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少年は幻想の夢を見るか?  作者: 門間円
第一章・春
2/16

~始まりの声~

序章に引き続き、ようやく一章となります。


~第一章・始まりの声~


――ピピピ、ピピピ、ピピ……

「ん、もう……朝?」

ふわふわの茶髪を無造作に掻きながら、カーテン越しに差す朝日に目を細め、小柳春(こやなぎ はる)はもぞもぞと布団から這い出ながら目覚ましのタイマーを止める。

「ふわぁ……ぅ。何だったんだろう……何か、変な夢を見た気が――」

チリン。

不意に鈴の音が聞こえて、春は音のした方に視線を向ける。

「おはよう。お寝坊さん?」

猫がいた。

「……うわぁっ!?」

さも当然のように窓際に座り、あまつさえ春が起きるのを待ちわびたとでも言う様に毛繕い等しながら、猫がそこにいた。

余りの唐突さと現実味のなさに驚き、春は盛大にベッドから転げ落ちてしまう。

「それはこの世界の人間の習性なのかな?」

猫はそんな事を言いながら、斑色の尻尾を左右に振り、チリンと鈴を鳴らしながら窓縁から飛び降りて春の目の前まで緩やかに歩いてくる。

「それとも、こっちで流行っている健康法か儀式か何かなのかな?」

「え、えっと……君は何?どうやって入って……っていうか何でしゃべって――ええっ!?」

歩く世界珍百景が目の前に現れた所為で、春の言葉は意味を成さない。

「やれやれ。冗談はさておき、学校とやらはいいのかな?」

時計が読めるのか、目覚まし時計のほうに目を向けながら、猫はそんな事を言う。

「え?――ああっ!!良くない、良くない!!全然良くないよ!!!早くしたくしないとっ」

釣られて時計を見た春は時刻を確認して仰天し、猫の事はとりあえず二の次という感じに着替え始めた。

「春ー?何騒いでるの。早くしないと遅刻するでしょー?」

階下から母親らしき声がして、それに答えるように春も声を張る。

「お母さん、ご飯良いからお弁当出しておいてー!!!」

「全く、朝から騒々しいんだから。早く仕度しなさいねー?」

階下では弟が騒いでいるのか、弟と母親の声が入り混じって朝の忙しさを助長させていた。

そんな喧騒に急かされて、数分で支度を終えた春は家を飛び出した。

家を出る前に

『焼いちゃったものは仕方ないんだから食べながら行きなさい』

と半ば無理やり銜えさせられたトーストをかじりながら、春は通いなれた通学路をやや小走り目に歩く。

その横の塀を先ほどの猫が併走するように付いて来る。

「忙しいねぇ。もう少し早めに起こした方がよかったかい?」

塀の上を器用に歩く猫が、トーストの最後の端切れを口に押し込んでいる春の姿を面白げに見下ろしながらそんな事を言った。

「んぐ……そういえば、君は……?」

春は欠片を飲み込み、改めて猫を眺める。

頭の先から順々に観察するが、見れば見るほどおかしな猫だった。

猫としてみるなら整った顔立ち、額に茶色の毛が縦模様に入っており、金の瞳は緩やかに細められ春を見返してくる。

赤い首輪に金の鈴、白い毛に茶色やオレンジ色の毛が混ざった三毛猫の様だが、どこか違和感がある。

漠然とした違和感の正体を突き止められずにいると、猫が再び口を開く。

「ああ、そうそう。自己紹介がまだだったね?」

「そういう問題でもないと思うけど……」

答えながら、春は注意深く猫を観察していると、ちょうど、塀の敷地内から伸びた小枝が猫の進路をふさいでいるのに気づいた。

猫はそのまま飛び越える物と春は思っていたのだが、実際には猫は避ける事すらせず、文字通り素通りしたのだった。

「まぁまぁ、私の名前は……そうだね、この世界ではチェシャ猫、と言ったら通りが良いのかな?……まぁ、異世界からの来訪者だよ」

すり抜けた際、猫――もとい、チェシャ猫の体が薄く揺らぐ。

そんな状況にも驚くが、チェシャ猫の言葉にも同等のインパクトがこめられていた為に、春は何とか言葉を返すことができた。

「異世界って……また突飛な」

「そうは言うけれど、こちらの世界で私と似た外見を持つ種は喋らないと言うのが通説らしいし、この状況がすでに突飛だと思うんだけど、どうかな?」

やっとの事で返した春に、間髪いれずにチェシャ猫は小さく笑った。

笑われて恥ずかしい事などないのにも拘らず、春はどこか気恥ずかしくて軽く頬を赤らめながら、チェシャ猫から視線をはずして問いかける。

「それは僕の台詞だよ。そもそも、君……チェシャ猫さん、チェシャ猫さんがどうして喋ってるのかわからないし、そもそも異世界なんて急に言われたって……」

「急に、ね。そうそう、私のことはチェシャでいいよ、改まって言われてもどうしたらいい分からないからね。それよりも、まだ君の名前を聞いていなかったね?」

そんな春に、可愛らしい物を見るような調子でチェシャが切り返す。

春は今更気づいた様で、慌ててチェシャ猫に顔を向けながら

「……あ、す、すみません。僕は小柳春って言います」

などと自己紹介するのだった。

春の、ある種の初々しさに内心苦笑しつつ

「ハル君か、いい名前だね。……所で、急にと言っていたけれど、君は我が主には会っただろう?」

チェシャ猫はチリンと鈴を鳴らして首をかしげた。

「……我が、主……?えっと、誰の事だろう……」

春は首を傾げながら心当たりを探そうと視線を彷徨わせるが、コンクリートの間からひっそりと顔を出す花が視界に映る以外、それらしい事は浮かばなかった。

そんな春を横目にみつつ、チェシャ猫は小さく飛び、塀からガードレールへと、器用に綱渡りを続けながら足場を代えて

「君は会ったはずだよ、深緑の森で、我が主と」

と、目を細めて言った。

春は考え込む様に足を止め……というより、信号待ちで止まったまま、ぼんやりと夢の景色を思い出した。

「……チェシャさんの言う、主って言うのは、赤い髪の男の子?」

春の言葉に、ピクリとチェシャ猫の耳が揺れる。

「あら、あらあら。我が主はそっち(・・・)で君に会ったのか。我が主ながら、つくづく御人好しだねぇ」

「ああ、やっぱりあの子がチェシャさんの主さんだったんだ」

「そうさね。君が会ったその方こそ、我が主だ。君は我が主に会うために、一度私たちの世界へきているじゃないか。なのに何故突飛と言うんだい?」

今度は本当に興味がわいたという風に、尻尾を振ってチェシャ猫が尋ねる。

赤だった信号が青に変わり、春は横断歩道を渡りながら、やはり考えるように言った。

「あの世界が……異世界……てっきり夢だと思っていたのに。やっぱり、別の世界があるんですね」

「やっぱりって事は、存在を知っていたのかい?」

「いいえ、でも。あったら良いなって。思ってました」

春は晴れ渡った青空を仰ぐ。そこには雲一つない快晴の空が広がり、小鳥たちが数羽、じゃれ合う様に飛び回っていた。

「どうしてそう思うのかな?」

釣られる様に空を見上げ、小鳥たちの飛ぶほうへ視線を向けながら、チェシャ猫は問いかける。

春が無言で歩を進め、考えている間の僅かな沈黙。まるで何でもない朝の登校風景。

そんな風景の中で、春はぽつぽつと答えはじめた。

「……この世界を見ているのは人間で、僕も人間だから、僕が知ってるのは僕が見ている人間の世界。だけど、他の人がいる分だけ、その人が見る世界がある」

「そうかもね」

「だったら、その他の世界だって、あってもいいんじゃないかなぁって、そう思ったんです」

チェシャ猫に軽く微笑みかけて、前を行きかう人に漠然と視界を移しつつ足を緩める。

春の出した答えに、チェシャ猫はしばらく考える風に黙ったまま、とことこと春の後をついて歩く。

暫く歩き、学校が近くなるにつれて、春と同じ制服を着た学生が増えてくる。

行きかう人たちはチェシャ猫には目もくれず、まるでそこに存在していないかの如く、春のすぐ横を通り過ぎてゆく。

しばし無言で歩いていたが

「君は、もし、誰かを助けられるとしたら、助けたいと思う?」

チェシャ猫は先ほどと同じようにチリンと鈴を鳴らしながら首をかしげて春を見上げる。

「……僕の手の届く限りは、助けたいと思うよ」

小さくつぶやくように、春もチェシャ猫に目を向けながら笑いかけると

「それは君の世界の中で?」

チェシャ猫は切り返すように質問を重ねた。

その頃には既に校門が間近に迫っており、春と同じ制服に身を包んだ学生たちが何人も見える。

「もちろん、僕の手の届くところは、僕の知っているところだから。逆に、知らなくて手の届く場所なんてあるの?」

学校に到着した春はいつも通りに下駄箱へ向かい、なれた調子で靴を履き替えながら小声で問いかける。

「……あると言ったら?」

ちょうど目線があう高さになっていた春に、チェシャ猫は覗き込むように、まるで試すような口調で問いかけた。

靴を履き替え、つま先を地面に軽く慣らすようにとんとんと蹴りながら

「それは、チェシャさんの世界?」

脇に置いた鞄を持ちながら、ふっと静かな口調でそういった。

春が階段を昇りながらチェシャ猫の方をちらりと見ると、チェシャ猫も遅れずにぴょんぴょんと器用に跳ねながら昇ってきて

「どうしてそう思ったのかな?」

と、手摺を経由して階段の上まで一気に上り、逆に見下ろすような形でチェシャ猫が問いかけた。

「チェシャさんの主さん?……が、酷く、悲しそうな顔をしていたから――」

そんなチェシャに追いついて、春は小さく呟く様に答え、階段を上りきって、教室に入って行く。

春を追いかけるチェシャ猫が教室の前で止まり、

「もし、私が助けてほしいって言ったら、君は助けてくれるかな?」

問いかけた声に振り向いた春の視界には、チェシャ猫の姿は、もうなかった。

チェシャ猫の姿を探して視界を巡らせていると、始業を告げるチャイムの音がスピーカーから流れてきた。

渋々席につきながら、春は少しの間考えるように目を閉じ、既にいないチェシャ猫に答えるように

「……僕は――」

春の呟きが、教室の喧騒に飲まれて消えた。




学校にいる間の時間が、まるで朝の出来事が夢の続きなのではないかと思うほどに穏やかに流れる。

ぼんやりと窓の外に見える校庭の木々を眺めながら、その風景を夢で見た風景と重ね合わせて、春は小さくため息をついた。

「綺麗だったな……」

思わず、口をついて言葉が漏れる。

あの綺麗な景色を、今寝たらまた見られるだろうか。そう思わずにはいられないほどに、春はもう一度あの景色を、今度は滲むことなく、見たいと思っていた。

いつまでも夢のことを考えても仕方ないと、春は半ば無理やりに思考に区切りをつけて視線を教室の中へ戻す。

すると、いつからそこにいたのだろう。目の前に見知った顔がにやにやとあごを擦りながら立っているのに気がついた。

「どうしたー?春、恋か?」

からかう様な、それでいて本気で聞いているような調子で、染めたのだろう、根元に軽く元の黒が覗く茶髪を無造作に掻き揚げた様な髪型の男子生徒が言う。

「そんなんじゃないよ。ちょっと、夢を見てさ」

そんなに浮ついて見えただろうかと、ちょっと気恥ずかしげに笑いながら、春が答えながら軽く身を引く。

「相変わらずお前は夢だの人だのって、哲学的というか幻想的というか……」

そんな春に、多少は期待していたのだろう、軽い落胆を隠しもせずに春の前の席の椅子を拝借して、男子生徒は春と向かい合うように座りながら苦笑した。

「いいじゃない。人に夢見るのも、夢に幻想を抱くのも自由だと思わない?」

机に頬杖をつきながら柔らかな物腰で答える春。

「まぁね。……とまぁ、そんな話をしていても腹は膨れないわけだが」

男子生徒は軽く頭を縦に振るだけにとどめ、春に顔を近づけるようにぐいっと身を乗り出して至極真面目な顔で言うのだった。

そんな男子生徒からやや身を引きつつ、春は逡巡の後に問い返す。

「……何が言いたいのかな?」

男子生徒は何かを葛藤するかの様に表情をころころと変えながら迷った末、バンと机をたたく勢いで立ち上がりながら

「春君のお母さんの手料理をください!」

と、教室に響き渡らん勢いで春に迫った。

一瞬、教室が静まり返る。そんな沈黙を春は気にした風もなく、むしろ、いつも通りの調子で軽くため息をついて返す。

「普通に昼飯忘れたから分けてくれって言ってよ」

首まで真っ赤に赤面しながらオーバーアクション気味に親指を立てて春に示しながら

「ナイス意訳」

と、席に座り、まだかまだかと今度はご飯に意識が行ったようで、春の鞄をしきりに気にしながらそわそわし始める。

「……はぁ。まぁ、いいけど。それで、今日はまたなんで忘れたの?」

鞄からお弁当を出すために春は軽く身をよじり、机の脇に置いてある鞄の中をあさり始めるころには、教室は既にいつも通りの喧騒に包まれていた。

遠くから、また納雨(いりさめ)かぁ。などといった笑い声すら聞こえてくる。

そんな喧騒に多少なり赤みの抜けた、しかしまだ恥じ入っている様子の男子生徒が歯切れ悪く答える。

「いやぁ、妹が作ってくれてたんだけど、朝……ちょっとな」

「また喧嘩?理由は聞かないけれど、また(ひのえ)が何かしたんじゃないの?」

お弁当箱を包みから取り出しながら呆れる様に言う春に、男子生徒、納雨丙(いりさめ ひのえ)はぶんぶんと首を振って

「違う、あれは絶対末明(ほのか)が悪かったんだ!」

「まぁ、双方の話を聞いた訳でもないから、どうともいえないけど。……でも、この間もご飯分けたよね?」

「悪い悪い。前回だってちゃんと御礼はしただろ?」

「末明ちゃんがね。……ああ、クッキーおいしかったって、伝えておいてくれるかな?」

言い訳に対して思わぬ形で切り返され、丙は言葉に詰まったように口をつぐむ。

「……」

意地を張っているのが手に取るようにわかるような丙の真っ直ぐな態度に、春は若干の苦笑交じりに

「仲直り、するんでしょ?」

飲み物の紙パックにストローを挿しながら問いかける。

見透かされたような気がして、丙は頭を掻きながら春に向き直り、歯切れ悪くつぶやいた。

「なんか……悪いな、気ぃ使わせちまったみたいで……」

「その分だと、多少なり自分にも非があったと思ってるんだから、ちゃんと話し合って仲直りしなよ」

「そうする」

丙の返事を聞いて納得した春は、軽く手を叩いてこの話は終わりというように箸に持ち替え

「ん。じゃあ、まぁ。いただきまーす」

といってお弁当の中身をつつき始める。

それに習って丙も貰ってきた割り箸を割り、春のお弁当を分けてもらう。

「いただきまーす。やっぱり春のお母さんの卵焼きうめぇ!」

「どうして人の家庭の味を覚えてるんだか……」

卵焼きひとつで大はしゃぎする同級生を微笑ましく想いながら、春はふと視線を校庭の自然に向ける。

――ザ、ザザ……

視界に一瞬ノイズが奔り、景色が錯綜する。

窓ガラスが消えて、校庭がなくなる。

代わりに、巨大な樹木の枝葉が生い茂る、夢で見たのと似た景色が広がっていた。

赤髪の少年が、樹木の前の開けた場所にぽつんと立っていた。そして、その隣には、朝話していた、チェシャ猫らしき姿もある。

少年が呟く様に口を動かしているのが見える。

春は、少年が何を言っているのかを理解しようと、注意深く視線を向けると

「――た、す。けて……?」

何故か、春は少年がそう言っている様に思えた。

「君の事、僕は……助けることができるの……?」

春が、届かないとわかっていて、呟く。

すると少年は薄く笑って、確かに、肯いた。

――ザザ、ザ、ザザザ……

視界のノイズが一段とひどくなり、春はしきりに目を擦る。

すると、視界には既に元の校庭と窓ガラスがはまっており、巨大な樹木も、少年も、猫の姿すら、どこにも存在していなかった。

視界が元に戻ると、聞き慣れた丙の声が段々と強くなる。

「おーい。春ー?はるー、このタコさんウィンナー、貰ってもいいかって聴いてるんだけどー」

「――……うぇっ!?あ、う、うん」

突然、靄がかかっていたような思考が晴れて、春は咄嗟に肯いてしまう。

返答を聞くや否や、丙は早業とも呼べるような速度で割り箸を使い、気づけば最後の一個となっていたウィンナーをつかみ上げ、そのまま口に放り込んでいた。

「よっしゃ!春のお母さん手作りタコさんウィンナーゲット!やっぱりうめぇ!」

満足げに咀嚼している丙をみて、ハッとなり弁当箱を見る。

すると、既に丙が粗方食べつくした後で、春は自分がほとんど手をつけていない事に思い至った。

「……あ。僕のお弁当……」

呆けた様な春の言葉に、丙は膨れたお腹を軽くさすりながら拝むような仕種をして

「だって春、ずっと呼びかけてるのに上の空だったし、いらないのかと思って。あのまま残してて休み時間終わっても勿体無いじゃん?」

などと謝るのだった。

夢の中にいたような浮遊感と、もう戻ってこないお弁当という物量に、春は諦めきった調子で

「……ああ、うん。もういいよ……うん、もう……」

と嘯くのだった。それと同時に、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り、丙が慌てて自分の席に戻ってゆくのを尻目に、春もお弁当箱を仕舞い始めた。




帰りのホームルームを終えて先生が教室を出てゆくと、クラスが急に騒がしくなる。

「くぁ……あぁ、やっと終わった」

軽く背筋を伸ばし、傾きかけた日差しに目を細めて春は何気なしに庭園を見た。

橙色の光に照らされ、微かな風に揺れる枝葉に伴って、影が地面を這う。

そんな影の中に、見かけた姿を発見した。

「おーい。春。帰ろうぜー」

丙が春に声をかけるが、春はまったく気づかない様子で校庭の一点を見続けていた。

不意に、その姿が踵を返すのが見える。

「……チェシャさん」

咄嗟に席を立ち上がり、鞄を持って教室を駆け出す。

「お、おい。春ー!!」

後ろから呼びかける丙の声が聞こえたが、今の春の耳には届かなかった。

今の春の頭には、ただ漠然と、答えられなかった問いを、きちんと、伝えなければならないという、それだけの思いが渦巻いていた。

部活へ向かう人や帰宅でごった返す廊下を駆け抜ける。

時々ぶつかりかけてはすれ違い様に一声謝りつつ、廊下を駆け抜け、校庭へでる。

先ほどチェシャ猫がいた場所で、春は肩で息をしながらあたりを見回す。

「チェシャさん……居ない。何で――」

チェシャ猫の姿を探して首をめぐらせる春の頭上、木々が揺らめいて、春に影を落としていた。

――チリ……

風に漂って、微かに鈴の音が聞こえる。

自然、春が其方へ視線を向けると、先ほどからそこに居るのが当たり前というように、チェシャ猫が毛繕いをして春を見ていた。

春の視線に気づくと、ふいっと尾を振って、まるで導くかのように学校の外へ歩いていく。

「チェシャさん……っ!」

誘われていると気づいていたが、春は迷わずチェシャ猫を追いかけて学校の外へ駆けていった。

「チェシャさん、待って!!」

幻のように消えては、少し先の曲がり角を曲がってゆくチェシャ猫の後姿を追いかけながら、春はチェシャ猫に呼びかける。

聞こえているのか聞こえていないのか、チェシャ猫は時々春がついてきているか確認するかのようにちらりと見てから、まるで弄ぶ様に消えては現れてを繰り返し、春を誘って行く。

小道を曲がり、路地へ入る。徐々に人が少なくなってゆくのを感じたが、春はどうしても、チェシャ猫ともう一度話がしたかった。

そして、チェシャ猫の主だという、あの少年とも。

息を切らせながら追いかけてゆくと、急に開けた場所に出た。

夕焼けが直接顔に当たり、思わず目を細める。

手を日よけに翳しながら光の向こうを見ると、チェシャ猫らしき陰が座って此方を見ているのが見て取れた。

「……待ってたよ。ハル君。答えを聞かせてもらえるかな?」

笑うように問いかけるチェシャに、春は呼吸を整えながら、予め考えていた答えを述べる。

「チェシャさん……僕は、僕が守れる物ならば、守ってみたい」

答えを聞いたチェシャは、軽く首をかしげて

「それは、ただの親切心かな?」

まるで値踏みするかのように目を細めて再び問いかける。

改めて問いかけられた言葉に、春は言葉を選ぶようにしながら

「……そう、なるのかな……。たぶんただの大きなお節介。でも、チェシャさんの主さん……あの子のかわいそうな顔は、見て居たくないから……それじゃ、ダメ?」

ぽつぽつと付け加えながら、ゆっくりと微笑んだ。

不器用だが、それでいて暖かな春の言葉に、チェシャ猫はころころと笑い出す。

突然笑い出したチェシャ猫の態度に、春は困ったように頬を掻くと

「いいや、いいや。十分だよ。それで十分重畳だ。ハルは本当に優しいね」

チェシャ猫は笑いながらそう言いながら、まるで手招くように尾を振りながら春の元へ歩み寄ってくる。

「それで、僕はどうしたらいい?」

しゃがみ込んでチェシャ猫に目線を合わせるようにしながら問いかける春に

「これを見て」

といって、チェシャ猫は奥の地面を尾で示す。

「私がルグラ――此方の世界(・・・・・)に来たときに使った魔法陣さ」

夕日を受けて、淡く青色に光る地面に浮かび上がった奇妙な文様。

不思議な輝きを放つ文様に手を翳しながら

「……綺麗だね」

春が呟く。指が軽く触れたと思った直後、わっと輝きが増して春の顔を照らす。

「うわっ」

「ハル君のマナ(・・)に反応したんだ」

驚いて飛び退く春に、チェシャ猫は文様の輝きにうっすらと目を細め、満足そうな顔をしながら答える。

「マナ……?」

「そうさね……その辺の話もしていなかった……」

「その辺の話……?そういえば、何故チェシャさんの主さんは、チェシャさんを……えっと、こっちの世界?に送ったの?」

「今から話す事は、きっとハル君に理解できないことも多いと思う。けれど、最後まで聞いてくれたら助かるよ」

「うん、まずは聞いていい?」

春が問い返すとチェシャ猫は

「私が住んでいる世界は、今危機に瀕してる。そして、私は助けを求めるためにここへきた。といったら、信じてくれるかな?」

と、今までとは違った表情で、真剣そのものといった風に言うのだった。

春はしばしの沈黙の後、小さく口を動かして

「信じるよ」

そう答えた。

それを聞いたチェシャ猫は微かに安堵するようなしぐさを見せるが、すぐにそれを打ち消して言葉を続ける。

「……私の住む世界フェミュルシアは、有り体に言えば、ハル君達の言うファンタジー……というのだっけ?そういう世界なの」

ファンタジーの世界といわれ、春が最初に思い浮かんだのは、ロールプレイングゲームの様な世界だった。

もしくは、ライトノベルのような。と言った方がいいのかもしれない。

とにかくそんな、夢と希望溢れるような世界だった。

「ファンタジーにも色々あるけれど、スタンダードな所で、剣と魔法とモンスター。みたいな所?」

春がそんな風に言うと、チェシャ猫は少し戸惑うような調子で頷いた。

「そんな所かな?……そして今、私達の世界を構成するのに必要不可欠な要素であるマナ……君たちの世界で言う、石炭や石油みたいな資源(・・)ともいえる」

資源という言葉を聴いた時、春の脳裏には先ほどの、危機に瀕した世界といったチェシャ猫の言葉を思い出す。

「石炭、石油ね……それを奪い合っている……って事?」

言葉を汲むように、チェシャ猫に問う。

それに答える様に小さく頷きながら

「それもある。けど、そもそものマナの生成を担っている魔光石(ジュエル)って石を人間――私の世界で言う、マニト(・・・)という種族が消費物にしてしまっているから、世界そのもののマナが減ってきているのさ」

チェシャ猫は小さくため息をついて空を仰ぎ見る。

「人は……マニトは、資源が減っている事を知らないの?」

チェシャ猫に倣い、空を見上げると、既に暗くなりかけた空に一番星が煌いていた。

「知っているはずさ。ただ、どうして減っているかが判らないだけでね」

チェシャ猫は尻尾を横一文字に振ってそう答えた。

「なら教えてあげればいいんじゃない?」

「それで話が済んでいれば、態々私がこちらの世界まで足を運ぶ必要もなかったと思わない?」

チェシャ猫は空を見上げたまま、尻尾を振る。

「……だよね」

空を見たままのチェシャ猫に視線を戻しながら春が相槌をうつと、チェシャ猫は立ち上がりながら

「マニトにマナは見えない。だから効率的な抽出運用法として、マナを生成している魔光石に目をつけた……」

とことこと魔法陣の円の中へ入ってゆく。

「しかし、その所為でマナが減少していると教えてもマニトは信じず、それどころか、我々魔族がマナを独占しているなどと言い出す始末」

円の中心までくると、春の方へ向き直りながら言葉を続ける。

「マニトが蒔いた種で苦しめられているにも係わらず魔族の所為にされては、元々マニトに快い感情を抱いていない魔族が黙っているはずもない」

「魔族にとってマナは酸素にも等しい。それを奪われまいとする魔族。エネルギーと発展を欲するが為にマナを消費しつづけるマニト。二者が争うのは自明の理って奴だ」

チェシャ猫が語る世界は、やはり何処かで聞いた様なファンタジーな世界だった。

春は無意識の内に驚くほどに静かな口調で呟いていた。

「人間って、どこの世界でも変わらないんだね」

そう言葉を聞いたチェシャ猫は意外そうな顔で首をかしげ

「君は達観しているな……いや、諦観しているのかな?」

微笑と共にそう言った。

チェシャ猫の言葉にハッとなり

「違うよ。それで、僕はそんな世界でどうしたらいいの?」

慌てて取り繕うようにそう言って陣の中に一歩踏み込んでしまった。

刹那、春の足元から輝きが増し、まるで染み渡ってゆくように陣全体が光りだす。

春の体が驚きで硬直し、その間にも光は増して、春の膝を超え、腰下まで届く。

戸惑っている春に、チェシャ猫は増してゆく光など気にする事もなく話を続けた。

「さっきも説明したように、私達魔族にはマナは必要不可欠で、にもかかわらず私達の世界のマナは減少し続けている」

既に光に飲まれ、全身が光に埋もれてしまっている様な状態でありながら、チェシャはまるで夜風に当たっているかのように心地よさ気に目を細めて

「それに比べて、こちらの世界はマナに溢れ、おまけに君達はマナに頼らずに生活している……だから、ちょっと分けてほしいのさ」

光を弄ぶように尻尾を振りながら羨ましそうに言うのだった。

「分ける……?」

どうやら光は害がなさそうだと判断した春はチェシャ猫に近づくように一歩踏み込んで問いかける。

すると、光が一段と強くなり、春の胸の辺りまで光が増した。

「この光はマナの光。私が作っただけでは微弱な反応しか示さないが、この光の量が、ハル君の持つマナの量なのさ」

光、マナの発する暖かな感触に身を委ねる様に、チェシャ猫が言う。

「でも、分けるっていったって、どうしたら……」

まるで噴水のように湧き上がる光が、春の胸元よりも少し上まで昇るころには小さく消えてゆく。

「何、難しいことじゃないさ。ハル君、我が主と契約する気はないかい?」

ふわりと、まるで光の水に乗っているかのように、チェシャ猫が春の胸の高さまで浮かび上がり、尻尾を振りながら前足で耳を撫で付けながら問いかけた。

「契約……それってどんなものなの?」

足元を何かに押し上げられるような感覚を押さえながら、春が問いかける。

その間にも光は止め処なく湧き出し続け、チェシャ猫がその上を泳ぐように転がる。

「簡単なことさ、ハル君たちの世界に溢れるマナを、契約というパイプを通して私たちの世界に流してもらいたい」

チェシャ猫は言葉の端に、春自身の世界にはマナの需要が無い事を示唆していた。

しかし、その言葉を鵜呑みにして手放しで信用してしまえるほど、春は子供ではない。

おそらくは契約というだけあって、マナを渡すことで対価として報酬、恩恵を受けるのだろう。

契約にはメリットとデメリットが存在する。メリットだけのおいしい話など、この世には無いのだから。

春はそこまで考えた後、チェシャ猫の表情を読み取るために目を細めて思案する。

正直にデメリットを問うたところで、チェシャ猫は上手にはぐらかす。

そういう事も考えられるのだ。そして、一度はぐらかされてしまえば、疑っていても、表立って質問する機会は逸してしまう。

そして何より、春自身にとってのメリットは何なのか。それを聞くことで、自ずと答えに通じる道が見えてくるのではないか……

小さく息を吸い、平静を顔に貼り付けて、春は問いかける。

「……チェシャさん達の利点はわかったけど、それって、何か僕たちに利点はあるの?」

春の言葉に、チェシャ猫は意外そうな表情で髭を揺らして、ごろんと転がって春の目の前で止まりながら

「ん。ハル君がそれを気にするなんて意外だね。てっきりハル君は気にしないと思っていたけれど?」

などと尻尾を揺らす。

そんなチェシャ猫に肩をすくめて見せ、春は静かに答える。

「チェシャさんは、僕の事を買い被り過ぎだよ。別に、僕は聖人君子じゃ――偉大でも、聡明でも、ないんだよ」

「ハル君は誰かが困っていれば、そういった力とか利害とかを気にかけずに手を差し伸べるような人間だと思っていたのだけど、違うのかい?」

耳を揺らしながら問いかけるチェシャ猫は、どこか試すような口調でそう問いかけた。

「違います。それに……僕が気にしているのは、僕の一存でこの世界のマナをチェシャさん達の世界に流したとして、それは僕達の世界に不利益にならないのかって事……」

答えた春の周りの光が、春に当たっては弾けて消える。

「なるほど、影響も含めて、君は周りの人たちを守りたいんだね?」

「そうなりますね。僕だけならまだ、僕自身が納得していればいいですけど、周りの人は、やっぱり周りの人の事情がありますから、それを僕の一存でどうこうするのはちょっと……」

頬を掻きながら困ったように答える春に、チェシャは笑いながら頭を前足で撫で付け

「良い子だね。だがその心配はないさ。契約によって君達が得る恩恵は、ハル君が選べるのだから」

毛繕いするように前足を嘗めながら答える。

「……僕が、選ぶ……?」

「そうさ。契約によって、ハル君は此方の世界の法則とは別の、私達の世界の法則を得る。ありていに言えば、《魔法》が使えるようになるって所かね」

「魔法……」

魔法という言葉に、春は改めて別の世界に思いを馳せる。

今起きている現象も既に、春の知っている世界とはかけ離れた光景だったが、きっと、チェシャ猫の住んでいる世界はそれ以上なのだろうと、今更ながらに意識させられた。

「その魔法をどう使うかはハル君、君自身が決めれば良い」

チェシャ猫は片目を伏せながら

「それで、もう一度。答えを聞かせてもらえるかな?」

尾を振って期待するようにそう問いかけた。

春は静かに考えるように目を閉じて、光の奔流に身を委ねて体の力を抜く。

すると、まるで光そのものに質量があるように春の体が浮かび上がり、まるで水に浮くようにゆらゆらと光の上に揺らめくのを感じながら

「……分かりました。あの子を助けてあげられるなら」

すっと目を開き、チェシャ猫の顔を正面から見据えながらそう答えた。

その答えに、チェシャ猫は柔らかく微笑んで

「ありがとう、ハル君は本当に優しい子だね。それじゃあ、行くとしようかね?」

そう言ってチェシャ猫は滑る様に円の中心へ降り立つと、尾を振って振り返りながら春を見る。

「行くって、どうやって?」

「円の中心においで。さぁ、静かに、身をゆだねるように……そう、その調子」

「このままでいいの……?」

魔法陣の中心に、まるで光に囲まれるようにチェシャ猫と春が立つ。

「さぁ、手をかざして……本来この魔法は飛ぶ先の世界を知っている者が魔法を使うことで発動するのだけどね。今は私が向こうの世界を知り、ハル君が魔法を使うことで起動しようってわけさ」

春が円の中心に手をかざすと、ぼぅっと光が強くなり、立ち上る光の奔流が春の頬を撫でる。

「……起動の方法は?」

目を細めてチェシャ猫に問いかける春の髪を、まるで風が弄ぶ様に光の波が揺れる。

「意識を深く、そのまま……《隔たりし地への誘い、我呼びかけに答え、汝、道を示せ》こう言うんだ」

言われた言葉を頭の中で反芻し、春は静かに瞳を閉じながら言葉を口にする。

「……《隔たりし地への、誘い……我、呼びかけに答え、汝――道を示せ》!!」

光が増して、周りの景色が急激に色褪せてゆく。

「素晴らしい魔力だ、これならきっと――」

完全に世界が塗りつぶされる直前、チェシャ猫の声が、そんな事を言っていた様だったが、春の耳には微かな風の音だけが響いていた。




風の音と、暖かな光。

急速に色褪せた世界に、景色が戻っていた。

春が目を開けると、そこには緑が生い茂り、近くで小鳥のさえずりが聞こえていた。

空には太陽が昇っており、体感的には春先の穏やかな風に乗って、さんさんと日差しを振りまいている。

先ほどまで日暮れだった面影は、もはやどこにもない。

「……――ん、ぅ……。ここは――」

どうやらそこは森の入り口のような場所で、森の反対方向には地平線まで続くような草原が広がっていた。

草原の草が、風に揺られてまるで波打っているように光を反射する。

その光景にすっと目を細め、春は森の方へ視線を向けた。

森を見上げれば、木々たちの中に一際大きな枝葉を広げる大樹を遠望で確認することができる。

そう、あの夢でみた、大樹の様な……巨大な樹のものだ。

身体を起こしてどこか怪我が無いか確かめたが、どうやら怪我らしい怪我は無いようで、春は制服姿のまま草の上に横たわっていたようだった。

「眼が覚めたかい?」

辺りを見回していると春の耳に木々の合間から聞き覚えのある声が聞こえ、春がそちらに目を向ける。

するとチェシャ猫が丁度木々の間を潜って春の許へやって来る所だった。

しかし、春の居た世界で見た姿とは、どこか違う。

その違和感に春はすぐに気づいた。

額の茶毛が縦模様に入っている事や、金色の瞳はそのままだったが、まず、背中に透明な羽のようなものが二対生えており、斑色の尻尾が二本に増えている。

よくよく見れば、赤い首輪がない。どうりで鈴の音がしないと漠然と思いつつ

「チェシャさん……ここは一体……」

問いかける春に、チェシャ猫は双振りの尾を別々に振りながら

「ここが私達の世界。ハル君の言うファンタジーの世界、《フェミュルシア》だ。歓迎するよ、ハル君」

と笑い、ぱたぱたと羽が動いてまるで羽を使っているとは思えない緩やかな動作で浮かび上がる。

「……ここが、ファンタジーの……世界……フェミュルシア……」

まるで楽しむようにくるくると春の周りを飛び回るチェシャ猫を目で追いながら、頭をめぐらせてつぶやく。

「ついておいで。我が主の下へ案内しよう」

くるりと空中で1回転しながら木々の間、森になっている方へ飛んでゆく。

「あ、まってよチェシャさんっ!」

チェシャ猫の後を追って、春は森へと足を踏み入れていった。

森に踏み入った春は、その余りにも大きな自然の姿に目を奪われていた。

「……こんな大きな樹……いつからあったんだろう」

樹の幹を支えに、巨大な木の根が地面に凹凸を描く不安定な足場を歩く。

その直ぐ先をぱたぱたと春の歩幅に合わせるように飛ぶチェシャが答える。

「この辺はマナの恩恵が比較的強いからね。そのお陰で大きく育ったのさ」

その言葉に、春は森を見回しながら

「へぇ……本当にマナって大切なんだね」

と呟く。

よくよく目を凝らすと、木々の間や土や、水、ありとあらゆる物が微かに光を放っていることに気づく。

その光は、春がフェミュルシアへ来た時の青い光ではなく、木々の色を映した様な淡い緑色をしていた。

「そうさね。だからこの土地は豊かでマナを必要とする私達魔族が隠れ住むには丁度良い場所なのさ」

「……なるほど。でも、そんな土地なのに、何故チェシャさんの主さんは僕を呼んだの?」

不慣れな道を歩きながらもチェシャ猫に問いかけると、チェシャ猫は春の方に向き直りながらバックしつつ話し始める。

「いくらこの土地が豊かといっても、それは限られた僅かなマナだ。我々が生きてゆくには心もとない。それに、その僅かなマナでさえ、マニト……ハル君の世界でいう、人間に。脅かされている」

「……チェシャさんの主は、マニトから、マナを守る為に僕との契約を……?」

春の問いに、チェシャ猫は軽く首をすくめるような仕草をしながら答える。

「端的に言えばそうなるね」

「……」

顔をしかめて黙り込む春に、チェシャ猫は首を傾げながら

「相手が人間と知って、嫌になったかい?」

そう問いかけた。

春は静かに首を振り、根に躓かないように歩み寄り

「ううん。でも、すぐに契約とは、いかないかな。……ねぇ、チェシャさん。貴方の主さんと話をさせて」

と、チェシャ猫の前足を握る。

「うん?」

「チェシャさんの主さんが、もし人間を滅ぼそうとか、そういう事を考えているなら、僕は契約できない。でも、そうでないなら……僕は、協力してもいいと思ってる」

怪訝そうな顔をするチェシャ猫に、春はそう言って目を見据えた。

「……元々、我が主は人間に対して寛容だ。だからハル君の話次第では、私達が共に生きてゆける道も開けるだろうさ」

その視線から目を逸らすこと無く、チェシャ猫は目を細めてそう答える。

沈黙が流れ、森の静寂さが耳を打つ。

――ガサガサ。

木々の隙間を埋めるように生い茂る、春の腰程までの高さを持った植物で埋め尽くされた草むらが揺れて、何者かが春達――主に春の方を警戒しているようだった。

「ああ、周りの子達は気にしないでも構わない。どちらに転んでも手は出さないように言ってある」

チェシャ猫の言葉に反応するようにあちこちの草が動き、そこに何らかの生物が潜んでいることを感じさせた。

しかし、一人として姿を見せるものは無い。まるで招かれざる珍客を遠巻きに値踏みしているように、または、狩人が獲物の隙を狙うかの如く。

先ほどとは別の意味で空気が張り詰め、春は辺りを刺激しないようにチェシャ猫から手を離し辺りを見回す。

「歓迎は、されてないみたいだね」

「皆、人であるハル君が怖いのさ。ここに住む者は土地を追われた者。マニトに住処を奪われ、我が主の庇護下で寄り添って生きる者たちの集まりだから……」

木々の隙間に見える一際大きな、森の入り口からも枝葉を見ることのできたあの大樹を見上げるように頭を上げながら嘯く様に答えるチェシャ猫の声は、どこか悲しげな雰囲気を纏っていた。

「……チェシャさん」

どう声を掛けたら良いか迷っていると、チェシャ猫が春に向き直り

「さぁ、ここから先は一人でお行き」

先ほどの悲しげな表情とは打って変わった、感情を押し殺したような声色でそう告げる。

その言葉に応えるように頷いて春は一歩前へ進み出て

「……わかりました。行ってきますね」

短く答えて大樹を見据え、顔を引き締めた。

靴が、獣の往来によってできた不揃いな道を踏みしめる音だけが春の耳にやけに響く。

一歩また一歩、近づく毎に木々から発せられる光が力強くなってゆくのを、春は視界の端に捉える。

光が春に当たり弾けてはきえる。光が触れた場所がシャワーに当たっている時のような暖かな感覚に包まれる。

しかし、感触は雪のそれに似て触れた瞬間から溶けては消える淡い存在感が、空気の中にも満ち溢れていた。

「これがマナ……生きてゆくために必要な光……綺麗で、暖かい……」

誰にともなく呟きながら、春は樹の幹を支えに開けた場所に出る。

正面に巨大な樹木が聳え立ち、方々に伸びる根の一つ一つが周囲の木々の幹ほどにもあるその巨大な樹は、根元が空洞になっているようで根と根の間がまるで城門の様にぽっかりと口をあけていた。

根元の大地から光が溢れ、その光が絡み付いて大樹は周囲の輝きが霞んでしまう程の光を纏っていた。

「……光のカーテンみたい」

光の城門をくぐり、樹で出来た城へ入る。

どうやら大樹は何本もの大きな樹が寄り集まって一つになった物らしく、所々天井から光が差し込み、そのお陰か中は意外にも明るかった。

春が空洞の中心付近まで歩いていくと、不意に頭に直接語りかけるような響く声がする。

『汝、何者なるや?』

唐突に降り注いだ声に、春の体が図らずも硬直する。

しかし、それ以上の変化は訪れない。

正面に見える池のような場所に、静かに水が流れ落ちる音だけが響く。

見えざる声の主に対して、春は言葉を選ぶように

「……僕は、チェシャさんに導かれてここにきた。チェシャさんの主さんと話がしたい。貴方が主さん?」

と、声を張り上げて問いかける。

春の問いに、声の主はしばし考えるように間をおいた後

『如何にも。我は聖域の守護者なり』

と、答えるのだった。

肩を竦め、これ以上面倒臭い事は省こうとでも言うように春は再度問いかける。

「……僕の事、見ているんでしょう?なら、姿を現してください。僕だけ見えないなんて不公平だと思いませんか?」

今度の春の言葉にはすぐに反応があった。

正面に見える景色が歪み、池の上部が光に包まれる。

光が晴れて姿を現したモノを見た瞬間、春は驚きに今度こそ言葉を失った。

巨大な木の根に寝そべるように、春の方をじっと見据えるその姿は、まさしく、御伽噺やファンタジーの世界では最も知られた存在だろう、ドラゴン。そのものだった。

全身を覆う赤銅色の鱗がまるで鎧のようで、前足や後ろ足についた黒々と光る爪は鋭く、軽く踏みしめるだけで大地に大きな傷跡を残すだろうと容易に想像できた。

春をじっと見据える瞳は金色に輝き、伝説の生き物に相応しい格の様なモノを感じさせる。

『汝の望みは叶えた。まだ望む事があるのか?』

口を閉じたまま、頭に直接語りかける声が響く。

今度こそ間違いなく、春は語りかけてきている対象がドラゴンであることを認識した。

「……――ありがとう、ございます」

あまりにも唐突で不条理な光景に、春は戸惑いながらもついお礼を言ってしまう。

『汝、我に何を求める?』

そんな春の様子などまるで意に介さず、ドラゴンはそう問いかけた。

その言葉に、春は戸惑ってしまう。

「……求めてるのは貴方じゃないんですか?」

純粋な疑問が口をつく。

そんな言葉だったからこそ、ドラゴンは始めて眉を顰めて

『我が汝に何を求めていると?』

と、興味を示したように感情の篭った声音で問い返してくる。

「僕の世界のマナを、この世界に流すためのパイプ役を担う事です」

チェシャ猫に説明された事を思い返しながら、春は短く答える。

ドラゴンは僅かに鼻を鳴らして

『然り。ならば何故、汝は我と契約を望む?』

と、さらに問いを重ねてくる。

その問いに、春は困ったように、また、自身の考えを再整理する様に、躊躇いがちに口を開く。

「……別に望んでいるわけではないですけど、この世界は、人間……マニト、というんでしたっけ」

春の言葉を、ドラゴンはただ黙って聞いている。

「彼らの犯した過ちで危機に瀕していると聞きました」

倍以上もある体のサイズとは裏腹に、会話においては対等な関係を築けているように、緩やかな時間が流れてゆく。

春の言葉にドラゴンは肯定を示しながら、首を擡げて春を正面から見据えながら

『然り。だが、汝が契約する理由足り得るとは思えぬ』

鋭い金の眼光が正確に春の瞳を射抜き、二者の視線が交差する。

それでも、春は一歩も引かずに

「……貴方は、マニトをどうしたいのですか?」

ただ静かに質問した。

『それは汝が望む理由に関係があるのか?』

質問の意図を掴みかねているのか、ドラゴンは目を細めて春に言う。

「僕は、貴方がマニトを滅ぼしたいとか。そういう事を考えているのであれば賛同しかねます」

春の事など、その気になれば一瞬で引き裂けるであろうドラゴンを前に、春は自分の正直な意見を、答えとして口にした。

真摯な態度といえば聞こえはいいかもしれないが、大よそ蛮勇、無知とも取れる春の行動を受け、ドラゴンの体中に張り詰めていた筋肉が弛緩する。

『我には我が聖域内の、我を慕っている者達を護る義務がある』

春の言葉を否定するように、ドラゴンが言う。

言葉自体は変わらないが、態度が明らかに軟化している事に春は気づく。

春はドラゴンと自身とを隔てている池の手前まで歩いてゆき、静かに腰を下ろして

「それで、君はどうしたいの?」

春は気づいていないだろうが、先ほどまでの固まった口調ではなく、春本来の、しかも、同年代や年下に向けて発する様な口調で問いかけていた。

器の大きさとも取れる春の態度に、ドラゴンは一瞬だが怯んだ様に鎌首を擡げて

『我は……出来る事ならばマニトと……人と争いたくはない』

今までの厳格な語り口ではない、歯切れの悪い言葉で、自身の心中を吐露したのだった。

不恰好だが、誠意のあるドラゴンの言葉。春は既に自身の中で決まっていた答えを口にする。

「……そういう事なら、僕も手伝えるかもしれません」

『汝の目的は何だ?』

のっそりと、緩慢な動きで寝そべっていた樹の根の上に起き上がり、春を見下ろしながら問いかける。

木の根の高さとドラゴンの元々の高さが合わさり、まるで建物の三階にいる相手に話しかけるような高度差に、春は首を真上になるのではないかと思うほどに上げながら

「僕は、貴方を助けたい。貴方の理想が、敵を滅ぼす事にないならば」

ドラゴンの目をまっすぐに見据え、聴き違いなど起こりようもない、静寂を突き破る声量で宣言する。

視線と視線がぶつかり、お互いの本心がぶつかり合う。

『初対面の者への言葉とは思えぬ。しかし、嘘を言っているわけでもない』

十数秒が何時間にも感じられるような静寂の中、ドラゴンの方が、とうとう折れたように体勢を元の寝そべった形に戻して春から視線をはずし、真下に広がる池に映る自身を見るように呟いた。

その言葉を聴いた春は、立ち上がってドラゴンに手を差し伸べる。

「……どうするかは貴方に任せます。契約するのか、しないのか。あれだけ言っておいて何ですけど、僕、どうしたらいいかなんてわかりませんからね」

苦笑交じりにそう言いながら手を突き出す春に、ドラゴンは一瞬呆気にとらたが、すぐに苦笑に乗っかり

『汝は愉快な人間だな』

と、半ば飽きれた風な言い方で実に楽しそうに目を細めるのだった。

ぐっと首が動き、ドラゴンの顔が池の水面近くまで迫り、春の目の前でとまる。

『よかろう。異世界の少年よ。我との契約を望むか?』

吐息のかかる様な距離で、ドラゴンはもう一度春に問いかける。

ドラゴンの生暖かい吐息を正面から受けても、春は眉を顰める事すらせずに

「貴方さえよければ」

と笑いかけた。

春の態度にドラゴンはまるで親が子に優しく教えるように

『ならば我が名を呼ぶがよい』

と言って頭を突き出した。

「名前……?」

『我に名はない。故に汝が名付けるのだ。契約者として』

ドラゴンの言葉を受けて、春はしばらく考え込むようにドラゴンを見ていたが、ようやく心積もりが決まったように口を開く。

「……貴方の名前」

『決まったか?』

目を細めて尋ねるドラゴンに、春は心を落ち着けるように深呼吸してから頷いて

「シンクさん。なんてどう……かな?」

と、少し遠慮がちにそう言った。

『シンク……何か意味はあるのか?』

ドラゴンは自身の新しい名を吟味するように反芻して春に問いかける。

軽く頬を染めて、照れるように頬をかきながら

「貴方の体が、とても綺麗な赤色だから。僕の国では、真なる紅、深き紅と書いて、真紅、深紅って言うんだよ」

ぽつりぽつりと答える春に、ドラゴンは得心いったという風に軽く頭を揺らして

『なるほど……良い名だ』

と、微かに笑ったようだった。

「……僕の名前は小柳春。春でいいよ。よろしくね、シンクさん」

ドラゴン――シンクの頬に手を当てながら、春がはにかむように笑う。

春の名前を聞いたシンクは驚いたように目を見開いて春の顔をじっと覗き込む様に黙り込んだ後

『ならば我が名はシンクでよい。ハル、その名、確かに胸に刻ませてもらった』

得心いったという風に軽く頷き、緩やかに目を細めて笑うように答えた。

――刹那。春とシンクの触れる間が眩く輝き、春は驚きのあまり目を覆ってしまう。

瞳の奥が、ジンと熱く痺れる感覚に襲われる。

「――うっ、ぐぅ……っ!?」

目を押さえて春が呻く。

その間にも光は輝きを増して、空間全体を埋め尽くさん勢いで拡散して、光の波となって樹の外へ漏れる。

突然の輝きに鳥達が驚き、木々から飛び立ってゆく……。

その光景を遠くから眺めながら、チェシャ猫は小さく呟いた。

「……契約が、成った」




光が緩やかになり、徐々に発生源であるシンクと春に収束し、やがて消えた。

「……ううっ。一体、何が……」

春が呻きながら目を開くと、視界に変化が訪れていた。

「……え、これは……?」

自身の周りに光が漂い、緩やかに流れ行く様が手に取るように感じられる。

それは水底から湧き上がり、シンクと春を包み込むように緩やかに流動して、空中に消えてゆく。

「契約は完了した」

先ほどまでとは違う、明らかな肉声に思わずびくっと肩を揺らして春が反応すると、シンクは愉快そうに笑い声を上げる。

「はっはっは。何を驚いている。契約したのだ、我の言葉がわからないのでは話にならないだろう」

そういいつつ緩慢な動きで木の根を降り、池の畔に腰を落として尾で春を囲い込むように座るシンク。

「え、でも、さっきまで普通に会話していたような……」

尾に抱かれるような形になりながらも、高い位置にあるシンクの顔に向かって困惑気味に言うと

「先ほどまでのはハルの世界の、ハルの言語に合う様に調整した言語魔術の一種だからな」

シンクは事も無げにそんな事を言いながら春の方を向く。

「この状態は、契約者になったから?」

今の春には、ドラゴンであるシンクが、口を動かして普通にしゃべっているように見えているのだ。

それどころか、先ほどまでは理解できなかった行動が、今は普通の人のそれと変わらない、ただの友愛表現であるとわかる。

「契約を通して、我とハルはリンクしている。だから今の私にはハルを通してハルの世界がわかるし、ハルもわかるはずだ、私を通してこちらの世界、こちらの言語、我々の言語についても……」

シンクの言葉に連動するように、春の頭の中に言語や事象、歴史や感情など、フェミュルシアのあらゆる知識が間欠泉のごとく湧き上がってくる。

「――……え、うわっ!何、これ……あ、ああ――」

突然、意識の海に濁流のように押し寄せたシンクの情報が頭を埋め尽くし、混乱する春を諭すような調子で

「落ち着け。我の声を良く聞くんだ。今は煩雑とした情報が溢れているだろうが、じきに収まる。ゆっくりと、自分が今必要としている事だけを考えろ」

とだけ言って、シンクは尾の先で春の頭をなでるようにする。

しばらくその状態が続いた後、春は荒くなった呼吸を落ち着けるように深呼吸を繰り返しながら

「……もう、大丈夫。この世界は、大変なんだね……」

と、憔悴しきった顔でシンクに言った。

そんな春にふっと力を抜いた様子で笑いかけて

「ああ。我はこの世界が好きだ。そして何より、我を頼ってくれている者たちを救いたい」

と目を細めるシンク。

シンクに力なく笑いかけてから

「わかるよ。そういう想いも、さっき、受け取った」

と、春は顔を引き締めながら言う。

そんな春に言葉をかけようとしていたシンクがぴたりと動きを止め、一つの場所に意識を向ける。

春も釣られて其方へ注意を向けると、かさかさと草が揺れているのに気がついた。

「……――出ておいで。隠れてなくても大丈夫だ。この人間、ハルは味方だ」

優しく諭すような調子で言うシンクに、草むらは一層激しく動き

「――い、居ない!居ないもん!!」

……絵に描いたような反応が草むらから返ってくる。

明らかに幼さがむき出しになった様な少年風の声に、春は微かに力が抜ける。

しばしの沈黙の後、諦めたように姿をあらわして怒られまいかとびくびくするその姿に、春は思わずぽつりと呟いた。

「……狼?」

呟く春に、シンクは

「最近移り住んできたウルフの子だ」

といって相槌を打つ。

「ウルフ……可愛いね」

シンクと春、聖域の主と見知らぬ人間の二人に見つめられ、震え上がって今にも泣き出しそうな子犬さながらの姿に、春は思わず感想を漏らす。

耳をぱたぱたと動かしながら、ウルフの子がおずおずとハル達に近づいてくる。

そんなウルフの子をあやすようにシンクがウルフの子に高さを合わせてたしなめる様に

「今日は一人かい。駄目じゃあないか。君はまだ子供なのだから、お母さんから離れていては、何かあってからでは遅いのだぞ」

と言うと、ウルフの子はふるふると首を振りながら、今度は春に顔を向け

「ぅー。だってー。お母さん、狩りに行ったまま戻ってこないんだもん。……そのお兄ちゃんって魔族ー?変わった格好してるねー」

と問いかけてくる。

少年の様な可愛らしい声で問いかけてくるウルフの子に、春は思わず笑いながら

「ふふふ。僕は人間だよ。シンク……主さまなんだっけ。とお話しに来たんだよ」

と説明してあげると、ウルフの子は心底驚いたと言う風に

「えー!ぬしさまとお話しにきたの!?すごいなー!!ぬしさまとお話できる人間なんてそうそういないよ!」

今度は春の事を尊敬の眼差しで見始めた。

キラキラと好奇心に輝く目を向けられ

「シンクに話をしにくる人間は、そんなに少ないの?」

春は首を傾げながらウルフの子に問いかける。

すると、ウルフの子はさも自分のことかのように自慢げに説明してくれるのだった。

「そうだよっ!この森の皆を悪いやつらから守ってくれてるんだ!この森がきれいなのも、みーんなぬしさまのお陰なんだってお母さんが言ってたよ!」

「そうなの。すごいんだねー」

春が相槌をうってやると、ウルフの子はうれしくてたまらないといった風に春の周りを駆け回りながら

「ぬしさま!このお兄ちゃんってすごいんだね!お兄ちゃん、お兄ちゃんってなんていう名前なの?」

と言ってはしゃぎだす。

「僕は春。小柳春だよ。よろしくね。ええっと……」

名乗った後、春はウルフの子の名前を聞いていないことに気づき、自分も聞き返そうとするが、ウルフの子は名前が聞けたことでそれどころではないらしい。

「ハル兄ちゃんだね!ハル!ハール!」

と言って、春の周りをぐるぐると駆け回り、何度も止まっては尻尾を振り、そしてまた走り出し、止まっては耳をぱたつかせ、また走り出すと言うサイクルを繰り返し始める。

「あはは……」

苦笑してその光景を見ていた春に

「随分と気に入られたようだな。仲良くしてやってくれ」

といって、シンクが春の真上でそう笑いかける。

「可愛いですね」

「ああ、我はこの子らを守るためにも。力が必要だったのだ」

シンクが目を細めてそういうのを聞いて

「そう……」

春も柔らかく微笑んだ。

そんな二人のことなどまるで気にしていない当のウルフの子はぱたぱたと尻尾を振って

「そういえば、ハルはなんでぬしさまの事をシンクって呼んでるの?っていうか、何でボクの言葉がわかるの?お母さん言ってたよ?マニトは私達の言葉がわからないから近づいちゃいけないって!」

矢継ぎ早に質問を浴びせかける。

春はウルフの子のやんちゃな様子に苦笑しながら一つ一つに丁寧に答えてやる。

「ええっとね。ぬしさまは僕と契約して、シンクって名前になったんだよ。君の言葉がわかるのは、シンクを通して君達の言葉が分かる様になったからだね」

懇切丁寧な説明にもかかわらず、ウルフの子は話の半分も分からなかったのか

「へぇー!すごいすごーい!よくわからないけどハル兄ちゃんってすごいんだねっ!!」

と、何度もすごいを連呼しながら春の胸に飛びついて頬をなめる。

「あははっ、くすぐったいよ。遊んであげるからちょっと離れて」

ウルフの子になめられながら擽ったそうに身をよじって春が笑ってウルフの子を抱き上げながら言う。

すると、抱き上げられたのが嬉しかったのか、尻尾や耳、感情が表現できる物はおおよそ全て使って喜びを表現する。

そのままじゃれあい始めた春とウルフの子を微笑ましく眺めながら、シンクは騒ぎ出した外の喧騒に耳を傾けていた。

その喧騒は徐々に近づいてきて、自然の城門を潜り抜けて顔を出したチェシャ猫の姿は、どこか逼迫した雰囲気を醸し出していた。

「我が主!ハル君、大変だ。マニトの軍勢が此方へ向かっている。間もなく森の入り口に――」

矢継ぎ早にそう告げるチェシャ猫の目が、ウルフの子とじゃれあう春と、どこか遠くを見ているようなシンクを捉える。

「……前もあったんだっけ」

ウルフの子を引き剥がしながら問いかける春に、シンクは軽く首を縦に振って肯定し

「そうだ。前回は我が前線に出るまでもなく終結したが、今回はそうもいかないようだ」

目を細めてまた遠くを見るような仕草で森の入り口の方向に顔を向け始める。

「……わかるの?」

尋ねる春に顔を向けず、ただ当たり前という風に

「《ヴィジョン》の魔法を使ってるといい」

とだけ言って外に注意を向け続ける。

春は言われたとおりに《ヴィジョン》というものを使用しようと、その情報を頭の中で思い起こす。

すると、まるで知っているのが当たり前の様に、術の効果や詠唱、マナの扱い方などが春の頭に呼び起こされた。

「《ヴィジョン》……これかな。《遠き憧憬を模る(まなこ)、瞳に宿りし万象を示せ》」

ぽつぽつと、まるで夢見心地のように詠唱を口にする。

――ヴゥン……

微かな音と共に、透明な台の上に水をたらしたような薄い膜が春のすぐ目の前に展開され、その中に森のすぐ外の映像が鮮明に映し出される。

森の入り口に向かって進軍してくる画一の鎧を身に纏った軍勢が、すでに森の手前にまで迫っていた。

遠くを見るのを止め、春の作り出した映像を覗き込むようにしていたシンクが重々しく口を開く。

「これは、森に入る前に撃退するしか……止む負えまい」

シンクの言葉に、映像から目を離して

「……僕はどうしたらいい?」

問いかけた春に、シンクは緩やかに首を降って

「ハルに人と戦えというのは酷だろう。ここで待っているといい。本来ならば戦いに巻き込む前にルグラへ返してやりたかったが――」

言いかけたところで、一緒になって映像を覗き込んでいたウルフの子が叫んだ。

「お母さん!お母さんが映ってる!!」

「――っ!?」

慌てて映像を操作し、ある一点に焦点を当てる。

すると、ウルフらしき魔物が、森の外周に集まりつつある魔物たちの先頭に立って人間の軍勢を睥睨しているところだった。

「あれが君のお母さん?」

問いかける春に、ウルフの子は答えない。

ただ、たっと駆け出したかと思うと

「助けに行ってくる!!」

それだけを言い残して走り去り、すぐにその姿は草木に隠れて見失ってしまう。

「あ、まって!!!」

叫んで、ウルフの子に続くような形で春が飛び出してゆく。

「ハル、待つんだ!!ハル!!!」

シンクの静止の言葉は、春には届かなかった。

春の姿はシンクの声をが届くよりも先に、その場から消えてしまっていた。




森と外の境界では、膠着状態が始まっていた。

――グルルルル。

方々から姿を見せないまま唸り声を上げる獣達と、赤を基調に黒や金の刺繍を施された軍旗を掲げたマニトの兵団。

その双方が、お互いの指揮官からの命令を待つような静けさで対峙していた。

その最前線で、一匹のウルフが遠吠えをする。

ウォォォン――……

森中を声が伝播する。それに釣られる様に、様々な声が森中から木霊して地響きを立てた。

「魔物共が。前回と同じように行くと思うなよ……何せ今回は前回の一個師団など比ではないほどの軍を率いているのだからな」

しゃりしゃりと甲冑が揺れ、馬上にまたがった恰幅の良い髭面の男が、自慢の髭を撫で付けながらほくそ笑む。

「おい、魔術師、この森に魔光石が大量にあるというのは本当なんだろうな?」

すぐ脇に控えたローブをすっぽりと被った如何にも怪しげな雰囲気を醸し出している人物に、髭面の男が問いかける。

それに答えるように魔術師は低く笑い、森を見据えながら髭の男には見えない何かを見る様に指で示しながらぼそぼそと呟く。

「ヴァーブルク将軍には何の変哲もない森に見えましょうが、私にはハッキリと感じますぞ。私の持つ魔光石が溢れるマナに歓喜しているのが……」

みれば、魔術師の手に握られた杖の先の宝石の内側から発せられている淡い光が、森に近づけるたびに光度を増すようだった。

その様子をうっとりするように眺める魔術師に、髭面の男、ヴァーブルクは鼻を鳴らし

「ふん。魔光石さえ手に入ればそれでいい。しかし、こんな辺境の森にそれほどの魔光石が眠っていたとはな」

舌なめずりする様に卑下た目で森を俯瞰する。

その視線が、真っ向から威嚇するウルフとぶつかって止まる。

「どうやらあのウルフがリーダーのようですな」

魔術師の言葉に、ヴァーブルクは小さく

「面倒だ。射殺せ」

とだけ命令する。

魔術師は恭しく傅いて

「御意に御座います」

と言い、ウルフに狙いを定めるように杖を構えた。

魔術師の動作を警戒する様に森がざわめく。

ウルフが唸りをあげるが、魔術師は気にした風もなく詠唱を始めようとしていると

――ガサガサ。

慌しく草木が揺れ、木々の隙間から小さな影が飛び出してくる。

その影はウルフに駆け寄ると、小さく高い声で吠え立てていた。

杖をやや下げて魔術師が問いかける。

「……どうやらあのウルフの子供のようですな。どういたします?」

ヴァーブルクは詰まらなそうにウルフの子へ向けていた視線を外し、ただ淡々と

「邪魔なモノは総て殺せ」

と命令を下す。

魔術師はひとつ小さく頷くと、先ほどと同じ高さへ杖を構えなおしてウルフの子へ狙いを定める。

「《世界に偏在する輝ける力、我が意思に従い敵を討て》――《エナジーランス》」

まるで周囲の空気を威圧するような重い言葉が、魔術師の周囲のマナを従える。

杖に嵌め込まれた魔光石が輝きを増して、周囲のマナを練り上げる指針となって一筋の光を紡ぎ出す。

その光が限界にまで膨れ上がった瞬間、爆発するように杖を離れ、一直線にウルフ達へと向かう。

――ズバン!

空を裂く様な音と、獣の悲鳴が森に木霊する。

光の槍が飛来する直前、ウルフは我が子に狙いを定めたそれの前に立ちふさがるように俊敏に駆け、光と子供の間へ割って入っていた。

しかし、その捨て身の行動すらたやすく貫いて、ウルフの体を貫通した光の槍の一部がウルフの子の脇腹に深々と突き刺さり、四散する。

槍が消えた直後、焼けたような焦げ臭さと、獣の血が地面に赤い染みを作り、ウルフ共々崩れ落ちるように倒れた。

その光景に、群集はざわめきながらも歓声を上げ、不審げみていた者までもが魔術師を畏敬を込めた目で見始めていた。

力なく崩れ落ちるウルフを見て、ヴァーブルクは満足げに髭を摩り

「ふん。子を庇ったか。しかしそれすらも貫くとは、魔術師風情と思っていたが、中々どうして使えるではないか」

先ほどまでの不審を隠そうともせずに言うヴァーブルクに

「お褒めにあずかり、光栄でございます」

魔術師は傅きながら答える。

「しかし、まだ子供は生きているようだな?生かしておいて後々復讐心を持たれても困る。処分しておけ」

弱弱しく痙攣するウルフの子を睨みながら、ヴァーブルクは冷徹に命を下す。

魔術師も小さく頭を垂れ、先ほどと同じ詠唱を口にする。

杖から発せられた光が槍を象り、《エナジーランス》が今にも命が果てようとしているウルフの子へと襲い掛かった。

光が着弾する瞬間に強く輝いて視界を埋め、土砂が舞い上げられて砂埃となって視界を塞ぐ。

風に流されて土砂の膜が晴れ、弱くなった光に目が慣れてくるにつれて、ウルフの子が立っていた位置に何者かが立っていることに気付く。

「……はぁ、はぁ。間に――あわなかった」

肩で息を切らせ、ウルフの亡骸と瀕死の子供に視線を落としながら、一人の少年が呟いていた。

柔らかそうな茶髪が太陽の光に照らされて赤茶色に見える。その髪と同じ色をした瞳が、悲しみに揺れて

「ごめんね。間に合わなくて……」

呟きながら、ウルフの子にそっと手をあてがい、ぽたぽたと頬を伝って涙が落ちる。

「何者だ。マニトならば名乗りを上げよ」

ヴァーブルクが声を張り上げると、少年はすっと立ち上がり、先ほどまで見せていた悲しい表情が抜け落ちた様な冷めた雰囲気をまとって、ヴァーブルクを見据えた。

「……何者なんて、貴方達に聞きたいですよ」

静かに答える少年の声に覇気はない。ただ、淡々と言葉をつむぐ。

そんな少年の異様な雰囲気に飲まれることなく、ヴァーブルクは力強く宣言する。

「我らはガルデコール帝国第4師団である。貴様こそ何故マニトでありながら魔物の住処から現れた!答えよ!貴様は本当にマニトか!」

声を張り上げて詰問するヴァーブルクに対し、少年は静かに答えた。

「僕は春。貴方達と人間です。……何故、この子を撃ったのですか?」

春は問いかける。ただ、純然たる意思を確認するように。

ヴァーブルクは春を嘲弄するかのように鼻で笑い

「ふん。マニトならば魔物を狩って当然の事、魔光石を独占する卑しき種族を討伐して何が悪い!」

と、腰にさげていた剣を抜き放って春に突きつけるように向ける。

無表情に近かった春の表情が揺らぐ。

ただし、それは剣を向けられた恐怖にではなく、ウルフの子へ向けられた悔悟と、自身へ向けられた無力感故に。

「愚か……なんて、身勝手なんだろう。そんな事のために、この子は、この子は――」

――ゴウッ

春の体から光、純粋なマナがあふれ出し、青の粒が溢れては消える。

それに反応するように、魔術師の持つ杖が震えだして光った。

「な。何というマナ……将軍、あの者は人間ではありませぬ。あれこそ、この森を治める魔族でございます」

震える杖を押さえるように握り締めながら魔術師が言うと、ヴァーブルクは小さく笑って

「ふん。ようやく本性を現したか。化け物め。魔術師よ、奴を撃ち殺せ」

と、魔術師に命令を出した。

魔術師は杖を両手で握り、狙いを定めるように構えて慎重にマナを練り上げる。

魔法を使う者にしかわからない圧倒的な威圧感。

それほどまでのマナを、制御するわけでもなくただ溢れるままに放出する目の前の敵に、魔術師は困惑していた。

どれほどの威力ならば足りるだろうか。自身の制御できるマナはどれほどか。

そうした思考の下、魔術師の構えた杖に、先ほどとは比べ物にならないほどに強い光が纏う。

「《世界を導く覇者の煌きよ、我が身に依りて敵を穿て》……――《ピアシングエナジー》」

一際強い光が瞬き、巨大な光が螺旋を描くように幾つもの光を纏って春へ殺到する。

光が届くよりも早く、春は無意識に手を向けていた。

混濁する思考に、様々な光景や記憶がフラッシュバックする。

赤い髪の少年が石を投げられている光景。

その少年と、森の奥で出会った記憶。

柔らかな日差しと少年の無垢な笑顔が焼け付いて、血まみれのウルフの子へと摩り替わる。

激痛にも似た感覚が胸の奥に刺さって、春は押さえ込むように片手で胸に当て、痛みと怒りとがない交ぜになった視線を光に向けた。

――バシュ……ジジ、ジジジ……

春の眼前にまで迫っていた光の奔流が、まるで半透明の壁のような薄赤い膜にぶち当たって光の粒を火花のように散らせた。

光は膜に触れた部分から淡くなり、徐々に薄赤い膜の中へ溶けて行くように消え始める。

すべての光が掻き消えた後には、無傷で涙を流す春の姿だけがあった。

森の前で、まるで守護神のように超然と立ち塞がる春の姿は、光が晴れると同時に変化していた。

先ほどまでの太陽にすけるような茶色の髪が、まるで赤い膜の色素が移り込んだように燃えるような赤になり、龍を象る様な光が茶色の瞳の奥に宿る。

「……倒さなきゃ。守らなきゃ」

ぶつぶつと呟きながら、よろよろと覚束無い足取りで一歩前へでる春を、魔術師は驚きのあまり呆然と眺めていた。

「何だ、あの防御魔法は……見た事がない、まるで、まるで――伝説の魔物のようではないか!!」

自身の最高の攻撃をあっさりと防がれた魔術師はその場にへたり込み、この世の終わりを見るような絶望の眼差しで春を見る。

先ほどまでの魔術に歓声を上げていた兵たちも一様に黙り込み、目の前に立ちふさがる得体の知れない少年に対して動揺が広がってゆく。

その中でもヴァーブルクだけが未だに戦意をメラメラと燃え上がらせていた。

「ひるむな!人に化けていようが魔族のたかが一匹!数の上の勝利は揺るがん!全軍突撃!!」

魔術師はもう使い物にならないと見切りをつけ、剣を掲げて手綱を引き馬を走らせる。

勇猛果敢に駆ける指揮官に触発されてか、兵士たちも遅れながらも声を張り上げて春に殺到する。

響く怒号。ヴァーブルクに続くように兵士が駆ける。

「……――《大地に潜みし断罪の牙よ、汝を穢す咎人を擂り潰せ》、《ストーンファング》」

手を緩やかに動かしながら、春は歌うように口を動かす。

口から零れ落ちるのは、春の知らない魔法の詠唱。

しかし、春の頭には既にどのような魔法かが鮮明に浮かび上がっていた。

瞳の奥の龍の灯りが一層強く輝き、髪の赤みが増す。

春から溢れ出す青色のマナが、大地の染み渡って色を変える。そしてそのマナに触発され、大地が隆起して数多の槍の様に鋭く尖ってゆく。

大地が作り出した無数の牙は一様に先陣を切るヴァーブルクへ殺到し、ヴァーブルクの駆る馬を、そしてその上に騎乗していたヴァーブルクを打ち落とし、大地へ引き摺り下ろした。

「ごがっ!?いったい、何が――」

突然の出来事に動揺しつつも、地面を転がるようにして衝撃を殺してすぐに体勢を立て直せたヴァーブルクは、やはりさすがと言ったところだろう。

幾戦もの戦場を駆け抜けた武将として、ただで地に足を突くわけには行かないと、すぐに剣を構えて春を睨む。

隆起した大地の刃が障壁となり、ヴァーブルクと兵たちが分断されて兵たちが足止めされ、ヴァーブルクと春のみが森側に取り残される形となる。

巨大なマナに操られた大地の変容を目の当たりにし、魔術師が驚きを隠そうともせずに呆然と呟く。

「馬鹿な……あれが《ストーンファング》だと……あれではまるで中級魔法ではないか」

春の放った魔法、ストーンファングは地属性の中でも最も扱いが容易く、魔術をかじった事のあるものならば誰もが知っている初心者向けの魔術。

当然魔術師はその魔術を知っていた。しかし、その威力は熟練の術者の放つ、範囲総てを支配する中級以上の魔法のそれだった。

「ふん、俺との決闘を望むか。魔族にしてはその心意気やよし。その勝負、受けて起とうではないか!」

剣を正眼に構え、ヴァーブルクが言う。

その言葉に、春は初めてヴァーブルクが目の前にいる事を認識したように視界の焦点を合わせて

「……貴方が、指揮官?」

呟くように問いかけた。

その姿は戦場に相応しくない、ルグラの制服姿。細かく見なくとも武器など持っていないことがすぐにわかる。

本来ならば得物も持たない少年に対して武器を構える事そのものが騎士道に反しているが、先ほどの攻撃をみてまだそれを考えられるだけの余裕を、ヴァーブルクは持ち合わせていなかった。

もとよりヴァーブルクは騎士道よりも勝利を重んじ、時には降伏を持ちかけられる戦であっても手を抜かずに敵を一掃する。そういう人物だった。

「如何にも。我が名はガルデコール帝国きっての名門、グレイル家当主、ヴァーブルク=グレイルである!」

警戒を解かず、堂々と名乗りを上げるヴァーブルク。

春はそんなヴァーブルクにさして意識を向けている様には見えない。

ただ、定まらない視点で、混濁する意識で、戦いを終わらせるための知識を思い描いていた。

敵の指揮官を潰す。圧倒的な力で。

既に混乱している兵士たちにとっては、おそらくそれだけで決め手となる事。

結論に至った春は、それが何を意味するかを吟味することなく、普段ならばとらないだろう選択肢を、選択する。

「いざ、尋常に勝負!」

ヴァーブルクは声を張り上げて春に疾駆した。

その恰幅のいい体からは想像もつかない様な俊敏な動きで春に肉迫する。

しかし春はそんなヴァーブルクに対して、何もしなかった。

――ガギッ、ギギッ、ギ……

「……」

鉄が何か硬いものにかみ合うように、ぎちぎちと不快な音を立てた。

春はその場から一歩も動かず、何もしていない。

ただ、春とヴァーブルクの振り下ろした剣との間に、先ほども現れた赤色の薄い膜が現れ、攻撃を受け止めていた。

布かゼリーの様に柔らかくみえるその薄い膜だったが、しかしヴァーブルクの渾身の一撃をいとも容易く阻み、春に凶刃が近づくことを一切許さない。

「ぐ……なんだ、この障壁は……っ!!」

力を込めた事で額に血管が浮き上がり、踏み込みを強くすればその分地面が抉れる。

そんなヴァーブルクを冷やかな目で見据えながら、春は小さく呟くように

「竜鱗はあらゆる攻撃を拒み、その一切を許さない」

とだけ答えて、目の前で止まる剣に手を伸ばす。

咄嗟に身を引いて体勢を整えるヴァーブルクは、次の瞬間には自身の判断が英断だった事を認識する。

「……《敵を討て――エナジーランス》」

詠唱を省略して春が術を唱える。

手の先に光が集まった瞬間、先ほど魔術師が放った魔術とは比べ物にならないほどに巨大な光の槍が剣のあった場所を焼ききって、大空の虚空へと巨大な柱のように駆け抜けた。

「なるほど、マニトの魔術師が使う術など、児戯に等しいというわけか……っ!」

飛びのいた際に髪が乱れるが、そんな事を気にする余裕などあるはずもなく、ヴァーブルクは言う。

自身の声が微かに震えていた事など、気付けるはずもない。

初撃を外した春は無言のまま照準を合わせる様に手を前へ、ヴァーブルクの方へと向け

「《穿て――ピアシングエナジー》」

続けざまに魔術師の使用した術を唱える。

先ほど魔術師が使った《ピアシングエナジー》は、巨大な光の周りに幾つもの細い光が螺旋状に絡まって貫通力を増す魔術だった。

しかし、春の詠唱を省略してぞんざいに放った《ピアシングエナジー》はそのあり方を著しく変えていた。

巨大な光の槍の周りを、光の剣が幾つも重なり合い、さながらドリルの様に巨大になった先端が、まるで大気すらも穿ち削るように、ヴァーブルクへと殺到する。

「ぐぅっ!?」

光る螺旋を紙一重で避け、ヴァーブルクは地面を転がる。

螺旋が射線上の総てを巻き込んで、春自身が作り出した大地の障壁を抉り取った。

その隙を突いて兵たちが乗り込んでヴァーブルクを守るように立ち塞がる。

「将軍をお守りしろ!」

「無事ですか!将軍!」

口々に言葉が飛び交い、春に向かって剣を抜く。

目の前の得体の知れない存在から少しでも遠ざかろうと、ヴァーブルクと共にじりじりと後退する。

その様子を漠然と眺めながら、特に制止や牽制などする様子もなく、春はただ呟く。

「……《星を抉る収斂されし神の裁き、眼前の総てを等しく世界の欠片へ戻せ》」

春の体から湧き上がる青いマナが輝きを増し、その総てが掲げられた春の手に集まってゆく。

大地の壁が抉れ、視界が開けたことで魔術師が春を視認し、その詠唱の意味を知るこの場にいる唯一人物である魔術師は、今度こそ静かに地に手をつき、打ちひしがれる様に声を絞り出す様に呟いた。

「……あの詠唱は、はるか太古に失われた神々の呪文…遺失魔法(ロストスペル)……そんなモノを扱える者が、存在するなど……」

魔術師の言葉を聴いている者はいない。

ただ、眼前に広がる圧倒的な力を発する光の塊に息をのみ、春に切りかかる事すら忘れて呆然とその光景を見ていた。

「……潰えて消えろ。《イレイジングコメット》」

焦点の定まらない視界、その総てをただ潰す。

深く物事を考える事も出来ないほどに混濁した思考、春の頭にはただその言葉だけが渦巻いていた。

頭上の光が消え、次の瞬間には遥か天空に太陽が二つあるのではないかと思うほどに光り輝く球体が浮かび、それは後退していた帝国軍に急激に落下してゆく。

「う、うわあああああああ!!!」

兵士たちの悲痛な叫びが響き、昼の平原に光の星が落ちた。

瞼の上から目を焼く様な圧倒的な光の渦。

兵士たちの声という音すら飲み込む衝撃が響き、森の木々が嵐に遭ったように揺れる。

光が弱まりって、やがて色彩が戻ってくる。

先ほどまでは緑が生い茂り、どこまでも続くように広がっていた平原。

その平原の森の手前に広がる部分がごっそり吹き飛んで、隕石がぶつかった様な巨大なクレーターが出来上がっていた。

クレーターの中心、驚き、口を閉じる事すら忘れて、ヴァーブルクが乾いた声を漏らす。

「……こんな、事が……」

ヴァーブルク達の立っていた場所のみ、元の平原の草地が無傷で残されていた。

その頭上、軍全体を覆うように、赤く薄い膜のようなものが揺らぐ。

『愚かなる人の子よ』

軍や春、森の魔物など別け隔てなく。頭に直接語り掛けて来る様な声が響いた。

「な、何者だ!!」

正気に戻ったように顔を上げて立ち上がったヴァーブルクが叫ぶ。

すると、森の奥から大きな羽音と共に赤銅色の巨大な影が飛来して、春のすぐ後ろへ着地して大地を震わせた。

「ド、ドラゴン……そんな、化物に加えて、ドラゴンまで……」

兵士の誰かが、絶望と驚愕をない交ぜにしたような、震える声色で言う。

フェミュルシアでも、ドラゴンの存在は伝説として語り継がれていた。

神話の中にしか存在しない架空の、そして圧倒的な力を持つ、最強の魔獣。

実際に見たものは存在しないとまで言われた伝説上の存在が目の前で翼を広げ、春と名乗った少年を抱く様に頭を垂れる。

『汝らに命がある事、我らが主の恩情である事を努々忘れるな』

大気を震わせる咆哮。木々がざわめき、赤い膜の結界が音もなく崩れ落ちた。

目の前の軍勢に、ドラゴンは睥睨しながら言葉を続ける。

『我が名はシンク。古の神と共に生き、この世界を見守る守護者である』

名乗りを上げ、翼を広げるシンクに、帝国軍は言葉もなく一歩、また一歩と退く。

『このお方は我らが主にして我が契約者。我が君の力の程はよく知れておろう』

前足を一歩踏み出してシンクが威圧すると、大地がビリビリと震えて巨大な足跡が刻まれた。

『去るがいい。今退くのであればあえて追おうとはせぬ。しかし、次はないぞ』

そう言って天へ向けて咆哮を発すると、音が火を纏い、まるで太陽から溢れた火が天を焦がすように吹き上がる。

その光景と言葉で完全に心が折れ、帝国軍はもはや武器を構える物はおろか、武器を取り落とし、目の前の伝説上の化物を惚けた様に眺めている者がほとんどだった。

「ひ、に、逃げろ!!魔王、魔王だぁ!!!」

誰が叫んだのかは定かではないが、その言葉が決定打となったのは疑いようが無かった。

触発されるように我先へと撤退し、遠く小さくなってゆく兵士達を見ながら、春の思考は徐々に落ち着きを取り戻していった。

『落ち着いたか?』

先ほどとは打って変わった優しげな声音が頭に響き、春はゆっくりとシンクの方へ向く。

「……僕、一体……何を――」

こめかみを押さえながら呟く春の視界の端に、ウルフの子が目に留まる。

「……――そうだ、大丈夫!?」

慌てて駆け寄ると、ウルフの子はうっすらと意識を取り戻して何かをしゃべろうとする。

しかし、言葉の変わりに吐き出されるのは真っ赤な血だった。

「喋らないで!今治療するからっ!!」

膝を突きウルフの子を覗き込むようにしながら手をかざして、頭の中で治療する方法を思い描く。

しかし、そのどれもが前提として対象の体内のマナを必要とするものしかなく、今のウルフの子では耐えられない事がわかってしまう。

「これじゃだめ、これでも……何か助ける方法はっ!!!」

ふいに、頭の中にひとつの答えが過ぎった。

その答えに飛びつき、細かい事など気にも留めずにただ手順や方法だけを抽出して想起しはじめる。

「ハル、その方法は――」

意図を察したシンクが春に声をかけるが、春は首を振り

「ううん。これしかない。僕なら平気だから」

と口早に答えてウルフの子に手を伸ばす。

「……言っても聞かぬのだろうな。……ならば、ひとまず場所を我が住処へ移そう。あそこには清浄なマナに溢れている。行使するならばこれ以上の場所はない」

そんな春の様子にシンクは首を振りながら諦めたように提案する。

シンクを通して、その心境や意図が春に伝わり、春の焦りが若干だが緩和して、決意の伴ったものへと変わる。

「わかった。……ごめんね、もうちょっとだけ待っててね?」

優しくあやす様に抱き上げる春の顔を、ウルフの子は力無く見上げ

「……ハル、兄ちゃ……お母さんは……?」

泣きそうな声で尋ねる。

その言葉に、春はぐっと言葉を飲み込むように押し黙り、ただ詠唱を口にする。

「……《流浪の軌跡、我が身を移す鏡を以って導け》――《ポイントテレポーション》」

すうっと春の姿が薄くなり、その場から春の存在感が消えてゆく。

シンクもそれに倣って転移の魔術を行使し、姿が消える。

二人の消えた森の入り口には、ただ、大きな爪痕と、隕石が落ちたような巨大なクレーターが残っていた。

――ふわり。

と、まるで空間からにじみ出るように姿を現す春と、その腕に抱かれたウルフの子。

そして池の上の巨大な木の根の上に寝そべるような姿で現れたシンクの姿に、チェシャ猫は驚いたように声を上げる。

「あらあらおかえりなさい――ってその子、どうしたんだい!それより、その子の親は!?」

矢継ぎ早に尋ねるチェシャ猫を制するように、春は静かに池のそばの地面にウルフの子を横たえる。

「今、助けるからね……」

柔らかく春が微笑みかけると、ウルフの子も小さく笑うように呻く。

「よく聴いて。君を助けるために、僕は君と契約したい。僕の名前は小柳春。君の名前を教えてくれる?」

ウルフの子の頭に手を置きながら、春はゆっくりと言葉を紡ぐ。

その言葉に、ウルフの子は一瞬何を言っているのかわからないと言う風な表情をしたが、すぐに小さく頷いて

「ハル……兄ちゃん、ボク……名前なんて、ないよ?」

苦しげに紡ぎだされるウルフの子の言葉に、春は考え込むように黙り込んだ後、優しく問いかけるように

「……それじゃあ、僕が君に名前を上げる。受け取ってくれる?」

と囁く。

ウルフの子は小さく頷いて

「ハル兄ちゃんがくれるなら、ボク、受け取る」

と言って耳を小さく動かした。

「……じゃあ、君の名前は今日からウル、どうかな?」

頭をなでながら、春はウルフの子に名前を告げる。

名付けられた名を吟味するように目を閉じた後

「ウル……うん。ボクの名前は、ウル――」

小さく笑いながらウルフの子、ウルは答えた。

――瞬間、ウルと春の間に光が溢れる。

その光は赤と青。春の手からウルへと流れ込むように光が纏わりつく。

「ん、うぐ――っ!」

光がウルへ流れ込み、その代わりに春にウルの痛みと記憶が流れ込んでくる。

痛みに手を離しそうになるのを必死に堪えながら、春はウルの頭に手を置き続けた。

春の右手の甲に鋭く熱い痛みが走り、春は思わず目をつぶる。

力強い光に色彩が褪せて、広場が光に包まれてその場にいる誰もが目を瞑った。

やがてその光も収まって色が戻ってくる。

完全に光が消え、ウルの姿が現れると、チェシャ猫だけにとどまらず、春やシンクまでもが言葉を失ってウルの姿を驚きの混ざった目で見ていた。

「……ふぇ?何?どうしたの?」

ウルだけが状況を飲み込めずに暢気な声を上げて起き上がる。

「あれ?ハル兄ちゃんってそんなに小さかったっけー?ねーねーぬしさまー。どうなってるのー?」

問いかけるウルに、シンクは静かに息を飲んで

「池を覗いてごらん」

とだけ言う。

言われたとおりにするウルの表情が驚きに塗り替えられてゆくのにそう時間はかからなかった。

池に映し出されたのは、先ほどまでの灰色の幼い毛並みが柔らかい、まだ成熟しきっていない小さな身体のウルフの子などではなく。

大きさだけでもウルフの倍ほどにも大きく、灰色の毛の一部が毛と同じ灰色の鱗状へと変化していた。さらに前足の肩部分から翼が生え、爪や牙が、まるでシンクの様な黒々とした巨大なモノへと変貌していた。

「ええっ!?どうしたのこれ!ボク、大きくなっちゃった!すっごーい!みてみて、ハル兄ちゃん!ボク、ぬしさまみたいな羽がついてる!」

驚きとも喜びともつかないような表情で、ウルは大きく飛び上がって春に抱きつこうとする。

そんな巨大な身体で抱きつかれたのでは先ほどまでとは勝手が違う。

押しつぶされまいとウルから飛びのこうと身を引く春の体が、ぐんと動いた。

本来の春はあまり運動神経がいいとは言えず、よくて人並みといった所だった。

しかし、まるで足に羽が生えたように俊敏に地を蹴り、あわや壁の役割をしている木の根にぶつかりかけた所で身を捩って壁に足をついて衝撃を殺し、地面へきれいな着地を決める。

「うわっ――ってえぇっ!?」

自らが移動した距離に思わず春が声を上げた。

一回の跳躍で明らかに人間の駆動域を超えたような距離を軽々と飛び下がってしまった自分の足をまじまじと見つめている春に、シンクは小さく笑い

「契約の恩恵だ。契約者はお互いの力や知識が共有される。今のハルは、我がドラゴンの魔力と知恵、経験と知識を。さらにウルのウルフとしての敏捷性を得たのだよ」

と説明してくれる。

シンクの言葉に納得言った風に頷き、春は小さく呟いた。

「……なるほど。……でも、ウルはなんであんな姿に……」

「おそらく我との多重契約の弊害……恩恵とも呼べるのかも知れんが。契約の時に流れ込むマナのパイプが我とウルとで混線を起こし、その結果、契約の恩恵であるはずの特性の継承の一部がウルにも作用したのだろう」

頭を捻る春に、シンクが補足するように語ってくれる。

シンクの言葉に春は小さく首を捻る。

その情報が、いくら思い起こしても出てこないからだった。

そんな様子の春に苦笑しながら

「過去に一度も多重の契約を結ぶなどと言った規格外のことをやってのける者はおらんかったからな。あくまで推測だ」

と、シンクが付け加える。

「規格外って……」

反論しようとする春にシンクが先回りするように言葉を続ける。

「いくら潜在的なマナの保有量・保存量が多いと言っても、我と契約した上で他者との多重契約を結ぶなど、並みの者、いや、相当に才のある者でも身が持たん」

「……何とも、無いみたいですけど」

自分の身体を検める様に手や足を動かす春の目に、右手の甲に浮かぶ紋章が目に留まる。

狼のような絵柄の、灰色の光を宿した痣の様な文様。ウルとの契約の証だった。

「ハルが例外的に規格外と言う事だ。しかし、それ以上の契約は身を滅ぼすぞ」

呆れる様に言うシンクに、春は笑って答える。

「あんな無茶はもうしないよ」

そんな春にウルが近づいてきて小さく鼻を鳴らす。

「ハル兄ちゃん……ありがとね。ボク、契約を通して全部わかったよ……お母さんが、死んじゃったことも……」

悲しいのを隠している事まで、春には手に取るようにわかった。ゆえに、かける言葉が見つからず、春は小さく息をのむ。

「ウル……」

何と声をかけようか、躊躇いがちに言いかける春を制するように

「でも、いいんだ!お母さんも、いつか必ず別れが来るって、それまでの間に、一人でも生きていけるように強くなりなさいって言ってたから」

ウルは力強く遠吠えする。

その声は幼いウルフの声でも、大人のウルフの声でもなく。どことなく、シンクを想起させるような力強い声だった。

「ボク、強くなったよ!それに、ハル兄ちゃんも一緒にいる……から――」

言葉の途中、糸が切れたようにウルの身体が傾ぎ、春に向かって倒れこむ。

倒れ行くウルの身体から光が溢れ、その姿が変化する。

鱗に覆われた大きな身体が、元の柔らかな毛並みの小さな姿へと縮んでゆく。

春が慌てて受け止める頃にはすっかりと身体が元の子供のウルフの物へと戻っていた。

「え、これは……っ!?」

驚く春に、チェシャ猫はウルを覗き込むように見ていたが

「なぁに、心配要らないさ。おそらくは魔力の放出に疲れて寝てるだけさね。じきに眼が覚めるさ」

と、春たちが戻ってきて始めての笑顔を春に向けた。

チェシャ猫の言葉を受けて、安心したようにウルを抱きながら

「よかった……」

と呟いて笑った。

「しかし、しばらくは安静にして変化した身体に順応する期間が必要だろう。なるべくマナの多いで休ませるに越した事は無いが――」

シンクが思案しながら呟く。

その言葉に、春は不意に思いついたように口を開いた。

「じゃあ、暫くは僕の世界――ルグラで休ませたらどうかな。僕がつれて帰って家においておけば良いし」

春の提案に一瞬驚いたような顔をしたシンクだったが、すぐに頷いて笑顔を見せる。

「それがよかろう。帰還の魔術の使い方はわかっておろうな?」

問いかけるシンクに、春は一瞬黙って記憶を探り、ある思い出を掘り起こす。

「大丈夫。前に、シンクが使ってくれたでしょう?」

と、春は悪戯っぽく笑って見せた。

春の言葉に意表を突かれたようにシンクが目を見開いて

「覚えておったか」

と感慨深く呟く。

そんなシンクに春は困ったように苦笑いを浮かべつつ

「覚えてたわけじゃないよ。ただ、さっき暴れた時にずっと思い出していたから……」

とだけ答える。

「そうか……」

「うん。今まで、忘れててごめん」

小さく謝罪する様に呟いた春に

「いや、随分と時が経っていたから、致し方ない」

とだけ答えて、シンクは緩やかな動作で木の根から降りてくる。

「……あの時から、僕達は友達だったんだね」

感慨深く、懐かしむように言った春に僅かに驚いたように

「まだ、友と呼んでくれるんだね」

今までとはまったく違う、柔らかく親しみのある砕けた口調で言ったシンクの姿が光に包まれ、その姿を変える。

龍鱗によって覆われていた巨大な身体が、小さな、人間の子供のそれと変わらなくなる。

光が消えるて姿を現したシンクは、鱗の色を反映したような赤色のツンツンと跳ねた髪と、陶磁器のようにきめ細かな白い肌、金色の目が特徴的な美少年の姿になっていた。

予想はしていたが、やはり目の前で起きると驚きは大きく、春は言葉に詰まるようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「……やっぱり。……そっちの姿のほうがかわいいよ。その外見って趣味?」

問いかける春に、シンクは軽く肩をすくめて目を伏せ

「マニトに換算した僕の年齢の姿が一番落ち着くんだよ」

とだけ言って春の前まで歩いてくる。

その姿は、フラッシュバックした光景の中にいた赤髪の少年とまったく変わらない。

重ねて言うならば、春が夢であった少年そのものだった。

「……あの時と変わらないんだね」

「まぁ、僕にとっての一歳は人間にとっての800年程度だからね。たかだか数年でそう変わる事も無い」

さらりと気の長くなるような話をしながらシンクが微笑むと、春もつられて苦笑してしまう。

そうだったのだ、こんな姿をしていても、シンクはドラゴン。長きを生き、あらゆるものを見てきた太古の龍。

しかし、それが人間に例えると、中学生、下手したら小学生にすら見える程に幼いと思うと、春は少しばかり愉快な気持ちだった。

ひとしきり笑い終える頃には、春の腕の中でウルが小さく呻いて目が開く。

「ん……あれ。ボク、どうしてたんだっけ……?」

目を覚ましたウルが寝ぼけたように言うのを聴いて、春は安心したように答える。

「疲れて眠っちゃってたんだよ。暫くはマナの多い場所で安静にしなきゃいけないから、僕と一緒に僕の世界に行こうって話をしてたんだ」

春の言葉に、ウルは目を輝かせながら春の腕から飛び降りて春の前で尻尾を振り

「ハル兄ちゃんの世界!?少しだけ流れてきたけど、動く鉄の箱とか、石で出来た大きな建物がいっぱいあるんでしょ?行きたい行きたい!」

と、好奇心を前面に押し出したように目を輝かせるのだった。

「よかった。ウルの了承なしに連れて行くのもどうかと思ってたから。喜んでくれて嬉しいよ」

そう言って笑いかける春の隣にシンクが立つと、初めて気づいたようにウルが首をかしげてシンクを見る。

「……あれ?そっちの人は誰?ぬしさまは?」

きょろきょろと辺りを見回しながら問いかけるウルに、シンクはくすくすと笑いながら

「僕がそうだよ。マニトの姿に変身してるんだ」

と言ってウルの頭を撫でた。

ウルは頭におかれた手にふんふんと鼻を寄せて確かめるようにしながら

「ほんとだ!ぬしさまの匂いがする!」

といって尻尾を振った。

「匂い……僕って臭う?」

ウルの何気ない一言にショックを受けたように、シンクは半歩身を引きながら、自身の匂いなどわかる筈も無いにもかかわらず、腕や手を鼻に近づけてくんくんと匂いをかぎ始める。

そんなシンクに笑いながら

「大丈夫、臭くないよ」

といって春が頭を撫でる。

「でも良いなー。ボクもハル兄ちゃんやぬしさまみたいになってみたいー。ねーねー。チェシャお婆ちゃん。ボクにもできるかな?」

尋ねるウルに、チェシャ猫は困ったように答える。

「うーん。難しいだろうねぇ。我が主の力が多少流れ込んではいるようだけど、変身は物凄く高度な魔術だから……」

「えぇー!ずるーい!ぬしさま!ぬしさま!ボクにも教えてー!」

シンクのそばへ駆け寄って、足元で尻尾を振るウルに対し、シンクは困り顔で春に助けを求める。

さすがにこれ以上放っておくのはかわいそうだと思った春はウルを抱き上げ

「ウルがもうちょっと大きくなったら教えてくれるよ。だから今はゆっくり休んで元気にならなきゃね」

といって抱きしめる。

抱きしめられたままのウルは小さく鼻を鳴らして

「……うん。わかったー。ぬしさま、ボクが大きくなったらちゃんと教えてくれる?」

と問いかけた。

「ああ。大きくなったらね」

シンクは小さく微笑みながら春に抱かれた状態のウルの頭を撫でる。

「じゃあ。ゲートを開くよ」

そう言って春が池の近くへ歩いて行き、その後ろをシンクとチェシャ猫がついてゆく。

池の前で足を止めると春とシンク、そしてウルのマナにあてられた水面が風も無いのに微かに揺らぐ。

「これからは意識を傾ければいつでも会話が出来る。何かあればまた声をかけるよ」

池の前に立つ春の後ろから、シンクが声をかける。

それに軽く頷き返してウルを下ろすと、池に向かって手をかざす。

「《隔たりし地への誘い、我呼びかけに答え、汝、道を示せ》」

フェミュルシアへ来た時と同じ詠唱を、春は再び口にする。

しかし来た時とは違い、今の春にはその呪文の意味がハッキリと頭に浮かんでいた。

青い光が春の足元から池に溶け、水面に青色の幾何学模様が浮かび上がる。

まるで池そのものが光っているように粒があふれ、その光景に魅入られたようにウルが歓声を上げた。

「うわっ!すごいすごい!マナが溢れてる!綺麗ー!」

そんなウルを促すように

「ゲートができた。さぁ、行こっか」

と言って、春が一歩、池に向けて足を踏み入れる。

水に沈むかに思われた足が、透明な床が水面のすぐ上にあるかのように押しとどめられ、春の体重を支えてもまるで微動だにせず、それどころか輝きを増したように文様が浮かぶ。

「わぁー!ボクもーっ!」

その様子に、ウルも飛び込むような勢いで池に走りこむ。

ウルの身体も水に沈むことはなく、文様の上にふわりと足が着く。

二人が乗った事で光が増し、その光が二人を中心に色彩を奪ってゆく。

「ハル……ありがとう」

呟くシンクの声が、春を振り向かせる。

「ううん。僕こそ、ありがとう」

春が笑いながら手を振り、シンクに言う。

その姿は徐々に霞んでゆき、ほどなくして、小柳春とウルの二人は、フェミュルシアから消えた。

久しぶりに筆を執る時間ができたので、連載物を頑張ろうと思います。

この次は対の章、この章での主人公である小柳春と対を成すキャラクターの章を書くつもりです。

方向性の違う二人の異世界人。その二人がこれからどう絡み合い、もつれ合ってゆくのか。

これからの展開にご期待下さい。


……とまぁ、こんな感じで、次の章でお会いできるのを楽しみにしております。

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