~第六部・閃剣~
前回よりは投稿間隔を短くできたのではないかと思います。
再びギルドの前へ辿り付くと、ギルドは相変わらず城を思わせる威容でもって春達を出迎えた。
双子月に照らされた外壁は白く、中から漏れ出る光が未だに中に人が居る事を知らせてくれている。
「随分時間が掛かっちゃったね」
頭の上で既に寝入ってしまいそうに舟を漕いでいるウルの背をそっと撫でる。
灰色の柔らかな毛並みが心地よく、ピクッと尻尾が動いて、ウルの意識が僅かに覚醒したようだった。
「むにゃ……ハル兄ちゃん……どうしたの?」
「ごめんね。起こしちゃったか。ギルド本部に着いたよ」
「着いたー?」
眠たげな目を瞬かせて、ウルは白い壁のように見えるギルド本部を見上げる。
「眠かったら寝てて良いよ」
「そうするーおやすみ……ハル兄ちゃん」
「うん、おやすみ」
再び目蓋を閉じたウルを慎重に頭から降ろし、赤子でも抱くかのように腕に抱える。
マイカと連れ立って二度目になるギルド本部の中へと入ると、昼はあれだけ騒がしく、人が絶えることなどありえないだろうと思われたホールも、僅かに行き来する数人が見受けられるだけで、春は深夜のコンビニを想像した。
時計を見れば、既に春が飛び出してから4時間は経っていた。
ホールを見回していると、見覚えのある女性が春の方へ歩いてくるのが目に入る。
「すみません、遅くなりました」
春は女性、カディアが呆れ顔で何かを言おうと口を開くのを見て、先制して謝罪を口にする。
戻ってきたら小言の一つでも言ってやろうと待ち構えていたカディアではあったが、春に先に謝罪されてしまったことで出しかけていた言葉が行き先を失ってしまった。
一つ小さく咳払いをして喉元まで出掛かっていた小言を仕舞いこんだカディアが尋ねる。
「ハルさん。いきなり飛び出して行ったから何事かと思いましたよ。ええっと、それで、何があったんですか?」
「ちょっと、ウルが誘拐されそうになっちゃって。マイカが教えてくれたんですよ」
あまりにも何でもないと言う風に春が言うので、カディアは一瞬固まってしまった。
「そ、そんな事が……二人は何ともないんですか!?」
見れば、確かにマイカとウルには目立った傷は無い様に思えた。
逆に、マイカなどは出て行ったときよりも顔色がよく見えるのは気のせいだろうか。
「ええ。お陰さまで……それで、登録の続きをお願いしたいんですけど」
「その事ですが」
春が先を促すように訪ねると、カディアは言い難そうに視線を春達から、ロビーへと向ける。
「ハルさんが飛び出した時には書類に必要な情報は大体揃っていましたから、私の方で大体終わらせてしまったのですけど……」
閑散としたロビーの人影は疎らで、依頼を受けに来ているというよりは、この時間まで依頼を受けていて、その報告に来ている人が多いようだった。
「本来なら、書類作成の後に、書類との齟齬の確認や、力量の確認のために模擬戦をやってもらうはずだったんです」
春もカディアと共に視線をロビーに向け、カディアが言葉を濁す理由に思い至る。
「……ああ。この時間ですもんね。模擬戦の相手が居ないから……」
この時間だ。普段は活気に溢れ、冒険者の人手が不足する事などそうそう起こり得ないと思うが、しかし、今は夜である。
春にはこちらの世界の大きな町での基本的な就寝時間はわからないものの、外の様子から、既にこの時間が一般人にとっては遅い時間である事だけはわかった。
冒険者という変則的な職業でもなければ、その冒険者を相手にする酒場や宿屋の様な商売でもなければ、この時間まで営業していると言うことはないのだろう。
「そういう事です。模擬戦の担当官は熟練の冒険者にお願いしていて、依頼として、新人の力量を測る手伝いをしてもらっているんです」
納得する春に、カディアが補足する様に付け加えた。
「ああ。なるほど、ここは冒険者になりたい人が集まると聞きましたし、そういう依頼もあるんですね」
グレンディには毎日数多くの冒険者志望が訪れる。熟練した冒険者ならば、それを審査する事を依頼を中心とした生活でも成り立ってしまうわけだ。
途中引退した中堅冒険者が安定した収入を得つつ安全に暮らすにはうってつけの仕事だと春は思う。
「ハルさんも慣れてきたらそういった依頼を受けてみるのもいいかもしれませんよ」
暗に、カディアは早く強くなってほしいと言う意図と、死なないでくれるならそういう道もありだと示しているようだった。
「そうですね」
相槌を打ちつつ、春は心の中でそっと謝罪する。
いつまでもグレンディに居るつもりはないし、そもそもこの世界に永住するわけではないのだ。
ずっとカディアと、マイカと共に生きていくわけには、いかない。
春は心にチクッとした痛みを感じて、僅かに表情を曇らせる。
「……話を戻しますけど、さすがに今の時間で受けてくれる人というのは、ちょっと……」
春の表情をどう解釈したか、カディアがやや困ったように話を戻すので、春は首を振って応えた。
「今日は一旦宿だけ紹介してもらって、明日また改めて模擬線を受けに来ますよ。手間をかけさせてしまっているのは僕ですし」
受付前までやって来た所で、春に一言断って、カディアは一度奥へと引っ込んでいった。
程なくして戻ってきたカディアの手にはいくつかの書類が握られていて、窓口から紙面を広げてみせる。
「では、宿は……魔獣可の所ですね。こちらで何件か候補を用意してありますので、この中から選んでください」
取り出された物を一瞥する限り、春には文字が読めないからどうしようもないのだが、それでも地図や金額だろう物は見て取れる。
「用意が良いですね」
3枚用意された資料を受け取りながら春がいうと、カディアはやや照れる様に微笑みながら応えてくれる。
「ええ。どの道、模擬戦が終わった後で宿の話も出ると思いましたから。先に用意しておいたんですよ」
たかが一冒険者志望の我侭に付き合い、そこまで気を回してもらっていた事に驚いて、春は慌てて礼を言おうとするが、カディアがさっと手でそれを制する。
「気にしないでください。どうせ暇ですから」
普通に受け取れば謙遜のようにも取れるが、どうにも春にはそのままの額面で言っているように聞こえて首をかしげてしまう。
「担当の冒険者の居ない受付なんてそんなもんです」
さすがにカディアもこの時間までは就労時間ではなかったのだろう、受付から出てくる間際に小さく息を吐いて、視線を外して小声で呟いた声が春の耳に入る。
「いない?どこか長期の依頼にでも行ってるんですか?」
春は内心でさらに首をかしげながら、ついつい口に出して訊いてしまう。
昼間説明する口ぶりからは、何人か担当を持っているような言い方ですらあったのに、それが一人もいない。というのは、何か事情があるのだろうか。
春の真剣そうな真摯な口調に、カディアは顔の前で手を左右に振って苦笑いしながら否定する。
「ああ。いえ。担当官とは名ばかりで、私は担当をもった事がなかったんですよ」
「それはまた……どうしてです?担当してる冒険者の功績で昇給するって言ってたのはカディアさんじゃないですか」
春が尚も訪ねると、カディアはやや困ったような笑顔と共に、誰も聞いてなどいないだろうが、それでも声を潜めるような調子で春に言う。
「だからですよ。高給取りの受付は、有名な冒険者の担当官になるか、幅広く大量の冒険者を抱え込むかですから」
漸く、春の中でカディアのギルド本部内での立ち位置が見えてくるようだった。
要するにカディアはまだ冒険者担当の受付になってからそれほど実績を積んでいないのだろう。
だからこそ、ベテラン達は自分たちの昇給の為に新人を囲い込もうとするし、新人の手続きなども自分の担当する冒険者に力量測定の依頼を出せばスムーズに行く。
カディアにはそれができないからこそ、春という、右も左もわからない冒険者志望にここまで期待を寄せ、自分を担当にするように推していたのだ。
「多く冒険者を抱えようとしてる人達に盗られちゃう訳ですね」
「です。だから、私の初めての担当は、ハルさん。貴方なんですよ」
「それは光栄ですね」
「ええ。しっかりサポートしますから、はやく私を高給取りにしてくださいね」
「頑張ります」
悪戯っぽい笑顔で言うカディアに、春はやれやれという風に微笑みながら答える。
「……マイカはどの宿が良い?」
二人の会話の間で所在なさそうに立っていたマイカに書類を手渡しながら春が訊ねる。
「わ、私が決めちゃって良いの!?」
急に話を振られたマイカが驚いて書類を取り落としそうになるのを支える。
「うん。見たところ、何処も立地・金額には大差ないようだし。どれを取るかって感じだね」
実際、春がわかるのは地図として図面に書かれた立地と、数字だけは相変わらずだった様で、金額だけは何とか読めたのだった。
それ以外は、きちんとした翻訳ではなく、春自身がこれまで見てきた、タンリの村の調書であったり、グレンディ城砦国の入国時、カディアが口答で説明してくれた魔獣に関する条例の文字のみから推察した独学である。
しっかり勉強をする前に違う覚え方をしてしまっていた時の修正の面倒くささには覚えがあった春は、あえて独自に時間をかけて頑張るよりは、マイカに任せてしまったほうが無難だと判断した。
そんな春の思惑をある程度察したのか、マイカは真剣に資料を見比べ、ややあって、資料から春に目を向けて問いかける。
「……ハル、手持ちは?」
「大体三万……じゃなかった。ええっと……」
結果は、何も買い物をせずに居たわけだから、消費した5枚を除けば分かりきっていた。
しかし一度はじめたのを途中でやめるわけにもいかず、春は一枚一枚数えなおす。
結果は予めわかっていた通り、金貨が1枚、銀貨が16枚、銅貨が38枚、小銅貨が20枚だった。
日本円にして、3万円である。
金額を告げると、マイカは改めてやや驚いたように目を見開いて、それから逡巡の後、一つの資料を春に差し出してくる。
「こ、ここなんて、どうでしょう?」
そう言って上目遣いに春を見るマイカだったが、春としても如何ともしがたい。
なにせ、文字が読めないからこそマイカに丸投げしてしまったのに、確認を問われても何ともいえないのだ。
資料を手にとってどうしたものかと思っていたところで、見かねたカディアが助け舟を出してくれた。
「ああ。“鳶のたてがみ亭”ですね。ここならギルドからも近いですし、朝晩二食に大浴場もあります。ただ、店主が少しばかり気難しい人ですが、ハルさんならばなんとかなるでしょう」
カディアから聞かされる宿の情報を聞き漏らさないように注意深く聞く。
ご飯がついて風呂がある宿で、ウルも寝泊りできるならば多少値が張っても文句は言うまい。
もともと、カディアがある程度厳選して渡してくれていたものの様で、金額はどこも似たり寄ったりだったのだ。
「そうですか。十分ですね。この地図を見る限り、そう遠くもないですし、僕たちはそこに泊まる事にします」
そういって春が資料を返そうとすると、カディアは手でそれを制しながら首を振る。
「いえ、その資料はお持ちください。それをもって“鳶のたてがみ亭”に行けば、ギルドからの紹介だということもわかりますから」
「なるほど。ありがとうございます」
「いいえ。それでは、また明日。お待ちしてます」
最後にカディアは綺麗なおじぎをして春たちを見送ってくれた。
ギルドを後にした春は地図を見ながらではあったが、迷うことなく“鳶のたてがみ亭”へとたどり着くことができた。
正確な時間は計っていなかったが、それでも感覚としては10分掛かっていない印象だった。
「ギルドまで徒歩10分くらい。なかなかいい場所だね」
建物の前で独り言の様に呟くと、隣に並んだマイカが少しだけ申し訳なさそうに春の顔を見る。
「あの、私の一存で決めちゃいましたけど、本当によかったんですか?」
「僕はどの道字が読めないからね。僕としては、ウルと一緒に泊まれれば贅沢言うつもりはないし」
そういいつつ、春が宿の扉をそっと開く。
――カランカラン。
ドアに取り付けられていたらしい鳴子の様な物が鳴り、全体的に落ち着いた様式の、魔獣可というのも疑わしいくらいに整然とされたロビーが春たちを出迎える。
春の後について入ってきたマイカが、吹き抜けになった天井を思わず見上げた。
「……いらっしゃい」
春達が内装に気をとられていると、入り口からやや離れたところにあるカウンターから低く曇った声がした。
「あの、ギルドの紹介できたんですけど、今から泊まれます?」
カウンターの前で春が言うと、やや間があってから、カウンターの向こう側がもぞもぞと動く。
「ああ。部屋は空いてる。……ここは魔獣使いも来るが、それでもいいか?」
先ほどと同じく低い、それでいてどこか威圧するような空気を含んだ声が春に問い返す。
元々そう知ってきているのだから、春としては全く問題ない。
「はい。僕も、魔獣使い?ですし」
つい、魔獣使いに疑問符をつけてしまったのは、春にその自覚がないからだ。
別にウルとは上下関係で繋がっているわけではない。
ただの家族である。
それを使うなどと言うと、どうしても座りの悪い違和感を感じてしまうのだった。
しかし、春の言葉に、声の主はピクッと反応した様だった。
ごそごそと暗がりで何かが動き、パッと光ったと思うと、カウンターの内側で明かりが灯る。
「なんだ。魔獣使いか。部屋は二部屋で良いか?」
姿を現したのは、狼。
いや、顔は確かに狼なのだが、大の大人程もある巨体にもかかわらず完全に二足の状態で立ち、あまつさえ普通に喋っている。
春にはこの狼顔の種族に心当たりがあった。
いや、性格には、シンクの知識にはしっかりとあったのだ。
瞬時にそれが魔獣や魔族ではなく、れっきとした人族である事が春には理解できた。
セルアス族。という、所謂獣人族である。
人に近い外見を持つが、動物のような耳や尾を持つ種族。
人間……マニトと同様に理性的でありながら、獣のような力も併せ持って居る為、マニトよりも身体能力は高いらしい。
平均寿命はマニトと然程変わらないが、個体によっては数百年を生きる者もいるという。
尾や耳といった特徴は個々によって様々で、中には一定周期で大部分が獣の様に変わってしまう代わりに、普段はマニトと変わらない外見を持つ物もいる。
シンクの知識として収納されていたセルアス族についてはこのようなものだが、目の前の男?はおそらく狼のセルアスだろう。
セルアス族は自分と似た種別の魔獣とも会話できるらしいと聞く。
ならばセルアス族の彼が魔獣可の宿をやるというのも頷ける話だった。
「はい。二部屋で――」
「一部屋でお願いします!」
言いかけた春をさえぎるように、マイカがずいっと前に出る。
呆気に取られる春を一瞥し、確認するように獣人がマイカを見るが、マイカは首を縦に振って一部屋の方向で落ち着かせてしまった。
「あ、あの……?」
春が戸惑ってマイカに声をかけようとしたときだった。
「ふわぁ~?んにゃ?」
春の腕の中でもぞもぞとウルが動く。
そのまま目を瞬かせ、寝ぼけたまま周囲を見回している。
「ああ。ウル、おきちゃった?ごめんね」
腕の中から這い出そうとするウルに声をかける春に、ウルは大きくあくびしながら、眠そうな声を上げる。
「んぅー。ハル兄ちゃん。おはよー。ここどこー?」
「宿屋さんだよ。これからちゃんとベッドに入れるから、それまで我慢できる?」
「うんー。自分で歩くー」
そう言って、ウルはぴょんと春の腕から飛び降りてふかふかの絨毯の上に立つ。
そのまま、眠そうに耳をぴくぴくとさせながら、時折うつらうつらと頭が傾ぐので、春は苦笑してしまった。
「お前、今そのウルフと喋ってたな」
そういってカウンターから出てきた獣人の声が心なしか強張っている事に春が不思議に思いながらも首肯する。
「うーん……僕は、魔獣使いっていうよりは、ウルの事、家族だと思ってるんですけどね」
微笑みながら呟く春に、獣人はじっと春を見つめた後、ウルに目線を合わせるようにしゃがみ込んで問いかけた。
「なぁ、この男はお前にとって何だ?」
その声は、春には聞きなれたウルの声の感じとよく似たように感じられた。
マイカが首を傾げている所から察するに、おそらくこの獣人は今、ウルに対して、ウルの言葉で問いかけているのだろう。
「ハル兄ちゃんはー……ボクの家族で……友達だよぉ?」
寝ぼけたウルは、男の見かけなどまるで目に入っていない様子でぷつぷつと答える。
よほど眠いのだろう。もういっそもう一度抱きかかえて寝かせてやろうかと思っている春に、立ち上がった男の視線がぶつかる。
「ハルというのだな。この子供にずいぶん慕われている様だが、お前はどうなんだ?」
獣人の問いに、春はすっと目を細めて、たっぷりと余裕を持って応える。
「ウルも言いましたが、家族ですよ。僕にとって大切な……ね」
この獣人が何を思っているかは、先ほどの会話で少しばかりわかった気がした。
つまり、この獣人にとっては魔獣であっても人と変わらないということなのだろう。
にもかかわらず、一方的に力で主従を作る魔獣使いという人種を、この獣人は毛嫌いしている。
だからこそ、しつこいとも思えるような確認を相互に行ったのだ。
男は、春が嘘を、ウルが脅されているわけではない事がわかると、狼譲りの犬歯が並ぶ口元をニッと吊り上げて笑う。
「ふん。面白い男だな。見たところマニトの様だが、どこか違う匂いを感じる。魔獣使いが皆お前さんみたいな信頼関係を持っていれば、俺だって喜んで宿を提供するんだがな」
鼻を鳴らして言う男に、春は小さく肩をすくめて見せ、
「テストは終わり。って事という風にとってもかまいませんか?」
と、軽い調子で微笑みかける。
男も先ほどまでの威圧感がすっかり取れた、狼顔もこういう風に見ると愛嬌があるのだなと思わせるような柔らか味のある笑顔で春の肩をたたいた。
「ああ。試すような真似をして悪かったな。俺はここの宿の経営者をしてる、ジル=グリーズだ。よろしくな。ハル」
ジルと名乗った館主に頭を下げ、春は順々に紹介する。
「はい。ハル=リードヴェイルです。この子はウル=リードヴェイル。そっちの女性がマイカ=クロクニスで、僕の連れです」
紹介を終えながら、春は一泊分の料金であるルアル銀貨2枚を取り出してジルに手渡した。
小気味いい、金属が小さくぶつかる音がジルの手の中で響き、ジルはチラッと手の中の銀貨を一瞥するのみで服のポケットにしまうと、カウンターの向こう側に手を伸ばし、帳面にさらさらっと何かを書き込み始めた。
おそらくは宿泊者名簿か何かなのだろう。春がその作業が終わるのを待っていると、書き終えたジルが春とマイカ、それからウルをチラッと見て、また帳面に顔を戻しながら口を開く。
「部屋は、一部屋で良いんだったよな。お盛んなのは構わないが、ウルの情操教育上目立たないようにやれよ」
「あ、はは……」
ジルの要らない気遣いに思わず乾いた笑いを漏らした春は、見た目どおり豪腕だったジルに荷物を持ってもらい、部屋に通される。
吹き抜けに作られた階段は木製で、石造りの建築物が並ぶグレンディにしては珍しく、自然の温かみを感じた。
一階から二階まで、同一の種類の絨毯で統一された通路は綺麗に整えられており、やけに空き部屋が目立つことを除けば別段、問題は無い様に感じる。
「ほら、この部屋を使うといい」
そう言ってジルが部屋の鍵を開けて荷物を運び入れる間に、春達も部屋へと足を踏み入れた。
「う、わぁ……」
思わず、春の口から感歎が零れる。
部屋は二人が、というか、そもそも大型の魔獣を想定しているのだろう。
春とマイカ、それにウルが三人で寝泊りしても十分にスペースがあるどころか、ウルが本来のサイズに戻って多少はしゃぎまわってしまっても問題ないくらいのサイズの大部屋だった。
家具もしっかりとしたもので、テーブルなどは床に固定されているものの、座ればそのまま沈み込んでしまうのではないかと思うほどに柔らかそうな印象を与える薄茶色のソファは大きめで、横になってしまったらそのまま寝入ってしまいそうだ。
照明などもしっかりと部屋の雰囲気に統一させるためにデザインされたのだろう、全体として、豪華ではあるのだが、人が気を張らずに居られる様に気配りされた、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
夜だから余計にそう感じるのだろうか。外からの光が無く、レトロな雰囲気の照明の光だけが部屋を薄明かりで照らす様は、豪華なホテルのスイートルームを想像させた。
「す、すごい部屋……あの、一泊、いくらなんでしょう」
後から入ってきたマイカも、あまりの部屋の広さと豪奢さに圧倒された様で、ため息をもらした後、ぽつりとそう言った。
春も、それは部屋に入ってからずっと気になっていたことで、あまりにも高い部屋だったら宿泊はあきらめなければならないと思ってしまっていた。
何せ春の所持金だって無限ではない。
初期金額としては持ちすぎだとも思えなくも無いが、それでも節約しなければすぐにそこを付いてしまうだろう。
そんな二人の不安を払拭するように、荷物を置いて部屋を一通り見回っていたジルが豪快に笑う。
「料金は普通に一部屋分で構わんさ。どうせこんな大部屋借りるやつなんてそうそう居ないしな。他種族、しかも魔獣を、家族と呼んでやれるハルに対しての俺からの気持ちだと思ってくれや」
そう言って親指を立てるジルに、春は照れたように笑い返す。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「朝は8時には一応声をかけにくる。10時までの間なら食堂に顔を出してくれれば朝食を用意してやれる。追加料金を払ってくれるなら普通の朝食がちょっとだけ豪華になるな」
大まかに説明してくれるジルに、春は幾度か頷きながら部屋を出るジルを見送る。
「ああ、それと、今日は遅いから夕飯は無いが、明日も泊まるならその分、夕食を豪華にしてやるぞ。ちなみに夕食は夕方の8時だ」
ちゃっかりと連日で泊まれよと暗に主張するジルに、春は小さく苦笑しながら笑い返す。
もちろん、最初から数日は滞在するつもりだった。ただし、宿の内容如何では宿を変えるつもりで。
そのためのとりあえず一泊だったのだが、この分ならばよほどの事が無い限りはグレンディで生活する分には、多少値が張ったとしても“鳶のたてがみ亭”がいいだろう。
「浴場は今からでも使えるが、どうする?」
ジルの問いかけに、春だけでなく、ウルまでもがビクッと反応して、まるで眠気が吹き飛んでしまったかのように飛び跳ねる。
「お風呂!ハル兄ちゃん!お風呂いこう!」
春の実家での風呂がそれほどまでにお気に召していたのか、ウルは尻尾をちぎれんばかりにぶんぶんと振るいながら春に言う。
「そうだね。お風呂、使わせてもらおうか」
春としても、日本人としての清潔に対する欲求に勝てず、眠るのはまだ早いと行き勇むウルを抱き上げて同意する。
「わ、私も……」
後ろで同意するマイカも含め、結局は部屋で落ち着く間もなく大浴場に向けて歩き出すのだった。
「はぁー……今日はいろいろあったなぁ」
思わず気が抜けた春はソファに深く腰を沈めながら息を吐く。
あの後、大浴場に案内されたは良い物の、時間で男湯、女湯という風に区分けされている仕様であったため、春はマイカに先に風呂に入らせてから、入っていた。
その為本来の時間をはるかに越えて浴場を使わせてもらったのだが、ウルがはじめて入る大きな風呂に興奮して飛び込むわ、途中から営業を投げ捨てたとしか思えないジルが背中を流すといって乱入してくる騒ぎがあるわで、一日のラストに大いに疲れてしまっていたのだった。
何故か、そのジルの後ろに、上がったはずのマイカがひっそりとタオルだけを巻きつけた格好で入ってこようとしていた事も、追記しておかねばならない。
そういった理由で、フェミュルシアに来て、初めての大浴場を大いに満喫した春は、割り当てられた自室で漸くの安寧を享受しているのだった。
既に部屋の明かりは無く、ウルなどは部屋について、ベッドに飛び込むなりすぐに寝入ってしまって、今はキングサイズのベッドの中心で小さく丸まって寝息を立てている。
「お疲れ様です。ハル、その、今日は、ありがとうございます」
そう言って春の隣にマイカが腰掛ける。
寝巻きの代わりにと春が渡したジャージを着ているが、服のサイズが合っていないため、やや緩い。
早めに服も揃えて上げないとなぁと思いつつ、視線を向けた春の目に、サイズの合わない服の所為で大きく開いた隙間からマイカの胸元が見える。
薄い肩に、張り出た鎖骨が華奢な印象を強めていて、多少なり肌の色が良くなってきているとはいえ、やはりまだまだやせ細っていて、春の知る女性の誰よりも危うげに感じさせ、見ている春を不安にさせた。
「そういうのは、今後言いっこなしです。僕が勝手に勘違いして助けて、責任を持つといったんだから、マイカはそれに甘えてくれて良いんだよ」
やさしく頭をなでると、風呂上りの汚れの落ちたマイカの髪は緩やかに指の間を流れてゆく。
マイカはややくすぐったそうに首を傾げて、ぽふんと春にもたれかかる。
肩に感じる体重も軽く、重量感の無いマイカに、明日からはしっかりした物を食べさせようと春は決心した。
「ハルは、優しいね。優しすぎて、ちょっと、怖いくらい」
気づけば、マイカの腕は春の首を抱くように背に回されていた。
「マイカ?」
春の視界いっぱいに、マイカが映る。
顔が近く、長めの睫毛が、藍色の深みのある瞳が春を見つめていた。
吐息が触れ合うような距離だが、春は何をするでもなく、マイカのややこけた頬を撫でて、やはり、まだまだ健康とはいえないなと思う。
「手、出さないんですか?」
「……僕は、そういう目的でマイカを助けたわけじゃない」
奴隷と雇い主という壁が無くなってから、こういったスキンシップが露骨になったように感じる。
しかしそれは、長すぎた歪んだ生活が、マイカから冷静な判断力を奪っているのだと、春は結論付けていた。
そんな隙に付け入る様な行為は、春の良識ではありえない。
しばらくすればマイカも落ち着いて、こんな風にみだりに身体を許す様な事もなくなるだろうと思いつつ、春は緩やかに首を振った。
「私、ハルに恩返しがしたい。このままずっと一緒に居たら、それこそ何もできないまま、ハルに縋って頼りきりになってしまいそうで――」
「マイカ」
安易な、しかし取り返しの付かない恩の返し方だ。と、春は思った。
確かに男の欲求を満たす事は、できるのだろう。しかし、マイカはどうだ。
せっかく奴隷から開放されたというのに、そんな恩の返し方では、今までの奴隷生活となんら変わりない。
そんな事をさせるつもりは、春には無い。
「……なん、ですか?」
真摯に見つめる春の目の奥が、金に揺れる。
髪も、瞳、暗がりの中では黒にも見えるような茶色なのに、奥に宿る光だけは変わらずに赤銅の髪を髣髴とさせる金色を宿していた。
不意に、マイカを見つめていた目に篭っていた力が抜けて……。
「僕に、文字を教えてくれるんだろう?」
年相応の子供、17歳のぎりぎり青年と呼んで良いか迷うくらいの、人懐っこい印象を抱かせる調子で笑う。
「でもそれは――」
誰でも教える事はできる。と、マイカは言うつもりなのだろう。
しかし、春はその言葉の続きを許さず、マイカを遮って言葉を続ける。
「僕はどうしても文字を知らなきゃいけない。今から勉強するには、マイカの協力が必要なんだ」
やさしく抱き寄せて、春は耳元でダメ押しの様にマイカに囁き掛ける。
「マイカじゃなきゃ、ダメなんだ」
「……はい」
春が抱擁をやめた頃には、身体を求めるように迫っていたマイカの覚悟のような物は微塵もなくなっていた。
力が抜けた。緊張が解けたとも言うべきか。
そんなマイカの手を取って立たせながら、春は微笑んでベッドを示す。
「今日はもう遅いから、寝ようか。マイカはベッドで寝てていいよ」
「え?ハルは?」
「僕はここで寝るよ」
キョトンとして春を見るマイカに、春はソファをさしながら言う。
春の提案に、マイカはハッとなって冷静な思考が帰ってくる様だった。
「そんな、私がこっちで寝ます!」
春はいまだにマイカに気を使っている。
本来ならば、何の相談もする必要も無く、宿を借りた春がベッドで寝て、マイカがソファで寝るくらいで当然なのだ。
しかし、春はベッドを譲るといってきかず、その視線は先ほどにもまして本気度が高い様だった。
「やだ。案外寝心地が良いんだよ。ここ」
春の口から出た言葉に一瞬マイカはぽかんとしてしまった。
まさか、春の口からそんな愛嬌のある言葉が出るとは思っていなかったのだ。
短い付き合いではあるが、マイカの中での春は礼儀正しく、外見こそ、自分に近いか、もしかしたら年下かもしれないと思うくらいに幼さが残っているが、その中身はずっと年上で落ち着いていて、大人びているように感じていた。
その春が、まるで子供のわがままの様な調子で主張する様は予想外で、張り詰めていた何かが今度こそぷつりと途切れたのを自覚する。
小さくため息をついて、ベッドの上のウルを抱き上げる春に声を掛ける。
「……代わりたくなったらいつでも言ってくださいね。その、一緒にベッドで寝ても、いいんですよ?」
先ほどの、あえて誘惑するような態度ではない。
純粋にはにかむようなマイカの言葉に、春はふわりと笑って、
「気が向いたら。ね」
と、抱きかかえたウルを毛布代わりにお腹に乗せてソファに横になってしまった。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
ソファの背もたれに隠れて見えない春に、マイカがつぶやく様に声を掛けると、春もまだ起きていたのだろう、優しい、しかしやや眠たそうな声音で応えてくれた。
「きゃああああ!?」
曇った悲鳴で、春は目を覚ました。
唐突に覚醒しだす意識の中で、声の主がマイカであることをなんとなく知覚し、意識が途切れるまでの事が頭に浮かんだ。
別段、危険は無かったはずだ。なぜマイカが悲鳴を上げているのか。
そんな事を考え出す前に、春は別の異変に気づいた。
身体が重い。
何かにのしかかられているような……。
目を開くと、すべての原因がすぐにわかった。
「……マイカ。おはよう。そんなに驚かなくても僕は無事だよ」
寝る前に腹掛け代わりにウルを乗せたのがいけなかった。
寝ぼけて変身を解いたのか、春の上で横になるウルの身体は春を覆い隠して有り余り、傍から見れば巨大な猛獣にのしかかられて人がつぶされているように見えただろう。
「は、ハル!?無事なんですか!?」
マイカも春が起床した事に気づいた様で、春がかろうじて出ていた腕を振って無事を知らせると、安堵しているのが手に取るようにわかるような悲鳴を上げる。
「ほら、ウル、朝だよー。起きて」
自由になっている腕でウルのわき腹を軽くたたきながら春が声を掛けるが、ウルは寝ぼけているのか、尻尾を振って楽しげに唸るのみで、起き上がる気配はまるでない。
「ウールー!おきろー!」
ちょうど顔が近いのだろう。ウルの首元で声を張った春に、ウルは漸く反応を示す。
「んぅ……ハル兄ちゃん……?」
聴く者によってはおぞましい魔獣の唸りに聞こえただろう。
そんなウルの声など春は意にも介さない。
何故ならそれは、聞きなれたただの寝ぼけ声でしかないのだから。
「うん。おはよう。で、起きてばかりで悪いけど、どいてくれるかな?」
「……ふぇ?あれ……ハル兄ちゃん?」
どうやら目を覚ましたらしいウルが寝ぼけた声を上げる。
そして自分の視点が高くなっている事に気づいたのだろう、あわてて飛びのくと、ウルに押し倒されてもみくちゃになった寝癖だらけの茶髪がふわりと跳ねた。
「おはよう。よく寝れた?」
苦笑いしながら上体を起こす春に、ウルは元気良く答えながら頬をなめる。
「うん。おはよう!ハル兄ちゃん!」
――ドタドタドタ。
と、何かが急速に駆け上がってくるような地響きにも似た足音が扉を隔てて近づいてきた。
春達がそちらへ注意を向けるとほぼ同時に、先日も聞いたジルの低い声が扉越しに聞こえてくる。
「どうした!何があった!?入るぞ!!」
逼迫した声に、春は即座に思い至った。
朝からマイカが悲鳴を上げるものだから、何かあったのではないかと確認しに来たのだ。
しかし、この現状を見られるのはまずい。
傍から見れば、小さなウルとはとても思えないような屈強な巨体で半ばのしかかるようにじゃれ付いているウルと、それにされるがままになっている春は、捕食者と被捕食者の関係にしか見えない。
何より、人前でウルの本来の姿をさらす事は、要らぬ注目を集めてしまうだろう。
春としては、それだけはどうしても避けたかったのだが……。
「あ、ジルさん!ちょっと待――」
春が言い終わるよりも早く、ドアが勢い良く開かれて、ジルが飛び込んできてしまった。
ジルは部屋の中をぐるりと見回して、呆気に取られた様子でマイカを、春を、そして、ウルを見る。
「――なんだ、こりゃあ……」
視界に入るのは巨大な魔獣。
顔の一部や四肢の先に、その体毛と同じ灰銀の堅牢な鱗を生やした、黒々と光る爪と牙を持ち、青く澄んだ瞳だけが、どこか見覚えのある大型の幻獣だった。
「あ、ジルおじさん!おはようございます!」
「……お前、ウル、なのか?」
巨大な獣の口から飛び出した、不釣り合いな幼い口調に、ジルは一瞬呆気に取られ、すぐにこの部屋にいるはずの子供のウルフを思い出して、まさかという思いと共に言葉が漏れた。
「え?」
「ウル。身体。身体」
きょとんとするウルに、春はやれやれとため息をつきながらわき腹をつつくと、初めて自分の状態に気づいた様で、慌てて光に包まれたかと思うと、その光は見る見る内に縮小して、光が収まる頃には昨晩と同じ、小さな子犬サイズのウルに戻っていた。
「……いったいどうなってるんだ」
「ウルはちょっと、特殊な個体でして、本来の姿は大きい方なんですけど、さすがに街中であの格好で歩かせるのは難しいかなと思って、小さくなっててもらってたんです」
小さくなったウルを抱きかかえて頭を撫でながら春が苦笑する。
ウルをまじまじと覗き込むジルは、初めて見る種族に対しての興味からか、平静を装っていても、瞳の奥の光が普段以上の強さを放っていた。
「なるほどなぁ。確かに、いくら魔獣使いがいるにはいるっつっても、あんな姿のやつは見た事なかったぜ」
「あはは……」
春の曖昧な笑みに、ジルも意図を汲んだ様にウルから視線をはずす。
「まぁ、部屋にいる間は大きくなっててもかまわないぜ。別に言いふらしたりしねぇからな」
「ありがとうございます」
「っと、メシに呼びに来たんだった。食うだろ?」
「ごっはん!ごーはん!」
ご飯と聞いて、ウルが急に春の腕から飛び出してジルの足元で尻尾を振る。
現金だなぁと内心苦笑しつつ、春はマイカの方を向いて手を差し出した。
「マイカ、行こう」
差し出された繊細な青年の手を、今度は臆することなく、マイカは取った。
廊下に出ると、既に日が昇りだしていて、窓から差し込む日差しがエントランスを照らし出してキラキラと光の線を描いていた。
春がジルを目で追うと、既にウルがぴったりと後ろにくっついて階段を下りていくのが見える。
その尻尾が嬉しそうに左右に揺れるので、春は微笑ましく眺めながら後を歩く。
昨晩は案内されるまま暗い中を歩いたので気づかなかったが、どうやら食堂は一階の奥にあるようだった。
間取りの関係でカーテンが無くとも柔らかな日差しが差し込む食堂はいくつものテーブルがあり、レストラン同様に注文して料理を運んでもらう形式のようだ。
案内されるままに角のテーブルに腰掛ける。
その足元にはジルについて回っていたウルがいつの間にかお座りしてごはんを待ちわびていた。
「やっぱり、魔獣使いってあまりいないんだね」
春が食堂を見回しながら呟く。
基本宿泊料に朝晩の食事が付く“鳶のたてがみ亭”のシステム上、大抵の宿泊客が利用すると思っていたのだが、春が想定していたよりもだいぶ人が少ない。
ただ、どの魔獣使いもお互いにやや距離を置いていて、その原因が脇に控えた大型の魔獣であることがわかる。
シンクの知識から、それらがグランドウルフ、バイマンティコア、ブレイドコーンという魔獣である事に気づいた。
春は思い出す様な感覚でそれらの知識を引き出してゆく。
グランドウルフ。ウル達の様な通常のウルフよりも大型で、特に地属性の加護を強く受けている為、地上での戦闘は単体でも通常のウルフの群れに勝る。
バイマンティコア。通常のマンティコアはライオンの様な頭と飛竜種の様な膜翼、蠍の毒尾を併せ持った四足の魔獣だが、バイマンティコアは頭部と毒尾が二つになっていて、それぞれが別々の思考で動く魔獣だそうだ。
ブレイドコーン。一角獣の様な姿だが、角の代わりに抜き身の剣の様な鋭利な鉱石が生えた、一角獣と祖を同じくする亜種にあたる魔獣。
どれも中型から大型に分類される魔獣で、魔獣の中では高い知能を持ち、よほどの事が無ければ人と共にあるような種族ではない。
にもかかわらず、彼らは一様に彼らの主であろう魔獣使いに寄り添っており、剣呑な雰囲気は一切感じられない。
「ジルに聞いたよ。アンタ、その可愛いボウヤの家族なんだってね。魔獣を家族と呼ぶマニトは初めてだが、歓迎するよ」
そう言いながら近づいてくるのは、恰幅の良い獣人、見た所、ジルと同じく狼の血を受け継いでいるらしく、まだら色の体毛の中でぴんと立つ耳、快活に笑った口元で光る尖った歯が印象的な女性だった。
前掛けをかけた妙齢の女性の脇には料理を配膳する為の台車があり、パッと見ただけでもおいしそうだと感じるカラフルな野菜が盛られた皿が載せられている。
「ああそうそう。アタシはディア。ジルの連れ合いでね。この“鳶のたてがみ亭”の美人女将さ」
自分で美人、と言って、その事が面白い冗談だという風に笑うディアは、気立ての良いさっぱりした性格なのだろう。
そんなディアに春は頭を下げて応え、一通りの自己紹介をする。
恐らくはジルから聞いているのだろうが、一応の礼儀を済ませないと気が済まないのが春である。
丁寧に挨拶を返す春に、ディアはやはり笑いながら、持ってきた料理を春とマイカが座ったテーブルに並べ、同様に足元でご飯に目を輝かせているウルを見る。
「おやおや、ボウヤは食べ盛りなんだね。年はいくつなんだい?」
ウルの前にも同様に更に盛られた色とりどりの肉と野菜を置きながら、ディアが問いかける。
その問いに、ふと春も、そういえばウルの年を聞いていなかった気がすると、今更ながらに首を傾げてしまった。
「あれ。そういえば、ウルっていくつだっけ」
「ボク?ええっと。たぶん3歳くらい?」
たしか、ウルフの三年といえば、マニトに換算すると10歳くらいだっただろうか。
春がシンクの知識に照らし合わせながらそんな事を考えていると、ディアはまるで自分の子供でも見るような優しい、柔らかな目つきでウルを見ながら頭を撫でる。
「まだまだ子供だねぇ。そんじゃ、いっぱい食べなきゃね」
ディアの手が離れると、ウルはこれ以上我慢できないと言う風に尻尾を振って、春やディアが居る事など忘れてしまったかのようにご飯に視線を向けていた。
「いただきます!」
言うが早いか、ガツガツと野菜と肉、両方を区別無く頬張る子犬の姿が、そこにはあった。
余りにも慌てて食べている様子に、春は苦笑交じりに声をかける。
「ああ。こらこら、そんなに慌てたら喉に詰まるよ」
「んぐっ。大丈夫ー。ハル兄ちゃんも食べなよー。おいしいよー!」
「そうだね。いただきます」
「あっはっは。元気な良い子じゃないか」
春とウルのやり取りを見て、ディアは楽しそうに笑うのだった。
マイカをみれば、三人のやり取りが面白かった様で、弟二人を見守る姉の様に口元を緩めて春とウルを見ていた。
春と目が合って漸く、自分が笑っていると気づいたマイカははにかむようにいただきますと言って料理に手をつけ始める。
料理は春とマイカは同じ物。ウルだけは、恐らく魔獣用なのだろう、メニューが若干違っている以外、豪華さなどはさほど変わらない様だった。
春もテーブルに並べられている料理に手をつける。
最初に口に運んだのは、程よい焼き加減で焼き上げられ、きつね色のまだ暖かいパンだった。
タンリでも食べたが、タンリの村で食したパンよりも柔らかく、口の中でパンの甘味が広がって、ああ。やっぱりパンは世界が違えど共通なのだなと春は思う。
久しぶりに、外見と内面の合致する料理を食べた安堵から、春は気づけば一つ目のパンを完食して、二個目に手を伸ばしていた。
二個目のパンを半分ほど食べたところで、さすがにパンだけ食べてお腹が膨れるのももったいないと思い、別の皿に盛られたサラダに手を伸ばす。
皿に盛られたサラダは、レタスの様な形状をしているものの、色はレタスの様な黄緑よりも、バナナなどの黄色に近い。
その上に大振りの果物の様な、春の世界の食べ物でたとえるならば、桃に近いだろうか。ただし色は皮を剥く前のリンゴの様に赤いが。
恐る恐るフォークで刺して口に運べば、熟れたパイナップルの様な甘みのある果実の香りが鼻腔を擽った。
果汁をたっぷりと含んだ果肉と独特の爽やかな甘みが、フルーツドレッシングの様で、春はそのままレタスの様な黄色の葉野菜を口に運ぶ。
レタスの様な葉野菜は、単体ではそれほど味が無いのだろう、しかし、口の中で広がる甘い果実の味と合わさり、やや固めの野菜の食感と甘い味わいが春の趣向を見事に捉えていた。
「うわ。このサラダ美味しい」
思わず呟いた春に、マイカもそれではと口に運ぶ。
すぐにマイカの表情も味を堪能するそれに変わり、二人の様子を見たディアが快活に笑った。
「気に入ってもらえてよかったよ。それはボウヤも食べれるやつだから、ボウヤの方にも出してるけど、どうだい?」
ディアがウルに話しかける。
ウルも漸く落ち着いて食事をする余裕が生まれていた様で、ディアを見上げてニッと笑った。
「甘くておいしいね!ボクこれ大好き!」
「この赤い果物がドレッシングの代わりになってるんだね」
感想を漏らしつつ、しかし、数日の移動の間、まともな食事を取っていなかった春やマイカはそれ以上喋るのももったいないと感じて、それからはほとんど一言も喋らずに食事を進めるのだった。
慌てて食べていた所為か、先に食べ終えていたウルは既に満足モードで尻尾を振ってディアと、他の魔獣たちに話し掛けに行っていた。
ディア曰く、ジルが気に入った魔獣使いしか泊めない所為で客層が狭いと言っていたが、恐らく、魔獣と使い手がある種の信頼関係で結ばれたパートナーであると認め合っている魔獣使いでなければ門前払いにしていたのだろう。
事実、春が初めて来訪した時、ジルは密かにその組み合わせにため息を付いていたのだった。
傍から見れば身なりの良い春という少年はどこぞの貴族の放蕩息子で、マイカはそのお付か囲いの女。
ウルなどは、親のツテで買い与えられた体の良いペットとして見られていても不思議ではない。
しかし、実情はだいぶ違うようだとジルが気づいたのは、春がウルに向ける口調や仕草が、とてもペットに対する物とは思えなかったからだった。
鎌をかけるように問いかけた、ウルの言葉がわかるのかという問いに、春は何ともなしに当然といわんばかりに答えたので、ジルは完全に毒気抜かれてしまった。
マニトにしかみえず、別の種族でも精々エルフだと思っていた少年が、まさか魔獣の言葉を完全に解し、あまつさえ家族と断言しきった姿は、ジルからみれば完全に満点の合格だった。
その様にして認められた春達だったが、他の宿泊客も同様に、春とウルの関係とまでは行かないものの、ある程度、矜持ある魔獣使いとそのパートナーとして、名の通った冒険者達だった。
彼らは食事を終えた所に現れた子犬同然のウルフにやや首をかしげつつも、しかし自身のパートナーと楽しげに談笑している様子に、ウルフの主である少年も、自身と同じく矜持ある有望な冒険者であると理解するにいたっていた。
そんな彼らの視線にはまるで気づかない物の、時折耳に飛び込んでくるウルと、宿泊客の魔獣達との会話は耳に入っていた春は、やや苦笑しながらその様子を眺めつ食事をしていた。
春が食べ終わる頃には、ウルもほとんどの客と雑談を終えた様で、ぴょこぴょこと尻尾を振りながら春の足元に戻ってきていた。
「はぁー……なんか、いきなり美味しいものを食べたから、つい食べ過ぎちゃった」
食べ終えて落ち着くと、改めて物理的に腹が膨らんだ気がして、春はつい胃の辺りを撫でながら息を吐く。
「ですね……。こんなに美味しいと太っちゃいます」
満腹感と幸せな悩みで微笑を浮かべて春に相槌を打っているマイカを見れば、しっかりと完食したようで、綺麗になった皿を前に同じく息を吐いている所だった。
「マイカはもう少しの間は大食いに挑戦した方がいいと思うけど」
「……ハルは太い女性が好みなんですか?」
マイカの視線に、春は困ったように頬をかきながら視線をそらす。
「そういうわけではないけど、マイカは痩せ過ぎだと思うからね。もう少し肉が付いた方が健康的で僕は好きだよ」
マイカは春のその言葉を聞いた直後から、何事か考え込むようにしてぶつぶつと呟き始めてしまい、春が気になってマイカに目を向けようとした時だった。
足元でくいっと何かにズボンを軽く引かれる。無論、そんな位置を引っ張れる者など、ウル以外にいない。
マイカに向けかけていた視線を落として、テーブルの下で春のズボンを甘噛みして気を引こうとしているウルに向ける。
「ハル兄ちゃん。今日はどうするのー?」
見上げながら言うウルに、春はちらりと食堂にかけられている時計を見る。
時間は既に午前9時を過ぎており、朝食というよりはブランチに近かったなと春は思いつつウルに答える。
「実技試験を受けに行くって約束してるから、時間の指定は特にされてなかったけど、そろそろ行こうか」
ギルドまでの道のりはさほど遠くないが、手続きもあるだろうし、今から歩いていけば実技試験に移る頃にはちょうどいい具合に消化されているだろう。
そう思って席を立った春に、ウルはやっと外に出れると飛び跳ねながら春のズボンを引く。
「ボクもがんばるよ!」
「……ああ。そっか。僕、魔獣使いで申請してるってことは、ウルにがんばって貰わないといけないのか」
春としては魔術師として登録しても良かったが、ウルがいる関係上、魔獣使いとして登録していた事を思い出す。
「ハル兄ちゃん!一緒にがんばろうね!」
「わ、私はどうしましょうか」
春が席を立った事で漸く物思いから引き戻されたマイカが慌てて席を立ちながら春に問う。
前日の事もあり、マイカを一人にするのは憚られると思った春は、やや迷いつつも同行を提案する事にした。
それは、目の届く所にいる限り、あんなことにはさせないという、春の覚悟でもある。
「んー。ここで待っててもいいけど、一緒に行く?」
「じゃあ、ご一緒します。お役に立てないかもしれませんが……」
「いいよいいよ。試験中は見学可能なら見ててもいいと思うし」
「そうさせてもらいます」
決まるが早いか、待ちきれないウルがさっさと食堂を出て行ってしまったことに苦笑しつつ、春とマイカも出かけるのに最低限必要になるだろう物を取りに部屋に戻る。
整理が終わり、春とマイカも着替えてからエントランスに出ると、カウンターに座っているジルが声をかけてくる。
「おう。お出かけか」
「はい。ギルドで、昨日受けられなかった登録の為の実技試験を受けてこようと思って」
「っつーことは、まだ正式に冒険者ってわけじゃねーんだな」
「そうなりますね。まぁ、今日中に受かってきますよ」
別段気負いもなさそうな春に、ジルは内心苦笑しながら思う。
駆け出しの冒険者志望は、大体が実技試験で先達を相手にすると考えただけで萎縮したり、妙に気負ったりする物だが、目の前の少年にはそれがない。
本来の状態のウルがどの程度の力量を持っているかは定かではないが、さすがにそれだけではないだろう。
華奢とも取れる少年の身体を昨夜風呂場で気づかれない程度に観察していたジルだったが、目だった傷のない綺麗な白い肌に、実戦経験という物は一切感じられなかった。
その代わりに、無駄のない細身で引き締まった身体は線の細さを補って余りあるほどに力強く思えて、獣人であるが故にマナをある程度感じることのできるジルが、ヒリヒリと感じるほどの強いマナを持っていた。
今まで見てきたどの冒険者よりも経験がなさそうでありながら、力だけならば中堅とすら肩を並べうるその感覚に、ジルはある種の予感めいたものを感じていた。
この少年は、きっと大物になると。
「気合入ってるな。頑張れよ!」
だからこそ、春に気負った様子が無い事は、むしろ喜ばしい事だとジルは思う。
「はい。行ってきます」
「ジルおじさん!行ってきます!」
春の足元でウルも元気に挨拶し、マイカもぺこりと頭を下げた。
そんな三人にジルも手を振って応える。
「ウルも気をつけてな!」
ジルの笑い声に送られながら宿を出た春達は、昨日歩いてきた道を戻るようにギルド本部へ向かった。
先日と変わらない白い威容が春達を出迎える。
午前中とはいえ、日中になって人の往来の増したギルドの前は多種多様な人種が行きかっていた。
すぐに冒険者であると分かる強面の屈強な戦士が出てくるのと入れ替わりに、ちょっと風が吹いたら倒れてしまうのではないかと思うようなひょろっとした魔術師風の男がゆらゆらと揺れる様な挙動でギルドへと入ってゆく。
そのすぐ脇を、弓を携え、パーティメンバーだろう男と談笑しながら歩く強い目つきの女性は一見マニトの様だが、背に生えた翼がセルアスであることを物語っていた。
改めてあらゆる人種が入り乱れて出入りする純白の城は、春に異世界に来たのだと思わせる。
中へ入ると、夜訪れたときとは違い、慌しさと人の多い場所特有の喧騒が春達を迎えた。
「こんにちは。本日はどういったご用件でしょうか?」
髪を結い上げた女性職員がカウンター越しに春に話し掛けてくる。
一応、担当はカディアという事になるので、カディアを呼んでもらった方が早いだろうと春が用件を告げる。
女性が一礼して席を外し、奥の職員用スペースの方へ消える。
数分して、前日同様髪を括ったカディアがカウンター脇の扉から出てきた。
「ハルさん。おはようございます。今日はお早いですね」
「おはようございます。もしかして、午後に来たほうがよかったですか?」
「ああ、いえ。遅くならない程度ならばいつでも問題はありませんでしたが、早速実戦試験に移ります?」
相手を探さなければ始まらないと思っていただけに、春が仕事が速いなぁと感心してしまっていると、カディアは悪戯っぽく微笑んで付け加える。
「と言っても、これを張り出さないとどうとも言えないんですけど」
そう言ってひらひらと手に持った紙を示すカディアに、春は肩透かしを食らってしまう。
「じゃあ、とりあえず相手が見つかるまでは暇ってことになっちゃいますね」
苦笑交じりに春が言うと、カディアはすぐ見つかりますよと微笑んで応えてくれた。
和やかな空気が流れ出して、辺りの喧騒が気にならなくなってきた春の耳に、一際大きな声が飛び込んでくる。
「だああああああ!!うるっせぇよ!!!いくらお前の頼みでももう嫌だ!俺は旅に出るんだぁ!!!」
見れば、二人の男性が言い争っているのが遠目からでもよく分かった。
片方はギルド職員の様で、カディアが身に着けている職員の制服をしっかりと着こなした青年だった。
遠目からでも相当に綺麗な人であるのが分かるほどに、すっと立つ姿勢も正しく、見る者に誠実な好青年という印象を抱かせる眼鏡の男性。
その表情は困惑に眉を顰めているが、別段怒っていると言う訳ではないらしい。
「あれは……」
カディアも言い争う二人の方へ目を向けるが、ビタッと身を硬くして言葉を失ってしまう。
春がもう片方へ視線を移すと、その理由がすぐにわかった。
全身黒ずくめのシャツとズボン。腰に佩びた銀の鞘に収められた鍔の無い直剣が妙に威圧感を放っていて、春が目を凝らすと、うっすらとマナで覆われているのが見て取れる。
しかし、何よりも印象的だったのは髪だった。
前髪だけがまるで返り血を浴びたかのように赤く、無造作に伸び放題になっている茶髪は整えていないのだろうが、それでも彼自身の印象とあいまって、似合っていると思わされてしまう。
春の少年的な柔らかな美貌や、シンクの人間時であるような、身も凍るような凄烈な美貌とは種類こそ違う物の、青年然とした精悍な顔つきは右目を縦に割る様な傷跡を差し引いても見る者を惹き付ける。
口をへの字に曲げて眉を寄せる様子は何処か愛嬌があり、声を張り上げてはいるが、怒っているというより、呆れや辟易と言った表現が似合う。
その見た目も然る事ながら、春はそういった人物に心当たりがあった。
「あの人が、ロランさん……」
見れば分かると言っていたカディアの言葉の意味が、こうして目にするとすぐに分かる。
確かに、あれは目立つだろう。
年の程は十代後半か二十そこらといった所だろうか。春よりも10センチは高いだろう身長もあり、鍛え抜かれた戦士といった逞しさがある。
「はい、あの人が、グレンディの誇る伝説的な有名人です」
春の脇でそうもらすカディアの口調は、憧れや羨望が多大に混じったような様子だったが、春はそれ以上の話を聞かずに歩き出す。
有名人ならばすぐに人だかりができてしまうだろう。
それはカディアの反応からも、多くの人に慕われている有名人である事がすぐ分かった。
周囲の人々もロランに気づいたのだろう。慌しくなりつつあるロビーの中を、春は迷わず一直線にロランのもとへ向かう。
動き始めが早かったからだろう。春がロランのすぐ傍まで来る頃には春の後ろでロランを囲むように人の輪が出来上がりつつあった。
「貴方が、ロラン=カインツバイトさん?」
春がやや見上げるように声をかける。
すると、ロランは春が近づいてきている事を予め知っていたかのように悠然と振り向いて、一瞬驚いたように眉をひそめた後、口を開く。
「ああ。確かに俺はロランだが。誰だ?」
「申し後れました。僕はハル=リードヴェイルという者です。あなた宛の手紙を預かってます」
軽く頭を下げて挨拶すると、特に気分を害しているというわけではない様で、先ほどの困惑顔を収めて、すっと普段の表情だろう、引き締まった青年の顔が、春を覗き込む。
「ふぅん?誰から?」
「タンリの村のリックから、と言えば分かるといわれましたけど」
手紙を差し出しながらいうと、一瞬目を瞬かせて、一拍置いてからロランが大仰に反応を示す。
「ああ、あの泣き虫リックか!懐かしいなぁおい!ちょっと貸してみろよ」
懐かしむような音色の声に、春は、ああ、リックの言う通り、仲がよかったのだなと内心安堵しながら、半ば引っ手繰る様に手紙を受け取ったロランを見る。
「ハルさん!やっと追いついた……いきなり歩いて行っちゃうから驚きましたよ!」
手紙を読んでいるロランを見ていた春の後ろから、人ごみを掻き分けるようにしてカディアが悲鳴じみた声を上げて近づいてきた。
その後ろにはマイカに抱えられたウルもおり、ウルは心地よさそうにマイカの腕の中で小さく尻尾を揺らしている。
「あはは。ごめんなさい。でも有名人なら今しか手紙を渡せるチャンスはないかなって」
「ああ。そうでしたね。手紙は渡せたんですか?」
春が急いで歩いていった理由を理解したカディアは確認するというより、ロランという天上の人とも言える人物を前に、どうにか会話をつなごうと春に訊ねる。
手紙の所在を示す様に春がロランの手元を示すと、丁度手紙を読み終えたようで、顔を上げたロランの目がカディアに留まった。
「――あー……。アンタ、ギルド職員だよな?っつー事はこの、ハルっつったか?ハルの担当官なのか?」
唐突に会話を振られたカディアは吃驚して体を強張らせ、普段以上に礼儀正しい姿勢でもってそれに答える。
「あ、は、はい!私、カディア=ルールレットと申します!以後お見知りおきを……って、えっと、一応担当官予定ではあるんですけど」
緊張で固まっていたカディアの口調が、事情を説明するにつれて困惑に染まってゆくのが手に取るように分かる。
「まだハルさんは実戦試験が終わってなくてですね。それで、その、今から試験官になっていただける冒険者を募集しようかと……」
説明を聞き終えたロランがちらりとカディアの手に握られた依頼書を見て、口元にチラッと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふぅん。じゃあ丁度いいな。ちょっと借りるぜ」
「え!?あ、ちょっとっ!」
ロランの余りの早業に対応できず、あっさりと依頼書を奪われたカディアが思わず声を上げる。
しかし、当のロランはまったく気にした風もなく、自身の担当官だろう、先ほど言い争いを起こし、今は事態を静観していた職員の男性に依頼書を渡す。
「ベイド。俺、これ受けるわ」
「ろ、ロラン!何もお前がやらなくても――」
突然水を振られ、あまつさえ依頼を受けるなどと言い出したロランに、さすがの慣れた職員ですら驚きに狼狽した。
本来、新人の実戦試験など、ロランの様な達人、Aランク冒険者すら超える、伝説級のSランク冒険者が気安く請け負うような内容ではない。
冒険者として慣れてきたCランクやBランクに上がったばかりの者が、新人育成や後進の助けとなるためにある種のボランティア的に受けるようなものだ。
ロランのあまりにも突飛な宣言に、周りで何事かと集まってきていた冒険者やギルド職員、その他依頼をしに来た一般人にいたるまで、呆然としたように、文字通り、開いた口をふさぐ余裕すらなく立ち尽くしている。
「いいや。俺はコイツがどれくらいやれるのか、見てみたい。ほら、手紙見せてやるよ。そしたらお前も納得するだろ?」
普段どおりの調子なのは、この場では恐らくロランと春、そしてまったく理解していないウルくらいの物だろう。
そう言って手紙を投げ寄越すロランに、慌てて手紙をキャッチしたベイドと呼ばれる男性職員がずり落ちそうになる眼鏡を抑えて手紙を流し読みし始め、その顔が見る見るうちに驚愕に染まってゆく。
「――こ、これは……本当だとしたら確かに」
その後、ぶつぶつと呟きながら何かを思案し始めてしまったベイドを横目に、さすがに春も何が書かれていたのかが不安になって口を挟む。
「あの……えっと?」
「これからすぐにやれるんだろ?」
ニッと笑い、挑発的な様子で言うロランだったが、その目は春を真摯に見つめていて、春の奥の何かを推し量るように透通っていた。
春は、その瞬間に、確かにこの男は一筋縄では行かない男だと悟った。
小さく頷き返す春に、ロランは機嫌良さげに口笛など吹きながら踵を返して歩き出す。
「じゃあついて来いよ。俺が直々に新人試験をやってやるなんて、そうそうないんだぜ?」
自然、ロランの進路上に集まっていた人々が割れて、春はまるでモーセの奇跡のようだと関係ないことを考えてしまう。
「た、大変な事になっちゃいましたね……」
カディアがいまだに緊張の抜けきらない様子で声をかけてきて、漸く春も現実に引き戻されたような感覚が伴ってくる。
「そうだねぇ」
春としては普段どおりに返したつもりだったが、かえってそれが緊張感の無い様に映ったのだろう。
「そ、そんなのんきな調子で大丈夫ですか!?相手はあのロラン=カインツバイトですよ!?」
春に代わって狼狽するカディアに苦笑しつつ、春はマイカからウルを受け取って抱きかかえる。
「何とかなるんじゃない?ウルも一緒だし。ね?」
「いつでもいけるよ!あの人を倒せばいいんだよね!」
「大怪我させないようにね?」
普段通りのウルの様子に思わず笑みが零れ、春は小さくそう答えてロランの後を追った。
ロランの後について歩くと、ギルド本部の一角の開けた場所に出る。
中央のスペースを囲むようにやや高めの壁があり、その上を円形に座席が段差をつけて組まれていて、まるでコロシアムの様だと春は思う。
その中央、石畳で整えられた地面の上で、ロランが不敵な笑みを浮かべて春を待っていた。
「改めて自己紹介をしておこうか。俺はロラン=カインツバイト。ロランでいいぜ。堅っ苦しいのは苦手なんだ」
「はい。じゃあ、そうさせてもらうね。僕はハル。駆け出し冒険者志望です。よろしく」
挨拶を済ませ、後を追ってきたマイカを手で制して、観客席だろう段の上へ行くように言う。
最初こそ困惑した様だったが、戦いになれば一切役に立てないマイカである。おとなしく上の席に腰を落としたのを確認した春に、ロランが面白そうに声をかけてきた。
「さっきから気になってたが、そのウルフはお前のペットか?」
暗に、ペットなら何故一緒に避難させなかったのかと問いかけるロランに、春は肩をすくめて見せてウルを下ろす。
「僕の家族のウルです。一応、魔獣使いとして申請しています」
「へぇ。っつーことは、そいつも戦わせるんだな?」
意外そうな顔、ではあるが、実際はそこまで驚いていないのだろう。ただ、興味深げにウルを見ていた視線に、うっすらと力が篭った様に感じる。
「ハル兄ちゃん!ボクも戦うよ!」
「一緒に戦ってもいいのなら、お言葉に甘えて」
「おう。二人でかかってきな」
お互いの会話が途切れた事で、ふと、周りが騒がしいことに遅ればせながら気づく。
「……って、なんか大変な事になっちゃってません?」
見回せば、何故こんな状態になるまで気づけなかったのだろうと春自身を落胆させる様な光景が広がっていた。
最初はぽつぽつといただけだったはずの観客席は、いまや大勢の冒険者や職員、人であふれかえっていた。
マイカが座っていた辺りを見れば、困惑顔のマイカが所在無さ気に春の方を見ている。
「あー……なんつーか。すまん」
ロランが頭をかきながらバツの悪そうな表情でぼそっと謝るのが聞こえる。
お祭り騒ぎの様に沸く観客席からはちらほらと、「あのロランが認めた新人がいる」だの、「伝説の閃剣の技が見れるぞ」などといった歓声が既に上がっており、春はこの元凶がロランであることを知る。
「まぁ、がんばって被害出さないようにやろうぜ」
気を取り直すように改めて苦笑いを浮かべながら、ロランが声をかけてくる。
「じゃあ、ちょっとだけ待ってもらっていいですか?」
「かまわないが、何をする気だ?」
春の提案に、ロランは一瞬怪訝そうな顔を浮かべるが、春は気にせず観衆に向かって詠唱を始める。
「《不可視の守人、汝が持つ万勢を防ぐ堅牢なる盾にて、彼らを等しく守護せよ》――《プロテクトウォール》」
詠唱が終わると同時に、キン、と言う、澄んだ金属が鳴る様な音が、会場全体を覆う。
観客席と春とロランの立つ場所を隔てる段差を目印に、半透明の膜のような物が一瞬にして張り巡らされ、ドーム状に春達を隔離する。
あまりにも一瞬の出来事に、気づいた観衆は言葉を失い、気づかなかった観衆も周囲の違和感に気づいて声援をやめる。
徐々に静まってゆく場内。ロランの声だけが春の耳に綺麗に届く。
「へぇ。広範囲防御結界か。そんな雑な詠唱でこれだけの強度・規模を発動できるなんて、中々面白くなってきたな」
不敵に笑うロランだったが、春が見る限り、隙のようなモノは一切感じられなかった。
そして何よりも春が気になったことがあった。
「ロランさんこそ、僕の結界に合わせて二重で張るなんて、思っていたよりも慎重ですね?」
挑発するようなロランの態度に返すように、春は薄く笑う。
その様子に、ロランは今度こそやや驚いたように僅かに目を見開いて呟くように問い返す。
「なんだ。気づいてたのか」
「ロランさんが手探りでマナを纏めているのが見えたから」
「“視えた”……ね」
仄かに光を宿す春の目を、覗き込むように注視する。
怪しく揺れる光は柔らかく、しかし、決して折れない力強さを灯して、ロランの鋭い視線を押し返す。
わずかな沈黙の後、春の方から口を開く。
「じゃあ、やりますか。ルールは?」
「俺に参ったと言わせればお前の勝ち。俺権限でランクCからスタートさせてやるよ」
「良いんですか?」
準備ができたのだろう。春達が入ってきた客席とは違う入り口の方で、ベイドとカディアが並んで見守っているのを横目に、春は首を傾げた。
「ベイドが上手くやるだろ」
「また雑だなぁ……」
ロランの言葉に、当のベイドはやれやれという風に首を振るので、春は会話も交わした事がないにもかかわらず、ベイドは苦労してきたのだなぁとしみじみ思ってしまう。
しかし、そんな平常運転の春を揺さぶるとんでもない一言が、春の思考を一時的にではあるが完全にストップさせる。
「その代わり、お前が負けたら俺の弟子な」
「……はぁ!?」
「じゃあ、そういう事で――」
さっさとはじめようとするロランに、春は慌てて口を挟む。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだよ……」
「弟子って、えぇ!?」
「んだよ。まぁいい。その辺は終わってからだな。っつか。お前、さっきから魔玉を使ってる様子もないし、杖もなけりゃ剣も持ってねぇな。どうやって戦うつもりだ?」
今更すぎる発言ではあるが、ロランの言いたいことはなんとなく分かったので、春は曖昧に笑って見せながら手を振る。
「杖、必要なのかな……まぁ、僕自身は魔術で戦いますので、気遣いなく」
「そうかい。じゃあ俺も最初はコイツを抜かないでやってやるよ」
ぽんぽんと、腰に下げられた銀の鞘に包まれた剣の柄を軽く叩きながらロランが言った。
「僕の敗北条件は?」
「お前が参ったって言うか、お前らが気絶したら。だな」
「なるほど。つまり僕の勝利条件と同じ、と」
小さく呟いて反芻している春に、ロランは不敵に、獰猛とも取れるような笑みを浮かべた。
「俺を気絶させられると思ってるのか。面白ぇ……お前らから先に動いていいぜ。俺は暫くここから動く気はないからな」
「それじゃあ、胸を借りさせていただきますね。行くよ、ウル!」
「うん!」
春にはただ受け答えしたように聞こえたが、普通に聞けば魔獣が吼えただけなのだろう。
ウルの声を皮切りに、試合が始まったと看做した観衆が一気に沸きあがる。
『《古龍の咆哮》だ。全力で良い』
念話でウルに短く言うと、ウルは驚いたように念話で答えてくる。
『え!?いいの!?相手はニンゲンだよ!?』
『あの人を、今までの相手と同じだと思わない方が良い。最初からある程度本気で挑まないと、危ないかもしれない』
根拠はなかった。しかし、そう思わせるだけの何かを、春は確かに感じていた。
それは、根源的な直感。本能による警鐘と言い換えてもいいかもしれない。
龍の力を得、さらには異世界の莫大なマナを以ってしても、ロランという男は危険極まりないという予感が、春の中では膨れ上がりつつあった。
それを敏感に肌で感じ取ったのは、誰でもないウルだった。
であってそれほどの時間をすごしたとは言い難いウルではあったが、それでも、この世界ではウルが誰よりも、春と共に過ごしていた。
その直感が告げる。春の言う通り、全力で挑まなければならないと。
『分かったっ!』
答えるや否や、ウルは大きく息を吸い込んで、口の中で高密度のマナが凝縮してゆく。
「《古龍の咆哮》!!!」
咆哮と同時に発せられた莫大なマナが、地面の石畳を抉り、大気を撹拌して突き進む。
高濃度のマナが微細な欠片となった土砂を削り、削られた土砂が鑢の様に、範囲内全てを削り、抉る様な放射。
「うぉ!?ウルフがブレス技だと!?」
さすがに、ウルがここまでの高火力技を繰り出してくるとは思っていなかったようで、ロランの声が聞こえる。
しかし、春はそれをまともに聞いていない。既に、春の手の中には、春に導かれて集った高濃度のマナが渦巻いていた。
「……《穿て》――《エナジーランス》」
ガガガガガガッ。と言う、削岩機でも起動させたかのような爆音に混じって、マナの矢が疾駆する。
まるで破城槌のような巨大なモノになった《エナジーランス》。その巨大さを無視するような速さで、ロランが立っていた場所へと突き刺さった。
《古龍の咆哮》で巻き上げられた砂煙に、まるで斬られたかのように綺麗な線が入る。
「おー。詠唱破棄してもこの威力か。すげぇなお前」
直後、微風が吹いたかと思うと、そこには傷一つなく立つロランの姿があった。
ただし、大分無理をしたのだろう。ロランの足元を見れば、何かを引きずるような後が二つ、ロランの両足に収束するように線を引いていた。
だが、何よりも春の目を引いたのはそれではない。
先ほどまでは銀の鞘に収められていた剣を、ロランは右手に握っていた。
鞘の上からでも見えていたマナは、どうやら剣自体から発生している様で、まるで蛍光灯のようにマナが光を発して、僅かにまぶしいと感じるほど、その剣は綺麗だった。
剣は、鞘と同じ白銀色で、刀身を覆うマナが、その輝きを増大させている様に見える。
「……魔剣、いえ、魔法剣?」
思わずうっとりしそうな程に洗練された、ある種の機能美を追及した先にある芸術とも言える剣に、春は思わず声に出して呟いていた。
そんな春に、ロランはやや嬉しそうに口の端を吊り上げて剣を示す。
「一発でこいつを魔法剣だって見破ったやつは久しぶりだな。どうして分かった?」
「一目見たときから、鞘越しでも物凄いマナの渦を感じましたからね。抜き身の今は、眩しい位です」
「なるほど、目がいいんだな」
適当にも思えるロランの感想だが、事実、春は良く見ていると、ロランは思う。
刀身の銀を以って眩しいと評することは簡単だろうが、この剣の内包するマナの輝き、そこまでを言い当てる者は、マナを感知できるものでも中々いない。
表情には出さない物の、感心しているロランを他所に、春は困ったように笑みを浮かべる。
その笑みは自然に見えるが、ウルから見れば、どこか無理をしているように感じた。
「……あれはマズいかなぁ。テストで手を抜くというのも悪いし、本気で行こうか。ウル元に戻っていいよ」
特に身構えてはいない。しかし、春を覆う雰囲気は既に、厳重警戒態勢といって良い。
「いいの?」
くりっとした青い瞳が春を見上げる。
「そうじゃないと、危なそうだからね」
あえて、そうしなければウルが危ないかもしれない。とは、いわなかった。
あの魔剣は危険だ。それこそ、ウルの子供形態の毛皮程度ではまるで軽減できないだろう。
だからせめて、龍の鱗の混じった強固な状態であれば、無傷というのはさすがに無理があるだろうが、ある程度の軽減にはなるだろうと春は思う。
「全力の本気で行くね!」
声と共に、ウルの身体が光に包まれた。
そして、その光は収束すると同時に元々のサイズを大きく上回る形で消える。
光が完全に消え去ると、そこには春の良く知る、頭や首、四肢の先が、体毛と同じく灰色の鱗で覆われた、背に飛龍の様な翼を宿した青眼の獣が姿を現していた。
「はぁー。俺も魔族にゃあ詳しい方だと思ってたが、まだまだ世界は広いな」
「ウルは突然変異みたいなものですからね。仕方ないですよ」
「まぁ、そういう事にしておいてやるさ」
今度こそ、会話が終わる。
ウルがその巨大な四肢で大地を駆け、風が、まるでウルを避けるかのように吹き荒れてウルを後押しする。
咆哮と同時に撒き散らされるブレスが音を焼き、本体の加速も合わせて、先ほどとは比べ物にならない速度でロランに迫った。
しかし、ロランは動じない。ただ、ゆらりと力の抜けた自然体のままで剣を軽く構えるのみだ。
眼を凝らして、先ほどロランが何をしたのかを検分しつつ、春自身も呪文の詠唱待機に入っている。
――閃光。
一筋の軌道がロランの正面に描かれていた。
そして線は、元々ロランが軽い上段に構えていた場所から、いつの間にか振り下ろされていた下段へと続き、収束する。
直後、共に着弾したウルの《古龍の咆哮》が、二つに裂けて会場を覆った結界に衝突した。
爆音と衝撃で揺れる地面の中、春は確かに見た。
ありえない速度で振り下ろされた剣の軌道に残された剣筋ともいうべき線にそって、《古龍の咆哮》が切り裂かれていくのを。
魔術であろうと切り裂いてしまう白銀の魔剣。ひとえに、切れ味の所為だと片付けることもできる。
しかし、ロランの卓越した剣術があるからこそ、振り切ったという事象を空間に刻み込んだようなあの技なのだと、春は直感した。
《古龍の咆哮》の後を追うように飛び込んだウルが、空間に刻まれた剣筋を噛み千切ってロランに迫る。
牙も、爪も、まるで龍の様に黒々とした光沢を持った力強い一撃が、ロランの頭の手前でぴたりと固まった。
ロランとウルの爪の間には、振り切って下段に下ろされていたはずの剣が、いつのまにか挟み込まれている。
ギチギチと、まるで金属同士がすり合う様な硬質な音を鳴らしながらにらみ合う。
ウルの全体重を乗せた一撃を、ロランは右腕一本で支えていたが、ロランはにやっと笑うと、あえて半身を引くように重心をずらす。
ロランの力が抜けた瞬間、ウルが勢いを殺しきれずにいなされて脇に投げ出されてしまう。
「お前は見てるだけか?」
挑発するように切先を春に向けて言うロランに、春の口元が僅かに動く。
ちらりとウルを一瞥した春が、手を突き出してロランの切先に相対するように構えた。
その口から紡ぎ出されるのは、本来、実戦で唱えようと思えば前衛の援護か、魔玉に予め封入して短縮発動するくらいしか実用性のない、大規模魔術。
人間にとっての大規模魔術など、春――シンクからすれば、ほとんど無詠唱で発動できる。
しかし、春はあえて口に出す事で、シンクが思いも付かなかった様な付加価値を与えて術を行使していた。
「《全てを焦がす炎天の灯、野を駆ける音を焼き、道阻む全てに烙印を》――《プロミネンスロア》」
ヴゥン。僅かなマナの振動が空間に音を伝える。
それは一瞬で真っ赤な魔法陣となって春の手を中心に幾何学模様を描いて展開された。
「火属性上級の、短縮詠唱!」
ロランが気づいたときにはもう遅い。
ウルは既に、先ほどの春の視線で、春が何をする気なのかはある程度あたりをつけていたようで、ロランから急速に距離をとっていた。
正面の春を警戒していた為、ロランの反応が一瞬遅れる。
しかし、この戦闘においてそれは致命的だった。
春の叱声が奔り、正面に構えられた魔法陣から、爆炎が巻き上がった。
それは文字通り獣の咆哮。しかし、音ではなく炎が、渦を巻いて大気を焦がし、周囲の景色を歪ませるほどの高熱を伴ってロランに疾駆する。
「天と地を駆け焼き焦がせ!」
ロランが僅かに遅れて迎撃体勢を取ろうとした瞬間だった。
ヴゥゥゥン。
突如、ロランを覆い尽くすように展開された、球系の魔法陣。
正確に言えば、ロランを囲い込むように上下左右に展開された巨大な魔法陣が、重なり合って、あたかも球形にひとつの魔法陣がくみ上げられているかのような錯覚を覚えさせた。
その魔法陣はロランに向けられている火属性上級呪文とまったく同じ。
たった一つの詠唱で、春は実に5つを同時発動させていたのだった。
「くっ!?」
ロランは一瞬、回避と迎撃で躊躇してしまった。
それが、圧倒的に取り返しの付かない隙となる。
「逃げられるとでも?」
春の声が、音を焼き尽くす劫火の中でありながら、ロランのもとに鮮明に届く。
「《プラネットクルセイダー》!」
渦巻く炎の魔法陣が、別の力によって僅かに撓む。
それが直後に、ロランの自由を奪う重力の枷となって莫大な威力を発揮し、ロランの足は完全に地面に縫い付けられる。
炎が、ロランを飲み込む。
四方を囲んだ爆炎の魔法陣から噴出した灼熱が空間そのものを焼くようにのたうち、春の打ち込んだ炎の咆哮が重力と絡み合ってその場から劫火が去る事を許さない。
さすがに、やりすぎたと春は思った。
如何に剣の腕が立ち、形無きものであろうと切り裂く剣を有していても、さすがに春のような規格外魔法の使い手では、意味がない。
剣は1本。そして、剣を振るう腕もまた、1本しかないのだ。
同時に5方向からの、一つでも貰えば致命傷になるような攻撃を受け、回避を封じられ、重力下では普段のように剣を扱うこともままならないだろう。
しかし、それでも春は、ロランを殺してしまったとは思っていなかった。
精々軽くない火傷を負わせた程度だろうと、冷静な頭が告げている。
だが、その杞憂も一瞬にして切り裂かれてしまう。
銀の閃光が、炎の熱で揺れる空間を切り裂いて、あれほどまでに荒れ狂った炎が霧のように霧散してゆく。
「さすがに、今のはちっと効いたぜ……」
熱ばかりはさすがに防ぎきらなかった様で、軽く咳き込みながら姿を現したロランの体は、傷一つない。
服の端がやや煤けている事を見れば、先ほどまでの無傷とは行かなかった様ではあるが。
それでも、ロランはまだまだ超然と笑っている。
「さぁて。そろそろ俺も動くとするか」
刹那だった。数メートルはあっただろう春とロランの距離が、一瞬にして零になっていた。
驚くよりも先に、春は眼を見開いて、振り上げられた剣を視界いっぱいに見る。
咄嗟に《龍鱗の盾》で防御できるのではと言う思考が頭を掠めるが、すぐにそれを否定する。
魔術が切れると言うことは、過信はできない。いかに絶対の防御力を誇ろうとも、春の障壁はシンクのものと違い、魔法的要素の方が強いのだ。
シンクの障壁の場合、魔術を完全に吸収する程度の効果しか持たないが、その代わりに物理攻撃を完全に弾いてしまう絶対の鱗という鎧を身に纏っている。
しかし、春は鱗を持たない変わりに、物理に対する防御性能をも、障壁がになっているのだ。
それは最上級の魔術障壁となんら変わりが無い事を意味する。
ただの、耐久力がとてつもなく高い防御魔法でしかないのだ。
そして防御とはいえ、魔法である障壁が、ロランの剣で切られないという保障はどこにもない。
後ろに飛び退くか、横に避けるか。春の思考が一瞬混線する。
横に避ければ恐らくは体勢を崩す。そうなれば後は延々とこの速さの追撃をかわし続けるのは至難だろう。
かといって、後ろへ飛び退いても、返す刃で斬られてしまう。
右手の甲が仄かに熱くなり、ウルとの契約の紋章が淡い灰色を宿す。
ギャリリリリリ。
何かが激しくぶつかったような音が、春のすぐ間近で鳴り響き、ロランの剣と、春の不可視の障壁が、激しくぶつかり合う。
薄赤く明滅する障壁が歪み、徐々に銀の刃が食い込んでくるのを、春はスローモーションの映像をみるような感覚で見ていた。
春の服の袖を薄く裂いて、銀の閃光が軌道を描く。
しかし、確かに振り下ろされたはずのロランの腕は、既に振り上げたときと同じ様に上に構えられていた。
ロランは構えを解いて、僅かに顔を顰めて上を見上げる。
「はぁ、はぁ……」
そこには、肩で息をした春が浮かんでいた。
その背からは真っ青な粒子がとめどなくあふれ、春に光の翼が生えているようですらある。
春は上空から、見上げてくるロランと視線をぶつけながら、内心、安堵していた。
障壁と剣がぶつかり合う瞬間、春は僅かに後ろに引いた。
そして、切り下ろされた剣が再び逆袈裟で切り上げられると同時に、その刃から逃れるように飛んだのだった。
春には翼はない。しかし、マナを認識できない者にすらその輝きの一端を見せる程に凝縮された春の莫大なマナは、魔術の補助なしで放出するのみでも、春の身体ひとつくらいは軽く制動してみせるだけの出力を誇っていた。
真っ青な光が雪の様、もしくは、羽毛のように宙を舞い、闘技場の様な空間を淡く満たす。
「こんなもんか?」
至極詰まらなそうに表情を曇らせるロランに、春は首をかしげた。
「何が、ですか」
訊ねる春に、ロランはまったく別の回答を寄越す。
「それだけの力を持っている割には、実戦経験がまるでないな」
そう言って、まるで血振りでもする様に剣を軽く振る。
同時に、春は右手の違和感に気づいた。
――ツツッ。と、右の手首に、赤い線が刻まれている。
「……え?」
ブツン。と、何かが切れるような音。
直後、焼きつくような激しい痛みが体中を駆け巡った。
右手が、熱い。
まるで鉄板に手を付いた様な、それよりも酷い熱さが右腕を伝い、脳に刺さる。
「う、あ……」
「悪いな。お前の魔術の腕じゃ、手加減してたら危なかったからな。つい、切り落としちまった」
ばつが悪そうに言うロランの言葉も、今の春の耳には届かない。
バタバタバタと、液体が地面に零れ落ちて、ロランの足元を濡らす。
右の手首から先が、ずるりと滑った。
無意識のうちに左手で受け止める物の、一度ずれてしまってからは、堰を切ったように赤黒い液体が大量にあふれ出し、地面へと流れ落ちる。
春は、身体が切断されるほどの痛みを感じたとき、涙など出す余裕が無い事を、このとき初めて知った。
ただひたすらに熱く、それでいて、体から力が抜けていくような貧血感。
痛みを通り越して麻痺して熱を放つ右手を、春は信じられない思いで見ていた。
未だにビクビクと痙攣して、つながっていない事が逆に嘘のように綺麗な切断面を晒すそれは、紛れもない、春の右手だった。
手の甲に刻まれた灰色の刻印が、うっすらと色を失い始める。
「ハル兄ちゃん!?」
ウルの声に、熱に浮かされたような思考のまま、春はウルに視線を向ける。
すると、そこには身体から力が抜けたように子供形態に戻ってしまっているウルがいた。
――契約が、繋がりが。切れる。
頭の中で、痛みが、思考が、知識が、まるでミキサーにかき混ぜられたかのように撹拌して、春を飲み込む。
「う、あああああああああああああああ!!!!!!!」
痛みが、傷を自覚した事で爆発したようだった。
理性などない。ただ、ひたすらに痛みが脳の容量を食いつぶし、春が本来シンクからの濁流ともいうべき知識の渦をさえぎっている箍さえも、ぐちゃぐちゃにひき潰す。
その瞬間に、今まで遮っていた全てが、まるで水溜りに滝が流し込まれるような勢いで押し寄せた。
――傷、治す。ウル……契約。敵、倒す。
「ぁぁあぁああぁああぁああああっ!!!!《タイタンズガーデン》!!!!」
爆発的に放射されたマナが、地面に零された春の血液を起点に発芽する。
ロランが異常を察して飛び退いた瞬間、地面に血だまりを作っていた春の血液がうごめき、真っ赤な大輪の花を持つ植物が飛び出した。
「うぉお!?」
その植物は急速に育ち、見た事がない人ならば、これが世界樹であると言われれば信じてしまいそうなほどに肥大な蔦を四方八方に生長させる。
「ハル兄ちゃん!!」
ウルが叫ぶが、すぐに巨大な植物に押し出されて結界の外にはじき出されてしまう。
見る見るうちに育つ植物が、結界内を埋め尽くし、瞬く間にドーム状の不可視の障壁いっぱいいっぱいに植物のドームが完成した。
隙間なく埋め尽くした枝葉で中は完全に見えなくなり、ロランと春、両者だけが取り残される形になってしまっていた。
「悪あがきか?見た目によらず諦め悪いなお前」
ロランが呆れた様に口を開き、春を見上げようとして、動きが止まる。
――ギチギチギチ。と、おおよそ人体ではあり得ない音が鳴った。
ロランが見上げれば、すぐに音の正体が何であるか分かる。
未だに激しくマナを放射する春の切断部分に、真っ赤な鱗が生えていた。
それは、春と契約した龍のものに似た、赤銅に燃えるような、血の様な赤い龍鱗。
傷口をすっぽりと覆い、鱗が肘まで伸びて、変化が終わる頃には右腕が肘の先から指先まで、堅牢な深紅の鱗に覆われていた。
動かすたびに、鱗がこすれるギチギチという音が鳴る。
爪は黒く鋭く伸びて、石材程度、いや、もしかすれば鉄ですら、その爪にかかれば一閃の下に切断できるのではないかと思わされるほどに研ぎ澄まされていた。
「自力で、治したのか……」
今度こそ、ロランは驚愕に思わず声を漏らしていた。
しかし、春のそれは治癒ではなかった。
右手を失った激痛の中、断片的な思考が、春の中に流れ込む知識の渦から、必要な情報を拾い集めていた。
治癒には種類があり、対象に治癒の魔術を施し、対象自身のマナを使って生命力を活性化させる物と、対象にマナを送り込み、無理やり生命力を賦活させるものがあるという事。
そして、治癒魔術はそのイメージが鮮明であればあるほど、効果を発揮しやすいと言う魔術の最たる例であり、春にはそのイメージが欠如している事。
現代人として、大傷の治療などとは縁遠い春にとって、傷の治療は現代での医療の領分、魔術としてのイメージがわかないのは当然と言える。
そして、マナを送り込み、強制的に賦活させる方法は、春自身には使えない事。
対象のもつマナを上回る量を注ぎ込まねばならず、なおかつ、それは外からの供給でなければ成立しないからだ。
ならば何故、春は右手を、龍の鱗を持って繋げ得たのか。
シンクの知識は、その答えをも有していた。
――契約。それは、同一になること。
龍と契約した春は、人であり龍でもある。
人としての形状を保つ春は人だが、龍に寄せればその限りではなくなるのだ。
故に春は人型を捨て、その腕のみを龍とすることで、龍の驚異的自然治癒力を、春自身のマナでもって無理やりに活性化させてつなげてしまうと言う荒業を行使するにいたったのだった。
ロランの鮮やかな技術でなければ、こうも綺麗に繋がる事はなかっただろう。
傷口が完全にふさがり、内部組織までも再構成に成功した春は、痛みが引いて行くのを感じながらロランを見下ろす。
「この姿は、見られるわけには行きませんからね」
さぁっと、春自身の起こすマナの奔流で弄ばれていた髪が、深紅に染まる。
ロランを見下ろす瞳は、既に爬虫類の如く縦に割れた金色のそれに変わり、瞳の奥に、煌々ときらめく光が、龍をかたどっているように見えた。
「お前は……」
「僕はハル。万魔の主にして祖なる龍の代行者」
龍と化した春の右腕が、ロランに迫る。
「――っ!」
マナの放射が翼のように駆けて、蒼白な光を散らしてロランとの距離を一瞬にして詰めた春が吼える。
「勝負は、まだ終わってない!」
――ガギギギッ。
先ほどロランとウルが鍔迫り合いをした時よりもより硬質な音が響き、マナに覆われた春の右腕と、ロランの銀剣がぶつかり合う。
春が力押しでロランを押さえ込み、空中で無理に軌道を変えてロランを投げ飛ばす。
僅かに宙を待ったロランは器用に重心を移動させて回転させながら樹木のドームの壁面に足をつけたかと思うと、返しの跳躍で春に飛び掛る。
銀の剣が軌道を描いて、樹木の壁から春まで、一直線に銀色の残滓を残して駆けた。
今度は春がそれをいなして空中に逃れ、マナの翼から大量の《エナジーランス》を無詠唱のままで打ち出し、自身の手――龍鱗に覆われた強靭な腕からも、極大の《エナジーランス》を放射する。
無数のエナジーランスを捌きながら、ロランは迫りくる巨大なエナジーランスに身構えた。
しかし、春が手を動かした瞬間、エナジーランスは無数に枝分かれし、まるで矢の雨の様に降り注ぐ。
雨の如く降り注ぐ攻撃全てを防げるわけではない。ロランは急所のみを的確に守りつつ、声を張り上げる。
「おいおい、もっとすげぇ攻撃しろよ!出来んだろ!?」
ピクッと、春の肩がゆれて、雨が一瞬止まったと同時に別の変化が起こる。
「《マウンテンエッジ》」
ロランがすぐさま飛び退いた場所を、天を穿つかと思われるような巨大な岩石が隆起して、地面に立つもの全てを串刺しにするような鋭い岩が吹き上がった。
「うっお!上級呪文まで無詠唱かよ!!すげぇな!」
危機感と言うよりは、どちらかといえば嬉しそうな声音でロランが言うので、春は首を傾げてしまう。
岩石の津波を回避しきったロランが、血のにじむシャツやズボンのほこりを払うように叩きながら立ち上がり、春を見上げる。
お互いが見つめあい、春の背から飛び散る青の粒子だけが、キラキラと反射しながら空間に広がってゆく。
「っせぁ!!」
叱声と共にロランが飛ぶ。
一直線に描かれた軌道は見事に春を捉えて、春の障壁とロランの剣戟が再びぶつかり合った。
障壁と剣が衝突する音が響くが、どこか歯切れの悪く、鈍い音が混ざる。
剣が僅かに障壁に食い込んだものの、空中で春とロランが完全に静止して、僅かに時が止まったような錯覚に陥った。
しかし、今度は春も退かない。それどころか、力をこめて龍鱗で覆われた右腕でロランの剣をつかみに掛かろうとする。
そんな春の動作を即座に見抜いたロランが春の障壁を蹴って再び地面へ戻り、怪訝そうな顔で春をにらんだ。
「《龍王の領域》。わが領域では何人たりともマナを支配する事を許さない」
小さく応える春に、ロランは納得したように自身の剣を見る。
銀の剣は未だにまぶしいほどのマナを伴っていたが、それ以上に、空間を覆う青色のマナの粒子が、銀のマナを押さえ込むように刀身を覆っていた。
龍王の領域、と呼ばれる、龍が持つ特殊能力の一つだ。
本来は龍のあふれ出すマナ量によって空間マナを完全に塗りつぶし、龍自身に有利に働く魔法空間へと変貌させてしまう常時発動型の現象である。
龍の様な巨大かつ、膨大なマナを保有する物でなければマネできない芸当だが、幸い、春はマナ量だけでいうなら龍に匹敵し、かつ、契約により、今は龍そのものであるといえる。
その春が、《龍王の領域》を発動させる事に何の疑問があるだろうか。
「なるほど、その翼も布石だった、って訳か」
「別に。元々これを狙っていたわけではないですよ。たまたまです」
「たまたまでそれができるんだから末恐ろしいな」
恐ろしい、と言う割には、ロランは非常に楽しそうに笑っている。
そんな様子に、春も釣られて口元に笑みが浮かぶが、春自身はまるで気づいていない様だった。
「それほどでも。じゃあ、期待に応えて取って置きを見せようか」
春が手を上げる。血のように紅き鱗を纏った、龍の腕。
振り下ろすと同時に、マナの放射を全快にしてロランに突撃する。
夜の淵よりも黒く、刀匠の名刀よりも鋭い龍の爪。
正面から受け止めたロランの足が僅かに沈み、地面に深々とロランの靴の跡を残す。
「《集え》――《スターダストクラスタ》」
零距離でありながら、春は自身のもっとも得意とする“星”の呪文を唱える。
春とロランを囲むように展開された真っ白な光の粒子が、くるくると回りながら数を増してゆく。
ガキンッ。
ロランが一気に力をこめて押し返した事で、再び春とロランの間の均衡が崩れた。
しかし、春もただで引き下がるわけではない。
置き土産とばかりに、展開していた《星屑の群》を奔らせる。
ロランが短い間隔の跳躍で大地をのたうつ巨大な木の根の間を走り回って回避するのを、春が追いかける。
幾度となく、瞬いた星屑がロランの銀の軌道によって散らされる。そして星屑が散らされる度に、星は数を増やしてゆく。
やがて星屑の数は数えるのも億劫な程に増え、春とロランがどちらともなく静止した時には、春の舞う空中一面が夜空のように瞬いていた。
目立った疲労は無い様ではあるが、戦いが始まった時よりもお互いに疲弊していることは間違いなかった。
マナの放射を続けすぎた所為で春は全体的に脱力感に苛まれている。
ロランはといえば、体中、致命傷と言う致命傷は一つもないものの、これ以上動き回れば貧血で倒れるだろうと言う出血量の傷が至る所にあり、黒の服は血を吸ってさらに深く、濃い色になってしまっている。
「まるで夜空だな」
樹木の天蓋に瞬く無数の星屑と戯れるような少年を見上げ、ロランはふっと口元を綻ばせて言う。
真っ青な翼を携えた赤い髪の少年は、双子月のように見えて、空を埋め尽くす星達を支配する春は、さながら“星使い”。
それに相対するのは、闇夜に紛れる様な黒い衣装に、闇の中ではその色すら分からない血のように赤い前髪。そして、それらに反するように光り輝く銀の剣は、まさしく闇に煌く“閃剣”だった。
「そろそろ、お互いキツいですかね?」
春が全身の脱力感を隠しもせずに言うと、ロランは愉快そうに春を指差して笑う。
「馬鹿言え……お前、口元笑ってるぞ」
「そうですか?……それと、僕はハルです」
口元を左手で確認し、自分が笑っていたことに初めて気づいた春は、柔らかな光を湛えた星のような瞳でロランを見据える。
「悪かったな。じゃあ、ハル。これで、終わりだ」
ロランが両手で剣を構えなおす。それは、この戦いが始まってから初めてみる、ロランの構えだった。
「ええ。楽しかったです。また、“遊んでくれますか?”」
春も、両手――龍の腕と人の腕を合わせて掲げる。
空を覆う星屑が集い、まるで一つの大きな月のように――そう、ルグラの、春の世界の月の様に薄黄色の淡い光を放って収束する。
「“もちろんだ”」
ロランはニッと、20歳かそこらの年相応な青年然とした笑みを浮かべて応える。
「《エトワールクラウン》」
「《白銀一閃》」
二つの光、線と、点が交差して、お互いが試験試合だと言う事を途中で忘れた真剣勝負は、幕を閉じた。
これにて、春編(正の章)・第二章完結となります。
この続きは春編・第三章の方で結果が明らかになるかと思います。
それまで、気長にお待ちいただけたら幸いです。
続く里桜編(対の章)・第二章は王国編という事で、異世界トリップ物の王道ファンタジーな感じでガツガツやっていくかと思います。