

あれが噂に聞く、グレンディ城砦国なのだと、春は直感してわかった。

「うわぁー!ハル兄ちゃん!おっきいね!」

予想をはるかに上回る巨大な壁ともいえる城砦。

その感想をウルは端的に、しかし的確に述べた。

その目はまだ見ぬ壁の向こうへの好奇心に満ちていて、ウルの感情が春にも伝わってくるようだった。

「おう、ハルか。丁度グレンディが見えてきたところだ。これから入国審査があるからな。お前らも準備しとけよ」

未だ遠くにあるにも関わらず、その雄大さに圧倒されていた春達に、親方が豪快に笑って背を叩いた。

「入国審査……ですか」

入国審査と聞いて、春はまずどう切り抜けるかを思案した。

親方にそこまで便宜を図ってもらうというのは難しいだろう。あくまで相乗りは相乗り、ただの客だ。

目的地まで着いたのだから、それ以上に関わる必要もない。

ならばここから先は、春は自身の身をもって進んでゆかなければならない。

「ああ。まぁ、形式上みたいなもんだ。ガルデコールやリューデカリアならまだしも、グレンディじゃ身分証明なんて必要ないようなもんだしな」

いくつかのパターンを思考している春に、不安を払拭するように親方は付け加える。

「そ、そうなんですか……」

自由な冒険者の国、とは聞いていたが、そこまで他国と違うのかと、春は戸惑いつつ曖昧に相槌を打つ。

何でも考えすぎてしまうのは、悪い所だなと、春は自分が逸っているのをどこか客観的に感じていた。

「おっと。そうそう。商人と旅行者は別の窓口だからな。お前さん達は向こうにある門の方に行きな」

そういいながら、親方は列のほうを示す。

「そうですか。ありがとうございます」

見れば、列に並んでいるのは馬車ではなく、どちらかといえば旅人と言った風体の人々が、個々に荷物を持っていた。

馬車はやや離れた場所に列を作り、それもまた、聳え立つ壁に向かって一直線に並んでいる。

視線をめぐらせていると、春は視界の端にマイカの背中を見つけた。

どうやらマイカもこういった場所に来るのは初めてのようで、戸惑ったようにあたりを見回しては不安げに手で胸の辺りを押さえている。

「……ああ。クロクニスさん。僕らはあっちみたいですよ」

「あ、はい」

春が声を掛けるとマイカはハッとなって振り返り、それが春である事が分かった途端、ふっと表情を和らげて答えた。

「それじゃあ、親方さん。お世話になりました」

春は親方のほうを振り返り、頭を下げる。

「おう。っつっても、ハルとはまたどこかで会う様な気がするがな」

「あはは。そうですね。それじゃあ、また」

「おう。またな」

「ばいばいー!」

「ありがとうございました」

春に習って、春の腕の中のウルが元気良く吠える。

マイカもぺこりと頭を下げて、春の後ろについて列へ向かった。

列は長い物の、時折一人旅の旅人がいるようだが、それ以外は決まって複数人からなる旅団のような物らしく、審査にそれほど時間を要している様子はなかった。

「ハル兄ちゃん!グレンディ城砦国ってどんな所なんだろうね!」

春の腕の中で興奮を隠そうともしないウルの姿は、旅慣れているであろう他の旅行者の目から見ても奇異に映るのだろう。

すぐに春の周囲は春達の方を注目し始めてしまった。

「こらこら。ウルったら……」

春くらいの年齢の旅人も珍しくは無いのだろうが、しかしそれでも、ウルフの子供を抱えて旅をする少年というのは中々お目にかかれるものではない。

オマケに、血縁関係とは思えない、女性を文字通り引き連れているのだ。注目を集めないほうが不思議というものだ。

列が進むのを待つ間、春は幾度も周囲の人から声を掛けられては、曖昧に笑ってお茶を濁すという行為を繰り返す。

徐々にだが、着実に前に進む列。

近くなるにつれて、巨大な城壁とも言うような外郭の姿がはっきりとしてくる。

石造りの、レンガに良く似た巨大な壁は、いかなる外敵の侵攻を許さず、内部と外部を完全に区切っているような、そんな印象を受けた。

ずっと見上げ続けていると首が痛くなりそうなほどに高い。雲よりは低いのだろうが、それでも、人一人が見上げるには十分すぎるほどに巨大だった。

春もウルも、少しずつ近づいていくと共に巨大になって行くように感じる壁に驚かされていが、それもそう長くは続かない。

最初の興奮も何処へやら、次第にウルも変化のない景色に飽きてしまったのか、春の腕を飛び出して駆け出そうとするのを春に引き止められたり、しまいには春の頭の上で大きな欠伸などしてみせるのだった。

そんな様子も相俟って、最初は奇妙な物や魔物として見ていた周囲の人々もウルが危険ではないと理解し始めたようで、時折ウルに手持ちの干し肉などを差し出してくるものまで現れるようになっていた。

「ウル、良かったね」

頭の上で干し肉にかじりついているウルに、春は苦笑しながら声を掛ける。

「んぐんぐ。ハル兄ちゃん。これおいしいよ?ボク一人で食べて良いの?」

口いっぱいに肉を含んだままで言うウルの姿はどうにも面白く、春は笑っては悪いと思いつつも、結局は笑いながらウルを撫でる。

「うん。僕はお腹空いてないからね。それに、もうそろそろ僕達の番だから、僕は遠慮しておくよ」

「そっかー。おいしいのにー」

別段、どうしても肉を別けたかったわけではないらしい。

どちらかといえば、少しだけ別けてあげるよと言う気まぐれのようだった。

特に気にする風もなく、ウルは口の中の肉と格闘する作業を再開する。

やがて肉も食べ終わって、再び春の腕の中に納まったウルを撫でていると、門から衛兵だろう人影が現れる。

「次の方、どうぞー」

春達の前に人はいない。

ようやく春達の番になったのだ。

「やっとだねー」

退屈が声の調子からも如実に伝わってくるような様子でウルが言う。

そんなウルに苦笑しつつ歩き出す春だったが、すぐ後ろに違和感を感じた。

「そうだね。じゃあ、行こうか。……クロクニスさん、どうかしました?」

振り返れば、マイカだけがじっと足を止めたまま、春達を見送るように立っていた。

「え……?」

まさか声を掛けられるとは思っていなかったという風に、きょとんとした顔でマイカが声を上げる。

「行きましょう。クロクニスさん」

春が再び声を掛けると、マイカは戸惑ったようにわたわたと手を振って、左右を見回して、まるで声を掛けられたのが本当に自分なのかを確認するように慌しく目が泳いだ。

「え?あの……私も、付いて行って良いんですか?」

逡巡の後、マイカは戸惑っている声音のままで問い返す。

春は小さく微笑むと、ウルを腕から下ろして手を差し伸べた。

「今更ですね。大丈夫。行きましょう」

春の顔と手を見比べて、マイカは戸惑うように手を伸ばす。

手が触れると、春はしっかりとマイカの手を握って、そのまま門の中へと入っていった。

大分遅れました。

次回投稿は早めになるといいなと思いつつも、じっくりと進めて行きたいと思います。

おそらく次回の投稿で正の章・小柳春編の第二章が終わります。

その後は裏の章・天城里桜編の第二章を書いていきたいと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ