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少年は幻想の夢を見るか?  作者: 門間円
第二章・フェミュルシア
6/16

~第一部・心配~

目覚ましの音が鳴り響き、いつも通りの朝を報せる。

しかし、その音に混ざって別の、動物が近くで咆える様な声が聞こえていた。

柔らかな、眠りなれた布団の暖かさに身を埋めたまま、小柳春は音が、動物の声が、より鮮明に聞こえてくるのを感じながらうっすらと目をあける。

「わん、わんわんっ!!……ハル兄ちゃん!ハルにーちゃーん!!!」

動物の声、犬のような声が、意識がはっきりしてくるにつれてよく聞き取れる子供の声へと変わる。

未だに覚醒しきらない身体を捩る様にしながら、枕元の時計を黙らせて何度か瞬きをし、春は漸く音が目覚ましだけでない事に気づいた様に呻く。

「ん……ぅ。あれ……僕――」

そんな春の上、正確には春の包まっている布団の上でだが、灰色の毛並みがふわふわと柔らかそうな青い瞳の狼じみた子犬が飛び跳ねていた。

「あ、ハル兄ちゃん起きた!起きた!おーきた!!おはよう!」

春が目を覚ました事に気づいたウルは嬉しそうに笑いながら、そのまま春の顔に近寄って頬をなめる。

なめられた感触に擽ったそうに目を瞑り、困ったように苦笑しながら

「ええっと……おはよう。ウル」

とだけ言って、なおも抱きつくように甘えてくるウルを抱き上げながら上半身を起こし、腿の上へ乗せて頭をなでる。

「えへへー。ボク、ハル兄ちゃんが起きたって皆に教えてくるね!」

なでられる手に心地よさそうに頭を寄せていたのも束の間、ウルはそういうとさっとベッドから飛び降りて開け放たれた扉から軽快な足音を響かせて階下へと走ってゆく。

「え?」

出て行ったウルを呆けたまま見送るような形で取り残された春の耳に、弟――小柳恵亮(こやなぎ めぐる)の、年相応にやや舌足らずな声が聞こえてくる。

「――なぁに?どうしたのー?うわ、引っ張らないでったらー」

声がだんだん近くになり、ウルの軽い足音をかき消すような子供のどたどたという足音が近づいてくる。

ガタン。と、扉のすぐ脇で音が止まり、一足早くウルが顔を出してどうだと言わんばかりの表情で春を見て、部屋の外にいる人物を招くように尻尾を振って顔を向けた。

ウルに促されるように入ってきた少年のどことなく春ににたくりっとした茶色い瞳と、やや黒に近い茶髪が柔らかそうな子供らしい幼い顔が、驚愕に彩られてゆく。

「……おにい、ちゃん?」

恵亮の声がかすかに震える。

そんな様子に内心首をかしげつつも、春は緩やかに微笑み

「おはよう」

とだけ答える。

その挨拶は幾度となく交わした兄弟、家族の、当たり前のものだ。

心底驚いた顔を隠そうともしないで唇を震わせている弟の内心を推し量る前に、とりあえずしておこうと思った程度の言葉だった。

そんな当たり障り無い春の挨拶に恵亮は答えることなく、少年特有の声変わり前の甲高い声で

「――ママー!!!お兄ちゃんが起きたよ!!!」

と叫んだ。

突然の事で春は再び呆気にとられ

「え?」

その後にあわただしく階下から走ってくるような足音にいやな予感を抱きつつ、部屋に飛び込んできた母親の姿に、春の予感が当たっていた事を確信させられる。

「春!!よかった!春っ!!!!」

化粧を済ませていただろう顔に涙を浮かべ、化粧や仕事へ着ていく服が乱れる事など気にも留めずに春に抱きつき、頭をなで、無事を確認するように何度も何度も春の名前を呼んだ。

まるで状況が飲み込めない春が、自身に抱きかかり、何度も頭や顔を撫で、体を検める様に肩や胸や背中、果ては腿から足など触ってゆく母に戸惑いながら問いかける。

「え、何?どうしたの?母さんまで……」

春が無理やり母を落ち着かせるために引き剥がし、漸く春が無事な事を確信したのか

「何って、覚えてないの?」

春達の母――小柳慧子(こやなぎ けいこ)はベッドから離れて立ち上がり、涙をぬぐいながら問うのだった。

見れば、元々明るめの髪を更に染めたようなブラウンの髪は乱れ、目元には崩れ掛けとはいえ、化粧をした上からでもわかるくまが黒々と浮かんでいる。

母親の痛ましい姿に、春は改めて何故自分がこの様な状況に置かれているのかを思案しはじめた。

まず、自分がフェミュルシアから帰ってきたという事は間違いない。

夢であるならばウルはこの場には居ないのだから、これは確定でいいだろう。

ならば、帰ってきたときの状況をもう一度思い返さなければ。

そう思いつつ、情報を確認するように春は呟く。

「ええっと……帰ってきて、それから――」

「帰ってきて、じゃないわよ!!!いきなり居なくなって、丙君に聞いたらあの時みたいに何処かに行っちゃったって、それで、3日経って漸く帰ってきたんじゃない!!捜索願だそうか迷ってた矢先よ!?」

呟く春の声に反応して、慧子が叫ぶ。

それは怒っているというより、心配した事が伝わる様な、春の胸に強く突き刺さる言葉だった。

それと同時に、穴の開いた春の記憶を補う様に、ピースが埋まってゆく。

帰ってきた春は、気づけばウルと一緒に家の庭に立っていた。

そのまま、沈みかけの夕日を見て、ああ、あまり時間を掛けずに帰ってこれたなぁなどと思いつつ、興味津々でほうっておいたらそのまま迷子になるのではないかと心配になるほどに走り回るウルを抱き上げて。

玄関に回って手馴れた手つきで扉を開けて靴を脱いでいたところにちょうど出てきた母が春を見つけ、適当にただいまと言おうとした時。

頭に突き刺さるような痛みと、溢れかえる情報に思考が焼かれてゆく感覚。

身体が傾いで、春はようやく自分が気を張っていたのだと気づく。

そしてそのまま倒れこみ、眠ってしまっていたようだった。

「……あ。ごめんなさい」

思い至った春が呟くように謝ると、慧子は小さくため息をついて立ち上がり

「無事ならいいわ。帰ってきていきなり倒れちゃうんだもの。……このまま目覚めなかったらどうしようかと……」

といって、高校2年生にもなる息子の頭を撫でる。

その髪は柔らかく、触り心地のよい茶色で、よく知る息子のものだった。

「大丈夫だよ。母さん。もう、大丈夫」

撫でられるままに春が言うと、慧子は手を離して小さく頷き

「……それじゃあ、私は仕事に行くけれど、安静にしてなきゃ駄目よ?」

といって、ベッドから離れて恵亮の手を引く。

気づけばウルとじゃれあっていた恵亮は慧子に手を引かれて名残惜しそうに離れる。

「学校に行こうと思えば行けるんだけどな……」

そんな様子を見ながら、自身も動こうとベッドから出ようとする春を見て、慧子は慌てて春の肩をつかむ。

「ダメ!今度また居なくなられたら……お願い。しばらくは休んで家に居てくれないかしら?」

間近で凄む様な母親に、春は僅かに逡巡してから目をそらす。

「……わかったよ」

春の小さな答えに、念を押すように慧子がちらりと、再び恵亮とはしゃぎだしたウルに目をやりながら言う。

「お願いね?……それに、わんちゃんの事も相談したいし」

「わん……ちゃん……ああ。ウルの事」

一瞬何の事かと思った春は、すぐにウルが、狼ではなく、見ようによってはただの子犬のように見える事に思い至る。

「ウルって名前なの?」

「うん。僕の友達」

「……そう。頭の良い子みたいだから、手間は掛からないとは思うけれど」

座り込んでじゃれあう恵亮とウルの様子に息を吐きながら言う慧子に、春は

「ウルの事は、僕に任せて?」

とだけ言って、微笑んでみせる。

慧子は、春が微笑んで何かをお願いするときは、決して折れる気がないときである事をよく知っていた。

それは長年育ててきた母親の勘のようなモノでもあり、慧子のそういった勘は、よくあたるのだった。

「分かったわ……今回はどたばたしちゃってるから、そういう事には目を瞑りましょう」

「ごめんなさい」

形ばかりのやり取りの後、ふと時計に目をやった慧子があわただしく立ち上がりながら

「……ああ、もうこんな時間。それじゃ、ちゃんと家に居るのよ」

と言って、今度こそ恵亮をウルから引き離して部屋を出て行こうとする。

そんな二人に手を振りながら、結局ベッドから出ることなく春は送り出す。

「うん。いってらっしゃい」

「お兄ちゃん、ウルー行って来るねー」

階段を下る音とともに、恵亮の舌足らずで元気な声が響いて、それに応えるようにウルが咆える。

「いってらっしゃい!帰ってきたら遊ぼうね!!」

もっとも、春にはウルが何を言っているかがわかるので、ほほえましく二人のやり取りを眺めていた。

階下でしばらくどたばたと慌しく動く気配があった後、大きく扉が閉まる音と共に、春とウルのみが家に残された静寂が訪れる。

「いっちゃったねー。ハル兄ちゃん、こっちの世界って楽しいね!」

扉が閉まり、車が出て行く音まで聞いたのだろう。ウルが耳をぱたぱたさせながら春のベッドに飛び乗ってくる。

ウルの頭を撫でてやりながら、春は微笑みながら

「そう?」

とだけ返し、ゆっくりとベッドから立ち上がる。

「もう動いても大丈夫なの?」

スリッパを履きながら部屋を出て行こうとする春の後ろを、ウルがとたとたと追いかけながら問いかける。

「うん。頭もすっきりしてるし、とりあえずお風呂入りたいしね」

階段を下りながら応える春の頭に、急に衝撃と重みがのしかかり、危うく階段から転げ落ちそうになった。

ギリギリのところで体勢を保ち、何事かと頭の上へ視線を向けると、ウルのものらしき前足がちらりと見えている。

「ボクもお風呂はいるー!」

春の肩に後ろ足を乗せてバランスを保った状態で、身体の半分以上を春の頭の上に乗っけながら尻尾を振って無邪気に笑うウルに

「いいけど、水とか、嫌じゃないの?」

すでに飛び乗られた事自体は諦めた春が問いかける。

階段を降りきると、春にとって住み慣れた玄関口で、春の学生靴だけが取り残された寂しさの様な、普段ならばあまり見ることのない違和感にも似た光景を醸し出していた。

家の中に、春とウル以外の気配はない。

閑散とした家は春がよく知るものであった、しかし、春とウルしか居ないと言う閑散とした雰囲気は、まだどこか別の世界にいるのではないかと思わされる。

目を瞑っていても分かる程になれた廊下を歩きながら、身体が妙に軽い事に内心首を傾げていた。

「もう慣れたよ?ハル兄ちゃん、ずっと寝てたけど、ボク達がこっちにきてからもう3日経ってるし」

と、ウルはあっけらかんとした調子で言いながら、フンフンと春の高さから見る光景を満喫するように頭をめぐらせてあたりを見る。

「――え?」

固まってしまう春に、ウルは漸く思い至ったというように前足をぐいっと引いて、器用に春の首に巻きつき、横から覗き込むように言う。

「あ。そういえば知らなかったんだっけ?」

「えっと……僕、3日も寝てたってことで。いいの?」

「うん」

「……」

洗面所へ向かう足を、急遽リビングへ向けて、家族全体が見れる位置におかれていたカレンダーの隣においてあるデジタル時計に目を向ける。

デジタル時計の表示する日時は、今日が、春がフェミュルシアに行った日から6日経っている事をあらわしていた。

つまり、倒れるように寝ていた時間が3日だとするならば、残りの3日は、フェミュルシアに滞在していたあの僅かな時間だったという事になる。

「ハル兄ちゃん?どうしたの?」

頭の上にポジションを戻したウルが、デジタル時計の表示を見ながらたずねて来る。

しかし、今の春にはそれに応えてやるだけの余裕はない。

頭の中で今朝の会話を反芻し、そこから読み取れる事実を再確認して誰にともなく呟いた。

「それであの反応か……」

そのまま黙り込んでしまう春に、ウルが尻尾を振りながら

「……お風呂、はいらないの?」

と頭の上で笑う。

お陰で現実に引き戻された春は、ただ小さく

「そうだね」

とだけ応え、洗面所へ向かった。




洗面所でウルを降ろし、服を脱いだところで、春は違和感の正体に気づいた。

起きてから妙に体が軽いと思っていたが、それもそうだと、春は思う。

特に特定のスポーツをしていた訳でも、身体を鍛えていたわけでもない春は、お世辞にも引き締まった身体とは言い難い。

別段太っていたと言うわけではないので、どちらかというと中性的な、ともすれば女性的とも言える様な体型を、春は密かな悩みとして気にしていた。

脱衣所としても使われる洗面所で上半身を脱いだ春の身体は、無駄な脂肪が一切なく、細身ながらきれいに引き締まった身体へと変わっていた。

春は鏡に映った自身の体を、ある種の驚きと喜びとが入り混じった面持ちで眺める。

「ハル兄ちゃん、どうかしたの?」

春が服を脱ぐ間、洗面台に乗せられていたウルがひょっこりと顔を覗かせて春に問いかける。

その言葉で漸く自分がお風呂に入る為に服を脱いでいたことを思い出し

「あ、うん……なんか、気づいたら体が引き締まってるから……驚いちゃって」

服を脱ぎながら困惑気味に答える。

風呂場へ入り、シャワーの温度を手で確かめていると、水の音に混ざって頭に響くような声が鳴る。

『それはウルとの契約の恩恵だろう』

「ふぇ!?……その声、シンク?」

聞き覚えのある威厳のある口調ではない、少年然とした言い方ではあるものの、確かに声の主がシンクであると、春は直感する。

困惑して風呂場を見回す春に、シンクは苦笑交じりに言う。

『いつでも話ができると言っただろう?』

そんなシンクに、春は頭からシャワーをかぶり、久しぶりに感じるシャワーの心地よさに身を委ねながら問う。

「えっと、ずっと考えてる事が筒抜けだった……?」

『いや、先ほど何か驚くような事があっただろう?大きく感情が揺れ動いた時は自動的に繋がってしまうのだろう』

シンクの言葉に、春は先ほどの自分はそんなに驚いていたのかと改めて恥ずかしい思いをしながら、火照る顔はシャワーの熱だと誤魔化す様に

「な、なるほどね……」

と言ってウルにもシャワーをかけてやる。

シャワーをまともに浴びたウルが条件反射のように体をふるふると振って水を撒き散らし、春はそんなウルの様子を、ああ。やっぱりイヌ科なんだなぁなどと観察しながら笑う。

「シンクさまー。ボクとの契約の恩恵ってー?」

シャワーを浴び続け、すっかり諦めて、むしろ心地よさそうな表情さえ浮かべながら、ウルが声のみのシンクに尋ねる。

『僕との契約の恩恵は、ドラゴンの叡智と絶対なる力、決して傷つく事のない堅牢なる鱗だということは、春は理解しているね?』

「うん、まぁ……」

『ウルとの契約でも、それと似たような恩恵を受けているのさ。おそらくは、ウルフとしての機敏で強靭な肉体、とかね』

「ああ。狼って無駄な筋肉ないもんね」

説明を受けて、ようやく納得言ったと手を打つ春に、ウルは自慢げに胸を張って

「えへへー」

と笑ってみせる。

そんな様子をまるでこの場で見ているかのように、シンクも笑いながら

『ウルも元気そうだな』

と言った。

春の脳内で、まるでシンクが手を伸ばしてウルの頭をなでているイメージが鮮明に映し出される。

「うんっ!すっごく楽しいよ!馬もないのに動く鉄の塊とか!真四角の建物とかがいっぱいあるんだ!」

春が寝込んでいる間に見聞きしたであろう事を、至極楽しげに、誇らしげに語るウルに、シンクは少し考え込むような間を置いて相槌を打つ。

『……自動車と、ビル、だね』

「シンクさま、知ってるの?」

不思議な顔をしてウルが春の顔を見ると、シンクが補足するように

『契約と同時にそちらの知識もハルを解してではあるが理解しているからね。実物は見たことはないが、どういうものかは知っているつもりだよ』

と説明する。

まるでシンクと春が同時に存在するように、自然と春の手はウルの頭をなでていた。

「へー。それでボクも、たまにこれはこういうものなんだってわかるのかな?」

『おそらくは』

会話がある程度落ち着いたと踏んだ春は、シンクに尋ねておかなければならなかった事を口にする。

「……僕の身体の事はわかったけれど、どうして僕は合計で6日も倒れてたのかな」

『おそらく、ゲートで座標を確定する時の精神状態が悪かったのだろう。必要以上に世界の狭間をさまよってそちらに出たから、こちらとの行き来で3日が経過した事になってしまったのだ』

言われてみれば確かにその通りで、魔術というのはその時の精神状態に強く作用される傾向にある。

情報であふれかえる混乱した頭であれだけの魔術が行使できたのは、おそらくは春自身の才能と、ドラゴンの叡智の補助があってだろう。

「……確かに、今思えばあのコンディションでゲートの魔術を使うのは考え物だね」

次からは気をつけようなどと、春は朧気ながらに再度フェミュルシアへと向かう予定を頭の中で組み始めていた。

『その後の3日間の昏睡状態は、今は頭がすっきりしている所を見るに、僕の情報を整理するための処理期間だったのではないかな?』

「と言うと?」

『僕の持つ記憶や知識は、およそ人間で有しうる情報量をはるかに上回ってしまう。故に、それを一度に整理しようと思えば、普通ならば情報の海に自我を投げ出されてしまうようなものだ』

「……僕は身体のすべての機能を一時的にシャットダウンしてその情報の整理に費やしていた……って事かな」

『概ね、その通りだろう』

「なるほどね。通りで起きてからは情報が鮮明だと思った」

そう。何も軽かったのは身体の構造が最適化されていたからというだけではない。

妙に頭が冴えるのだ。

特にフェミュルシアの事に関して、どうしようと考え出した瞬間に、それに関する情報が間欠泉のごとく湧き上がり、その中での必要な情報だけを汲み上げて整理される。

ただ、咄嗟な思考や、ふと思った事と言うだけの物に関してまで適用されてしまうので、意識して使っていかなければと、春は改めて情報の整理を始めながら思った。

身体を念入りに洗って、ウルの身体も洗う。

泡だらけになったウルははしゃぎながら何度も身体を振るわせて泡を弾き飛ばし、その都度春は苦笑しながら手で顔に泡が飛ばないように防ぐ。

暫く笑いながらお風呂を満喫し、湯船に浸かってウルが慣れない調子で湯船の中を泳ぎまわる様を観察していた春に、シンクが柔らかな調子で言う。

『まだ此方から説明したほうが情報を整理する手間が省けるだろうから、暫くの間は僕に聞いてくれれば答えられる限りは答えよう』

ちゃぽん。と、既にお湯を止めたシャワーから水滴が滴り、下に置かれた桶に溜まった水に落ちる。

ウルもどうやら遊びつかれた様で、春の腕に抱かれるままに湯船の暖かさに目を細めて気持ちよさそうに漂っていた。

「ん。じゃあ、最初に質問だけれど、ちゃんとしたコンディションならゲートは正常に、行って戻ってきた座標・時間で固定する?」

そんなウルの頭に軽く顎を乗せ、湯気に煙った浴室の曇った窓ガラス越しの、昼下がりの日差しを眺めながら問いかける。

『おそらくは難しいだろうな。座標の固定自体は容易だが、時間軸の固定はおそらくコツが要る。ハルに如何に才があろうと、そればかりはどうにもならないだろう』

「じゃあ、毎回いって帰ってくるたびに、下手したらあの時みたいに半年もこっちでは行方不明。みたいな事になっちゃうのかな?」

春の脳裏に、初めてシンクと会ったとき、帰ってきた自分を泣きながら抱きしめる痩せ細った母の姿が浮かび、今朝の光景と重なって申し訳ない気分になる。

『いや、あの時ほどではないにしろ、こちらで過ごした時間がそのまま適用されてそちらでの時間軸に接続されるのではないか?』

「なるほどね。そっちで1週間過ごしたらこっちでも1週間空くわけだ」

相槌を打つ春に、シンクは確定ではないという意図をこめて

『おそらくは』

とだけ返す。

「ふむ……これからはちゃんと予定を立てて行かないといけないね」

そう零す春の頭では、すでに幾日かの日を見てはフェミュルシアへと足を運ぶ予定が組みあがりつつあった。

『まだ此方へ関わるつもりがあるのか?生半可な覚悟では足りないと、分かったではないか』

咎めるというより、心配するようなシンクの口調に、春は若干困り気味に目を瞑り

「うん、でも……やっぱり、見捨てては置けないかな。シンクはそこから動くわけには行かないし。でも、僕が動けばなんとかなるでしょ?」

と、自身が寝ている間、そして起きてから掘り返して整理した知識から至った結論を口にする。

『……ゲートを繋いで回る気か』

意図を察したシンクの声が、僅かに驚いている事が分かる。

「さすが。僕と思考を共有してるだけあるね。僕はこれからフェミュルシアにマナを流す作業を手伝いたいと思う」

『各地の魔族領にゲートを開いて、マナの均一化を図ろうと言うのか』

「寝てる間に整理された知識だけどね。マナは多い場所から少ない場所に流れるんでしょ?なら、僕の世界とそっちを繋げば、必然的に二つの世界のマナは均一になる」

春の整理した情報は、フェミュルシアの世界の知識。そして、それはあくまでフェミュルシアの中だけで完結する知識だった。

シンクの知識を、春は取捨選択してきり合わせ、自分の世界とシンクの世界、二つが共存する道をはじき出す。

『それはそうだが……』

口ごもるシンクだが、その困惑はおそらく期待の入り混じったものだった。

「これなら契約者を増やして、こっちの人間に迷惑をかけずに達成できる。お互いにとっての最良手だと思わない?」

シンクが危惧していたのは、何も自身の世界のマナが枯渇し、自身たちが息絶える事だけではない。

フェミュルシアに住むマニトが好きなように、ルグラに住む春達の様な人間もまた、シンクは好きなのだった。

そして、その彼らに契約を持ちかけると言う事は、互いの世界を干渉しあい、少なからず春達の世界、ルグラにも混乱をもたらすと言う事を理解していた。

故にシンクは春と契約する最後の最後まで、契約を拒み、春を試すような態度を貫いていたのだった。

契約した今となっては、その心境は春にとって、手に取るようにわかる、そして、より共感できる想いでもある。

シンクが抱いた理想を、春は手伝ってみたいと思ったのだった。

『確かに、理想的ではあるが……できるのか?』

自身の中での知識と照らし合わせ、それが可能であると言う事実を再認識したシンクが、先ほどよりも期待のこもった声で春に問う。

「できるかどうかじゃなくて、やるんじゃないの?それに、シンクは森を守らなきゃいけないから動けないけど、僕ならそっちでは自由の身だ。なんならウルと一緒に旅をするよ」

まるで、ちょっと旅行に行こうとでも言う様な簡単な物言いに、シンクは励まされていると分かっていても、心配になってしまう。

『しかし、そちらの世界での時間が……』

心配するのは、自分ではなく、春の事。

「それに関しては……んー。そっちの世界の危機、というか、友達のピンチだし。学校だ何だなんていってられないと思うから」

この期に及んで自分ではなく、春の心配をするシンクの態度に、春は諭すように柔らかい声で、いつもの様に笑う。

「最悪留年しても、僕はまだまだやっていけるからね。成績だって悪くないし、事情は……まぁ、母さんも医者だから、命が掛かってるなら許してくれるよ」

春の母、慧子は勤務医で、専門は内科ではあるが、医者という職業柄、命は重いのだと、常々春に言って聞かせていた。

春もまた、その母の教えを含め、自分は他人を好きでいる人間であろうと、そう決めたのだった。

「甘えてるようで悪いんだけどね」

最後に、その場にいない母に詫びる様に付け加える春の口調は、少し悪戯っぽい、年相応の17歳の青年のものだった。

『……願ってもない。が……本当に?』

再三にわたる確認。

シンクにとって、それほどまでに希望に満ち溢れた提案だった。

故に、信じられないわけではない。ただ、夢であってほしくないと、そう願うからこその、確認だった。

「うん。これで、約束守れるね」

春はしっかりと頷き、まるで目の前にシンクが居るかのように笑ってみせる。

『約束……か』

春の口に出した約束という言葉で、シンクにとっては思い出深い記憶がフラッシュバックする。

「懐かしいよね」

シンクが今思い出し、感慨に耽っている記憶を、春もまた思い返しながら、どこか暖かさを感じさせるようなささやきで応じた。




11年前。

春がまだ小学校に上がる前の出来事だった。

同い年で親同士の付き合いもある友人、納雨丙とその妹、末明と共に、今でこそビルの狭間に飲み込まれてしまった空き地に集まり遊んでいた。

まだ日は高く、幼い少年たちの無邪気な笑い声が木霊する。

あどけない顔立ちで、幼き日の小柳春、当時6歳の春は、同じく6歳の、染めていない純粋な藍色の髪がつんつんと跳ねた元気そうな少年、納雨丙と走り回っていた。

その様子を少しはなれた所から砂遊びをしながら眺める、当時4歳の納雨末明。

三人の世界は、そこで完結していた。

平和で、暖かく、それでいて刺激にあふれた、そんな世界。

子供だけの閉じた世界で、三人は満足していた。いや、それ以外の世界など、意識が向かないと言う方が正しいだろう。

空き地は子供たちの王国だった。

子供たちの世界に割り込む様な声がかかる。

「末明ー?丙も、そろそろ帰りましょうか?」

空き地の出口で、一人の女性が買い物籠を下げて立っていた。

丙と末明は女性の姿を確認すると、駆け寄って

「あ、ママー」

買い物籠を持っていないほうの手を握って笑顔を向ける。

その屈託無い笑顔に微笑み返しながら、丙たちの母親は空き地を見回して首をかしげた。

「あら?春君は?」

母親の問いに、今気づいたように振り返って広場を一瞥した丙が

「えー?さっきまでいたよ?」

と、首をかしげて答える。

その場には丙と末明、そして二人の母親しか居らず、小柳春という少年は、影すら残さず消え去ってしまっていた。

春は、大きな樹の根元で目を覚ました。

目をこすり、まだはっきりしない意識のまま周りを見渡す。

見たこともない景色。はじめてみるような植物が、春の視界を埋め尽くすように広がっていた。

「あれ?ここ……どこだろ……さっきまでひのえ君と遊んでたはずなんだけど……」

立ち上がって服についた土埃を払いながら、もう一度辺りを見回す。

しかし、そこは空き地でも、ましてや町の中ですらない。

春の胴体ほどの太さもある木の根や、まるで巨人のような木々に囲まれた小さな広場。

どこからか鳥の囀りや、何かの動物の鳴き声が聞こえてくる森の中で、はるか高い上空の枝葉の隙間を縫うように差し込む日差しが春を照らしていた。

「ひのえ君……?ほのかちゃん?……ふたりとも、どこー?」

いつの間にか一人になってしまった春は、どことも知れない場所に一人で放り出された恐怖で今にも泣きそうな声を上げて友達の名前を呼ぶ。

誰かが見ていたら、よく泣かずにいたと褒めてくれただろう。

しかし、人の姿すらない森の中で、春の声はただ空しく響き渡るのみだった。

その木霊も徐々に弱くなり、溶けるように消える。

「ひのえ君……ほのかちゃん……ママ……」

呟く声に涙が交じり、気づけば言葉ではなく嗚咽へと変わっていた。

見知らぬ土地で、木々に囲まれた状態で春はただ膝を抱えて涙を流している。

――ガサガサ。

春が泣き始めて暫くすると、春のちょうど向かい側の背の高い草が揺れ、何者かが姿を現した。

その姿は6歳の春よりもやや年上で、日本ではまず見ない燃えるような赤色のツンツンと跳ねた髪と、爬虫類を想起させるような、縦に割れた金色の瞳は、恐ろしさよりもどこか物悲しげな雰囲気をしている。

まるで人形のように整った顔立ちだが、頬はまるで何かにぶつけた様な仄かに赤くなり、目元には先ほどまで泣いていたような跡が残っていた。

「……」

姿を見せた赤髪の少年は、膝を丸めて泣いている春の元まで歩いてくると、無表情のまま春の頭に手を置く。

それは撫でると言うよりは手を置くという様な不恰好な触り方だった。しかし、慰めようとしているのが幼い春にも伝わるような暖かなものだった。

「ひぐ……ぅ……おにいちゃん。だあれ?」

涙声のままで、頬を伝う涙を拭う事すら忘れた様子の春がわずかに顔を上げて少年の姿を認めて問いかける。

すると、少年は何かを悩むような沈黙の後

「……言葉は通じておるか?」

と、まるで確かめるように問いかけた。

まるで子供らしからぬ言い回しに、春は一瞬きょとんとしてしまう。

その声の抑揚は乏しく、少年の美貌と合わせて冷たいような印象を与えたが、春にとっては初めて話ができた相手だということのほうが大きかった。

「おにいちゃん、ここ……どこ?」

尋ねる春に、少年は春の頬の涙を拭ってあげながら答える。

「神域、そう呼ばれておる」

「しんいき……?」

「然り。汝、何故この様な場へ独りで迷い込んだのだ……汝ら人が忌避する魔性とて、数多く潜んでおるというのに……」

少年の声が微かに震え、何かを噛み潰すような言葉には先ほどまでとは違う明確な抑揚が宿っていた。

しかし春は少年の僅かな変化に気づかず、首をかしげて興味深そうに少年の言葉を反芻する。

「ましょう?ぼく、気がついたらここにいて……」

「そうか……この世の歪に飲み込まれたか」

春の言葉に、ようやく納得が言ったという風に小さく頷きながら少年が言う。

「おにいちゃんは、なんでここにいるの?」

春の質問に、少年は視線を巡らせながら言葉を選ぶように小さく答える。

「我か?ここが我が領域……だからの」

少年の言葉は、自分の言葉に自信がないというよりは、どことなく春の様子を窺う様な調子だった。

春は不思議そうに首をかしげて周囲を見回すが、家らしい物どころか人工物すら見当たらない。

「おにいちゃんのおうちなの?」

どうやらこの森の事を家と呼んでいるのだと、春はなんとなく辺りをつけて少年に尋ねる。

「そうなるかの」

答える少年の声はどこか寂しげで、無表情の瞳の奥で、金の光が僅かに揺れる。

「おにいちゃんのパパとかママはいないの?」

「かつては……我のような者にも居ったのだろうな」

「さびしくないの?」

春の問いかけに、少年はきょとんとした顔を見せる。

それは、無表情を貫き通してきた少年が初めて見せた、人間らしい表情だった。

「寂しい……哀愁のう……久しく覚えがないが、しかし、言われてみればしかし侘しいのかも知れんな」

少年の物言いは古臭かったが、確かに寂しいと口にした。

春はその瞬間、自分よりも少年のほうがずっとずっと寂しい思いをしてきたのだと、直感的に思った。

まだ残っていた涙を拭き、立ち上がって春よりもやや背の高い少年を見上げ

「……じゃあ、ぼくがいっしょに遊んであげる」

と言って笑いながら手を差し伸べる。

「――良いのか?」

差し出された手を握ろうか、迷いながら問いかける少年はやはり、困惑と期待が入り混じった、確かめるような調子で尋ねる。

「うん」

しっかりと頷いて返す春に、少年は手を取りながら

「……し、しかし。我は遊戯の作法など知らぬぞ?」

なおも言い訳がましく嘯くが、春は首をかしげ、少年の言う遊戯が、遊びである事を推察して答える。

「ええっと……遊び方?なら、ぼくがおしえてあげる」

「……すまんな」

言葉とは裏腹に、少年の声はどことなく楽しそうだった。

春はつられて、今まで気になっていたが、尋ねてもいいものか迷っていた事を口に出す。

「そういえば、おにいちゃんの喋り方っておもしろいね」

ころころと笑う春に、少年は表情に乏しい顔を傾げ

「そ、そうかの……?」

といって、指で頬を掻きながら呟く。

「うん。おじいちゃんみたい」

「むぅ……然らば、どのような口調ならば良いのだ?」

少年があまりにも真面目な顔で尋ねるので、春は戸惑いながらも

「ええっとー。とりあえず、ぼくのまねをしてみたらどうかなー?」

照れ臭そうに笑いながら提案すると

「ふむ……なるほど。遊戯に興じながら汝の口調を勉強させてもらうとしよう」

と、少年が小さくうなずきながら言うので、春は思わず笑ってしまう。

「また変わってない」

「む……人の子の言語とは難しい……ね」

指摘され、戸惑うように言葉を選びながら答える少年。

その様子はどこかあどけなく、まるで初めて人と会話をするような初々しさがあった。

「そうかなぁ?」

「しか……うん。わ――僕にとっては、難しい、けど、新鮮」

少年のたどたどしい言葉は、なぜだか春の心を暖かくさせた。

「ぼく、こやなぎはるっていうんだ。よろしくね!」

少年に手を差し出しながら春が名乗ると、少年はおずおずと手を取り

「ハル君……よろしく。僕は……」

と言いかけた所で、少年は口をつぐんでしまう。

「おにいちゃんはなんて言う名前なの?」

問いかける春に、少年は歯切れ悪く答える。

「……僕に、名前はない」

それを聞いた春はうーんうーんと唸り、少年の事を頭からつま先までまじまじと見始める。

少年は春が見た事もないような服を着ていた。

簡素な作りだが丈夫そうで、少年の白い肌と同じく、森の中であるのに清潔感を感じる、新品のような服だった。

暫く少年のことを見ていた春は、何回か頷いた後

「じゃあ、ぼくが名前をつけてあげる!」

といって満面の笑顔を向ける。

少年の瞳が、驚いたように見開かれるが、すぐに元の無表情に近いものに戻るが、その表情はどこか嬉しそうだった。

「えっと、えっと……まっかな髪がすごくきれいだから、あかいって名前はどうかなー」

「あかい……うん。わかった。僕はあかい、だね?……その、よろしく。ハル」

「うん!」

春は少年の手をとって、興味の赴くままに森の中の探検を始める。

それは子供たちにとっての冒険であり、冒険ごっこと言う名の遊びだった。

最初の方こそ、年は春が危ない場所に踏み込まないように見守っていた。

しかし、春が次から次へと見つけた物について尋ねるので、気づけば少年も横に立って一緒に冒険ごっこを楽しんでいた。

「ははは。ハルはすごいな」

次々に珍しい動植物を発見してははしゃぎまわる春に、あかいは素直な感想が口をつく。

その頃には、乏しいながらも表情が出始め、ぎこちない笑顔を向ける。

「そんなことないよ。あかいおにいちゃんの方が何でもしっててすごいよ」

そんなあかいの賞賛を受けて、春が照れながら答えた。

春の頭を撫でながら、あかいは小さく首を振って、ぎこちなさの抜けない微笑のような物を浮かべる。

「ううん。僕は知ってても、探そうとしなかったからね。僕の周りに、こんなにもいっぱいの物が溢れているなんて、ハルと出会うまで知らなかった」

初めて笑顔らしいものを見せたあかいに、春は仲良くなれた気がしたのが嬉しくなる。

「初めてあった時は悲しそうだったけど、元気になってよかった」

「……僕が、悲しそう?」

言われて初めて気づいた様で、あかねは自分でも驚いたように何度か目を瞬かせる。

「うん、それに……どこかおびえてるみたいだった」

「……ハルは、聡い子だな。……僕が遊び方を知らないのは、こんな場所に住んでるからというだけではないんだ」

驚きつつもどこか観念したような調子で、あかいは重い口を開く。

「……おにいちゃんは、何でこんな所に一人ですんでるの?」

尋ねる春に、あかいは非常に言い辛そうにしながらもぽつぽつと語りだす。

「僕は……人ではないから」

その言葉を口に出す事を酷く躊躇う様な、あかいらしからぬ弱い物言いで呟く。

「人じゃない?」

首をかしげた春に、あかいは小さく息を吐いて、それから意を決したように春を正面から見据えながら

「……僕は、ドラゴンだ」

春の大きな目の中に映り込む自身の偽りの姿を否定するように言う。

「おにいちゃんはドラゴンなの?」

春の瞳が驚きで更に見開かれた。

そんな様子を愛らしいなどと思いながら、あかいは小さく頷く。

「ああ、今は、人の姿に化けているがね」

「なんでそんな事をするの?」

「……僕は、人のことが好きなんだ。だから、一緒に遊んでみたくてね」

そう答えたあかいの声は、心なしか諦観を含んだように沈んでいた。

まるで、そう思っていたのは昔の事で、もはやあきらめてしまったような、そんな物言いだった。

「なんでそんなにかなしそうなの?」

問いかける春に、あかいは緩やかに首を振る。

「ここから一番近い村には子供が少ない。だから、僕のようなよそ者はすぐにそれとわかってしまうんだ」

どこか遠くを見るような目で、木々の先、森を出た向こう側に思いを馳せる様にしながらあかいが言う。

「子供が、一人で何処かから来る訳はないからね……魔物が人に化けて子を攫いにきたと言われても、仕方ないんだよ」

「おにいちゃんはひとをさらうの?」

あかいの悲しげな言葉の響きに戸惑いながら春が尋ねる。

それに対し、あかいは心外だとばかりに力強く首を振りながら眉根を寄せ

「いいや。攫おうなんて、ましてやとって喰おうなんて考えたこともないさ。ただ、人からみれば、魔獣など皆一緒くたなのだろう」

徐々に萎んで行く声は僅かに震えている。

一目でどんな扱いを受けたかが嫌でも解ってしまう様な、悲しみと諦め、失望の入り混じった言葉。

「人でないとわかれば後は石を投げられ、衛兵に追い回されるだけ。結局、僕は人と共に歩むことはできなかった」

あかいは気づいていないのだろう、自身の声が震え、悲しみと悔しさに歪んだ感情の起伏に乏しかった顔、その瞳から涙がはらはらと零れ落ちてゆく。

それは春の中にあった、人に何かをしてあげたいという気持ちや、どうしてこんなに自分と変わらないのに、そんな思いをさせられるのかという、子供らしい純真さに火をつけた。

「ひどいよ。おにいちゃんはこんなにやさしいのに!」

まるで自分の事の様に憤慨して、話を聞いているだけなのに今にも泣きそうになって耳まで赤くなってしまっている春に、あかいは驚くと同時に救われたような気分だった。

一瞬呆けてしまったあかいは、春が自分のために怒ってくれているのだと理解すると途端に嬉しく、折れかけていた人間への好意が春へと向いてゆくのが手に取るようにわかる。

「ありがとう。そういってくれる人は、初めてだよ」

気づかぬうちに流していた涙が熱く、泣いていたせいで喉の奥が痛いが、それ以上に嬉しく、心の中に温かいものが染み渡ってゆくのを感じる。

「そうなの?」

まるで最初に出会った時の事をそのまま返すように、あかいの頭を撫でながら涙を拭いてやりながら春が尋ねる。

「皆、僕の事を怖がっているからね」

まだ嗚咽が残っていたが、先ほどよりは少しばかり落ち着いた調子を取り戻したようで、撫でられる手の心地よさを感じながらあかいは微笑む。

「おはなしができるんだから、ちゃんとおはなしすればいいのにね」

「……そうだね」

春の言葉に、あかいは小さく答える。

気まずくなってしまった雰囲気に、どうしたらいいのかわからずに黙り込んでしまう。

沈黙を払拭するように、何かを考えているように黙っていた春が口を開く。

「ゆびきりしよう?」

気まずさを流せるなら何でもいいと、あかいは春の提案に即座に反応する。

「指きり?なんだい?新しい遊びかな?」

「ううん。やくそくだよ!ずっとともだちって!」

春は笑いながら右手の小指を突き出して言う。

その笑顔がとても眩しく、あかいは目を細め、春の言う約束という言葉の意味を自分なりに解釈する。

「……盟友の契か」

「えーっと。たぶんそうだと思う」

相槌をうつ春に、あかいは自分の知識から導き出した《約束の誓い》の意味を再度吟味し、春ならばそれも良いと清々しい気分で春の頭を撫でる。

「ハルはいい子だな。実を言うと、僕は人を好きでい続ける事を諦め掛けていたんだ。……でも、まだ頑張れるよ。ハル、君のおかげで」

「えへへ。ぼく、もっともっといろんな人となかよくしたい!だから、おにいちゃんもともだちだよ!」

「では、指切り……といったか、それはどうすればいいのだ?」

頭から手を離しながら問いかけるあかいに

「えっとね……こうやって、こゆびをあわせて――」

そういいながら、春はあかいの手をとって自分の小指と絡ませる。

「ふむ」

「ゆーびきーりげーんまーんうそついたらはりせんぼんのーます!ゆびきった!」

元気よく手を振り、最後にあわせて小指を離す。

とくにこれと言った変化は無く、やや間が空いた後にあかいは首をかしげながら問いかける。

「……これで終わりか?」

「うん!やくそく!」

満面の笑顔を向ける春に、あかいは戸惑ってしまう。

「別段、何かの魔術的付与があったとは感じなかったのだが……」

問いかけられた春の笑顔がきょとんとした顔に変わる。

その後悩むように首をかしげながら

「ええっと、まほうとかそういうのじゃなくて、ただのやくそくだよ?」

どう説明したらいいのか分からず、ただ、約束という言葉を繰り返す。

その様子から、春の地域での風習のような物なのだと、なんとなくながらに察したあかいがあごに手を当てながら呟く。

「ふむ……なんというか、面白い風習だの」

深く考え事をすると口調にまで意識が回らないのか、口調が元の古めかしい物へと変わっていた。

「またおじいちゃんみたい」

そんなあかいの様子がおかしいらしく、笑いながら言う春に、あかいは困ったように頬をかく。

「むぅ……」

先ほどとは違う、気恥ずかしさにも似た感覚に戸惑いながらも、あかいは純粋な気持ちを向けてくれた春に、友達といってくれた春に、お返しをしたいと思った。

「では、僕からもハルに契を持とう」

春ほどではないが、ぎこちなさが抜けてきた笑顔を春に向け、あかいは言う。

「やくそく?」

首をかしげる春に、あかいは頷きながら目線の高さを春に合わせる。

「ああ。ハルも、僕の言葉の後に続いて言ってくれるかい?」

「うん!」

元気よく頷く春に頷き返し、あかいは緩やかに言葉を紡ぐ。

「《遠き異郷に隔たりし、人と魔の境を超越せんとす我が友よ、契違わんその時まで、我等永久なる誓いを立てん》」

言葉は、まるで春とあかいを包み込むように空間へ浸透し、昼下がりの日差しが差し込む森の、二人の周囲が仄かに明るくなるようだった。

「えっと、《とおきいきょうにへだたりし、人とまのさかいをちょーえつせんとす、わがともよ。ちぎりたがわんその時まで、われらとわなるちかいをたてん》」

たどたどしいながらも、春はあかいの言葉を続けて復唱する。

淡い光が弾けて、春とあかいの間で雪のように舞った。

まるで、種族も世界も超えた二人の絆を祝福するように。

「これで我等の契は交わされた」

息を吐きながら、額に微かに汗をにじませたあかいが目を細めて言う。

その様子は何処か疲弊しているようでもあったが、それを上回る喜びで満ちていた。

「いまのが、おにーちゃんのやくそく?」

問いかける春も、僅かに疲れたようで、眠そうに目を瞬かせながら問いかける。

「ああ。……さぁ、ハル。そろそろ家に帰らなければ、ハルの事を大切に思う人が待っているのだから」

あかいの言葉を聴きながら、春は徐々に眠りへと誘われる身体を奮い立たせ

「おにいちゃん、ぼくが帰ったら、一人になっちゃう……」

眠気に完全に負けかけたぼそぼそとした言葉だが、あかいとの別れを惜しむ様にあかいに抱きかかる。

春は、眠くなる身体や落ちていく意識の中で確かに、あかいの言葉の意味を理解していた。

また一人であかいは過ごすのだろうか。この森で一人きりの生活を。

初めて森で目が覚めた時、春は一人だった事にとてつもない不安感や悲しみを覚え、あかいと出会って払拭された。

しかし、自分がまたあかいを置いて帰ってしまえば、あかいは自分と同じように悲しんでしまう。

せめて手を離したくないという意思を、倒れこむ体に託して春はあかいに抱きつく。

しなだれかかってきた春を受け止めながら、あかいは小さく呟いた。

「大丈夫、寂しかったけど、ハルのおかげで元気が出たから。頑張れるよ」

その言葉は小さく、ともすれば空耳のように微かな物だったが、春の心には確かに響いていた。

春は、その言葉に安心して、暗転し始める視界に、意識に、身をゆだね始める。

遠くなる視界と音の中に、あかいが何かをつぶやいているのが僅かに聞こえていた。

「この子の元居た世界への道を――《隔たりし地への誘い、我呼びかけに答え、汝、道を示せ》」

……ブツン。

あかいの呪文めいた最後の言葉が終わると同時に、春の意識は急速に闇へと引き込まれていった。




『わかった。それならば此方からも準備を整える為に動いておく』

直接頭に響くようなシンクの声にハッとなり、自分が今まで浴槽で回想していたことに気づく。

湯船に浸かり過ぎたせいで、指が皺だらけになってしまっていた。

ウルはといえば、ただ湯船に浸かるだけでは飽きたのだろう、気づけばシャワーを捻って落ちてくるお湯と戯れているのが見て取れた。

「ん。僕も、戻ってきてすぐにまたいなくなるって言うのだとさすがに心配かけすぎちゃうからね。数日は大人しく生活するね」

春はそう答えながら立ち上がると、すぐに立ち上がった事を後悔する。

随分と長い間湯船に浸かっていた様で、立ち上がった瞬間に視界が明滅して転びそうになった。

『悪いな』

春の状態など見えるはずも無いシンクが頭に語りかけてきた事が幸いし、一瞬飛びそうになった意識が引き戻される。

「いえいえ。まぁ、その間ウルもこっちで滞在するわけだけど……」

寸での所で体勢を保ちながら答え、浴槽から体を引き抜きながらウルを見る。

春が動き出した事に気づいたウルは、自分の事を話していたのだと気づいてすぐに春の足元に駆け寄りながら

「ボクは大歓迎ー!フェミュルシアに戻ったらハル兄ちゃんと冒険でしょ!?それも楽しみだけど、こっちも楽しいからボクの事は気にしなくていいよ!ご飯もおいしいし!!」

ぶるぶると体の水気を振り払って尻尾を振る。

「……って事らしいね」

浴室を出た瞬間、湯気を吹き飛ばすような外気に体が触れた。

あまりの気持ちよさに思わず目を瞑る春を見たウルは、真似する様に外気に当たりながら目を細める。

『ならば問題は無いな。会話に関してはウルと僕とハルの間ならば口に出さなくても成立するから、不審がられない様にしたいならそうするといい』

『うん。ありがとうね』

バスタオルを手に取り、ウルの体から先に拭いてやりながら試しに口を開かずに答える。

『ほんとだ!すごいすごーい!!』

絶賛タオルでもみくちゃにされている最中のウルの声が頭に響き、春はウルを拭く手をいったん止めた。

するとウルは不思議そうな顔をしてふるふると体を振って最後の水気を飛ばし、目新しい物でも見つけたのか、体重計の方にとことこと歩いていってしまう。

『では、此方は集中するから暫く会話が繋がりにくくなる』

『うん。がんばって』

手早く体を拭きながら応える春の耳に、またもウルの声が響く。

『シンクさま、まったねー!』

どうやら会話の距離は近いらしく、大声で叫ぶように言ってしまうと頭の中でキンキンと鳴った。

『……』

シンクも同様に受け取ったのだろう。僅かに呻く様な声が聞こえた気がしたのを春は予想ながらに感じ取る。

「暫くはこっちでの生活だね」

耳を押さえることも出来ないので、やや時間を置いてから、体を拭ききって服を着ながら春が言う。

「だねー!」

春の着替えを待つ傍らで、既に体重計から戸棚に置かれた道具類に目が移っていたウルが元気良く答えた。

「でも、これからどうしようかな」

コンセントを挿してドライヤーを付け、ウルを呼びつつ、独り言のように春は呟いた。

暖かな風が吹きつけ、ウルの毛並みが逆立って揺られる。

「何がー?」

風をまともに受け、目を閉じながらウルは問いかけた。

ドライヤーで乾かしながら、春は自分の中で考えを整理する。

ウルの毛並みが乾き終えた頃に、漸く春は口を開く。

「えっとね。シンクの準備が整ったら、僕らはまたフェミュルシアに戻る」

「うんうん」

春が自分の髪を乾かし始め、その揺れる毛先を面白そうに眺めるウルが相槌を打つ。

「でも、帰ってくるまでの間、同じ期間だけこっちでも時間が流れるとする」

「うんうん」

「そうなると、フェミュルシアに行っている間は学校を休む事になってしまう」

「……がっこうってちゃんと行かないとダメなの?」

「んー。卒業するだけならそれほどでもないんだけどね。成績だって後でなんとでもなるし」

そこまで成績は悪くないし、素行も良好。むしろ優秀といっても差し支えない。

誰にでも優しく、テストでは常に中から上位の間に位置し、理由が無い限り波風が立つことのない少年。

それが、周囲が春に抱く印象だった。

「じゃあいいんじゃないかな!いかなくても!」

ウルの楽しげな様子に、まるで遊びに行く計画を練っているような気分を味わいながらも春は一応提言して置く。

「そうもいかないよ。僕は学生だからね。きちんと本分を全うしないと」

「じゃあ、どうするの?」

ウルの問いかけに、春は頭の中で何度も吟味し、選び取った選択を口にする。

「うん。母さんには悪いけれど、休学って扱いにしてもらおうかと思う」

「やすんでもいいの?」

「特別な事情があればね」

「ふーん」

春の言う、休学の意味は分からなかったが、ウルはなんとなく、休んでもいいのだと雰囲気で理解する。

「問題は、休学にしてもらった後、僕がこっちの世界から消えているという事実をどう隠すかだけどね」

「――あー、そっか。ハル兄ちゃんがフェミュルシアにいる間は、こっちだとゆくえふめーって奴なんだもんね」

ウルは、春が目覚めるまでの間に見聞きした、春の母親と弟の会話から、たぶんこうだろうと言う言葉を使う。

どうやらそれはあたっていた様で、春はそのまま言葉を続け、悩ましげに眉根を寄せる。

「そう。母さんにも迷惑かけることになっちゃうし、そこら辺をどうしたものかって感じかな」

ウルに語りかけるというよりは、独り言に近い春の言葉に、ウルも自分なりに考えようと頭を捻る。

しかし、いくら考えても何かが浮かぶわけでもなく、やや考え込んでいたが、ついに諦めたように唸りだす。

「むー……いっそ、家出しちゃえば?」

やや投げ遣りとも取れるウルの言葉にも春は丁寧に応えようし、その瞬間にある発想が頭に浮かんだ。

「ダメだよ……でも、いい考えかもしれないね」

「家出?」

再度問いかけるウルに、春は小さく苦笑しながら

「ちょっと違うけど、まぁ、似たような物かな?」

と言って頭を撫でた。

ウルの毛並みは乾きたててふわふわと心地よく、まるで上等な絨毯でも触っているような感触だった。

春に撫でられるのが好きらしく、ウルもごろごろと猫の様に喉を鳴らしながら頭を寄せる。

その姿は、春が今後しなければならないであろう、心を痛める嘘を紛らわせるには丁度よかった。




春が部屋着に着替えてリビングに戻ると、相当長い時間風呂に入っていたのだと今更ながらに理解させられた。

まず、高く上った日から降り注ぐ日差しは、既に夕刻近い暗さを持ち始め、電気のともっていない家の中を更に暗くしていた。

慣れた手つきで電気をつけ、ソファに腰掛ける。

適当にテレビの電源を入れるが、別段見たい番組があるわけではなかった。

ただ、無言になるだろう自分の代わりにウルの退屈を紛らわせてくれる物として、ふと思いついたのだ。

どう話を切り出そうかと思案を始めると、動かない春の膝にウルが飛び乗ってそのまま興味深そうにテレビの方を注視し始めて動かなくなる。

暫くして、玄関が開く音が聞こえると、ピクッとウルの三角耳が立ち上がって玄関の方へとぱたぱたと走ってゆく。

「ただいまーウルー!良い子にしてた?」

どうやら帰ってきたのは恵亮だったようで、春は思考を中断して玄関の方へ意識を向ける。

「うん!ハル兄ちゃんといっぱいお風呂に入ったよ!」

おそらく恵亮にはウルの言葉はただワンワン言っているだけに聞こえるのだろう。

理解できる事に喜びと、また同時に、自分以外に理解されないことに僅かな寂しさを感じつつ、春は緩やかに腰を浮かして玄関へ向かう。

「うわ、ふかふかだね!さてはお風呂にはいったなぁー?」

玄関まで行けば、小学校から帰ってきた恵亮がランドセルをそのまま放り出してウルをもみくちゃに撫で回していた。

「おかえり、恵亮。学校はどうだった?」

当たり障りない会話をと選んで口に出してみる物の、これでは兄ではなく母親や父親のようだなと内心で軽く苦笑しながら春は言う。

「お兄ちゃん、ただいま!お兄ちゃんもお風呂入ったんだね!ウルふかふかー」

春に気づいた恵亮がウルの背に顔をうずめて頬ずりしながら応える。

「あんまり撫で回すとウルが可哀相だよ」

「はーい」

苦笑しながらやんわりと止めさせると、恵亮も名残惜しそうにしながらも結局は聞き分けよく手を離す。

『ウル、大丈夫?』

身体をふるふると動かして全身の毛を揺すっていたウルをちらりと見ながら頭の中で語りかける。

『うん!全然平気だよっ!』

尻尾まで振るえが行き届き、ふわふわとゆれる毛が元通りになったのを確認しながらウルが元気よく応える。

先ほどと同じく、耳元でがんがん叫ばれたような気分に陥りながら

『こっちの会話だと距離関係なく普通に聞こえるみたいだから、大声出さなくても大丈夫だよ』

春があえて小声で教えるように念話を送ると、ようやく気づいたようにウルは目をぱちくりと瞬かせる。

『あ。ほんとだ』

「お兄ちゃん、遊んでー」

靴を脱いだ恵亮が春に抱きつきながらぴょんぴょんと小刻みに跳ねてせがむ。

そんな恵亮の頭にぽんぽんと手を置きながら、諭すように春が言う。

「はいはい。まずは手を洗ってうがいをしてからね?」

「はーい」

聞き分けよく洗面所へと小走りで向かっていった恵亮の背中を見送り、春は投げ出されたままのランドセルを回収し、同じく不ぞろいに放り出されていた恵亮の靴を揃える。

「ハル兄ちゃん、どうするか決まった?」

春がかがみこんでいる為、ちょうど目線が同じ高さになっていたウルが覗き込むようにしながら問いかける。

「……大体ね。母さんや恵亮には悪いと思ってるけど、こればっかりは譲れないから」

靴を揃えている手を止めて、春はいつになく真面目でどこか決意したような、何処か陰のある表情で小さく答える。

「具体的にはどうするの?」

「……休学申請して、暫く近くの町で一人暮らしさせてもらおうかと思う」

手を動かし始めながら、先ほどの表情など微塵も感じさせない様な明るめな調子で笑う。

見る人が見れば、それははぐらかしているようにも映るだろう。

しかし、ウルは気づかずに、ただ純粋に春が元気な様子に喜びながら尾を振って尋ねる。

「そんなに簡単にできるの?」

「まぁ、普通はもっとややこしいんだけど……たしか祖父母が暮らしてた家がまだ残ってるはずだから、そっちで暮らせればと思ってね」

「一人だったらいない事バレないもんね!」

ウルは正解したから褒めてと言わんばかりにつぶらな青の瞳をキラキラと輝かせながら鼻を鳴らす。

「そういう事」

頭を撫で、喉を軽く指であやす様に撫でながら春が小さく微笑む。

「お兄ちゃん!手洗ったしうがいもしたよ!」

洗面所のほうから恵亮の元気な声が聞こえ、春は答えながら立ち上がる。

「はいはい。今行くから――ウル、行こう」

「うん!」

ウルも元気良くうなずいて、春よりも先に軽快な走りで恵亮の元へと駆けていった。




それから先は、まるで転げ落ちる様に時間が進んだ。

自身の過去の神隠し暦と現在の状況に付け込む様な言い訳なのだが、目覚めてすぐに話をする事は春の良心が咎め、躊躇われた。

春が目を覚ました2日後。つまり、フェミュルシアから帰還してから8日目に、春は夕食中の慧子に相談を持ちかけた。

慧子は、突然息子が学校を休んで暫く一人暮らしがしたいと言い出したことにひどく戸惑ったが、結局は過去の神隠しの事件や、今回の失踪紛いの件も含めて話をされると折れざるを得なかった。

酷い説得もあった物だと、自身の部屋で説得の内容を回想しながら春はため息をついて、今後の予定を確認していた。

話を持ちかけたのが8日目というのは、何も春の良心がこのような我が侭を言う事を躊躇ったというだけではない。

金曜日に話をすることで、土曜と日曜を引越しの準備や学校への手続きに当てられるという事も、大いに関係していた。

しかし、そこまで計算ずくで金曜日を選んだとは口が裂けてもいえなかった。

かくして、当初の計画通りに土曜と日曜を過ごし、フェミュルシアから帰還して11日目に、初めての学校へ行く事へなった。

「それじゃあ、行って来るね。っていっても、手続きだけだから、すぐに戻ってこれると思うけど」

靴のつま先で地面をとんとんと蹴りながら、春が制服姿に鞄と、初めてフェミュルシアにきた時と同じ格好で玄関に立つ。

「うん。いってらっしゃい!でも、こんな時間で大丈夫なの?メグルも小母さんも朝から出て行っちゃったけど……」

玄関に敷かれたカーペットの上にちょこんと座りながらも尻尾を振って見送るウルが問いかける。

「まぁね。恵亮も母さんも普通に仕事したり学校行ってるから。僕は休みを貰いに行ってくるだけだから、学校にお勉強しに行くのとは違うからね」

「ふーん、そうなんだー」

春の説明はどうやらウルには難しかったようで、首をかしげながらもなんとなくの返事を返す。

そんなウルに苦笑しつつ、春は扉を開ける。

「行ってきます」

「いってらっしゃい!」

扉の閉り際に、背中越しにウルの元気な声が聞こえて、春は後押しされるように家を出た。

慧子は春にできる限り家から出て欲しくないようだったので、この4日間、春は見事に家に軟禁状態だった。

その所為か、久しぶりに感じる日差しは春先にも関わらずやけに暖かく、まるで肌にぴりぴりと刺さる様な感覚を覚える。

さすがに通学や通勤の時間とはずれている為、道には人通りも少なく、妙に閑散とした雰囲気が、人工物に囲まれた街中を寂しい印象へと変えていた。

それは、フェミュルシアの神域でみた森があまりにも活き活きとしていた為か。はたまた、見慣れた世界だからこそ、色褪せて見えてしまうのか。

そんな事を考えながら歩いていると、気づけば学校まですぐという所まで足が進んでいた。

歩きながら、春はもう一度鞄から書類を引っ張り出して確認する。

休学措置に必要な親の署名やその他諸々。あとは学校の責任者である校長に許可を貰えば終了である。

確認を終えて視界を広げると、校門が徐々に近づいていた。

開け放たれた校門をくぐり、昼休み直前の、生徒が教室に入り終え、授業の真っ只中と言う、静かな校舎へと入る。

手馴れた手つきで下駄箱から上履きを取り出して履き替え、教室校舎ではない、移動教室などが固まる職員塔の方へと向かう。

職員室の前まで来た春は、一度深く深呼吸をしてから扉を2、3度ノックして職員室に入る。

さすがに授業中だけあって、教師たちも各々の担当する科目の授業をしにいっているのだろう。数多く並べられた机には、見渡す限りぽつぽつとしか教員の姿は確認できない。

校長室はどこだったかと、職員室を見回しながら春は思案する。

さすがに、職員室から校長室へと続く扉がある事は知っていても、それを意識して探す機会は過去になかった。

いつ何処で必要になるか分からない知識だななどと思いながら、職員室に入ってすぐの入口付近で視線をめぐらす春に、横合いから声がかかる。

「小柳、小柳じゃないか。久しぶりだな」

春が声に反応して横を向くと、机の上になにやら書類をまとめて起きながら立ち上がり、春のほうへ近づいてくる人物と目が合った。

「あ、ご無沙汰してます。旗江(はたえ)先生」

その、ある意味インパクトの強い外見で、すぐに春の中から一人の教師の名前を思い出した。

アスリートの様な屈強な肉体がスーツとミスマッチした、スポーツ刈りの髪型がさらに暑苦しさを助長する数学教師。

現在は一年クラスと二年の春のクラスの担任を務めているちょっとした名物教師だ。

厳しくも優しいと、保護者や生徒からも信頼される、このご時勢では珍しく仕事熱心で真面目で熱い教師でもある。

春などは成績も素行も問題なしと言われている為、旗江に直接生徒指導で呼び出しを食らったことは一度もないが、経験者は地獄より恐ろしかったと語っていた。

そんな旗江が気さくに話しかけてくる。

「暫く休んでいたからどうしたのかと思ったぞ。滅多に風邪も引かないし、無為に授業をサボる様な奴でもないから尚更な」

本当に心配していたのだろう、僅かに寄った眉間は怒っていると言うより心配していると言う印象を強く与える。

「すみません。諸事情ありまして……」

軽く頭を下げながら答える春に、旗江は小さく息を吐く。

「……理由は言えないってか」

腕を組む旗江に春は困ったように曖昧に微笑む。

逡巡の後に、ここで黙って心象を悪くしようが結局は校長伝に担任である旗江にも話が行くのだと結論付けて、春は口を開く。

「そう言う訳ではないんですけど……まぁ、これから嫌でも知られてしまうでしょうし、お話します」

これまでの経緯を、異世界や魔法などの突拍子もない話を省き、適当に辻褄を合わせて旗江に話す。

といっても、過去に一度誘拐されたことがあり、今回も3日間ほど連れ回されて精神的に参ってしまっている。

だから暫くできれば人に合わずに静養したいので、学校の方に休学願いをだして、現在は空き家になっている祖父母の家で一人暮らしをすることにした。

という、ある程度辻褄を合わせても整合性にかけると自分でも思ってしまうほど滑稽な良い訳だったが、どうやら旗江は半信半疑ながらも信じる気にはなったようだった。

「……小柳が誘拐に遭ったと言うのは初めて聞いたが、まぁ、これが普段から素行の悪い奴の戯言ならまだしも、お前だからな」

どうやら、旗江の中での春の信頼が功を奏したようだった。

普段から波風立てずに真面目にいる事の恩恵に、春は心の中で感謝しつつ

「それで、休学願いを申請しに来たのですが、校長室はどちらにありましたっけ?」

と、旗江に本来の目的の場所を尋ねる。

「ああ、そうだったな。案内するからついて来い。そういう話なら俺もついて行った方が良いだろう」

「お願いします」

旗江に案内され、春は校長室に入る。

校長室は歴代の校長の写真が額縁に収まって飾られる室内には、数々の学校の功績である大会のトロフィーやらが整然と並べられた、豪奢というほどでもないが、清潔感や威厳のような物を感じさせる部屋だった。

初めて入る校長室を僅かに見回した後、席に座る人物に目を向ける。

校長は初老の男性で、髪は薄くないもののその殆どが白髪へと変わっていた。

彫の深い顔には年月を重ねた年輪のように深く皺が刻まれ、眼鏡の奥で細められた目は穏やかそうな印象を与える。

春が校長を見ている間に、旗江が校長に説明をしてくれていた。

話す手間が省けたと思いつつも、こんな風に頼りきりでよいのだろうかと春は思う。

明日にでも本格的に引越しをして、すぐにでもフェミュルシアへ渡ってしまおう。

そんな事を考えていると、話を聞き終えた校長が春に向かって口を開く。

「……小柳君、だったかね」

「はい」

「難儀だったね。暫くは人を怖いと思うかもしれないが、もし回復してきたら、いつでも復帰してくるといい。我々はいつでも歓迎するよ」

「はい、ありがとうございます」

柔らかな物腰で春を励まそうとする校長や、春を見ながら言外に気を配ってくれている旗江に罪悪感を抱きつつ、春が答える。

手続きが終わる頃、昼前の授業はすべて終了し、休み時間を告げるチャイムが鳴った。

「教室から持って帰りたい物があれば持っていくといい。置いたままの教材等だな」

校長室を辞した春の横で旗江が言う。

しかし、春は元々自身の持ち物は必要な分だけを鞄につめてその日ごとに持っていく主義だった為、とっさに何か置き忘れているものがあるかと言われると答えに詰まってしまう。

「んー……たぶん特には無いと思います。それに、休学する人間が教室に行っては迷惑でしょう」

「しかし、納雨は随分と心配していたようだったぞ?神隠しがどうこうなんて現実味のないことを言っていた位だ」

旗江は何気なしに言ったのだろうその一言は、春にとっては軽く衝撃的だった。

確かに昔、半年ほど失踪扱いになっていたとき、その直前まで丙と遊んでいたが、しかし、当事者である春が忘れているにもかかわらず、たまたま一緒にいた丙が覚えているなどと言う事がありえるだろうか。

「そうですね……丙にもあってませんし、暫く会えなくなる前に会ってきます」

そう答える春に、旗江は言い辛そうに言葉を濁しながら気遣うように尋ねる。

「大丈夫か?その、人の多い場所に行っても。何なら納雨を呼んでくるが」

「いえ、大丈夫です。それでは、お世話になりました」

遠慮というよりは、確かめる為には丙と落ち着いて話をしなければならなかった為の返答だった。

「何かあればまたいつでも来るんだぞ」

職員室を出る前に聞こえた旗江の言葉に、春は会釈で返して教室塔の方へ向かう。

この時間ならば、丙はまだ教室にいるはずだ。

慣れ親しんだ校舎を歩き、すれ違う人々の間を縫うように教室へ向かう。

時折、同級生や春のことを見知っている人が驚きや戸惑い、そういった視線を春に向けたが、春は意に介した風もなく歩く。

教室の入口から覗くと、いつもの様に春の座っていた席の近くで丙が外を眺めていた。

「丙。おはよう」

教室に入りながら、丙の元まで歩いてゆく。

途端に教室が騒がしくなり、視線が春に集まって、辺りから色々な声が上がった。

「小柳、どうしたんだよお前ー」

「春君風邪でも引いたの?大丈夫?」

「お前、誘拐されたって聞いたけど、マジかよ!?」

口々に春に問いかけてくるクラスメイト達に苦笑しつつも、春の目は丙から離れない。

丙は一瞬、狐につままれたような呆けた顔をしていたが、春が本当にいる事を確認するように何度も瞬きをしてから

「……春、お前……本当に春なのか?」

軽く息を呑むような調子の丙の目元にはくまが浮かび、何処となく血色が悪い。

幼馴染にここまで心配させてしまった事に、春は今更ながらに申し訳ない気持ちになる。

「ん。ただいま。話がしたいんだけど。今、いいかな?」

小さく微笑んで、自分が無事である事を証明するようにいつもの調子で問いかける。

「――わかった」

丙はいつになく真面目な表情で短く答えた。

騒ぎの収まらない教室を抜け出し、人目を避けて使われていない裏庭の木陰へと歩いてゆく。

二人が、余裕があるときにはよく昼食を食べに来ていた場所だった。

先行して歩いていた丙が足を止めて春に向き直る。

風が木々の枝葉を揺らし、影が揺れた。

「……本当に、無事なんだよな?」

確認するように言う丙に、春は微笑みながら答える。

「うん。ごめんね。心配かけて」

漸く安心したように、丙はドッと息を吐く。

次いで涙がぼろぼろと零れ落ち、まさかなくとは思っていなかった春はぎょっとしてしまう。

「……良かった。本当に、俺……春がまた神隠しに遭って、今度は、帰ってこないんじゃないかと……」

嗚咽交じりに、自身が泣いている事など気にも留めず、ただ春を抱きしめる丙に、春は戸惑いつつも子供をあやすようにぽんぽんと背を叩いてやる。

「大丈夫、そんな事にはならないよ。……丙は覚えてたんだね。6歳の時の事」

丙が落ち着くのを待ちながら、春は懐かしむように言う。

嗚咽が収まり、目元が赤くなっていたが、どうにか泣き止んだ丙がぼそぼそと呟く。

「忘れられるわけねぇだろ……遊んでた友達がいきなり消えるなんて……俺、あれトラウマだったんだぞ」

ふるふると首を振り、いまだに春から離れようとしない友人の姿は、どこか幼い子供のようで。

気がつけば春は背中を叩いてあげていた手を丙の頭の方へと運んでいた。

「そっか。ごめんね」

つい、ウルや恵亮に対するように頭を撫でてしまう。

「な、何だよ……」

鼻をすすりながらも、頭を撫でる春から一歩はなれるように漸く体を離す。

「ごめんごめん。落ち着いた?」

ポケットからティッシュを取り出して丙に差し出しつつ春は苦笑する。

「まぁな」

先ほどまでの醜態を思い出してか、丙はばつが悪そうにティッシュを受け取り鼻をかむ。

鼻をかみ終えると、丙は完全に落ち着いたようで、いつもの雰囲気に戻っていた。

「……それで、もう大丈夫なのかよ」

問いかける丙に、春は僅かに浮かべていた微笑が歪む。

「うん。その事を話そうかと思って」

胸の奥に重いものが圧し掛かってくる感覚を抱きながら、春は言う。

「僕、休学する事にしたんだ。……理由はちょっといえない。でも、心配しないで欲しい」

春の言葉に、丙は落ち着いたようだった表情が一瞬で凍りつく。

「……何かあったのか?それは、俺には相談できない事なのか?」

喉の奥が乾くような嫌な感覚に囚われながら、丙は春の言葉を頭の中で反芻し、どうにか理由を聞き出そうと知恵を絞る。

「妹だって、末明だって心配してたんだぞ、春だけじゃなく、天城まで消えちまって……」

口をついて出たのは妹の名前。こういう時ばかり引き合いに出すのは卑怯だと思ったが、一度口に出すと引っ込みがつかなかった。

春の決意が固いことも、長年の付き合いで分かる。だからこれくらいではていよくあしらわれてしまうだろう事も、丙には何となく予想がついていた。

しかし、予想とは裏腹に、春の反応はまったく違った物だった。

「――え、ちょっと待って丙、僕以外にも、ってどういうこと!?」

どこか慌てた様な調子で問いかける春に、丙の方まで戸惑ってしまう。

「あ、えっと、ほら。うちの向かい側に、天城って家あるだろ?そこの一人息子が末明と同い年でさ。お前も会ったことあるだろ。里桜って奴」

丙の言う、天城里桜という人物を思い出そうと春は記憶をたどる。

確かに丙の家の向かい側には男の子が住んでいて、その子が末明の幼馴染だった事を思い出す。

「……ああ。あのちょっと気の強そうな子だよね。彼がどうしたの?」

里桜という少年の事を頭に思い浮かべながら春は問いかける。

しかし、里桜とは末明を通してしか交流がなかったため、春の知る天城里桜は数年前のものだ。

「お前が行方不明になった後、天城も消えちまったんだよ」

「それはいつ?」

問いかける春に、丙は指を折って日を数え、何度か確認を繰り返した後に答える。

「確か……一週間くらい前だったはずだ」

一週間前と聞いて、春はちょうど自分が帰ってきた辺りだななどと思い返し、久しぶりに親友と話す所為か、気が抜けてついつい口が滑ってしまう。

「一週間前……ちょうど僕が帰ってくる辺りかな」

呟かれた声に耳聡く反応した丙が眉根を寄せ

「おま、そんなに前に戻ってたならそう言えよ!!」

脱力とも怒りとも呆れともつかない様な情けない怒気を含んだ口調で非難する。

「帰ってから3日は昏睡状態だったんだから、そんな事言われても困るかな……。まぁ、その後すぐに連絡しなかったのは悪かったけど」

そんな丙に詫びる様に言いながら、困ったように笑う春。

何時もと変わらない春の反応に、丙も毒気を抜かれてしまってそれ以上何もいえなかった。

「……」

「ねぇ、その天城君、何かおかしな様子はなかった?たとえば、ほら。消える前の僕みたいに」

「……さぁ、最後に一緒にいたのは末明らしいんだけど、末明はお前が失踪してからずっと塞ぎ込んでたし、天城の事もあって完全に参っちまってるよ」

「そっか……」

反応もそこそこに、すぐに思案げに視線を地面に落とす春に、丙は小さくため息をつく。

「その分だと、末明に会ってからってわけには行かないみたいだよな」

「うん。ごめんね。末明ちゃんには丙から伝えてくれない?」

春としても、想定外ではあったが、出来る事ならば何とかしたいと思っていた。

その為にはおそらく、そう時間を掛ける事もできないだろうことも、なんとなくではあったが予想がついてしまっていた。

「ああ……きっと安心すると思う」

「僕も、経験者としてできる限り、天城君の事は当たってみるね」

「悪いな。何か、春だって大変なのに」

目に見えて疲れが浮かんだ顔で言う丙に、春は首を振る。

「気にしない気にしない」

柔らかな笑みを浮かべて丙の肩を叩く。

「じゃ、天城の事……頼むな」

「あまり期待はしないでね?」

「分かってる。俺は末明を何とかするさ」

やる事が明確になったお陰で、自然と丙の中の焦燥感のような物が和らいだ。

春に小さく微笑み返し、気になっていた事を聞こうと思ったところで、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「やっべ。それじゃ俺、教室に戻るから!」

既に駆け出しながら、春に手を振る。

春もその場で手を振って見送っていた。

「……俺の気のせい、だよな」

春と別れた丙はボソッと、自分に言い聞かせるように呟く。

最初に春を見た時、丙は言い知れぬ威圧感と、春ではない誰かが春の外見をしているような違和感を覚えていた。

春の持つ柔らかな物腰や言葉遣い、態度はまるで変わらないのに、鋭利に研ぎ澄まされた雰囲気のようなものが、周囲を無条件で突き刺してまわる様な緊張感。

その所為で一瞬誰だ変わらなかった程だった。

春にいったい何があったのだろう。

丙は親友の心配をしながら、教室に戻ったら皆になんて説明しようかと別の、現実的に差し迫った問題に対して頭を捻りながら廊下を走って行った。





丙を見送り、家へ帰ってきた春は早速自室の荷物をまとめる作業を再開していた。

と言っても春はそこまで多くの物を持っていくつもりはないし、元々は祖父母が住んでいたままだったものを使わせてもらうつもりなので、必要最低限の荷物で十分だった。

「ふぅ。こんな物かな」

まとめ終えた荷物を眺めながら、春は息をつく。

「こんなに持っていくの?」

脇から眺めていたウルは目を見開きながら尋ねる。

ウルにとってはどれがどういう意味を持つ物なのかわからない為、大きな鞄や箱が2、3あるだけでも多く感じるのだろう。

「これでも少ない方だと思うよ。少なくとも、家具の類はほとんど向こうにあるからね」

「そーなの?」

「これでも最低限の服と、向こうに持っていったら楽かなって思うものだけだよ」

「そう言えば、ハル兄ちゃんはあっちに戻ったら何するの?」

春の言う、向こうがフェミュルシアである事を察したウルが尋ねる。

「ああ、そう言えばウルには教えてなかったっけ」

「そーだよ、ずっとシンク様とハル兄ちゃんだけで話進めちゃうんだもん」

むくれる様に鼻を鳴らして言うウルに、春は苦笑してしまう。

「ごめんごめん。そうだね。その事でウルにも聞いておかないといけない事があったんだった」

ウルを抱き上げてベッドに腰掛けると、春の膝の上でウルは首をかしげて春を見上げる。

「わふ?」

どちらで聞いても犬が首をかしげている様にしか聞こえなかった。

「ウルは、フェミュルシアに戻ったらどうしたい?」

ぴくぴくと動く三角耳を優しく摘み、弄びながらハルは尋ねる。

「んー、ボクは何も考えてなかったよ」

いじられる耳を擽ったそうに動かし、春の指を前足で押さえる様にしながら言う。

手を離してやると、前足を猫のように舐めながら悩むように首を捻ったまま黙り込んでしまった。

「じゃあ……神域で暮らす?」

ウルにとって、一番自然な選択肢だろうと思われるものを提示するも、ウルは首を捻ったまま唸るのみだった。

「森ならシンクもいるし、知り合いも多いんじゃないかな」

鼻を近づけて春の指を舐める。

「ハル兄ちゃんはどうするの?」

まるで猫じゃらしで遊ばれる猫のようだと、ウルの前で指をくるくると回して構いながら答える。

「……僕は、向こうについたら旅をしてみようと思うんだ」

春の言葉を聞いた瞬間、ウルは指から目を離して期待に満ちたようなキラキラと輝く青い瞳でウルが見上げた。

「旅?冒険?」

尻尾が激しく左右に揺れる。

分かりやすいなと微笑ましく思いながら、春はウルを自分の目の高さまで抱き上げた。

「そう言ってもいいかもね。僕がフェミュルシアに呼ばれたのは、シンクを通してこっちの世界からフェミュルシアにマナを流す事なんだけど」

抱き上げられたウルは尻尾を振ったまま、春の方へ三角のピンと立った耳を向ける。

「何もこっちの世界の人間と向こうの世界の住人が契約しなくても、世界同士にマナをやりとりする道を作ればいいんじゃないかと思ってね」

ウルには難しい話だった様で、ウルは抱き上げられたまま首をかしげて

「うーん。どうするの?」

といって、鼻を鳴らす。

「向こうの世界の各地、シンクが準備してくれているはずだけど、魔族達が暮らす各地の領域に、こちらの世界からマナを流す為の魔法陣を敷いていこうと思ってるんだ」

どうしたら上手く説明できた物かと、春も内心で首をかしげながら言う。

「それをやるとどうなるの?」

「これもシンクの知識を借りた物だけどね。マナは多い場所から少ない場所に流れる性質があるらしいんだけど、世界同士にマナをやり取りする流れができれば、必然的にこちらの余剰なマナがあちらの世界に流れ込む」

「そうすれば、もう魔光石から滲み出すマナに頼って人と争う必要もなくなる。後は、魔族と人が暮らす境界線を作るなり、お互いに共生できる環境をシンクを中心に作っていくんだ」

資源の問題が解決されれば、後は争う必要性のない事を主張して

そこまで説明されて、ウルは漸く春の意図する事が、ウル達の平和に関わる事だと端的に理解する。

「人が襲ってこなくなるの?」

「そうだね。シンクやウルは人よりも長生きだからね。時間はかかるかもしれないけれど、これがきっと最良なんだと思う」

ウルに向けられた春の目は、どことなくシンクを想起させる様な金色の輝きがあった。

「……ハル兄ちゃんはすごいんだね!」

結局話の大部分は理解できなかったようだが、とにかく春がやろうとしている事は良い事だと理解したウルが羨望に目を輝かせて言う。

「僕は、魔法陣を設置してまわる為に、フェミュルシアを旅しなきゃならない。だから、神域にいつまでも居る訳には行かないんだ」

暗に、ウルとは神域で別れなければならないと諭すように言う春だったが、ウルはそんな言葉の裏に隠された想いに気づく様子もなく

「じゃあ、ボクもハル兄ちゃんと一緒に行く!ハル兄ちゃんのお手伝いしたい!」

条件反射のように後ろ足と前足で空を掻いて春に飛び掛るように笑って言った。

春はてっきり、ウルは神域で暮らす物だと思っていた。

出来る事ならば一緒に居てやりたいが、まだまだ子供のウルを連れ回すのは危険が伴う。これから行う旅とはそういうものだ。

親を亡くして間もないウルを連れ回すというのもどうにも気が引けてしまった。

旅をすれば必然的に人と関わる機会も多くなり、ウルの母を殺したのもまた、人なのだから。

故に、期待のまなざしを向けてついて来たいと言ったウルに驚き、春は思わずたずね返してしまう。

「いいの?森に居た方が、きっと安全だよ?」

春の言葉の裏の意図を知って知らずか、ウルは力強く吼えて答える。

「ボク、強くなるって決めたんだ!」

「そう……じゃあ、これからもよろしくね」

ウルの瞳の奥に宿る力強い光。

春が柔らかく微笑んでウルの頬に軽く口付けすると、ウルは擽ったそうに目を細め

「うんっ!」

力強く頷いて春の頬を舐め返した。

ウルを膝の上に下ろした所で、春とウルの頭に声が響く。

『ウルも一緒に行く事にしたのか』

『こっちは一通りの準備が終わった所だよ。そっちはどう?』

シンクの声に応えつつ、暫くは見れなくなるだろう自室を見回しながら春が応える。

『あと少しで整う所。ハルが来るのは明日だったか?』

『聞いてたの?』

『今しがた落ち着いた所だったから、全部ではないけれど』

シンクは言葉の端にやや後ろめたさのような物をにじませ、詫びる様に付け加える。

春は別段着にしていたことでもないので、むしろ説明する手間が省けたとばかりに小さく笑って

『なら話が早いかな』

といってシンクの言葉を流す。

『ハルが来る頃には準備が終わると思う』

『……ありがとうね』

『それは此方の言葉だよ』

『シンク様!ボクもハル兄ちゃんについていくよ!』

ややしんみりとした様な空気を、ウルが一言で払拭する様に力強く言う。

『しっかりハルの事を助けてやるんだよ』

『うん!』

シンクの言葉に、ウルは元気よく頷いて春に笑顔を向ける。

『ハル、ウルの事を任せてもいいかい?』

ウルには聞こえないように声を潜めるというよりは、春にのみ伝わるように調節した声でシンクが尋ねる。

『もちろん。友達、だもんね』

膝の上で尻尾を振って見上げているウルを微笑ましく眺めながら春が応える。

そこにはシンクと春の間での友達という言葉には特別な意味があった。

『そうだな』

意図を察したシンクも柔らかく微笑んでそれに応えた。

「春ー?ご飯できたから降りてらっしゃい」

会話が一段落した辺りで、階下から慧子の声が響く。

どうやら夕飯ができたようで、待ちきれない様子の恵亮の声も混ざっているようだった。

「分かったよ、母さん」

ウルが目を輝かせて春の膝から飛び降りる。

春も立ち上がりながら答えると、ウルは待ちきれないといった様子で

「ご飯だーっ!」

といって駆け出してしまう。

「急がなくてもご飯はなくならないよ」

フローリングで滑りそうになるウルに苦笑しつつ、春も暫くは食べられないであろう母の手料理を味わう為、階段を下りていった。

この先、おそらく暫くの間は春の話が続きます。

里桜が主人公の対の章に関しては、章の区切りで切り替わるかと思います。

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