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少年は幻想の夢を見るか?  作者: 門間円
対の第一章・里桜
4/16

~助けを呼ぶ声~

遅くなりました。漸く対の一章です。

今回の対の章は、前回の一章とはまた違った視点で描かれています。

その為新しいキャラクターが多数登場し、前章とは打って変わった花賑わいとなっております。

~対の第一章・助けを呼ぶ声~


黒く硬そうな髪が細く開いた窓から入ってくる春先の暖かな風に揺られて靡く。

机に教科書を立て、突っ伏した状態で心地よさ気に眠る少年の顔は、精悍というよりはやや幼い印象が残る。

「む……う……」

嫌な夢でも見ているのだろうか。眉根を寄せて呻く少年に、ひとつの影が静かに歩み寄っていた。

――スパァン

綺麗な乾いた打撃音と共に、少年の頭に強い衝撃が走る。

「ぐぇっ!?……な、なんだ!どうした!!」

突然の刺激に身体が過敏に反応し、席を立ち上がって周囲を見回す。

すると、自身が学校の教室、しかも授業中に眠っていた事に思い至る。

恐る恐る視線をやや上に向けると、アスリートの様な屈強な肉体がスーツとミスマッチした、スポーツ刈りの髪型がさらに暑苦しさを助長する数学教師。

まさかの数学教師である。これが体育の教師と言われればすんなり納得もしようものだが、どうしたわけか、この教師は数学の教師として、少年達のクラスで教鞭をとっていた。

般若を思わせるような形相で少年を睨み

「どうしたもこうしたもねぇよ馬鹿。遅刻してきて寝てやがるとはいい度胸じゃねぇか」

ゴキゴキと肩を鳴らしながら少年に低く重い声の重圧をかける。

少年は叩かれた頭の痛みが抜けきらないのか、未だに頭を摩りながら反発するように

「だから、遅刻した理由はちゃんと説明しただろ!!!」

と食って掛かる。

その言葉に、教師は腕を組み目を閉じる。

しかし、徐々にその眉間に皺が寄り、何かを噛み潰すような調子で

天城里桜(あまぎ りお)……お前が本当に信号で立ち往生していたお婆さんを助けたり通勤途中のOLの落し物探しをしたりしてるのは知ってるが、だからといって遅刻したり、ましてや授業中に寝ていい理由にはならねぇんだよ」

静かに言いつつ目を開ける教師の眼光の鋭さに気おされ、少年、里桜は半歩身を引いて

「……すいません」

と小さく謝る。

そんな様子の里桜と教師、主に里桜に向けて

「あはは。里桜のばーか」

と隣の席からからかう様な、その場に不釣合いな明るい少女の声が割ってはいる。

その声の主は足を組みながら頬杖をつき、背中まで伸びた藍色の髪を弄る。

くりっとした赤茶色の瞳が悪戯っぽく笑い、その、年齢よりも数段幼く見える童顔がさらに幼い印象を与えていた。

そんな少女の様子に里桜はバンと机を叩いて、その場に教師が居ることも完全に失念したように

末明(ほのか)、お前、隣の席なんだから起こしてくれても良かっただろ!!」

怒鳴りながら少女、納雨末明(いりさめ ほのか)の座る机に大またで歩み寄る。

そんな里桜を受け流すような調子で肩をすくめ

「嫌よ。私まで怒られたくないしー」

と言いながら鼻を鳴らす。

「こ、この外道!!」

間近で怒鳴る里桜に対し、耳を塞ぎながら末明が眉をしかめて立ち上がる。

「こんな事くらいで外道呼ばわりしないでよ。人聞き悪い」

「うっせぇ!人でなし!」

「うっさいわね!単純バカ!」

お互い、授業中であることも忘れて程度の低い罵り合いを始める里桜と末明。

そのすぐ脇で、教師のこめかみの血管が浮かび上がっていた。

「お前ら……仲がいいのは大変結構だが……――授業中だと言ってるだろうが馬鹿共が!!!」

――スパパァン

再び、打撃音が教室に響き渡る。

ほぼ同時に二人の頭を撃つ様な華麗な技に、里桜と末明は二人揃って叩かれた頭を押さえながら声をそろえて

「「いってぇ!!(いったぁい!!)――何するのよ!!!(何すんだよ!!!)」」

見事なまでに声をシンクロさせて教師に食って掛かった二人は、お互いの顔を見合わせて再度益体のない言い争いを始めた。

二人の様子を面白げに見守っていたクラスメイト達の笑い声が教室に広がる。

そんな二人に溜息を吐きながら

「授業に騒ぐ方が悪い。これ以上授業の妨げになるようならもう一発食らうか?」

威圧のこもった低く腹に響く様な声に、二人は身を引きながら声を詰まらせる。

「……うぐっ」

「や、やだなぁ。せんせー。私は悪くないですよー。この馬鹿が悪いんですぅ」

先ほどまで一緒になって罵り合っていたのをすっかり忘れたように、末明が里桜を指差して笑顔を顔に貼り付けて猫撫で声で言う。

いきなり裏切られた里桜は一瞬絶句し、次の瞬間には末明への怒りが再熱していた。

「……てっめぇ……っ!!」

今にも食って掛かりそうな里桜の前に、教師がずいっと前へ出て、里桜の頭を二度ほど打ち据えた出席名簿をちらつかせながら

「まだやるか」

とだけ、睨みを利かせて言い放った。

その圧力に里桜は渋々と言った風に引き下がり、席に戻り際、末明に向けてキッとにらみつける。

そんな里桜に、末明は小さく舌を出して笑う。

「くっ……」

席に戻った里桜は、完全にやり込められた敗北感を感じつつ、悔しげに窓の外に広がる校庭に目をそらす。

校庭に生い茂る草木が、風に揺られて微かに震えていた。

柔らかい日差しが教室に差込み、幾本もの光の筋が教室を照らしている。何のこともない、退屈な日常。

里桜は小さくため息をついて、先ほど怒られた事など既に忘れたように頬杖をつき、流れ込む風に身を委ねる様に緩やかに目蓋を閉じていった。




「里桜!里桜っ!!起きろっての!!!」

体を強く揺さぶられる感覚と、耳元で鳴り響く大音量。

その両方に無理やり覚醒させられた意識を引きずりながら、里桜は目を擦って幾度か瞬きを繰り返す。

「やっと起きた……もう。あれだけ怒られたのによく眠れるわね……」

覚醒したばかりの気だるい身体を動かし、声の方へ視線を向ける。

見れば、呆れ顔で里桜を見下ろす末明の顔が、窓から差し込む、傾き掛けた橙色が映り込み、僅かにその頬を染めていた。

「ん……なんだよ末明、まだ眠いから寝かせてくれよ」

覚醒しきらない意識のまま寝言のように嘯く里桜に

「別に閉校時間まで寝てたいならご自由に。一応、幼馴染のよしみで声掛けてやったのに、少しは私に感謝しろっての」

末明は肩をすくめて自分の鞄を手に取りながら、教室に備え付けられている時計に目を向ける。

「閉校時間……?あれ……もうそんな時間?」

「馬鹿ねー。あれから放課後までずっと寝てたのよ?」

末明の言葉に、覚醒し始めた頭が漸く意味を理解し

「えっ……マジで!?」

盛大な音を立てて立ち上がる里桜に

「ほら、時計見なさいよ」

といって時計を示す。

時刻は既に夕方の18時をさしており、部活に勤しんでいた生徒も帰り支度を始めるような時間だった。

「……よし。帰ろう」

里桜はそう呟いて鞄を確認し、大して出してもいなかった教科書類を詰め込んでいそいそと帰り支度を始める。

そんな里桜の様子に、末明は呆れた様に

「あんた、私を置いていく気?送っていきなさいよ。せっかく待ってて上げたんだから」

と、声を荒げて教室を出て行こうとする里桜の前へ立ちふさがる。

「なんだよ。起こしてくれた事は助かったけど、それだけだろ。家が近いからって何で俺が送らなきゃ――」

里桜が脇を抜けて教室の外へでると、教室の中から末明の挑発するような声が聞こえてきた。

「あーあ。小柳先輩だったら優しく送ってくれたんだろうなぁー。里桜はガキだもんねー」

安い挑発だとは思ったが、結局は幼馴染の少女を置き去りに帰ってしまう事への気まずさに負け、教室に向かって怒鳴る。

「――……あーあー!!分かったよ分かりましたよ送って行けば良いんだろ!?」

里桜の行動など予想済みだと言わんばかりに、末明は教室から出てきながら

「最初からそう言えばいいのよ」

と言ってにやにやと含み笑いを浮かべる。

そんな様子の幼馴染に悔しさを噛み締めながら

「何だって今日に限って絡んで来るんだよ」

と嘯いて、里桜は廊下を歩く。

そのすぐ隣に追いついて末明は驚き交じりの声を上げる。

「何でもいいじゃない」

「また兄貴と喧嘩か?」

靴を履き替え、つま先でとんとんと地面を蹴りながら里桜が尋ねると

「うっさいわね。そんなんじゃないわよ」

先に靴を履き終え、振り返りながら答えた末明の表情は逆光で差し込む夕日に隠れて見えない。

校舎の入り口で待つ末明の横に追いつき、通り過ぎ様里桜が小さく

「そうかよ」

とだけ言って歩き始めた。

校庭を抜け、茜色に染まった路地を歩く。

夕日に照らされた通学路は、朝とはまた違った場所のような印象を与えていた。

人通りの疎らになった道は静かで、無言で歩く二人の間の静けさを助長するようだった。

無言で前を歩く里桜の背中に向かって

「……里桜のバカ」

末明は里桜の耳に入らないような小さな声で呟いた。

「何か言ったか?」

「なんでもないわよ。何でも」

振り返る里桜を早足で追い抜き、一歩先に出て取り繕うように言って髪を振って前を歩く末明。

「ならいいんだけどよ」

その後ろを頭を掻きながら里桜は嘯く。

「……」

里桜の知る末明は、要領がよく、悩みなど抱え込むようには見えない普通の女の子だ。

小学校に入るよりも前から家が近い事もあり、高校に入った今でも何かにつけてはペアを組まされ一緒になる事が多い、自他共に認める腐れ縁というやつだった。

学校を出て歩いている間中、ずっと感じている違和感。

形にならない不安感のような物に後押しされる形で

「何かあったら、ちゃんと言えよ」

黙ったまま前を歩く末明に、里桜が声をかける。

その言葉を飲み込むように足を止め僅かに俯きながら

「……うん」

と答えた末明は、微かに安堵したような表情を浮かべていた。

その表情がどこか儚げで、里桜の心に募る不安感が一層増したように感じ、それ以上の言葉を紡げなかった。




朱から暗へと徐々に変わりゆく通学路を、ただ無言で、お互いの歩調に合わせるでもなく歩く。

店やビルが減ってゆき、立ち並ぶ建物の種類は住宅に変わりだす。

昼間の騒々しさが嘘のように黙り込んだ末明の背中を見ながら、普段はどうだっただろうと里桜は思考をめぐらせる。

里桜自身は元々饒舌な方ではないが、普段は末明が一方的に話しかけてくる為、それに相槌を打つだけでそれなりに会話が成立していた。

その末明が一言も口を聞かずに歩く様子は、強い違和感となって、里桜の胸に無形の重圧を与えていた。

「ん。ここまででいいよ」

道をはさんだ向かい側にある家の門の前。

すっかり暗くなった路地で、末明が言う。

漸く口を開いた末明に、里桜は僅かに安堵を抱きながら苦笑する。

「ばーか。ここまでで良いって。俺とお前の家、向かい側だろうが」

言われて初めて気づいたかのように、末明も苦笑に釣られて笑い

「……あ。そ、そうだね」

妙に歯切れの悪い相槌で応え、家の門を開けて中に入っていこうとする。

その後姿が、いつにもまして小さく見えた気がして、里桜は自分でも気づかぬうちに声をかけていた。

「本当に大丈夫かよ」

「だ、大丈夫よ!全く、今日の里桜、ちょっと変だよ?」

振り返らずに応えた末明の声は妙に明るく、何かを隠している様だった。

だが、隠している事が何なのか、里桜にはわからない。

「お前が変だからだろ」

そう嘯く里桜の耳に、末明のつぶやく声が聞こえる。

「……本当に、勘良過ぎ」

俯き、背を向けたままの末明の小さな声。

しかし、それは里桜の抱いていた漠然とした違和感を確信に変えるのに十分な言葉だった。

「なぁ――」

訊ねようとした里桜の意図を察した様に、末明は乱暴に門を閉めて

「じゃあ、また明日ね!」

と言って家の中へと入っていってしまう。

「おい!末明!!」

呼びかける里桜の声が、日が沈み、街灯の僅かな明りに照らされた住宅街に木霊して消える。

「……ったく。何なんだよ。言わなきゃ分かんねぇだろうが」

一人残された里桜は苦虫を噛み潰すような、困惑とも怒りともつかないやり場を失くした感情を吐き出すように呟く。

「それとも、俺じゃ話にならないってのかよ」

奥歯を噛み締め、拳を握りこむ。

夜の、まだ軽く肌寒い春の風が里桜の髪を弄ぶ様に静かに流れる。

「……はぁ。明日まだあいつの様子がおかしかったら考えるか」

ため息をつき、末明の家とは向かい側の自宅の門を開けながら里桜が呟く。

門を閉めようとした時、体を何かが貫くような、熱い、痛みのような物が里桜の胸に刺さった。

「ぐっ!?……――何、が」

突然の痛みに膝をつき、里桜の肺の酸素が無理やり吐き出された。

呼吸を整えようと無意識に呼吸が制限され、息苦しさで視界が明滅する。

「く……ぁ……」

無理にでも呼吸をしようと、息を吸う。

すると嘘の様に苦しさが消えて、先ほどまでの痛みが幻覚だったのではないかと思える程だった。

額に玉の様に浮かんだ汗が、痛みが本物だったことを里桜に実感させる。

――ビキッ

明滅から戻ってきた視界が揺れて、暗くなった住宅街が一瞬、草木の生い茂る、人の手が触れなくなって久しい様な森の景色が重なる。

見覚えのない景色の中で、人影が囁く。

「……――助けて」

まるで耳元で言われたかのような鮮明な音声に、里桜はハッとなって立ち上がる。

既に痛みの跡さえない身体はすぐに動き、ガシャンと門を揺らして音を立てた。

幻聴のように頭の中で鳴り響く声が、言葉を紡ぐ。

「……私の国を、民を……お救いください」

か細く華奢な印象を与える姿無き声に、里桜が問いかける。

「誰だ、何処にいる?」

少女然とした声の主は応えない。

里桜が耳を澄まし辺りを見回すと、再び景色が揺れて、森の更に奥に、自然に埋没された古い建物が映り込む。

「何だよ……この景色」

呟く里桜の頭に直接語り掛けるような声が、再び響く。

「――助けて」

その声はまるで、古い建物――教科書に載っていた教会や神殿の様な物にも見えるそれの中から発せられているように感じた。

「……待ってろ。今、助けるから」

声の主に返すように呟く里桜は、ふらふらと覚束無い足取りで門を出て、森の奥の建物を目指す。

幻覚のように見えていた景色が強く鮮明になり、既に里桜の視界には住宅街も、街灯も見えていなかった。

ただ、声の主を探すように、里桜は森を歩く。

その足は住宅街を過ぎ、ビルの隙間を縫うように、ふらふらとしてはいるものの危なげの無い、まるで目的地が明確に分かっている者のような歩みだった。

「……どこだ、あんたは、何処にいる……?」

声の主を見失わないように、里桜は再び呟くように訊ねる。

「助けてください」

応えるように里桜の頭に響く声が、先ほどよりも近くに感じた。

その言葉に里桜は小さく笑って

「心配すんな、すぐに、駆けつけてやるからさ」

ビルの外壁を支えに神殿を目指しながら言う。

不意に、建物の間の細い道が開け、広い空間に出る。

街灯すらない暗い空間。その奥の地面が淡く輝いていた。

景色の割合が、急に現実実を帯びた物へと変わる。

「――あれ。何処だここ……」

現実に引き戻され、我に返った里桜が呟くと、それに呼応するように声が頭に響く。

「どうか……私の国を、民を。お救い下さい」

今までで一番強く、鮮明に聞こえる声。

その声は、淡く青い光を放つ場所から聞こえてくるようだった。

「あんたが、俺を呼んだのか?」

訊ねながら里桜が光に寄ってゆくと、それがただの模様ではない事に気づく。

ただ床に描かれているのではなく、光で作られた何かの模様が地面からほんの数センチほど浮かんでいた。

不思議な光景に思わず見惚れ、光に手を伸ばし掛けた里桜の耳に、先ほどまでの囁く、祈りの様な声とは違った声が響く。

「――っ!どなたですか!?」

今まで意志の疎通らしきものが取れなかった相手のきちんとした反応に、思わず立ち上がって里桜が叫び返す。

「あんたは何者だ!?何処にいるんだ!!」

「私は――きゃあっ!」

里桜の言葉に答えようとした少女の言葉が途切れ、悲鳴に変わる。

光の向こうから聞こえる悲鳴に、里桜は狼狽して姿無き声の主に向かって叫ぶ。

「おい、どうした!!大丈夫か!?」

「どなたか存じませんが、どうか、私の事をお助け下さい」

少女の逼迫した声。

里桜はまともに会話をするだけの余裕が無い事を、少女の震える声から悟る。

ぐっと拳を握り締め、喉が鳴った。

空に浮かぶ月が妙に明るく、空間を照らす。見上げれば星が瞬く夜空が広がっており、夜の風が足早に雲をさらって行く。

視線を足元へ移し、もう一度光で出来た模様を見据えると、光の渦が陣の内側へと巻き込むように流れ、淡い光が中心で収束して夜空の星を映し込む様に輝いている。

光の中へ一歩踏み出す里桜の瞳の奥には、内に秘めた意思が反映されるかのごとく、強い光が宿っていた。

「……――そんな事言われたら……助けないわけにはいかないだろっ!!!」

少女の声に答え、光の渦へ一歩踏み出した里桜の髪が、光の奔流に弄ばれて揺れる。

里桜が中心に立つと、光はその力強さを増して色が青から白へと変わってゆき、里桜の視界を、世界を、飲み込んでゆく。

「ぐっ……何、だっ!?」

景色が完全に溶けて、光の流れに投げ出される感覚。

「う、わあああああああっ!!!」

暖かな渦に飲み込まれて、柔らかな渦の中を落下してゆく。

視界の端で何かが通り過ぎるのを境に、里桜の意識は光に呑まれる様に霞んで行った。




「大丈夫ですか!?しっかり、しっかりしてください!!!」

精一杯声を張り上げるような、切羽詰った少女の声に揺られ、里桜は瞼を開ける。

建物の崩れた場所から柔らかな日差しが降り注ぎ、まだ日が高いことが見て取れた。

いつの間に寝てしまったのだろうと首をかしげて声のほうを見ると、見慣れない少女が心配そうに里桜を覗き込んでいる所だった。

「……あれ?俺、どうして――」

――チャリ、チャリ……

少女に尋ねようとした里桜の耳に、聞きなれない音が割り込んできて、里桜の言葉を押しとどめる。

それはまるで、金属同士が打ち合わさるような音。

「おそらく狙いは私です。早く、お逃げ下さい」

少女の声にハッとなって周りを見回せば、見た事も無い小人のような頭身の、緑色の鱗の様な体表に覆われた者たちが一様に短剣の様な物を構えて里桜と少女を包囲していた。

小人――ゴブリン達は突然の闖入者に対して、どう対処したらいいのか分からず、様子を見るように里桜と少女を見比べる。

「な――んだよ、これっ!!」

叫びながら立ち上がると、少女はビクッと肩を震わせて里桜から手を引く。

突然声を張り上げた里桜に、ゴブリン達は驚くように半歩身を引きながら武器を里桜に合わせて構えなおす。

「あの、私が隙を作ります。ですから――」

立ち上がりながら、震える手を押さえつけるように握り締めた少女が里桜に声を掛ける。

その姿は、朽ち果てた遺跡とも言える様なこの場において、ひどく不釣合いな程に清廉で、清楚かつ上品な雰囲気を醸し出していた。

とても武器を構えられ、狙われる様には見えない少女が、里桜を逃がすために勇気を振り絞って立つ。

それだけで、里桜の頭の中には向けられている刃物の恐怖よりも、この不思議な空間、見知らぬ場所への疑問よりも、少女を助けたいと言う思考が膨れ上がり、爆発する。

「ここが何処だとか、あんたが誰だとか、そんなのは関係ねぇ。……助けを呼んだのはあんただよな?」

自身の中にふつふつと湧き上がる、怒りにも似た力強い感触を手先に感じながら、里桜は目の前の存在から少女を護る様に前へ出つつ問いかける。

少女は、不意に問いかけられた言葉に驚きとも安堵とも付かない調子で

「え?あ、はい……確かに、先ほどから声が聞こえて、私が助けて下さいと。言いましたけれど……」

と答えるのだった。

里桜はその答えを聞いて確信する。

自分がここにいる理由を。この少女こそが、自身に助けを求めた存在なのだと。

そこまで分かれば、里桜にとっては十分だった。

「あの……失礼ですが、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

後ろから遠慮がちに問いかける少女の声に、里桜は振り返らずに

「そういえば、俺もあんたの名前、聞いてなかったな。まぁ、こんな時にのんきに自己紹介ってのもどうかと思うけどな」

とだけ言って、安心させるように小さく笑う。

里桜に言われて初めて自分が名乗っていない事に気づいた少女は手で口元を押さえて

「ご、ごめんなさい。私ったら自分の名前も告げずにお名前をお聞きするなんて……私はシンシア、シンシア=リューデカリア=ルーシェですわ」

慌てたように名乗る少女――シンシアの様子に、里桜とシンシアの間だけ緊迫した空気が僅かに緩む。

気を抜ける状況ではないにも関わらず、里桜は思わずシンシアの言葉に振り返り

「自己紹介は後でもできるだろ。まぁ、生きて出られたらだけどな。……俺は里桜だ。天城里桜、よろしくな」

苦笑交じりに自己紹介に返してしまう。

「リオン様……はい。がんばって、無事にこの場所を出ましょうね!」

笑われた事などまるで気にした風も無く、シンシアが里桜に向かって無垢な笑顔を向ける。

「リオンって……まぁ、別にいいけどさ」

名前の間違いなど訂正するだけ無駄だと、目の前の危機に頭を無理やり引き戻して里桜……リオンが呟く。

まるでそれに合わせた様に、ゴブリン達がリオンとシンシアを威嚇するように声を上げる。

「ゴガッ!ギョギュルル!!」

その声は動物の様でもあったが、リオンの知る動物の声とは明らかに違った物だった。

咄嗟にシンシアを守るように立ったリオンの腕に、シンシアがしがみ付く。

「きゃあっ!!」

刹那、シンシアとリオンの触れ合っていた部分が力強く光り、輝きを増して二人を包み込んでゆく。

「今度は何だ!?」

「リオン様、これは一体……」

光に呑まれながら、二人はお互いの知らない記憶が、知識が、想いが混ざり合うのを感じた。

やがて光はシンシアがしがみ付いていたリオンの右腕に収束し、一瞬、焼けるような痛みを伴って完全に消える。

リオンは収束した光が、剣と旗が王冠が絡み合った様な文様に変わるのを見た。

そしてそれが自身の腕に絡みつき、証として焼け付くのを感じた。

「な、んだ……さっきのは――」

「古の伝説、本当だったのですね。リオン様が、かの地より誘われし、勇者様……」

紋章を撫でながら呟くリオンに、シンシアは応えず、夢でも見ているような調子で呟くのみだった。

聞きたいことは山ほどあった。しかし、それを許すほど、ゴブリン達も待ってはくれない。

「――って、気にしてる暇なんかねぇよな!」

短剣を振り下ろそうと飛び掛ってくる正面のゴブリンを、反射的に蹴り飛ばしながらリオンは叫ぶ。

考えるより先に身体が動き、横合いから隙をうかがっていたゴブリンの様な敵に肉迫する。

普段よりも身体が軽く、まるで羽でも生えたかのように一瞬でゴブリンの眼前まで踏み込んだリオンは叫びながら

「お前らが、この子を傷つけるって言うなら、俺はこの子を護ってみせる!!!」

走りこんだ勢いをそのままに、握りこんだ拳を振りぬいて、予想以上の速さに対応できなかったのか、まともに受身を取ることもなく、ゴブリンは短剣を手放して壁まで吹き飛んでゆく。

持ち主を失い、宙をくるくると弧を描いて落ちてくる短剣を、まるで出来て当たり前の様に易々と掴んだ右手は紋章と同じく白い光をまとっており、それは手を通して短剣を包み込む。

「何がなんだかわからねぇけど。とりあえずこの力があればシンシアを護れるんだよな」

短剣を強く握りこむと、光はまるで意思を反映するかのように、薄く、鋭く研ぎ澄まされた。

その光が短剣の本来の刀身を超え、一般的な長剣の長さにまで達する。

「これなら――」

光の長剣をしっかりと握り、リオンが離れた隙を突いて切りかかろうとしていたゴブリンに飛び掛る。

「させるかよっ!!!」

光が一閃し、本来のリーチをはるかに超えてゴブリンを襲う。

まるで名匠が打った剣の様に、光が描いた軌跡通りに、ゴブリンの身体を斜めに薄い線が奔る。

一瞬遅れて線からあふれ出すように赤紫色の液体が噴出してリオンの服を濡らし、頬に返り血が飛ぶ。

「おっせぇっ!!」

片足を軸に、無理やりに軌道を変えながら、別のゴブリンを逆袈裟に斬り上げ、振り向き様にもう一匹のゴブリンを斬りつける。

一瞬にしてシンシアを囲んでいたゴブリン達が、1匹を残して壊滅した。

シンシアは自身を救ってくれた突然の救世主に言葉を失い、ただその場に立ち尽くし、ゴブリンもまた、突然現れた敵に壊滅された動揺からか、その場に足を縫いとめられたかのように動けずにいる。

先ほどまでの俊敏さとは打って変わった緩やかな動きでリオンはシンシアとゴブリンの間に割って立つ。

返り血にぬれた光の刃を振り、飛び散った血が床に小さな染みを作る。

頬に付いた血を左の袖で拭いながら、残った最後のゴブリンを睨み付け

「まだやるか?……って言っても、言葉が通じるかわからねぇけどな」

と言って剣の先を突きつけるように向ける。

言葉が通じたと言うよりは、リオンの発する雰囲気に飲まれたという方が正しいのかもしれない。

どちらにしろ、ゴブリンは一歩、また一歩と、じりじりと足を建物の唯一の出入り口の方へと向けていた。

その様子に、リオンが武器を下ろしてもう行けと手を振る。

ゴブリンは今度こそ意図を察したように大慌てで踵を返して出口へと走り出した。

その後姿を視界の端に納め、リオンはシンシアに向き直る。

「大丈夫だったか?どこか、怪我とかしてないか?」

問いかけるリオンに、シンシアは漸く、自身が救われたのだと理解し、張り詰めた糸が切れたように床に座り込んでしまう。

「あ、おいっ!!大丈夫か!?」

慌てて駆け寄るリオンに、シンシアは困ったように笑い

「いいえ、違うんです。ただ、安心したら腰が抜けてしまって……立ち上がるの、手伝ってもらえませんか?」

と、リオンに向かって手を出す。

その手をとろうとして短剣を左手に持ち替えた時、リオンは自身の手が返り血にぬれていることに気づき、手を取ろうか躊躇する。

迷ったまま手を引っ込めずにいると、シンシアは無理やり手を伸ばしてリオンの手を握った。

「あ、おい。汚れてもいいのかよ」

握った手の柔らかさと、人肌のぬくもりを感じながら、リオンは困ったようにシンシアを見る。

「はい。もう汚れてしまっていますし。……それに、命がけで私を護って下さったんですもの。汚いはずがありませんわ」

そう言いながら微笑みかけるシンシアの服は、みれば所々が破け、その上品な装いが台無しとまではいかない物の、大よそこれからも着続けることは無いだろう事を容易に想像させた。

「まぁ、あんたが良いなら……それでいいけどさ」

短剣を持ったままの左手で困ったように頬を掻きながら、ぐっと力をこめてシンシアを立ち上がらせる。

思いのほかシンシアが軽かったことと、先ほども感じていた、いつもとは違う力加減。

その二つが重なって、シンシアの身体は勢い余ってリオンの胸に飛び込んでしまう。

「きゃあっ!!」

「うおっと……」

受け止めたリオンと、シンシアの顔が近い。

間近で目があった瞬間、シンシアの長い睫や、新緑の瞳の奥の済んだ光に、リオンは思わず動きを止めてしまう。

「あ、あの……リオン、様……?」

恥じ入る様に頬を薄紅色に染めて見上げてくるシンシアに、リオンはハッと我に返って手を離す。

「あ、わ、悪ぃ!!!強く引っ張りすぎた」

頬を赤らめながらそっぽを向くリオンに

「いえ……」

シンシアも頬を赤らめたまま視線を足元へ向けて呟く。

先ほどとは違う、妙な緊張感が漂った沈黙。

お互い、どう声をかけて良いのか分からずに、お互いとは違う場所へ視線を彷徨わせる。

「あの……」

沈黙に耐えかねたようにシンシアが口を開く。

その言葉に反応するように、リオンもまた、シンシアへ顔を向ける。

「――助けてくださって、ありがとうございます」

はにかみながらそういったシンシアに、リオンもまた答えようとした瞬間。

――ドガァン

建物の外で、何かが激しく地面に叩き付けられるような音が響き、地響きが建物の中にいたシンシア達にも伝わった。

「何……でしょう?」

小さく問いかけるシンシアに、リオンは横に首を振り

「分からねぇ。けど、あんたは外に出るべきじゃない。俺が見てくるから、ここで待ってろ」

そう言って外へ出て行こうとする。

シンシアはそんなリオンの背中に

「あの、ちゃんと待っていたら……私のこと、ちゃんと名前でよんで下さいますか?」

と言って、小さく俯く。

そんなシンシアにリオンは振り返って苦笑しながら

「分かったよ。ちゃんと戻ってくるから。その時は名前で呼ぶさ」

と言って外へ踏み出していった。




リオンが注意深く外へ出ると、音の発生源はすぐにわかった。

木々の間でさえ隠れきらない見上げるほどに大きな浅黒い身体、その太く逞しい手に握られた棍棒が赤紫色に湿っていた。

その足元に、先ほど逃げたゴブリンだと思われる亡骸が、見るも無残に潰されて陥没した地面の中央に、まるでカエルのように張り付いているのが遠目から見て取れる。

「何だよ……あいつ」

リオンは呟きながら、気取られないように木の陰に隠れて様子を伺う。

その姿はまるで、ゲームに登場する巨人、トロールという名前のモンスターそのものだった。

「あいつが、ボスなのか……」

左手に持ったままだった短剣を右手に持ち直し、柄を握り締める。

先ほどのゴブリンなど、まるで比べ物にならないだろう事は容易に想像できた。

トロールは迷い無く廃墟の方へ、シンシアの隠れている建物の方へ向かってくる。

「……やるしか、なさそうだな」

強く握った短剣に再び光が纏わり、その姿を白い光の刃を持った長剣へと変える。

いつ飛び出そうか迷っていると、不意にトロールが口を開く。

「そこに隠れているんだろう。出て来い。出てこなければその木ごと貴様を叩き潰すぞ」

がらがらと皺枯れた、耳障りな低音が、確かにそう言葉を発した。

重々しい足音が、徐々にリオンの隠れる木へと迫ってくる。

このままいけばトロールは宣言通りに木をなぎ倒し、隠れたままのリオンごと押しつぶすだろう。

意を決して飛び出し、光の剣を片手で構え、トロールと一定の距離を取って様子を伺い

「あんたが、あのちっこい奴らのボスか?」

通じるかどうかはわからなかったが、リオンの耳にもわかる言語で警告してきたトロールになら通じるかもしれないという期待をこめて訊ねる。

すると、トロールは顔を歪ませ

「どうやら本当に全滅したらしいな」

冷やかに笑う。

笑い声が聞こえた事で、リオンはようやく、トロールの表情が歪んでいるのではなく、笑っているのだとわかる。

「仲間がやられて、笑うのか」

問い掛けるリオンの声に、微かに怒気が含まれる。

トロールはそんな様子など歯牙にもかけず、口が裂けるのではないかと思うほどに開き

「たかがマニトの一匹が、二匹に増えた程度で逃げ出すような小物を、仲間と呼ぶのか?」

まるで挑発するように、かつての部下だったであろうゴブリンたちを嘲弄するトロールの言葉に、リオンの中で何かがカチリと音を立てた。

「……てめぇみたいなのが一番ムカつくんだよっ!!!」

すでにこれ以上語らう事はないと断じたリオンが駆ける。

ほんの数歩の踏み込みで、トロールの眼前に肉迫し、光の刃が軌跡を描く。

ガギィィン……ッ!!!

軌跡が歪み、棍棒と噛み合って止まる。

「ぐっ……!!」

光の刃が、棍棒との鍔迫り合いで光の粒子を散らす。

全力で踏み込んだにもかかわらず、トロールの構えた棍棒をそれ以上動かす事ができない。

「どうした、それで終わりか」

嘲る様な調子でトロールがリオンを見下ろしながら言った。

奥歯をかみ締め、リオンは棍棒を押し切ろうとさらに足に、腕に力をこめる。

ふと、トロールの方が僅かに身を引くように棍棒をいなした。

お互いの力が正面からぶつかっていた事で拮抗していたバランスが崩れ、ぐらりとリオンの体勢が揺れる。

「ふん。くだらんな」

呟き、嘲る様なトロールの声が聞こえた瞬間、リオンは体制を整える事も考えずにただ横へと無様に転げた。

――ドガン!

続いて耳元で響いた地響きと、顔にかかる土砂を強引に振り払いながら、立ち上がるよりも先に地面を強く蹴ってトロールから大きく距離をとる。

転がりながら立ち上がったリオンが見たものは、舞い上がる土の飛沫。えぐれた地面。

そして、悠然と棍棒を構えなおして逃げ回る獲物を舌なめずりして見下すトロールだった。

「それで、許さんというならば一太刀くらい入れてみたらどうだ」

挑発するようなトロールの声。

しかし、目の前の光景に、リオンの思考は過熱されつつも平静を保っていた。

「焦んなよ、すぐにてめぇにキツーいお灸をぶちこんでやるからさ」

リオンは特に武術を習った覚えはない。ただ、喧嘩をある程度の数こなしていて、修羅場になれている。

それだけだった。

しかし、それだけでも、トロールを今の自分が正面から相手取るには、圧倒的に力不足だとわかる。

もしも一太刀入れることができるとするならば、トロールが予想もしない不意の一撃。

もしくはフェイントを織り交ぜ、相手の体格を逆手に取って翻弄し、相手が疲弊して手が緩むまで攻め続ける持久戦。

相手に攻めの手を渡せば、それだけ死が近づく。

命の危険を目の当たりにして、それでも逃げ出さなかっただけ誇れることだろう。

首筋を伝う嫌な汗を強引に拭って、トロールの僅かな動きも逃さないように目を凝らす。

緩慢な動きでリオンを叩き潰すために歩み来るトロールに、その死を携えてやって来る地響きに、リオンは生唾を飲み込んで光の刃を構えた。

逃げろ、逃げていいんだ。どうしてこんな訳のわからない所で命を張る必要がある。

頭の中に響く警鐘が、地響きと共にガンガンとリオンの頭を打つ。

天使の囁きとも、悪魔の誘いともつかないその警鐘を、リオンは大きく頭を振って否定する。

「逃げて、たまるか……っ!!」

そう呟くリオンの脳裏には、ただ一つの絶対的な、揺ぎ無い事象が焼き付いていた。

シンシアを助けに来たつもりだった。

しかし、シンシアは救ってほしかったにもかかわらず、リオンの、あまりにも無防備な格好を見て、自ら盾となろうとした。

怖かっただろう。必死に、来るかもわからない、姿も見えない相手に対して祈ってしまうほどに。

漸く来た助けに失望しただろう。自分と年端も変わらない、おまけに意識が混濁して状況の飲み込めていない無防備な少年に。

それでも、シンシアは前へたったのだ。自分が圧倒的に非力で、凶刃の前に晒されればその細く華奢な体などひとたまりも無い事など判り切っていた筈なのに。

その光景が嫌でも目に焼きついて、それだけが、リオンが引くわけにはいかない絶対の理由になっていた。

自分が逃げれば、シンシアが死ぬ。

この訳のわからない世界に飛び込んだのは自分で、希望を持たせたのも、失望させたのも自分だ。

ならばせめて、シンシアが安全になるまでは守らなければ。

グッと足に力を込め、目の前に迫ったトロールが棍棒を振り上げる動作にあわせて横に飛ぶ。

そのまま相手の後ろに回り込むように走り、それを追うようにトロールが横振りに棍棒を薙ぐ。

トロールは完全に、リオンを捉えたと思っていた。

横を抜けて後ろに回りこんだ相手がすることなどひとつ。

そう高を括っていたのだ。

しかし、振り向きざまに薙いだ棍棒の先にリオンはいない。手に伝わるのは、空気を薙いだ虚無感だけだった。

リオンの姿を探して視線をめぐらせるトロールの視界、そのやや上方で光が煌いたのをトロールは認識する。

「そ、こだあああああっ!!!」

聳え立つ樹の上。トロールの後ろへ回り込んだリオンは、そのままトロールに突撃するのではなく、さらにその後ろの生い茂る木々の上へ駆け上がっていた。

トロールよりも高い位置の枝を足場に、リオンは飛び降りざまに力強く樹の幹を蹴って飛び込む様にトロールへ迫る。

上空から一本の槍のように、トロールへ光の刃が奔る。

大きく振りぬいた棍棒を無理やり引き戻し、リオンの刃が届くよりも一瞬早く、狙い来る刃に合わせるように構えた。

トロールとリオンの視線がぶつかり、光の刃が棍棒を打ち据える。

再びぶつかり合う音が響いて、棍棒と刃の間に光の粒が舞って、棍棒の表面に細い裂傷が刻まれた。

しかし、その先のトロールに刃が届くことはない。

空中で止まったリオンに、トロールは棍棒越しににやりと笑った。

このまま落ちてくるリオンを狙って振りぬく。それだけで勝負がつくと、今度こそトロールは自身の勝利を確信していた。

「まだ……まだだっ!!」

リオンが奥歯を食いしばり、ぶつかり合う棍棒と光の刃を軸に体を翻し、トロールの頭を飛び越える。

トロールの後ろへ着地したリオンが、振り返り様にさらに飛び込む。

――光の軌跡が、トロールの背中を切りつけた。

「……ぐっ!う……」

薄く裂いた光の軌道が、浅黒い巨体に線を残す。

しかし、斬り付けるより一瞬早く反応したトロールに致命傷を与えるには至らない。

リオンは再びトロールから距離をとりながら内心で歯噛みしていた。

絶好のチャンスを逃した。この先、こういった不意打ちはもう通じないだろう。

それは、数少ない勝利への道筋が閉ざされたことを意味していた。

トロールはもう油断しない。おそらくは一太刀を浴びせてきたリオンを敵と見做し、全力で叩き潰しに来るだろう。

呻くトロールの背中の傷から、地面にぽたぽたと、腰に巻かれた布を伝って赤紫の液体が流れ落ちて染みになる。

「一太刀。だ」

内心の焦りなど微塵も見せないつもりで、リオンは光の剣についた血を振り払いながら刃の先をトロールに突きつける様に向ける。

「たかがマニトが……」

憎憎しげに呟きながらリオンを睨むトロールの視線と、剣の光に似た鋭く、強い意志を秘めたリオンの瞳がぶつかり合った。

「もう油断などない。貴様は念を入れて殺すとしよう」

トロールの口から吐き出されるのは、呪いの様な重い響きの声。

「やれるもんならやってみろよっ!!」

トロールの声に応じるように身を屈ませ、握り締めた短剣を構えながらリオンが叫び、再びトロールへと駆けた。

自身に一撃を当てたリオンを、敵と認識したトロールもまた、さきほどまでの隙だらけの構えではない、相手に全身の注意を傾けた状態で迎え撃つ。

リオンの剣戟が、トロールの棍棒が、枝を切り、地面をえぐる。

二つの影が幾度と無くぶつかりあっては離れてを繰り返し、周囲に傷を刻んでいった。




廃墟と化した神殿の様な建物の中。

土や草の匂いに混じって、鉄臭い臭いが鼻につく、柔らかな日差しだけが平和そうに降り注ぐ屋内。

所々に赤紫色の血だまりと、先ほどリオンに切り伏せられたゴブリンの亡骸が無造作に転がっていた。

細部まで意匠が凝らされた白地に金の刺繍がされたドレスの様な服に血がつくことも厭わず、シンシアはゴブリン達を抱き起こし、一列に並べて弔う様にひざを折る。

服はゴブリン達の血や泥に塗れて湿り、嫌な重みをシンシアに与えたが、シンシアはただ黙って祈るように目を伏せてゴブリン達の冥福を祈っていた。

祈りを終えたシンシアはリオンが飛び出していった外へ注意を向けながら静かに立ち上がる。

何度目だろうか。リオンが外へでて暫く経つが、外では未だに大きな地響きが断続的に鳴り響いていた。

その度にシンシアは肩を震わせながら外の音を何一つ逃すまいと全身の神経を尖らせ、出会って間もない少年の無事を祈る用に目を瞑る。

一人取り残されたシンシアは胸の前で手をぎゅっと握り、憂いを帯びた瞳が揺れて、口が小さく、少年の名前を形作っていた。

「リオン様……どうか、ご無事で」

シンシアは気づかない。無心で祈りを捧げる自身の周囲に、淡く光の粒が漂い始めていたことに。

まるで祈りが色彩を得たかのように、足元の石から、淡い雪のような物が湧き上がり、煙のように建物の中を満たしてゆく。

――ドガァァン……

一際大きな音が響き、ビリビリと足元から伝わる振動で髪が揺れる。

肩を震わせ、足の裏が痺れる様な感覚にシンシアの整った顔立ちが僅かに歪む。

「……リオン様」

リオンが出て行った後、幾度となく祈るように呟いた少年の名前。

震える声を吐き出した唇は白くなるほど噛み締められ、きゅっと寄せられた眉根が繊細で整った顔に皺を刻んでいた。

シンシアの脳裏に、少年の後姿が鮮明に浮かぶ。

少し硬そうな、この国では珍しい黒い髪。鎧一つ纏わない、どこかの学士や士官学校の生徒を想起するような不思議な格好。

紺色を基調とした学士の様な上着の胸元に、所属を表す紋章だろうか。見た事のない異国の装いである事を象徴する赤と黄色の糸で技巧を凝らしたような刺繍。

前が完全に開いた上着からシャツ越しに覗く、決して屈強とは言えないが年の割には引き締まった体躯。

意志の強い瞳が、力強く頷く表情が、危機的状況にあったシンシアを支えてくれた。

そんな少年の姿が目蓋の裏で明滅していた。今も、外では戦っているのだろうか。

外とは対照的に静まり、暖かな日差しが先ほどまでの危機感を忘れさせてしまうほどに穏やかな古ぼけた廃墟の中で、少女は静かに祈り続ける。

少女の祈りに呼応するように、湧き上がる光は廃墟の景色を埋め尽くすように彩り、溢れ出さんばかりの光が静かに明滅を繰り返す。

――ヴゥン……

不意に、シンシアのすぐ後ろで、何かが揺らぐ様な気配を感じた。

まるで世界その物が歪曲し、歪に折れ曲がった道が出来上がったような違和感。

シンシアが違和感に気づいて振り返ると、そこにはまるでその場の空気からにじみ出るように、溢れ出す光を食い散らかすように闇が現れていた。

「な、何が起こったのでしょう……?」

シンシアはその闇から遠ざかるように、徐々に後退しながら呟く。

注意深く闇を見据えるシンシアの瞳があるモノを捉え、その目が驚愕に見開かれる。

――ズブ……ズズズ……ズル……

闇から現れたのは人の指。

まるで生まれてから一度も日の光に当った事が無いのではないかと思うほどに病的に白く、繊細で華奢な印象を受けるその指は、女性のもののようだった。

現れる部位が徐々に増え、初めの指、続いて手。さらにその先の手首から腕が。

そうしてほんの数秒の間に、空間にぽっかりと空いた闇は一人の人物を吐き出していた。

黒いローブに身を包んだ、新緑色のプレートメイルとこげ茶色のプリーツスカートの様な格好の、美しいという枕詞の前に、身も凍るようなと付け加えたほうがしっくり来るような妖艶な女性だった。

背景の闇と対照的な金のツインテールが揺れて、胸にかかる様なもみあげ部分だけが夜空をさらに塗り潰したような黒色をしていて、両脇に纏められた金の髪と対照的な色合いが、女性の怪しさを助長させている。

血を思わせるような緋色の瞳が怪しく光り、まるで夜に浮かぶ月蝕を向かえた紅い月の様にも見え、女性の人間離れした容貌に拍車を掛けていた。

「探しましたわ。お姫様」

艶のある声が、まるで絡みつくような調子でシンシアに向けられる。

緩やかに近づいてくる女性が、死体を思わせるような青白く、華奢な指先をシンシアへ向けた。

体のラインがくっきり出るような服が、妖艶な女性の印象を更に引き立て、ただ手を伸ばすその動作さえ、何かの呪文なのではないかと錯覚させられる。

突如として現れた女性に対し、シンシアはただ、動く事すら忘れて差し向けられた手が触れるのを呆然と眺めていた。




建物からそれほど遠くない森の中で、再び地響きが鳴り響く。

あちこちに樹がなぎ倒され、窪みができた森林。それは戦いの激しさを物語っていた。

戦いにはまるで向かないであろう学生服を身に纏った少年が地に片膝をつき、荒い呼吸を整えることもせずに短剣を構えている。

その体のいたる所に小さな裂傷や擦り傷がはしり、口の端からは血が滲んでいた。

短剣の先に宿る光は眩しい程に輝き、目の前の敵を威嚇するように鋭く薄い。

しかし、所々から光が粒子となってはじけては消え、それが長く持たない事を容易に想像させた。

刃の先で体勢を整えているのは、少年の倍以上はあるかと言うほどに巨大な、浅黒い肌に薄汚い腰巻をつけただけの巨人。

その手に握られた棍棒にはいくつもの傷跡が刻まれ、持ち主であるトロールの体にも、それに似た鋭利な切り傷が幾多も刻まれていた。

しかし、その傷のどれもが浅く、致命傷には程遠い事を示唆している。

「諦めが悪い。持ち前の素早さも鈍ってきているぞ」

荒い息を吐きながらも、まるで小枝を振るうかの如く、その巨大な棍棒を持ち上げて構えを取りながらトロールが言う。

その言葉に、少年は小さく息を吐いて立ち上がりながら

「はっ。お前こそ、そろそろその鈍い体が止まるんじゃないのか?」

と、口の中に溢れる鉄の味を吐き捨てて口元を拭いながら笑ってみせる。

「掛かってこない所を見ると、大層な口を叩く程には限界が近いようだ」

トロールが、その醜悪な顔をさらに歪ませて低く笑う。

少年はトロールの言葉に思わず奥歯をかみ締める。

「そんな事は言われなくたって分かってるっつうの……」

トロールに聞こえないように呟かれた言葉は、少年――リオンの本心。

不意の一撃に期待できない以上、持久戦を持って相手に隙ができるまで翻弄するつもりだった。

しかし、リオンが思っていた以上にトロールは体力があり、その上戦闘に習熟していた。

リオンが持久戦を狙い始めると、トロールも無為に追わずにやり過ごし、翻弄するはずだったリオンの体力を徐々に削る作戦に出たのだった。

それから先は一方的。隙を見ては仕留めにかかってくるトロールの、一撃必殺の棍棒を紙一重で避けながら、形ばかりの反撃を繰り出す。

受け止められては距離をとり、息吐く暇も与えぬように飛び掛っては牽制で足止めをされる。

それも徐々に、リオンの体力が限界を迎えつつある事で終わりを告げようとしていた。

「仕舞いと往こうか。マニトの分際で良く頑張ったと褒めてやる」

トロールがそう宣言し、一際大きく懇望を振りかぶる。

リオンに避ける力は残されていないと踏んだ、トロールの渾身の一撃だった。

目の前に迫り来る壁のような棍棒に、リオンは最後の賭けとして取っておいた行動に出る事を決断せざるを得なかった。

「――くっそ、があああっ!!!」

叫びながら、リオンは残された力を振り絞る様に強く足を踏み込み、前へ出た。

迫り来る棍棒を、わずかに身を捩る事と、斜めに構えた光の刃で受け、前傾姿勢のままトロールの懐へ潜り込む。

「これで、終わりだっ!」

光の刃が煌き、軌道が半月を描く。

トロールとリオンがすれ違い、リオンは前傾の勢いに飲まれて地面を転がる。

転がりながらやっとの事で身を起こして再びトロールへ刃を向けた時

――ピギッ!

リオンの持つ短剣から、甲高い嫌な音が響いた。

「――く、くくくっ……惜しかったな」

緩やかに棍棒を肩に担ぎながら振り返るトロールが、勝ち誇ったように笑う。

見れば、脇から胸にかけて大きな傷が出来ていた。しかし、それでもなお、トロールは悠然と立っていた。

「まだ、まだだ……」

トロールに比べ、リオンは既に満身創痍だった。

意識して握っていなければ、今にも剣を取り落してしまいそうになるほど疲弊しきった体が、手先が、小刻みに震える。

「その体で、その剣で、まだと言うか。そういうのを勇敢ではなく、往生際が悪いと言うのだ」

指摘され、リオンは初めて自身の構える剣の、先ほどまでは無かった違和感の正体に気づいた。

光の刃の元となっている短剣、その刃の根元に大きく亀裂が入り、これ以上一合でも打ち合えば間違いなく折れることが見て取れる。

「理解したか。貴様にこの先はない。あるのは、死だ」

リオンがハッとなって顔を上げれば、既に自身の体をすっぽりと覆うほどの影の下にいた。

目の前で、トロールが巨大な棍棒を振り上げるのが見える。

体中が悲鳴を上げ、動くことができない。

振り下ろされる棍棒の先、脳裏に焼け付くのは様子がおかしかった末明と、クラスメイトや家族。そして、シンシア。

希望を持たせた少女を、せめて助けて見せると決めた。

リオンの決意を、押しつぶすような一撃が迫る。

「《闇の映し世、万理を超えて我が掌の内に広がれ》――《シェイドポータル》」

リオンの耳に、聞きなれない女性の声が響く。

刹那、リオンの足元から漆黒の刃のような物が鞭の様に撓り、迫り来る棍棒の軌道をずらした。

「何ボーっとしてるのかしら。死にたくないなら今しかないわよ?」

頭上から、先ほどと同じ女性の声が聞こえた。

しかし、そちらを向くよりも先に、女性の言葉が頭に染み渡り、悲鳴を上げる体に渇を入れる。

もう一度強く足を踏みしめて、倒れこむつもりで体を前へ突き出す。

リオンとトロールの距離は、既に近すぎるほどに迫っていた。

トロールの足元で、リオンは大きく跳躍する。

「くっらええええっ!!!」

光の刃が周囲の影を切り払い、一際大きく煌いた。

そしてその光は、トロールの胸を貫通して背中を抜ける。

トロールの体を貫いた瞬間、刃は小さな音を立てて根元から折れて、軸を失ったリオンは投げ出されるように転がった。

「――ごっ……がっ!?」

折れてなお、トロールの胸に深々と突き刺さり輝きを放つ刃に、トロールは一瞬遅れて自分が刺されたのだと自覚した。

立ち上がりつつあるリオンの方へ向こうと、トロールが最後の力で身を捻ると、胸を貫く刃が光を失い、光に圧迫されていた分の血が一気に噴出す。

大量に吐き出される赤紫色の血液がリオンの肩に掛かり、所々黒く染みが出来ていた紺の制服が、更に黒く塗れた。

赤と金で象られた校章の刺繍は、返り血でもはや何が書いてあるか分からなくなってしまっている。

トロールの体から、急速に力が抜けていくのが見て取れた。

徐々に光が失せてゆく瞳で、リオンを見据えながら、最後の力を振り絞って伸ばされたトロールの手が、リオンの鼻先で力なく落ちる。

緩やかに崩れ落ち、動かなくなったトロールの傍らで、リオンはむせ返るような血の臭いなど気にする余裕も無く、崩れるように膝をついた。

その拍子に、戦闘中は一度も落とさなかった短剣、もはや根元から刃が折れ、柄だけになったそれが手から滑り落ちて地面を転がる。

「……くっ。はぁ、はぁ……」

緊張の糸が途切れ、押さえ込んでいた疲労があふれ出す。

今すぐにでも倒れてしまいたいと思っていたリオンの頭上、降って来る拍手の音にリオンの意識は無理やり引き戻される。

見上げれば、そこには太い枝の上に腰掛けて手を打つ、一人の女性の姿があった。

黒い二房の髪がもみあげ部分から胸へ垂れ、その豊かな胸にしな垂れかかっている。

ローブとは対照的な金のツインテールが揺れて、緋色に輝く瞳は怪しげに笑っていた。

プリーツスカートにも似たこげ茶色の服の裾を軽く押さえつつ、女性は軽やかに枝から飛び降りて地面に降り立ちながら

「満身創痍ね?勇者様」

と、口元に笑みを浮かべてゆっくりとリオンの元へと歩み寄ってくる。

正体の分からない女性に対し、リオンは本能的に一歩退こうと足に力をこめた。

しかし、緊張の糸が解けた体はまったくいうことを利かず、ただ立っているだけで精一杯だった。

「あらあら。逃げなくてもいいのよ?私は貴方のプリンセスのお使いできたのだから」

目の前まで迫った女性はその妖艶な体躯を惜しげもなく晒しながら、細く華奢な指でリオンの顎をなでる。

その声はまるで子供をあやす様な調子で、無意識にリオンの喉が鳴る。

「あいつの……使い?」

辛うじて問い返すリオンにゆっくりと微笑み、女性は手を差し伸べる。

「私の名前はアイリス=デューレンハイト。あの子の味方よ」

自己紹介をしながら、女性――アイリスはリオンの手をとって立ち上がらせ、そっと抱き寄せるように抱えた。

「……なに、を」

抱きしめられて、息を詰まらせるリオンに

「お姉さんが優しく癒してあげる」

といって、アイリスはリオンの額に自身の額を重ねた。

すると、アイリスの体から淡い光が溢れ、リオンの体からも、まるで呼応するかのように光が滲み出してくる。

「《万象に秘めたる生命の煌き、癒しの火となり、活力の翼を与えよ》、《エナジーヒール》」

何事かをアイリスが唱えた瞬間、淡い光は暖かな力強さを得てリオンを包み、体の中に染み渡るような暖かさが広がる。

「何だ……これ……」

呟くリオンの体から光が徐々に消え、完全に消えるころにはリオンの体は小さなかすり傷を残すのみで、疲労がある程度回復していることに気づいた。

「治癒の魔術よ。自分で歩ける程度には回復させたつもりだけど、まだ私の手が必要かしら?」

アイリスが悪戯っぽく笑いながらリオンから体を離し、くるりと身を翻しながら言う。

「……敵じゃ、なさそうだな」

気が抜けたように呟いたリオンの言葉に、アイリスは目を細め

「あら、まだわからないわよ?」

などと言いながら先に歩いていってしまう。

無言でそれを見送ろうとしていたリオンを、樹の向こうからアイリスの声が呼ぶ。

「何してるのかしら?あの子に会いに行くのではなくて?」

その言葉に漸く我に返ったリオンは、あわててアイリスが歩いていった道を追って神殿にも似た廃墟へと戻っていった。




シンシアがアイリスを見送ってから何分経っただろう。

最初は、どうしてこの場所が分かったのか、どうやってここまで来たのか。そんな事ばかりが頭に浮かび、混乱していた。

しかしすぐにリオンが大変である事をアイリスに告げ、救援に向かうように指示したのだった。

「リオン様……アイリス様……どうかご無事で……」

きゅっと瞳を閉じ、再び祈るように指を組もうとしていた時だった。

「あらあら。その様なお言葉は勿体無いですわ。それに、こういう時は笑顔で迎えてあげる事ですわ」

そう言いながら鼻歌混じりに戻ってきたアイリスを見て、シンシアは目を見開いた。

アイリスは出て行った時と同様、埃ひとつ付けずに優雅な立ち振る舞いで戻ってくる。

その姿はやはり森や廃墟には似つかわしくない、妖艶で優美な雰囲気の中に、同性であろうとドキッとさせる様な色香が漂っていた。

その後ろからリオンが姿を見せる。

「悪いな、結局あんたの仲間に助けられちまった」

そう言いながら入ってきたリオンは、アイリスとは対照的に酷い格好だった。

目立った外傷はないようだが、服が所々破け、さらに、返り血だと思われる赤紫色の液体が服を染め抜いたように、白いシャツが変色し、紺の上着も重く湿っていた。

赤と金の刺繍で作られた胸元の意匠など、血を吸って見る影もなく赤黒く、下地の紺と同化してしまっている。

それでも、自分の足で歩いて戻ってきたリオンに、シンシアは思わず飛びついてしまった。

「お、おい、あんた……大丈夫だったか?あれから何も――」

言いかけたリオンに、胸に縋りつくような体勢だったシンシアが顔を上げて頬を膨らませる。

新緑の瞳が揺れて、愁いを帯びたように目の端に雫が溜まりはじめていた。

「やくそく、しました」

今にも泣き出しそうなか細い声で紡がれる言葉に、リオンはハッとなる。

廃墟を飛び出す前、戻ってきたら、名前でよぶようにと、リオンは約束させられていた。

その約束を思い出し、じぃっと見上げてくるシンシアから顔をそらしながら頬を赤らめ

「あー……えっと……ただいま。……その、シンシア」

ぽつぽつと歯切れ悪く呟くように名前を呼ぶ。

途端にシンシアの顔が明るくなるが、すぐに自身の状態を思い出したようで、慌てて離れて背を向けてしまう。

耳まで真っ赤になりながらも、ぽつぽつとシンシアが口を開く。

「……お帰り……なさい、ませ。リオン様」

背を向けたままだが、十分に恥ずかしがっているのが伝わるシンシアの物言いに、リオンまで恥ずかしさがぶり返して見る見るうちに頬が薄紅色に変わる。

二人の間に妙な沈黙が流れ、気まずい雰囲気が漂い始めてしまう。

そんな様子を一歩引いた位置からにやにやと眺めていたアイリスが口を挟む。

「まぁまぁ。初々しいのはいい事だけど、お別れはすませたかしら?」

そういってアイリスはリオンに訊ねる。

「お別れ?」

訊ね返すリオンに

「貴方、元の世界に帰りたくないの?」

アイリスは不思議そうに首をかしげる。

そんな二人の会話に、シンシアは小さく

「……帰って、しまわれるのですか?」

と、呟くような声でリオンの腕の裾を掴みながら縋る様な潤んだ瞳で見上げた。

今にも泣き出しそうなシンシアの表情に、リオンは言葉に詰まってしまう。

「俺は……」

どう言った物かと悩むリオンに対し、意外にも助け舟を出したのはアイリスだった。

「彼にも彼の世界で待つ人がいるのですよ。察してあげてくださいませ」

そう言いながらやんわりとシンシアを引き剥がすアイリスに、ずっと不信感や疑念を向けていたアイリスに対し、リオンは初めて素直に感謝の念を抱いた。

数歩下がったシンシアは申し訳なさそうに俯き

「……そう、ですよね。ごめんなさい、私ったら……自分の都合ばかり……」

呟く声は今にも泣き出しそうに震えていた。

そんなシンシアに近づき、頭にぽんと手を置きながらリオンは照れくさそうに口を開く。

「いいんだよ。俺が勝手に助けただけだ」

「リオン様……」

再びいい雰囲気になりかけた所へ、リオンの背後、魔法陣の方に立つアイリスが

「さて。ゲートを開きましょうか」

と言うのが聞こえ、リオンも振り返りながら頷き、陣の中へ立つ。

「……なんだか、全部が夢みたいだな」

そう呟いたリオンの手に、暖かくて柔らかな感触が伝わる。

振り返れば、シンシアがリオンの手を握っていた。

「夢のような、出会いでした。……私、リオン様の事、一生お忘れいたしませんわ」

呟くような声だったが、今度はしっかりとリオンの顔を見て、初めて見せるような、シンシア本来の笑顔なのだろう。可憐という言葉がこれ以上ない程似合っていた。

その笑顔に返すようにリオンも笑い返しながら

「俺もだ」

と言って、ぽんとシンシアの頭に撫でる。

柔らかい髪の感触が心地よくて、どこか小動物を思わせるような暖かさがあった。

「そろそろよろしいですか?」

アイリスの声で、二人はどちらからとも無く離れる。

お互い、これ以上長引かせる事は無意味だとわかっていた。

「ああ、頼む」

シンシアが陣の外へ向かうのを見届けながらリオンが頷く。

「では――」

そういってアイリスが陣に手をかざし、呪文を唱えようとした瞬間だった。

――ジジ、ジ……

足元の魔法陣――ではない。魔法陣の上空で、虚空が歪む。

そちらを見るアイリスの表情で、それが自身が求めている物ではない事をリオンも悟った。

歪みが大きくなり、中から何者かが滲み出してくるのが分かる。

シンシアも未だ陣から出きらずに、驚きと困惑が入り混じった表情で、ただ歪みを見ていた。

リオンは咄嗟にシンシアを抱き寄せ、歪みから遠ざけるように自身の影に庇う。

空間の歪みが一瞬大きく揺らぎ、人影が実像を結ぶ。

「こ、ここは……」

姿を現したのは小奇麗な鎧姿をしたセミロングの女性だった。

年はおそらくアイリスと変わらないくらいだろうが、アイリスが色っぽい分、こちらの女性は幾分か幼く見える。

屋根の隙間から入り込む日の光を受けて、時折金色に見える茶髪が燦然と揺れ、左右で色の違う、深緑と鳶色の瞳が驚きに見開かれた。

見据える先は、リオンと、シンシア。

「今度はなんだ!?」

突然現れた女性を警戒しつつ、リオンが声を上げる。

すると、先ほどまではシンシアにのみ焦点が合っていたようで、初めてその手前にいるリオンに気がついたようだった。

「――殿下!!貴様!さては殿下を拐した犯人だなっ!!」

その様相を見るや否や、凄まじい憤怒の形相を浮かべ、腰に佩いた剣を抜き放ち声を張り上げる。

「っ!?おい、何だよ!!お前もさっきの奴らの仲間か!!!」

先ほどの短剣は既に折れてしまっていた為、トロールを倒したところに置いて来てしまっていた。

まったくの丸腰だった事を今更ながらに自覚し、それでもシンシアを庇おうと前へ立ちながら茶髪の女性に問う。

すると、女性は問答無用とでも言うように抜き放った剣を大上段に構え、飛び掛りながらリオンを斬り付けようと思い切り振りぬいた。

「何をわけの分からない事を言っている!」

リオンが飛びのいた直後、リオンが立っていた場所に剣が深々と突き刺さり、床が砕けて宙を舞う。

その細身から繰り出されたとは思えないほどに力強い一撃に、リオンは直感的に只者ではない事を悟り、そして――

「――おやめください!!!!!!」

無手でもせめてと構えを取ろうとしたリオンと女性の間に、あろうことかシンシアが飛び込んで両手を広げて女性を制止させたのだった。

「ですが殿下――」

突然のシンシアの行動に女性の方が動揺し、何事か口走ったようだったが、シンシアはこれを頑として受け付けず

「エレス、いいえ、エレストア=アニテベルカ近衛師団長、この方は私の命の恩人です。これ以上の無礼は私が許しません」

と、今までとは打って変わった凛とした口調と共に宣言する。

先ほどまでの強硬振りが嘘のように、シンシアの言葉を聴いた謎の女性――エレストアは明らかに狼狽して

「な……殿下、今、何と……?」

と剣を構える事など当に頭に無いという風に、誰がどう見ても隙だらけの状態でシンシアに訊ね返す。

そんなエレストアにシンシアは怪訝な様子を隠そうともせず、眉間にしわを寄せて、おそらくは滅多に無いだろう怒り顔を向けながら答える。

「……?ですから。このお方は私の命の恩人であると」

「では、殿下、殿下はこの様な僻地へ一人でいらっしゃったと?」

「ええ」

「……厳重に隠された、殿下の近衛隊長でもある私ですら知らされていなかった隠し通路の奥の魔法陣を使って?」

「ええ」

会話の応酬が定型と化したころ、見計らったようにアイリスが二人の間に割って入りながら

「――はいはい。エレス。貴女は有能なのに早とちりするところが致命的よ」

と言いつつエレストアの頭を軽く小突く。

軽くと言っても、それこそ手先がぶれるほどに素早い手だった為、乾いたいい音が廃墟に木霊した。

その光景に、眉間に皺が寄りっぱなしだったシンシアも驚きのあまり皺が解けて目を見開き、リオンもびくっと体を硬直させる。

「……アイリス殿。いつから?」

叩かれた頭を必死にさすりながらエレストアは今更気づいたようにアイリスに言うと

「最初からいたけれど?貴女がカッカしすぎて愛しの殿下にしか目がいってなかったからではないの?」

アイリスは態と聞こえよがしにシンシアの方を見やりながらにやにやとエレストアに言うのだった。

「……くっ」

そんなアイリスを若干睨みながら、悔しさやら恥ずかしさやらの入り混じったなんともいえない表情で、つまるところ、苦虫を噛み潰したような表情でエレストアが呻く。

「ええっと……どうなってるんだ?」

さっぱり流れについていけないリオンが漸く我に帰った事で、誰にとも無く訊ねる。

すると、先ほどまでの険のある表情はどこへやら、申し訳なさを体全体で表現した様な様相でエレストアがリオンに向かい

「殿下の恩人だったな」

と、若干トーンの落ちた声で確認を取る。

「ええっと……シンシアの事か?」

咄嗟に殿下などと言われても、思い当たる節がなかったが、流れとしてはシンシアの事なのだろうかと訊ねると、エレストアは大きく首を縦に振ると

「恩に着る!!!」

まるでそのまま体の上に物を置いても落ちないのではないかと思うほどに見事な礼でもってリオンに頭を下げた。

「うおっ!?な、何だよいきなり!!」

その勢いに若干引き気味なリオンが戸惑いながら言うと

「そしてすまなかった!!!早とちりとは言え、主君の恩人に手を上げるなど、決して許される行為ではないことは重々承知の上!どの様なお詫びをしたら良いやら皆目見当もつかない次第っ!!」

といって、いじけるやら申し訳ないやらのごちゃまぜになった、思い切り体育会系なノリの堅苦しい謝罪をぶちまけ、エレストアはもはや体が九十度に紛っているのではないかと思うほどに低姿勢になっていた。

「い、いや。別に気にしてねぇからいいけど……」

リオンがしどろもどろになりながらも謝罪を受け入れると、すっと立ち上がりそのままリオンの手を力強く握り締め

「なんと心の広いお方だ。しかし、それでは私の気が治まらない。私に出来る事があるのならばなんでもしよう。さぁ、言ってみてくれ!」

などと、鼻息荒くリオンの顔面すれすれ、要するにキス一歩手前まで近づいてまくし立てる。

「ちょ、ちょっと待て、俺はもう帰るところだったんだ!!だからお礼とか別にしなくていい!それに、元からお礼目当てで助けたわけじゃねぇ!!!」

慌てて手を振り払い、距離をとりながら叫ぶリオンの言葉に

「何と豪気な……さぞや高名な騎士なのだろう!?是非とも名を聞かせてほしい!」

などと、身を震わせるほどに感動したと言わんばかりに左右で違う色の瞳をきらきらと輝かせながら訊ねてくる。

「だーかーらー!!俺は騎士でもなんでもねぇっての!!ただの高校生だ高校生!!」

「コーコーセーとは一体なんだ?……さては結社の者か!?」

聞き覚えのない単語に身を硬くし、次の瞬間には再び剣呑な雰囲気とともに剣の柄に手を伸ばすエレストアに、リオンは慌てて訂正を入れる。

「なんでそーなる!?学生だ!が・く・せ・い!!!」

「何と!!学士であったか。なんと勇敢な学士なのだろう。世にこの様な勇猛な学士ばかりならば帝国などになめられる事もなかっただろうに……」

なおもぶつぶつと何かを堅苦しい調子で語るエレストアを尻目に

「……なんだろう。さっきのでっかい奴を相手にしてる時より疲れた気がする。……俺、帰りたいんだけど」

ものの数分でげっそりとやつれたリオンが呟いた。

その言葉に反応したように、今まで黙り込んでいたアイリスが口を開く。

「――その事なのだけど」

「ん?」

「無理ね」

「はぁ!?」

突然の宣言に面食らい、思わず頓狂な声を上げてしまう。

そこでようやくエレストアも我に返ったのか、口をつぐんでアイリスたちの方へ耳を傾けた。

「無理って、何で無理なんだ!?さっきまで出来るっていってたじゃないか!!!」

詰め寄らんばかりの勢いで問いかけるリオンと、それをどうしたらいいのか分からずに見守るシンシア。

蚊帳の外のエレストアも、黙って流れを見ている。

「さっきまではね。私は貴方の契約者じゃないから貴方の世界へのゲートなんて開けないのよ。それこそ貴方がここへ来た道をもう一度開くくらいでないとね」

肩をすくめながら片目を瞑って言うアイリスに、リオンはなおも食って掛かる。

「だったらそれをやればいいだろ!?」

肩をつかみ、強く揺らしながら言うリオンに

「だーかーらー。いってるじゃない。無理だって。ほら。貴方が通ってきたゲートは今さっきエレストアがぶっ壊しちゃったし」

アイリスは揺られるままに弁解するように陣の一部を指し示しながら答える。

「……へ?」

掠れ、苔むした文様に、新たに刻まれた明確な傷跡が、文様の線を断絶させていた。

「さすがに私でもこんな昔の、しかも本来の方式とはずれた例外的な契約術式の召還陣なんて修復できないわよ」

「ええっと……それってつまりどういう……」

戸惑うリオンに、アイリスは断定的な口調で

「貴方は当分帰れないってこと」

といいながら、この状況を招いたエレストアの方に視線を向けながら肩をすくめてみせる。

つられてリオンとシンシアもエレストアに視線を向けると、エレストアは申し訳なさで完全に縮こまってしまっていた。

「……嘘だろ?」

もう一度、確認するように問いかけるリオンに、アイリスは冗談めかして

「やぁね。私が嘘を吐くように見えるかしら」

といいつつ、体のラインを強調するように身をくねらせて妖艶に微笑む。

「……正直」

リオンが頬を赤らめ、豊満なボディラインから照れるように目をそらしつつ小さく答えると、アイリスはくすくす笑いながら

「あら。素直な子は嫌いじゃないわよ」

といってリオンの顔が自分に向くように顎に手をやる。

細い指先に顎を撫でられ、導かれるように視線を戻されながらも

「冗談じゃねぇっての!!!」

つい乗せられて冗談に乗ってしまった後で言うのも遅いのだが、リオンは再び声を張り上げた。

リオンの大声をアイリスはむしろ面白がるように口元に手を当てて目を細める。

そんな様子のリオンとアイリスに、シンシアはおずおずと割って入り

「……あの、そんなに、この世界が嫌いですか?」

と、リオンの後ろから服のすそを軽くつまむ様にしながら上目遣いで問いかける。

「え、いやそれは……そういう意味じゃ」

思わぬ方向からの横槍にリオンが狼狽しながら答えると、エレストアがリオンとシンシアの間を裂くように

「貴様!殿下を泣かせるとはいい度胸だ!そこになおれ!」

今にも剣を抜きかねない剣幕でリオンに食って掛かる。

瞳の端に雫が滲み、泣き出しそうな表情で見上げてくるシンシア。

それを見て、鬼すら逃げ出すのではないかと思うような形相で、黙っていれば美人に入るだろう顔をこれでもかと言う程に憤怒に歪ませるエレストア。

新しい玩具でも見つけたように目を細めて口元を綻ばせ、三者のやり取りを傍観しているアイリス。

三者三様の女性に囲まれた、ある意味羨ましいともとれる状況にもかかわらず、リオンは頭を抱えてしまう。

「ああー!!!もう!!!お前はややこしくなるから少し黙ってろ!!!」

びしっと突きつけるようにエレストアを指差しながら叫ぶ。

「むっ……」

思い当たる節が合ったようで、エレストアも不服そうな顔を隠そうともしないが、それでも剣にかけていた手を離して口を噤む。

今にも泣きそうな表情で服のすそを掴むシンシアを宥め、その光景をにやにやと眺めているアイリスを睨み付ける。

漸く落ち着き始めたシンシアに服の裾を放して貰い、精神的な疲労度も重なって、半ば投げやりな気持ちになり始めていたリオンがアイリスに尋ねる。

「……で、俺はこれからどうすりゃいいんだよ」

笑い続けていたアイリスの表情がすっと覚め、リオンの言葉に答えながら緩やかに魔法陣に足を向けながら

「貴方はどうしたいの?ここで暮らす?ただ暮らすだけならそこのお嬢さん。貴方が助けたお姫様が不自由なく融通してくれるはずよ?」

アイリスはそう言いながらシンシアを示す。

突然会話の引き合いに出された当のシンシアはびくっと肩を揺らして、リオンとアイリスを交互に見ながら首をかしげた。

「俺は……出来る事なら元の世界に帰りたい」

シンシアを一瞥し、アイリスに向き直りながらリオンが言う。

「故郷ではなく、元の世界。ね……この世界が貴方のいた世界とは違う世界だって事は理解してるって事でいいのかしら?」

アイリスは口元に小さな笑みを浮かべ、リオンに対してウィンクする。

そんなアイリスにリオンはため息交じりに答えながら

「……まぁ、薄々とな。って言うか。あんたたちの見た目とか、さっきから立て続けに起きてる突拍子もない現象とか見せ付けられたら嫌でもな……」

自身の服にへばり付いて異臭を放ち始めている赤紫色の染みに顔を顰め、上着を脱いでもどうにもならない事を確認して肩をすくめる。

「んで、シンシアは何で狙われてたんだ?運よく俺が駆けつけられなきゃ死んでたぞ。たぶん」

シンシアを横目で見ながら言うリオンに

「そうね。言葉では言い表せないほど感謝しているわ。この子が無事で本当に良かった」

アイリスは仰々しく頭を垂れる。

そんなアイリスの様子にリオンが困惑して頭を掻いていると、顔を上げたアイリスは瞳に不穏な光が宿らせながら

「そう遠くない内に更に過酷な状況になるかもしれない事を除けばね」

怪しい笑みさえ浮かべて腕を組み、リオンをじっと見据えた。

その無形の威圧感と、言葉からにじみ出る危機感のような物にリオンの中の熱がすっと冷め、目の前の妖艶な美女から発せられる得体の知れない感覚に

「……何?」

リオンは眉を顰めて低く、威圧し返すような声音で尋ねる。

そんなリオンの脅しなどどこ吹く風で、肩をすくめて腕を組みながら

「貴方には関係のない話よ。帰るのでしょう?元の世界へ」

アイリスはため息交じりにリオンから視線を外す。

「シンシアは助けただろ?」

「この場では。ね」

リオンの言葉に、アイリスはただ含みを持たせるような言い方で短く答える。

「……説明しろよ」

一歩詰め寄るように近寄りながら、先ほどよりも強い語調で問い掛けるリオンに

「説明したら、どうなるのかしら」

威圧を受け流すように片目を伏せながら、アイリスは試すように問い返す。

しばし考え込むように黙り込んだリオンと、悠々と自分の黒い部分の髪を弄りながらリオンの様子を観察するアイリス。

シンシアは二人の間に割ってはいる事すら憚られる重い雰囲気に呑まれ、その場に立ち尽くし、二人を見守る様に指を組んだ。

重苦しい沈黙が、暖かな日差しの差し込む廃墟の埃っぽい空気を更に落とし込むようだった。

時間の流れが数倍にも感じるような沈黙の後、決意したようにリオンが顔を上げ

「……俺は、シンシアを守ると決めた。一度決めたことを途中で放り出したくねぇんだよ」

と言って拳を握りこんだ。その手から淡い光がこぼれ出るのをアイリスは観察するように目を細める。

「それだけの理由?」

先ほどまでの険のある言い方とは違う、人をからかう様な調子で問い掛けるアイリス。

「悪ぃかよ。……それに、どうせすぐに帰れないんだ。だったら少しでも役に立つ。それだけだ」

リオンとアイリスの視線がぶつかり合い、再び沈黙が訪れる。

しかし先ほどよりも早く、アイリスが折れたように息を吐きながら口を開く。

「まぁ、及第点って所かしらね」

やれやれと言った風に首を振るアイリスに、先ほどリオンに言われた事を気にしていたのか、黙り込んでいたエレストアが口を挟む。

「あ、アイリス殿?……さっきからいったい何の話をしているのですか。それに、殿下の御身が危険とは、いったいどういう事か。私にも説明していただきたい」

エレストアの言葉に頷きながら、背を向けつつ手を虚空に向け

「その話もしたいのだけど。その為にも一旦拠点に戻りましょうか」

と言うと、アイリスが手をかざした先の景色が僅かに歪む。

――ザ、ザザ……ヴゥン……

歪んだ先が、闇に飲まれるように、景色が漆黒の渦へと変わる。

風景の残滓が意味のない色彩へと代わり、褪せるというより溶けるように、常闇の渦が空間を侵食していた。

凪いでいた風を飲み込むような暗い次元の裂け目に驚きながらも

「拠点……?」

エレストアが落ちて来た時に耐性がついたお陰か、リオンは辛うじて尋ねることが出来た。

そんなリオンの問い掛けに答えることなく、暗闇に溶けるような外套を翻しながら、まるで愚痴る様にアイリスがぶつぶつと呟く。

「そもそも、私がここにきたのも殿下を連れ戻すためだし。……困るのよねー。まだ慌しい時期なのに勝手に居なくなられると」

別段怒っている訳ではないと分かる言い方だったが、嫌味なども言われる機会がそうないシンシアは至極申し訳なさそうに

「ご、ごめんなさい……」

何度も頭を下げて謝る言葉が見る見るうちに小さくなってゆく。

そんなシンシアに、思わずと言った風にエレストアが弁護するように口を挟む。

「アイリス殿!殿下にも相応の事情がおありのはず、何もその様な言い方をせずとも――」

「いえ、ね?よく考えて御覧なさいよ。このご時勢でこの子が中枢を離れているという事情が外に漏れでもしたら、それこそ今まで頑張って進めてきたこの子を中心とした政策が水の泡じゃない」

「そ、それはそうですが……」

完全に言い負かされたエレストアが悔しげに言葉を詰まらせる。

「いいんです。アイリス様の言うことは尤もですわ……私の浅慮でした。ごめんなさい」

俯いていたシンシアが顔を上げ、一歩進み出ながら言った。

そんなシンシアにアイリスは小さく笑い、肩をすくめながら首を振る。

「いいえー、それはもういいわぁ。……それなりの収穫もあったことですし?」

リオンの方に顔を向けつつ、アイリスが目を細めながら言った。

意味有り気なアイリスの言葉にリオンは半歩身を引きながら

「今度は何だよ」

と言って身構える。

そんなリオンの前へ優美とも言える様な仕草で歩み寄り、リオンの手をとりながら、アイリスは悪戯っぽく笑い

「お待ちしておりましたわ。勇者様?」

と、リオンの手の甲にキスをした。

シンシアとエレストアが驚愕に固まり、リオンもまた、困惑と驚きとが入り混じった頓狂な声を上げる。

「……――はぁっ!?」

静けさを取り戻した森にリオンの声が響き、戻ってきていた小鳥たちが再び木の枝から飛び立っていった。

……花、賑わい……?

これを羨ましいと取るか大惨事と取るか。

それは各々の判断なのでしょうが、僕から見れば大惨事の一言に尽きます。

それでは、次は小柳春の視点に戻った第二章。

そちらも引き続きお読み下されば幸いです。

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