~第五部・城砦国~
次回投稿で春編第二章が終わると言ったな。
あれは嘘だ。
衛兵に促されて春達が門をくぐると、巨大な門からは想像もできないこじんまりとした窓口に通される。
中に入ると、春の前に並んでいた旅人の一団が審査を受けている所だった。
石造りの壁にはめ込み式の窓が付けられており、受付窓越しに旅人と受付係の女性が対面していた。
しかし物々しさとは程遠く、受付と旅人が一言二言談笑していたと思うと、何事もなく通過してゆく。
春が予想するほど厳しい審査ではないのかもしれない。
自身の不安が杞憂に終わる事への安堵から、春は気を抜いて窓口に向かった。
「魔物連れの旅人とは珍しいですね。ようこそ。グレンディへ」
受付の女性はアップに括った髪を僅かに揺らして、おそらく皆に向けているだろう歓迎の笑顔で春達を出迎えてくれる。
柔らかな笑みは旅の疲れを癒す花の様で、疲れるほどは無い旅路ではあったが、春も思わず口元に笑みが浮かぶ。
「はい。ありがとうございます」
「形式上の質問ですので、気軽に答えてくださいね。お名前と、どんな用事でグレンディへ来たか、お答え願えますか?」
薄い緑色をした半透明の結晶を1、2回指先で軽く叩きながら受付の女性が微笑む。
春の目には結晶の中でマナが緩やかに回転するのが見えるが、おそらく普通には淡く輝いて見える程度だろう。
魔光石に非常によく似た水晶だが、春はその石にわずかな違和感を覚えた。
通常の魔光石ならば、常に微量であれどマナを外へ排出し続けているはずだ。
しかし、この水晶にそれらしき様子はなく、心なしか、春が見た事のある魔光石よりも澄んだ薄い色をしているようだった。
水晶を観察していた春に、受付の女性が俄かに微笑んで水晶を手に取る。
「記録水晶が珍しいですか?」
手に取った水晶を春に見せるようにしながら受付の女性が微笑んで言う。
手の中の水晶は薄い緑色に輝いていて、光の粒が中でゆらゆらと揺れている。
「ええ。こういったものを目にする機会がなかったもので……」
「魔光石を加工して作った魔導機の一種で、情報を記録できる水晶なんですよ」
女性の説明で、春はなるほどと納得する。
魔光石に似ているとは思っていたが、シンクの記憶の中にも存在しない水晶は、人間の作り出した魔導機だったのだ。
魔導機は魔光石を加工して作り出した魔術を使うための道具だが、魔導機にしてしまうと、魔光石はマナを生産することをしなくなってしまう。
知識としては知っていようが、おそらくシンクは現物を見た事がなかったのだろう。
春の視界を通して、シンクと春の中で知識が合致する。
「では、改めて。お名前と、グレンディへ来た目的についてお願いします。形式上の手続きですので、気軽に答えてくださって構いません」
女性に促されて、春は改めて口を開く。
「ええっと、名前はハル=リードヴェイル。こっちのウルフはウル=リードヴェイル。僕の弟みたいなものです。グレンディへは、冒険者になりたくて来ました」
足元で春を見上げていたウルを持ち上げて胸の高さまでもっていき、受付の机に隠れていたウルを紹介する。
一瞬、受付の女性は驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに落ち着いた様子を取り戻した。
「なるほど。冒険者志望ですか。歓迎しますよ」
受付の女性がちらりとマイカへ向けると、マイカは萎縮したように視線を下に落として黙り込んでしまった。
春は勝手に、マイカは人見知りなのだろうと解釈して、マイカに代わって受け答えを済ませる。
「こちらはマイカ=クロクニスさん。行き掛かり上、一緒に旅をしています」
マイカは特に口を挟む事も無く、春の言葉にただ小さく頷くのみに留めて応える。
……行き掛かり上、ですか。
その言葉が一番納得のいく言葉だと分かっていながら、その言葉が先ほどからずっとマイカの頭に響いていた。
確かに、マイカはハルという少年にとって、事のついでに助けた。いわば、気まぐれと言っても良い。
むしろ何故ここまで自分に対して親切に接してくれるのか疑問に思うほどだ。
マイカ自身、ハルが望むのなら、一度救われた命なのだ。極端な話、無理にでも組み敷かれて抱かれたとして、それを恨む気にはなれない。
しかし、ハル自身にそんな素振りは一切なく、むしろ、ハルに常時付き従っている“兄弟”のウルほどではないにしろ、大切にされているとすら受け取れる。
ハルはどこか、常識人の様な良識を持っている割に、世間ズレしているというより、人間離れしている印象を受ける少年だと、マイカは思う。
だからこそ、マイカはハルとどんな距離感をもって接すればいいのか分からなかった。
ハルの言う“行き掛かり上”という言葉が、ハルがマイカに対してどんな意味を持つ言葉なのかという思考だけが、マイカの頭を占めていた。
マイカが考えている間に、春は一通りの手続きを済ませたようで、受付の女性は席を立ちながら結晶をもう一度つつく。
すると光が収束して結晶の中に吸い込まれるようにして消えて行き、女性の手の中に納まる頃には何の変哲もない薄緑色の半透明の石になっていた。
「……そちらの、ウルさんでしたか。魔獣の」
仕切り扉から出てきた女性がウルのほうを見ながら春に問いかける。
「ん?ボク?」
春の腕の中、ウルは自分が呼ばれた事に首をかしげて春を見上げた。
その様子を見ていた女性はふっと口元を綻ばせて、春達が入ってきた扉とは違う扉の方へ行って戸に手を掛けて振り返る。
「魔獣使いの方は珍しいですが、全く居ないと言う訳でもありません。別室にてグレンディ内での魔獣と魔獣使いに関する条例についてご説明させていただきますので、こちらへお願いいたします」
受付の女性に促され、春とウル、そしてマイカが案内された部屋は、石造りの簡素な壁に囲まれた、しかし手入れの行き届いた個室だった。
部屋の中央に対面式に組まれたテーブルと二脚のイス。
女性はそのまま片方のイスに腰掛け、いくつか置いてある書類を整理しつつ、春達に席を勧めてくる。
「……えっと、受付、空けてきちゃって大丈夫なんですか?」
勧められるままにイスに腰を落とし、春はたずねる。
後ろでは別の受付員だろう女性に勧められ、持ち込まれたイスにマイカが座る所だった。
イスを持ち込んだ女性は小さくお辞儀をして、そのまま受付のある方へと出てゆく。
春の後ろにもまだ、順番を待っていた人は大勢いたはずだ。
受付が勝手に出てきてもいいものなのだろうか……。
そんな春の心配を他所に、女性は澄ました顔で答える。
「ええ。どちらかといえば、私は補充要員ですからね。本職はこちらですし」
春は思わず首を傾げてしまった。
「魔獣使い専門の受付が、ですか?」
疑問を口に出して、春は先ほどの女性の言葉を思い返す。
――魔獣使いは珍しい。
そう、珍しいはずの魔獣使いに応対する為だけに専門の人員を割く、などと言った事をするだろうか?
探るような物言いになってしまった春に対して、女性は特に何を思うわけではないようで、苦笑気味に答える。
「いえいえ。魔獣使いは珍しいですから。それ専門に受付を雇うようなお金はありませんよ」
「じゃあ、何の専門なんですか?」
「担当は冒険者ギルドの受付で非番だったんですけど、今日は珍しい人が帰ってくるんで、ギルドの方が大忙しなんですよ。それで私がこちらの受付をしてたんです」
「はぁ。なるほど」
「……まぁ、そろそろ落ち着いてくる頃でしょうし、急ぐ必要はありませんよ。それでは、説明のほうに移ります」
書類をいくつか春の目の前に広げながら女性が言う。
一番上を手に取って紙面に書かれた文字を見るが、やはりシンクの知識の中にはこの様な文字は存在しなかった。
無意識に解読する為に意識を傾けてしまっていた為、春の表情がやや引きつる。
そんな春をちらっと見て、女性は小さく咳払いして口を開く。
「原則として、魔獣同伴での入国については問題はありません」
春は思わず顔を上げて女性を見た。
目が合うと、女性は僅かに微笑んで、
「本当に稀になんですけど、読めない方がいらっしゃるので……」
と、遠慮がちではあるものの、珍しい物を見るような目を春に向けて言う。
「あ、あはは……」
思わず春の口からは乾いた笑いが零れる。
「それでは、順に必要な部分だけ説明していきますね」
「……お願いします」
受付の女性が説明してくれるのを聞きながら、春は要点を纏めて整理してゆく。
まず、魔獣の同伴には飼い主が魔獣を制御できているという証明が必要だという事。
飼い主が冒険者としてギルドに登録されているか、制御用の魔導機が装着されている事が証明になる。
魔獣は飼い主から一定以上離れてはいけない。これは周囲の人にも魔獣が制御下にあるという事を示す為であるらしい。
宿については、春の世界で言うペット同伴OKの旅館、みたいな物があるようで、グレンディ内ならば冒険者ギルドに申請すれば斡旋もしてくれる。
「以上が、グレンディ内での魔獣の扱いと規約になります。ハルさんは冒険者志望との事でしたので、このままギルド本部へ案内します」
一通り説明を終えた女性がそう言って、書類を纏めて立ち上がる。
「え、いいんですか?」
「私も丁度本部に戻る時間でしたので。ついでに、ですけど、私が担当官になってあげてもいいですよ」
振り返って僅かに髪を揺らし、女性が悪戯っぽく微笑んで言う。
「担当官?」
立ち上がり、ウルを腕に抱きながら尋ねる春に、女性は付け加えるように説明する。
「はい。数多い冒険者のニーズに合わせるために、所属するギルド支部に担当が居て、冒険者個人個人に合った依頼を斡旋する仕事です」
「なるほど……こちらからの希望があれば、それに近い依頼があったら教えてくれる。とかですか?」
「飲み込みが早い人は好きですよ」
口元に指を当てて言う女性はどことなく楽しそうに見える。
先ほどまでの事務的な対応とは違った柔らかな物言いに、春は若干の戸惑いを覚えつつも、小さく頭を下げてそれに答える。
「ちなみに、ギルド職員も、担当の冒険者が功績を立てたりすると特別手当てが出るんですよ」
「はぁ…」
「私、人を見る目はあるつもりなんですよ?」
これがこの人の素なのだろう。と、春は女性の対応のギャップに折り合いをつけつつ、曖昧に笑うのみに留めた。
「それでは、ご案内します……ああ。そうだ。マイカ=クロクニスさんも冒険者志望なんですか?」
「ああ。いいえ。彼女は違いますよ」
扉を開ける女性に春は首を振った。
ウルは既に春の腕の中で、まだ見ぬ人間の国への興味に尻尾を春の腹部にびたんびたんと叩きつけて目を輝かせている。
「そうですか。どうします?マイカさんはギルド本部へ行く用事がないようですが?」
女性がマイカにそう声を掛けると、マイカはちらりと春の方へ視線を移して、遠慮がちに答える。
「あ……私、も。着いて行っちゃダメですか?」
女性は特に断る事も無く、それではと言って春達を先導した。
女性に連れられて検問所を出ると、外とは打って変わった光景が春達の目の前に広がっていた。
基本、草原と森林しかなく、家々も木造である事が多かった為か、自然と寒色的な色味が多かった外と比べ、一つ巨大な壁を隔てたグレンディ内は明らかに色合いが異なっていた。
大通りに敷き詰められた石畳をはじめ、立ち並ぶ家々の大半が橙や赤茶色のレンガのような物で造られており、暖かさと活気に満ち溢れている。
建物の軒先では、商店なのだろう。春の見た事もないような食べ物や物品が売りに出され、行き交う人々の服装も様々だ。
水晶が並べられた店先で買い物をしているのは剣士の様に見えるが、手にとっている水晶からは小さな炎が一瞬揺らめいては消え手を繰り返している。
そこかしこから威勢のいい商人の声が聞こえ、それに呼応するように町の人々が慌しく行きかっている様は、春にはまるでお祭りのように思えた。
「うわぁ!すごいねっ!ハル兄ちゃん!こんなに人がいっぱいいるよ!」
行き交う人々はタンリの村とは比べ物にならない。圧倒されたように眺めていた春の腕の中で、ウルが今にも飛び出しそうに尻尾を振りながら吠えた。
通り過ぎる何人かが春達の方へ目をむけ、一瞬ウルに目を止めてぎょっとした顔になるが、すぐに人ごみの中に紛れて見えなくなってしまう。
まるでウルの存在など、些細な問題ですらないといわんばかりの空気に、春は安堵しながら答える。
「そうだね。お祭りみたい……」
「お祭り……そうですね。お祭りのようなものです」
感嘆に息を吐いた春に、女性が言う。
前を歩く女性が人の波を器用に避けながら進むのに対し、春とマイカは追いかけるだけで精一杯だった。
暫く生活すればこの状態にもなれるのだろうかと、春は満員電車の中を思い出しながら女性を追いかける。
やや歩いた所で、大きな道同士がぶつかる場所に出た頃、漸く人通りもある程度落ち着いてきたようで、春は先ほどの女性が言ったお祭りみたいなモノ、という言葉に質問を投げかける。
「何かあるんですか?」
「ええ。件の“珍しい人”っていうのがですね。所属はグレンディなんですけど、ここ数年間帰ってきてなかった人なんですよ」
あれだけの人ごみを渡り歩いてきた割には苦しい顔ひとつ見せず、普通に歩いてきただけのような涼しい顔をしたまま、女性が答えた。
「有名人なんですか?」
人一人帰ってくるだけでこの大騒ぎ。どのような人物なのか、春の中でその人に対する興味が僅かに芽生える。
「ええ。冒険者なら誰もが知っている人ですよ。覚えて置いて損は無いはずです」
「へぇ……どんな人なんです?」
冒険者ならば、という女性の言葉に、春はぴくっと反応した。
これから自分がなる冒険者という職業で、知っていて当然。
冒険者ギルドの偉い人なのだろうか。それとも、腕利きの冒険者なのか。
春の中で、不確かな人物像の想像だけが膨らんでゆく。
期待する春の心中を察したように、女性は微笑んだ。
「“生ける伝説”“龍殺し”“一騎当千”……色々な呼び名がありますけど、やはり私はこれが一番しっくり来ますね」
一旦言葉を区切り、前を歩く女性が振り返る。
「“閃剣”ロラン=カインツバイト」
名を呼ぶ女性の目には、尊敬とも憧れともつかない光が宿っていた。
相当に人望のある人物なのだろう。春は一度、会ってみたいと思い、ふと、その名をどこかで聞いた気がして、女性に問い返す。
「……ロランさん?」
「ええ。ご存知でしたか?」
女性が意外そうに首を傾げるので、春の何故自分がこの名前が気に掛かったのかを考える。
そして、リックから手紙を預かっている事を思い出し、その宛名がロランである事に思い至った。
「……あ、いえ。丁度、そのロランさんに宛てた手紙を預かっていたので……ちょっと驚きました。ロランさんがそんなに有名な人だったなんて」
自分でも、何故こんな事を忘れていたのかと思ってつい口元が綻んでしまう春に、女性は驚いたように口元に手を当てた。
「凄いですね。あの“閃剣”のお知り合いだったんですか?」
知り合いだとしたら、自分なんかよりもはるかに詳しいはずなのに、その相手に得意気に話してしまったと思うと、女性は恥ずかしさのあまりに顔が紅潮するのがわかるほどに熱を感じてしまう。
「知り合いの知り合い。といった所でしょうか?」
そんな女性をフォローするように春が笑うと、女性は小さく咳払いをして自身の平常を取り戻す為に疑問を口にする。
「面識は無いんですか?」
「ええ。行けば分かる、みたいな言い方をされましたので」
「なるほど……たしかに、ああも目立つ人はそういないですよね」
春の返しに、女性は納得の行ったように頷く。
「そんなに目立つ人なんですか……?」
「全身黒ずくめに銀の鞘、赤い前髪の人なんてそういませんよ」
春の頭の中で、黒ずくめの屈強な男性が鮮明に浮かび上がる。
確かに、一度見たら忘れられない程に暑苦しそうではある。
「……それは、目立ちますね」
「でしょう?」
「赤い髪なんて、ハル兄ちゃんみたいだねー」
ちゃっかり話を聞いていたのだろう、未だにきょろきょろと周りを見回していたウルが春を見上げて笑う。
春はまたうっかり髪が赤くなっているのではと一瞬あせったが、しかし通り過ぎたガラスに映る自分の姿は茶髪のままで一安心する。
我ながら心配性だなと思ってしまうが、用心するに越した事はない。
『赤い髪って珍しいのかな?』
ふと疑問に思い、周囲を見回しながらシンクに尋ねてみる。
周りに居るのは茶色や青系、金髪など、色彩溢れる髪色の通行人ばかりだが、不思議と赤と黒は見かけない。
『ああ、確かに珍しいな。赤い髪はフェミュルシアのマニトにはないはずだよ』
『ふぅん……ロランさん。か……』
「ハル兄ちゃん、あれ、なんだろう?」
春を現実に引き戻すように、ウルが細い路地の暗がりに目を凝らしながら尋ねた。
目を向けると、大通りから外れ、建物の影に隠れてしまって薄暗い細道が続いている。
大通りを歩く人々とは明らかに毛色の違う人間が、ひっそりと隠れるように蠢いているのが見て取れた。
「あの、あれは一体……?」
前を行く女性に尋ねると、女性は少しだけ迷うような仕草を見せた後、いかにも気が進まないといった風に口を開く。
「奴隷市ですよ。あまり見ていて気分のいいものではないですが、ああでもしないとその日の食費も間々ならない人達もいるんです」
この世界も、やはり物語で語られるような暖かなファンタジーの世界、というわけではない。
その事を、春は良く知っていたつもりだ。
それでも女性の言葉は春の想像していたグレンディという国への見方を修正せざるを得ないものだった。
自分の目を通して見ているだろうシンクも、きっと初めてこんな光景を見るのだろう。
あれだけ人間に憧れているシンクには、あまり長い間見せていたいものではない。
視線を外そうとした春の袖を、マイカが後ろから遠慮がちに掴む。
「……ハ、ハルさん。早く行きましょう?」
その声は小さく、顔は伏せられていて春からは見えない。
確かに快いものではないので、早々に立ち去ったほうがいいだろう。
「え?ああ。そうですね。すみません」
「……ギルド本部に向かう前に、気分転換でもしていきましょうか」
重くなってしまった空気を払拭する様に女性が言った。
「大丈夫なんですか?」
確かにそれはありがたい提案だが、一応は仕事中だったはずだ。そこまで気を使わせてしまうのは申し訳ない気がして、春が尋ねる。
女性は理知的な表情を和らげて、ハルとマイカ、そしてウルに微笑みかける。
「ハルさん達にグレンディを誤解させておきたくないですしね。何より私も久しく行っていないから、案内という名目ならば仕事の範疇になりますよ」
女性の心遣いが嬉しく、春は笑顔で頷き返す。
「それでは、少し道をそれますけれど、損はさせませんよ」
再び歩き出す女性の後を歩く春。
その後ろをマイカが着いてゆくが、春にぴったりとくっついて袖から手を離そうとはしなかった。
春はマイカに歩調を合わせながら歩きつつ、奴隷市を通り過ぎた後から様子のおかしいマイカについて思案する。
盗賊に囚われていたマイカ。
あのまま春が助けていなければ、どうなっていたのだろうか。
盗賊達の慰み者として連れまわされたか、はたまたお金と引き換えに彼らのような奴隷と共に、奴隷市に並べられていたのだろうか。
マイカが奴隷市をその目で見て、どんなに苛まれるか、春は胸の奥にちくりとした痛みを感じた。
それと同時に、春は思う。
マイカが安心できる場所まで、送り届けてあげたいと。
「大丈夫ですよ。マイカさん」
春が声を掛けると、マイカは僅かに顔を上げて春の顔を見る。
「マイカさんが安全に暮らせるまで、協力しますから」
「……ありがとうございます」
自然と、マイカの手が春の服の袖から離れる。
春はその手を取って再び歩き出す。
知人の全く居ない人ごみの中では、春とマイカが手を繋いでいる事を気にする人もいない。
邪魔にならない様に春の頭の上で景色を堪能しながら、ウルは時折春が女性を見失わないように声を掛ける。
暫く歩くと、徐々に喧騒以外の音が春達の耳に届いてきて、近づくにつれてそれが音楽である事が分かる。
春の知るどんな音楽とも違う旋律で、近いといえば、民族調の音楽のそれだろうか。
大きな道が広場につながり、女性が足を止める。
女性の横に並び立った春が広場を見渡せば、所々で露店を出している商人や大道芸を披露する旅人の姿があり、中心の像の前では一人の吟遊詩人が演奏を披露している所だった。
「ここは……」
春の頭の上でウルが目を輝かせて、今にも飛び降りて広場中を駆け回りたい衝動を押さえつけるように尻尾を振っている。
「グレンディ内でも有数の観光名所、シルバーシーズ広場です。この広場は旅人の吟遊詩人や大道芸人が多く集まるので、自然と、年中お祭りをやっている様に見えるんです」
女性が説明しながら再び歩き出すので、春もそれについて広場を歩く。
短剣をお手玉のように何本も自在に中に投げてはキャッチする大道芸人や、何人かのグループで演奏をする音楽家達。
観客の輪が自然と出来上がり、広場にはそうした円がいくつも重なるように広がっていた。
「そこを行く旅人さん。私の歌を聴かないかい?」
輪の間を抜けながら歩く春の横合いから、不意に声が掛かった。
どうやら春の周囲の人は皆何処かの輪に入って喝采を送るのに夢中なようで、春が辺りを見回すと、一人の男と目が合った。
構造はギターのようにも見える弦楽器を手にした、つばの広い帽子を被った男だった。
「えっと。僕、でしょうか?」
試しに問い返す春に、男はゆっくりと頷いて、
「ああ。君は面白い空気をしているからね。ついつい気になって声をかけてしまった」
と、緩やかに弦を鳴らす。
その男の声は楽器の音と相俟って、雑踏の中にあるにも関わらず、春の耳に鮮明に届いた。
柔らかで奥行きのある声が囁く様に言う。
「お金は必要ないさ。ただ、私の歌を聴いて欲しいんだ」
「ああ、吟遊詩人の歌ですか。いいですねぇ。私もご一緒してよろしいですか?」
「ええ、もちろんです。私の歌は聞き手を選びません。ただ、問いかけるだけです」
そう言って、詩人は弦を鳴らす。
行き交う人も自然と詩人の周りに集まり、春達は気づけば輪の内側に立っていた。
「……聴衆も揃った様だし、そろそろ始めよう。英雄の歌を、来るべき時の序曲を」
「ハル兄ちゃん、楽しみだね!」
「そうだね」
観衆が、波が引くように徐々に静まってゆく。
ざわめきが消え、春の耳には詩人の奏でる旋律だけが届くようになる。
春の集中力の賜物か、それとも詩人の類稀なる演奏の為か。
そんな事を考えるより先に、詩人が奏でる演奏の質が変わる。
詩人が口を開き、詩が音楽に溶ける様に混ざり合う。
「風渡る 遥か広き草地の丘陵 風の揺り籠に抱かれし大樹の森
古の樹の洞にて眠る神にも如きし全なる者 天高く地鳴らして座す大いなる龍王
其すらも従えしは人ならざる 万象仇なす大敵の王よ
その瞳、黄金も霞む輝きを持ちて遍く命を睥睨し その髪、数多の命の雫を浴びて煉獄に勝る朱に輝かん
かの者は定められし凶王にして古にて討たれし破滅の魔王
口ずさむは失われし術 太古に潰えし滅びの星 降り注ぐ光は黄金の無慈悲
世に混迷訪れし折 再び魔王彼の地より出で 大いなる滅びの軍勢を連れくるだろう
人恐れる事なかれ 闇生まれれば光もまた 対となりし正義となって降り来る
紡ぎ歌よ世を渡り 一筋の光明を 英雄の為の祈り歌とならん
紡ぎ歌よ人を渡り 闇祓う黎明を 勇者の為の祈りの剣となれ
紡ぎ歌よ、紡ぎ歌 日差しを乞う 人々の為の救いとならん」
詩人の歌が終わり、音楽がフェードアウトしてゆく。
音が完全に止んだ後も広場には一時静寂が漂っていたが、すぐに割れんばかりの歓声や拍手が轟いた。
自然と春も手を打って拍手をしていた。
しかし、春は歌に感嘆すると共に、歌詞が耳に焼き付いた様に繰り返されている。
『ハル……今の歌は……』
シンクも同様の考えに至ったようで、春の頭の中に響くシンクの声は、僅かに掠れている。
『きっと、あの時の帝国軍が広めたんだ。僕ら、完全に人間の敵になってるね』
『……でも、僕は――』
そう、シンクは人間と仲良くしたい。
マナが減っている理由を説いて、説得した上で、人間と親交を深めるのがシンクの夢。
全く逆を向き始めてしまった現状に対し、春は微笑って見せる。
『分かってる。でも、これはある意味では運が良いのかもしれないよ』
『どういう意味だい?』
『人間の社会を動かすには、ある程度の知名度が必要なんだよ』
『確かに、魔王は知名度が高いな。しかし、悪い意味だぞ?』
『だからこそ、究極的に言えば悪なんて対立思想の裏側でしかないんだから、上手く立ち回って丸く収める事だって、可能なはずだ』
シンクに答えながら、春は浮かび上がってきた情報を材料に計画の骨組みを組んでゆく。
詰めるのは後からでも構わないが、次々と浮かび上がっては消える候補に、シンクは僅かに息を呑んだ。
『ハル……君は』
恐らくは最終的な着地点。その思考がシンクに伝わり、咎めると言うよりは、心配するといった声音でシンクが言いかけた。
それを遮る形で、春は小さく語りかける。
『シンク。シンクの夢、僕は叶えて見せるから。そのために、どんな形でも協力すると、約束して?』
『……ハル、僕はハルにも幸せになってもらいたい。だから』
言いたい言葉はたくさんあっただろう。
しかし、それら全てを飲み込んで、シンクはただ、春の決意を飲み込むように短く言った。
その言葉に、春は小さく肩をすくめて息を吐く。
『大丈夫。自分の利益もちゃんと考えておくよ』
『……』
春の言葉が事実をいったのではない事くらい、シンクは理解していた。
しかし、それ以上に、春を突き動かしてしまったのは自分であると言うことも、シンクは嫌というほど知っている。
だからこそ、シンクは春にそれ以上の言及をすることが出来なかった。
「いい歌でしたね」
隣で聞いていた女性が感想を洩らすので、春はそこでシンクとの会話は終わりと言う風に女性に向き直る。
「僕、初めて聞きました。御伽噺の歌でしょうか?」
「いいや。史実さ。これから起こる物語のね」
楽器を手に、詩人が春達に歩み寄ってくる。
座っていたから身長の事は気にならなかったが、いざ目の前に立つと、春よりもやや背の高い、それで居て線の細い身体は、いかにも芸術家といった風体だった。
「あ、素晴らしい演奏でした」
春が含みなどなく、純粋に感想を述べると、詩人は春の顔をじっと覗き込むように見た後、
「――君は、面白い眼をしているね」
と、通る声で言った。
「眼、ですか?」
春は一瞬ぎょっとした。
眼には龍の紋章が浮かび上がっている。
それは、いくら恩恵の効果を弱めたとしても、契約が持続する限りは完全に消せるものではない。
ウルの契約紋章のように手に出るのであれば刺青という事で誤魔化せるかもしれないが、眼はそうもいかない。
極力顔色を変えないように努力しつつ、春は何気ない風に答えてみせる。
しかし、そんな春の内心とは裏腹に、詩人は小さく笑って空を見上げ、歌うように呟いた。
「ああ。先を見通している眼だ。何かを、それも大きな物を目指している者の眼だ」
詩人の言葉は正鵠を射ていた。しかし、春の危惧していた物とは違うものであったが故に、春は思わず笑ってしまった。
「あはは。お礼に一つ、即興詩でもいかがです?」
この詩人は、きっと歴史に名を残すだろう。
春は無責任ながら、そんな空想を抱かずに入られない空気を、詩人に感じていた。
「ふむ」
春の提案に、詩人は小さく頷いた。
その眼は興味深げに春へと注がれている。
真実を見透かすような目をした詩人を前に、春は小さく呼吸を整えて口を開く。
「かくして龍は魔王に傅き、されど御魂はかく気高き」
春が言い終わると、詩人は僅かに考えるような仕草をみせる。
戸惑っている女性の方を向いて、春は気恥ずかしげに頬を掻きながら微笑む。
「ははは。やはりなれないことはしないものですね。本職には敵いません。恥かしくなってきてしまいました。そろそろ行きましょうか」
歩き出す春にあっけにとられつつも、女性は戸惑ってしまう。
「え、あの?」
「待ちたまえ」
慌てて前を歩き出した女性と、後ろを歩く春に、詩人が声を掛ける。
「……」
緩やかに振り向いて、春は詩人の言葉を待った。
「君の名前を聞いておかねばならない」
詩人の問いに、春は答えない。
振り向いた時と同様に、緩やかに踵を返そうとする春の背に、詩人が言葉を続ける。
「近い先、君とはまた会える気がするよ」
春は、小さく頷いて、その言葉にのみ答えるように声を張った。
「そうですね。そうなるといいですね」
背中越しに答えた春の視線の先、ウルがマイカの足元で尻尾を振りながら春を待っていた。
「ハールー兄ちゃんー!」
「今行くよー」
呼びかけに答えて足早に春を待つ女性とマイカ、ウルの元へ駆けて行った。
広場を離れ、春たちは再び中央を目指して大通りを歩いていた。
ウルの興味は俄然湧き続けている物の、冒険者として登録が終ったらゆっくり観光しようと言う春の提案に従い、それまでは我慢する約束をしてからは、極力大人しくしようと春の頭の上でぐったりとしていた。
「さぁ、着きましたよ。ようこそ。グレンディギルド本部へ」
町の中央。東西南北を繋ぐ大通りの交差する場所に建てられたギルド本部の前で、女性は誇らしげに笑う。
ギルドと聞いて、春が最初にイメージしたのはファンタジーの酒場に併設されているような、汚れた場所を想像した。
しかし想像とは裏腹に、目の前に聳え立つような、比較的赤が多い町並みの中で一つだけ浮かぶように真っ白な建物に、春は圧倒されてしまった。
仕事を終えた冒険者たちなのだろう、頭の上に乗ったウルに訝しむような目線を向けるのみで、言葉少なに建物に入ってゆく。
「……すごい。お城みたいですね」
「ハルさんはお城を見たことがあるんですか?」
マイカが意外そうに尋ねるので、春は慌てて付け加えるように答える。
「あ、いえ。話に聞いていたお城という物が、こういうイメージだったんです」
そんなやり取りを見ていた女性が笑う。
「ふふふ。そうですね。お城と言われればお城に見えなくもないですね」
「からかわないでくださいよ」
「いえいえ、からかっているつもりはありませんよ。では、登録へ移りましょう」
「マイカさん、どうします?」
春が問いかけると、マイカは何故自分が呼ばれたのかときょとんとしてしまう。
「え?わ、私……ですか?」
「たぶん登録って時間掛かると思いますし、それまでずっと待たされるのは暇でしょう。良かったら、町の観光でもしてきたら如何ですか?」
春はおそらく、自分と一緒に居ると時間を持て余すだろうという心遣いのつもりなのだろう。
しかし、マイカはそれにどう答えて良いか分からなかった。
「あ……えっと……」
春の側を離れたくない。それは、特別な感情を抜きにしても優先される、マイカの中での指針だった。
どうにかして断らないとと頭を働かせているマイカに、春は抱き上げたウルを半ば押し付ける形で差し出す。
「マイカさん、ウルの事、頼めますか?」
「え?」
「ウルも丁度退屈しているようだから、一緒に息抜きでもしてきたらどうかと思いまして」
期待に満ちた少年のように眼を輝かせる子犬にしか見えない魔獣が、尻尾を振ってマイカを見上げている。
「えっと……いいんですか?」
そんな眼差しから逃げるように女性に尋ねるマイカだったが、女性はにっこりと笑って、
「……本当は、魔獣は飼い主から離れてはいけないのですけど、そのウルフはどうやら躾けが行き届いているようですし、大人の魔物でもないですから、まぁ、特例と言うことで」
などといってあっさりと了承してしまう。
「やったっ!マイカ姉ちゃん!行こうよ行こう!」
ウルの言葉を理解できないマイカや女性であっても、ウルが何を言いたいのかが分かる様な、全身から溢れる言外の期待に、マイカは思わず手を伸ばしかけてしまう。
「ウルが遊んでくれるって喜んでますよ」
春が意訳するまでもなく、マイカにはウルの言いたい事がなんとなく分かってしまっていた。
笑顔を向けられ、信頼を寄せられてしまえば、マイカは断ることなど出来ない。
「あ……じゃあ、ちょっとだけ……」
遠慮がちながらも了承を口に出した途端、ウルは喜び勇んで走り出そうとしてしまう。
「じゃあ、ハル兄ちゃん、いってきますー!」
それを慌てて追いかけ始めたマイカの背に、春は笑いながら手を振った。
「うん。楽しんでおいで」
すぐに二人の姿が人ごみに紛れて見えなくなると、春は女性に向き直って軽く頭を下げる。
「すみません、わがまま言ってしまって」
「いえいえ。あなた方が悪い人ではないのは、今まで見ていて分かりましたから」
「それで、登録ってどうしたらいいんですか?」
「そうですね。では、着いてきてください」
女性に案内され、春はギルド本部の中へと足を踏み入れる。
外見と同じく白で整えられた清潔感のあるロビーは多くの人で溢れていたが、彼らの身につけている服装と建物の内装、どちらが似合っていないのか、春は一瞬戸惑ってしまう。
やや汚れの目立つ外套に身を包んだ男が腰に剣を下げている姿などまだマシな方で、この様な場所を堂々と歩いていなければ盗賊の類と間違われても仕方がないような大男が槌を担いで闊歩している姿など、春の住む世界ではまずお目にかかれなかっただろう。
「どうしました?」
立ち止まったままの春に気付いた女性が振り向き、春に呼びかける。
「え?あ。はい。すみません」
慌てて後について歩く春に、女性が再び声を掛ける。
「ハルさん、こういった場所は初めてでしたか?」
「ええ……」
「人になれている様に思えたんですが、意外ですね」
女性は目を細めて笑いながら春に言う。
「ああ、いえ……こんな奇麗な建物なのに、歩いている人たちの格好とのギャップがあって面白いなって」
「ふふふ。ハルさん、ギルドってどんな所だと思っていました?」
「えーっと……言ってはあれなんですけど、もう少し薄汚れた場所かと」
「確かに、支部によっては酒場に併設された騒がしい所もありますが、ここは市政の集まる場所でもあるんです」
「だからこそ外観には気を使う、と」
「そういう事です」
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいね」
カウンター前まで春を連れてきた女性がそういって、近くの扉からカウンターの奥へと消えてゆく。
それからややあって、女性が用紙と、先ほどの記録水晶とはまた違った石を手に戻ってきて、春の正面に座る。
「おまたせしました。改めまして、担当官のカディア・ルールレットと申します。気軽にカディアとお呼びください」
カディアと名乗った女性に、春は改めて小さく頭を下げて答える。
「はい。宜しくお願いします。カディアさん」
「先ほどの入国審査での情報を元に登録をしますので、そうお時間は取らせませんよ」
そう言いながら紙を差し出すカディアに、春は困ったように頬をかいて、
「ああ……ええっと、文字、書けないんです。すみません」
申し訳なさそうに小さく謝る。
カディアは微笑みと共に春の謝罪を流して、何事もなかったかのように紙を手元に戻して自身でペンを持った。
「そういえば、魔獣使い条例の時もお読みではなかったですね。職業は剣士でよろしいですか?」
ちらりと顔を上げて春の腰元を見るが、カディアの位置からでは春がどんな武装をしているかが見て取れない。
「ええっと、僕、剣使ったことないです」
「あー……お持ちのようではないですが、弓や杖をお使いですか?」
無論、春は武器など使うどころか、持ったことすらない。
辛うじて体育の授業で竹刀を振るったことがある程度だろうか。
しかしそんなもの、実戦以前の問題だ。
「さすがに魔獣使いとは言え、本人に多少の心得がないと登録は難しいのですが……」
春の表情から、武器が扱えない事を察したカディアがさすがに表情を曇らせる。
当面の目標は冒険者になる事だ。
フェミュルシアを旅すると言うことは、それなりに資金が要る。
冒険者は春にとって、都合よくお金が調達できる自由の利く職業なのだった。
だからこそ、ここで下がるわけには行かない。
「いえ、魔術を少々……」
春がこの世界で扱える力といえば、魔法があるが、人前で使うならば、魔術という形で使わねばならない。
元々目立つのはよくないと考えていたが、先ほどの詩人の歌から、これからは更に気を使おうと春は決めていた。
「ま、魔術?文字も読めないのにですか?」
魔術も、どうやら使うには資質や学力が必要らしい。
文字の読み書きも出来ない春がどうして魔術を使うことが出来るのか、溢れるような疑問がカディアの口から零れた。
「ええ……まぁ」
春がそれに曖昧に答えるのみに留めると、カディアもそれ以上の追求はせずに、一つ小さく咳払いをして話を続けた。
「それでは、使用できる属性の申請をお願いします。複数使用できるのであればどの程度扱えるのかまでお願いします」
春は戸惑いながらも、とりあえず人前で使ってしまった属性を上げてゆく。
今更使ってしまった物を隠せるとは思えない。
これ以上虚偽の報告をしても後々面倒になると考えた春は、ぽつぽつと属性を知識から引き出しつつ答える。
「ええっと……よく使うのは樹と氷、基本属性の5属性は全部使えると思います」
自身で確認するように声に出す春に、カディアは明らかに狼狽した様子で再度問い直す。
「……もう一度確認しますが、実戦に足る程度の力量の属性の申請をお願いします」
カディアの知る魔術師の中で、そこまで多岐にわたる術を使いこなす者は一人しか居なかった。
しかし、その一人でさえ、単一属性を連続で詠唱するといった使い方しか見た事はない。
もしかすれば属性を複合で使用して稀少属性を発現させることも出来るのかもしれないが、二種類以上の稀少属性を得意とまで言ってのける春に、カディアは驚きを隠せなかった。
何かの聞き間違いだろうかと、自身の耳が信じられないカディアの問いに、春は首を傾げながら再度答える。
「ですから、樹と氷、5属性は全部使えます」
「稀少属性二種重複ですか……失礼ですが、こちらに魔術を発動してもらってもよろしいですか?」
どうやら聞き違いではないらしい春の言動は至極自然体で、嘘をついている風ではない。
嘘をついてどうなるという問題でもない上に、ここで嘘をつくメリットがないのだ。
しかし、どうしてもそのまま飲み込むことが出来なかったカディアは、紙面と共に持ってきた石を春に差し出した。
春が石を受け取ると、透明な水晶のような石の中に、かすかなマナが残留しているのが眼に留まった。
「これは?」
「魔光石の欠片です。これに魔術を使うと、魔術に応じて発光する色が変わります。実戦に足る程度の出力であれば強く光りますが……」
春はそれだけ聞くと、背景を透過するほど澄んだ石を手に乗せて頷く。
「一番得意な属性で判定してください」
指示されたとおり、春は樹属性の初級魔法を唱えようとして、ふと思いとどまった。
春が詠唱していたのはあくまで魔法として存在していた頃のものだ。
つまり、魔術として発動するならば詠唱がもっと複雑になっているはずなのだ。
魔法は感覚で使い、魔術は理論で使う。
感覚を研ぎ澄ませる手伝いとしての詠唱と、理論をくみ上げる為の方程式としての詠唱では、明らかに質が異なるのだった。
春は知識の中から辛うじて、古の人間が唱えていた魔術としての樹属性の呪文を引きずり出すことに成功する。
「《大地に根差す豊穣の証よ、汝を侵す愚者を喰らう貪欲なる守人となりて、実り満ちた敏捷なる御手にて掴め》」
初めて唱えるにも関わらず、春の口から流れるように紡がれた詠唱は淀みなく、格好だけの魔術詠唱ですら、様になって見えた。
魔術が発動しようとしたその時だった。
――ビキッ
「え?」
春の手の中の水晶が眩い光を発して砕け散った。
まるで、あふれ出る光が物質的な破壊力を持って水晶を内側から破砕したかのように、光は勢い良く発せられたが、石が砕け散ると同時に光源を失って四散してゆく。
呆気にとられた沈黙が流れ、なんとも言えない空気を払拭するように春が頭を下げながら謝罪する。
「あ……すみません。壊れちゃいました……あの、これって高い物でした?」
「え?ああ。いえ、安物ですよ。しかし、壊れるなんて聞いた事がありませんよ。どんな大魔術を使おうとしたんですか貴方は……」
「……あー……樹属性初級。です」
「……」
今度こそ、完全に空気が死んだ。
どうにかして取り繕おうとしていたお互いの努力が虚しく水泡に帰したのを、お互いがひしひしと感じ取っていた。
「あ、あはは」
春の喉から乾いた笑いがでたが、しかし、カディアはがたりと席を立って、
「すみません、ちょっと失礼します」
それだけを言い残して小走りで職員たちが忙しなく動き回っているカウンターの奥のほうへと消えていってしまった。
カディアは安物だと言っていたが、しかし、備品を壊してしまったことには変わりない。
弁償はいくらで済むだろうかと頭を悩ませていた春だったが、暫くして戻ってきたカディアは先ほどまでの動揺振りが嘘のように冷静な態度に戻っていた。
「お待たせしました。突然ですが、実戦試験に移って頂きます。本来でしたら紙面との齟齬がないように行うものですが、ハルさんの場合は実戦から紙面に起した方が面倒がなさそうです」
「……すみません」
カディアの気配りなのだろう。先ほどから例外的な対応ばかりさせてしまい、春はありがたい反面、申し訳ない気持ちになって、再び頭を下げる。
『ハル兄ちゃん!!!!』
頭を上げようとした瞬間に、頭が割れんばかりの音量でウルの声が鳴り響いた。
「ウル!?」
驚いて声に出してしまった春だったが、ウルの様子がいつもと違う事に気付いてしまうと、それ所ではなくなってしまった。
『大変だよ!ハル兄ちゃん!』
『た、大変って、どうしたの?』
『マイカお姉ちゃんが連れていかれちゃった!』
「どうしたんですか?ハルさん?」
ウルの言葉の意味を理解するのに精一杯で、今の春にはカディアが驚いたように尋ねている事などまるで眼に入らない。
『今何処!?』
『わかんない!さっきの、どれーいち?って言う場所のどこかなのは確かだけど……』
『なんでそんな場所に……』
『大通りを歩いてたんだけど、すぐ脇を通りかかった時に変なわっかで引っ張られて捕まっちゃったんだ』
『どうにかして逃げられない?』
『むぅー。さっきから大きくなろうとしてるんだけど、力が押さえ込まれちゃう感じでキモチ悪いー』
『今はどんな状況?』
『マイカお姉ちゃんがボクを庇って別の部屋に連れて行かれちゃった……』
春は、自分が先ほどマイカに言った言葉を思い出していた。
ウルの事、お願いします。
思いつめていた様子だったマイカの息抜きにと思って提案したことだったが、今更ながらにその軽率な言動に失望した。
『すぐ行く』
短く言って、春は踵を返す。
マイカを安全な所まで送り届ける。
シンクでもない、ウルでもない。春が決めたことだ。
「あの、ハルさん?どうかしましたか?」
表情の一変した春に慌てたカディアがカウンターから出てきて呼び止める。
しかし、事情を説明している時間は春には無い。
「ごめんなさい。急用が出来ちゃいました。また後できます」
それだけ口早に言って、白い建物内を駆ける。
「ハルさん!?」
春の背中にカディアの驚いたような声が聞えたが、春の耳にはその声はもう届いていなかった。
「むぅー!」
ウルは盛大に不満げな顔を作り、自身に首輪をつけた男を睨んでいた。
檻に閉じ込められ、首輪で力を押さえ込まれたウルだったが、何の魔術的措置もとられていない檻程度ならば、今のウルでも十分に突破可能な代物だと、ウルは思う。
しかし、それをすれば、自分と共に檻に閉じ込められてしまっているマイカはどうなってしまうだろう。
自分を庇ってくれたニンゲン。兄と慕う春が、守りたいと言っていたニンゲン。
ウルは、正直な事を言ってしまえば、春以外の人間など区別をつける必要を感じていなかった。
自分の親を殺したニンゲン。助けてくれた春。それだけが、ウルの中に在るニンゲンという存在の区別だった。
その春が、助けたいと言ったニンゲン。
マイカはただのオマケのはずだった。
しかし、そのマイカが、自分を助ける為に囚われてしまっている。
今はウルの横で力なく座り込んでしまっているマイカを横目で見て、春以外で自分の味方をしてくれたニンゲンを、ウルはどうにかして助けなければと、頭を働かせた。
きっと春はすぐに駆けつけてくれるだろう。
でも春は、助ける為に力ずくで行動をすることを嫌うはずだ。
遠慮する必要なんてまるでないのに、春は相手まで心配してしまう。
そこが、きっと春の弱点なのだと、ウルは知っていた。
だから春には同じニンゲンの敵になって欲しくない。
そうならないように、自分が春の敵になるニンゲンを倒さなければと思った。
「こんなもの。すぐに壊して出て行ってやるのに……」
倒すこと自体簡単に出来るはずだ。
でも、それをやれば春は困るだろう。
春と一緒にニンゲンの町で過ごすときは、あんまり目立ってしまうと春が怒られる。
倒さなきゃいけないのに、大好きな春も困らせたくない。
矛盾する二つの考えがぐるぐると頭を回っている内に、男がウルを閉じ込めた檻に近づいてきた。
「さっきからうるせぇ犬っころだなぁ」
「早くここから出せよ!」
「何言ってるか知らねぇけど、それ以上うるさくするなら躾けなきゃいけないよなぁ?」
男の顔が残虐に歪むのをみて、ウルは本能的に悟った。
こいつは春の敵だ。
春に会わせちゃいけない奴だと。
「運のない子だ……」
不意に部屋の暗がりから声が掛かる。
それはすぐに、ウルと同じ魔獣の声である事が分かった。
弱々しく、まるで囁く様な声の主を探すように目を凝らすと、暗がりの中に別の檻があるようで、超えはその中から聞こえてきている。
「誰?」
ウルが声を掛ける。
すると、暗がりの中で何かが蠢いたのがわかった。
闇に紛れてやつれた尻尾が動くのが見え、弱々しい光を宿した眼がウルの目が合って、すぐに影の中の魔獣が目をそらす。
「諦めて大人しくしているといい。大人しくしている分にはそこのニンゲンも苛立たないだろうから」
ウルを落ち着かせる為というより、ウルに苛立った男のとばっちりを受けたくないだけのように聞こえる。
実際、そうなのだろう。魔獣の身体は痩せ細り、長い間檻の中に閉じ込められて、心が完全に折れてしまっていた。
「そんな事言っても、ボクはここから出なきゃいけないんだ!」
「諦めるのも時には必要な事だ、若い時はなんでも出来ると思ってしまう」
「出来るよ!一緒にここを出よう?すぐに助けが来てくれるから!」
「助け……か。来るといいねぇ」
本当に来るとは思っていないのだろう。魔獣は深いため息と共に尾をぷいっと振って再び横になったようだった。
男とマイカには、ウルがただ吠えているとしか聞こえないのだろう。
苛立った男がウルとマイカを閉じ込めている檻を力任せに蹴り付ける。
「さっきからうるせぇんだよクソ犬!おら、出ろよ。躾けてやるぜ」
口元に悪趣味な笑みを浮かべて男が檻の錠を開けてウルを蹴り出そうとする。
しかし、ウルに蹴りが当たるより先にマイカがウルを庇うように覆いかぶさり、ウルを狙った男の蹴りがマイカのわき腹に刺さった。
「や、やめて……ください」
痛みに呻きながらも、必死に訴えるマイカに、男は不快感をあらわにした様子で舌打ちする。
「ああ?誰に向かって口利いてんだよ。たかが奴隷の分際でよぉ?」
「お、お願いします……この子には飼い主が……いるんです」
「飼い主だぁ?その飼い主様はここまで来れるのかよ」
「そ、れは……」
「来るよ。ハル兄ちゃんは必ず来る」
口ごもったマイカの腕の中で、ウルが小さく言う。
「ウル……くん?」
自分を庇うマイカを見て、ウルはある決意を抱いていた。
春は自分にボクに居場所をくれた。
生きる為の力をくれた。
また別のニンゲンが、ボクを守ってくれている。
今度こそは、ボクが守る番だ。
男がこれ以上マイカを傷つけようとするならば、春には悪いが、一噛みしてやろうかと思っていた。
「マイカ姉ちゃん、信じて。ハル兄ちゃんが来るまでは、ボクがきっと守ってあげるから」
ウルは、自分の言葉がマイカに伝わるとは思っていなかったが、しかしマイカはまるでウルの言葉が分かるかのように薄く笑って、
「ありがとう」
と、弱々しくウルを抱きしめた。
「キャンキャンキャンキャンうるせぇんだよ!!」
マイカとウルを同時に蹴り付けるように、先ほどよりも力を込めた足を振りかぶった瞬間だった。
「ぎゃあぎゃあ五月蝿い。貴方の声の方が耳障りだよ」
檻とは反対方向、ウルからは暗く、そこに扉が在ったことに、青年が入ってきた事で始めて気がついた。
育ちのよさそうなやや幼さの残る整った顔立ちだが、落ち着いた雰囲気の所為か、見方によっては20代にも見え、実年齢の掴みづらい青年だった。
走ってきた為だろう、茶色の髪が僅かに逆巻いて、色素の薄い滑らかな肌には汗が滲み、頬が微かに紅潮していた。
柔らかな顔立ちが今は怒りで眉根が寄っていて、見下すような静かな、それでいて底から溢れるような怒りに満ちた目で男を見据えている。
飛びかかろうと身構えていたウルはそのまま動く事を忘れて固まり、男もまた、突然の闖入者に止められて振りかぶった足を地に着けて値踏みするように青年を、春を見る。
「何だ?てめぇは……」
かろうじて言葉を紡いだ男に対し、春は静かに目を向ける。
暗がりから、ほんのりと光るような春の黄色い瞳が威圧感を放ち、男は体の芯の部分に一筋の寒気が走り抜けるのを感じた。
春への得体の知れない不信感と、春の瞳に宿った怒りの熱が、男を半歩たじろがせた。
「そこのウルフの保護者だよ。この世界の拉致監禁は……私刑で死罪にしてもいいのかな?」
春の口から零れた音は低く重い。普段の春とは程遠い、何かがとり憑いた様な虚ろな、ほんの少しでも男と接するのが億劫とでも言うような言い方だった。
「なん――」
普段の柔らかな口調など欠片も感じさせない、誠意など欠片もない春の言葉に、男は気色ばんで春に食って掛かろうとする。
しかし、檻の中にいたウル達と目が合った瞬間、春は男の事など既に視界に入っていないかのように、普段どおりの暖かな調子で、ウルに語りかける。
「ウル、おまたせ」
春の柔らかな口調を聞いて、ウルは漸く、春が自分達を助けに来たのだと今更ながらに自覚して、先ほどまでの春の威圧感に感じていた感情を振り払って声を上げる。
「ハル兄ちゃん!早かったね!」
ハルの腕の中に飛び込みながらウルが言うと、春は僅かに困ったように額の汗を拭いながら
「まぁね。全力疾走だったけど」
などと、いつも通りの微笑みを見せる。
そのまま和気藹々と話し込みそうな空気を破るように、男が檻を強くけりつけた。
取り残されたままだったマイカがビクッと震え、その様子を見た瞬間、再び春の瞳から光が消え、金色の瞳が男を無感動に見据える。
「無視してんじゃねぇよ。それに勝手に商品に触ってもらっちゃ困るぜ」
何のつもりか、手を出す男に、春は手に目を向ける事無く言葉を返す。
「家族を攫った相手に気を使う必要があるか?さて、マイカさんも返してもらいましょう」
「まさか本当に飼い主が来るとはな。だが、さすがに人間の奴隷まで手放す気はねぇぜ」
漸く、春がマイカの言っていたウルフの飼い主である事に遅ればせながら気づいた男は檻からマイカを引きずり出して示す。
「ハルさん……」
マイカの瞳に浮かぶのは恐怖。しかし、その奥にどこか諦観めいたモノが雑じっていた。
男から目を離し、マイカに目を向けた春は、柔らかく茶色い瞳で微笑みかけて、
「ああ、マイカさん。すぐに助けますから。少しだけ待っててくださいね」
安心させるように落ち着いた調子で声を掛けた。
「おおっと、力ずくでやるつもりならやめといた方がいいぜ。これでも俺たちはグレーで商売してんだ。さすがに町の中で完全にクロじゃねぇ奴をやっちまったら、ただじゃすまねぇのはわかるだろう?」
そんな春の視線からマイカを外すように無理やりひっぱってマイカを盾にするように春との間に立たせながら男が口を挟んだ。
「それになぁ。こいつは元々奴隷だったんだよ。奴隷を奴隷市で捌こうとして何が悪い」
下種な笑いを浮かべて男が言う。
不愉快な種類の表情に春は眉一つ動かさずに淡々と返す。
「証拠は?」
その言葉を聴いて、男は口の端を吊り上げた。
その瞬間、春は嫌な予想が頭の端に過ぎる。それは、すぐに現実のものとなって春の眼前にさらされてしまう。
「ここにしっかりとあるぜ?奴隷の証がなぁ!」
薄暗い部屋の中、タンリの村で貰った服を男が無理やり脱がせる様につかむと、マイカが青い顔をして必死に抵抗しようとする。
しかし、力の差は歴然だった。春が止めに入る間もなく、マイカは上半身を曝け出され、羞恥と恐怖に表情が固まってしまう。
そんなマイカの背中を見せるように男に腕を引かれ、やはり未だに不健康さが抜けない青白いマイカの肌が顕わになった。
右の肩甲骨の辺りだった。
青白い肌に黒々とした刺青のような文様が刻まれていた。
文様の上を緩やかにマナが流れているのが見える。
一目でそれが魔術的な刻印である事が春には分かり、シンクの知識の中から、それが対象を束縛する術式である事まで一瞬で至った。
男が手を離すと、マイカは身体を震わせてへたり込んでしまう。
身体を隠そうとする羞恥心よりも、春に奴隷の刻印を見られてしまった驚きと恐怖から、自身を抱くように肩を震わせる。
「い、いや。見ないで……」
搾り出すようなマイカの声に、春は思わず目を逸らそうとするが、顔をそむけかけた春の耳に、男の不快な声が入って来る。
「コイツがある限りこの女は一生奴隷だ」
さも愉快な事を話すような口ぶりで、マイカの着ていた上着を床に放り投げる男に、春は頭の中が白く染まってゆくのを知覚した。
「き、さま――」
「まぁ待てよガキ。俺らは別にこいつが金になりゃ問題ねぇんだ。さて、クソガキ、そんなにこの女を助けたきゃ、一つ方法があるだろう?」
今にも掴み掛からんと足を浮かせかけていた春を制止する様に男が手を出す。
その意図を、空白になりかけた頭がすぐに察して春は浮きかけた足を揃え、舌打ちでもせんばかりの表情で低く問う。
「……いくらだ?」
「ハ、ハルさん……?」
マイカは一瞬、春と男が何の話をしているか分からなかった。
春は何を言っているのだろう。ウルを買い戻すつもりなのだろうか。
いや、そもそもウルはすでに春の腕の中に居るのだからお金を払う必要もない。
ならば何故お金の話をしているんだろう。
「大丈夫、服は、また後で買いましょうか」
柔らかく語りかける春に、マイカは漸く自分を助けようとしてくれているのだと気づく。
「生憎と、そこまでの金額を持っているわけではないが、身内を拉致監禁したんだ、多少なり譲歩するくらいはするんだろう?」
男に視線を戻して、正面から男を見据える。
金色の瞳が仄かに光を帯び、暗がりの中で怪しく光った。
春の射抜くような視線に耐えかねたように男が芝居掛かった仕草で手を上げた。
「……へいへい。いいぜ。金貨5枚でどうだ?本当は3倍要求したい所だが、これでも譲歩してるんだ、これ以上はまけられねぇぜ」
春は手持ちの金額を思い出す。金貨5枚で人命を買えるならばたいした額ではない。
躊躇無くルアル貨幣を入れた袋を取り出す横で、マイカが思わず声を上げた。
「そ、そんな金額っ!?」
マイカは自分にそれほどの価値があるなどとは露ほどにも思っていなかった。
連れて来られたばかりの処女の奴隷ならば、顔が整っていれば確かに金貨20枚以上出してでも買いたいという物好きもいるだろう。
しかし、マイカ自身、既に処女でも……少女と呼べる歳でもなければ、特に顔が整っているとも思えなかった。
マイカの感覚としては、明らかに法外な値段だ。元々合法ではないので法外、という言葉はあながち間違っていないのだが、それとは別に、明らかに春の足元を見ていると思った。
ただでさえマイカは春がそうまでして自分の為にお金を出すなんてとんでもないと思っていた。
春を思いとどまらせよう。
私の事などもう放っておいてくれてかまわない。
奴隷が、過ぎた夢を見すぎたのだ。
だからこれは当然の帰結。だからどうか、その金貨を渡さないで。
マイカが春を止めようと再び口を開くより先に、春は男に金貨を渡してしまっていた。
「なんで……」
マイカは、それ以上の言葉を紡ぐ事ができなかった。
春がためらい無く差し出した金貨は、春がウルフ達とタンリの村を結んだ、そのお礼だったはずの大半だ。
そこにマイカは何の関係もない。春に助けられただけの、ただのオマケにすぎない。
にも関わらず、春はマイカを今もなお助けようとしている。
マイカは、春が何故ここまで自分に拘ってくれるのか、分からないでいた。
「さぁ、マイカさんを貰いましょうか」
春の声で、マイカは冷や水を浴びせられた様に現実に引き戻される。
助かるの?私。
ハルさんにずっと、奴隷だって言えないままで、ただの奴隷の分際で、盗賊に攫われて慰み者にされた可哀相な女を演じて取り入った私を……
男と春を交互に見ながら、マイカはよろよろと立ち上がる。
浮遊する意識の中で、自分が奴隷の刻印を見せ付ける為に服を脱がされていることなど完全に忘れてしまっていた。
男はぞんざいに渡された金貨を見て、それが贋物である事をまず考えた。
しかし、それはなんとも考えづらい物だった。
若くして裏稼業に精通した者も少なくは無いが、目の前の少年がソレだとは到底思えなかったからだ。
身なりのいい風体とはいえ、即金で金貨を手渡してくるとは予想していなかった男は不承不承と言った調子で舌打ちする。
「……ちっ。いいだろう。ほら、いけよ」
背中を押され、立ち上がりかけていたマイカが思い切りよろけた。
その華奢すぎる身体を春は正面から抱き留め、優しく背中に手を回す。
「あ、あの……」
抱きとめたまま、肩越しに男を見据える春に、受け止めるだけではなく、上半身を露にしたままの自分への気遣いだとマイカは気づく。
恥ずかしいやら嬉しいやら、現状が信じられないやらで、マイカは混乱してなんと言ったらいいか分からずに春の胸に顔を埋めた。
「先にコレをなんとかしてしまいましょうか」
春が男に向けていた視線をマイカの刻印に向けながら言う。
マイカはビクッと体を一瞬震わせ、恐る恐る春を見る。
春の目は穏やかで、慈しむ様な暖かさでマイカを包み込んだ。
――ふわり。
と、春の触れた指先から、マイカは右肩甲骨の、ちょうど刻印のある場所が軽くなるのを感じた。
まるで背中に羽が生えたような軽やかさに驚いて春を見る。
しかし春はただ微笑むのみで、マイカは次に男に目を向けた。
その目は驚愕に彩られ、その視線はマイカの背に向けられている。
「あ、あの……ハルさん?」
「大丈夫、マイカさんを縛っていた刻印は消えましたよ」
何でもないという調子で微笑む春に、マイカは信じられない思いで唇を震わせる。
「そんな……あれは特殊な魔術のはずだ……」
男が信じられないモノを見るように春を凝視して、自然と言葉が口をつく。
そんな男に、春はマイカに向けた笑みとは別種の無感動な、形だけの笑顔を向けて答える。
「所詮は魔術でしょう?」
そのままマイカの服を拾い上げ、マイカに持たせると、今度はウルのほうへ歩いていく。
「さて、ウルもその趣味の悪い首輪は窮屈でしょ?」
春がしゃがみ込んでウルの頭を撫でた。
その手がウルの頬を滑り、首元に付けられた無骨で飾り気のない首輪に触れる。
「うん。ハル兄ちゃん、早くとってー」
春の滑らかな手に触られ、ウルが気持ち良さそうに頬を摺り寄せて吠えた。
「ちょっと動かないでね」
そう言って、春が首輪に埋め込まれた濁った紫色をした石に指先を合わせてマナを込めた瞬間だった。
眩い光とともに、石が弾け飛んで、欠片が室内に四散する。
四散した石は微かに光を残していたが、それもやがて消えると、最後には黒ずんだ石の欠片が転がっているのみだった。
「わぁい!ハル兄ちゃんやっぱりスゴい!」
石が弾けた衝撃とともに引きちぎれたようで、床には僅かに焦げ跡の付いた首輪の残骸が落ちる。
「ハル兄ちゃん!あそこにまだ捕まってるんだ!助けてあげてよ!」
首輪の外れたウルが飛び跳ねながら示した先には、ウル達を閉じ込めていたような檻がもう一つ置かれていた。
その檻の中、先ほどまでの騒動の一部始終を見ていた魔獣が暗闇から双眸だけが煌いて、何かを乞うように春を見ていた。
『僕はこれ以上ここで何かをするわけには行かない』
春がウルに念話でそう答えると、ウルは途端に悲しげな目で春を見上げた。
「何で!?助けてあげてよ!可哀相だよ!!」
『僕は動けないけど、今のウルになら出来るよね?』
春の意図する事を直感的にではあるが理解したウルは首をかしげてしまう。
ウルは、ニンゲンの世界で勝手に暴れると春に迷惑が掛かると思っていたのに、その春が暴れても良いという。
『出来るけど……いいの?ハル兄ちゃん、めいわくじゃない?』
遠慮がちに言うウルに、春は小さく微笑んだ。
『僕達の声はお互いにしか聞こえてないからね。今ならウルが拘束が解けた勢いに任せて暴れました、って事にしちゃえば大丈夫だよ』
悪戯っぽく笑いかける春の言葉は、ウルの頭に直接語りかけている。
ただ見ただけでは春がウルの首輪を壊しただけで、特に何かを指示しているようには見えなかった。
『本当!?』
『うん。元の姿に戻って、《古龍の咆哮》で檻を壊すんだ』
飛び跳ねるウルに、春は静かに言った。
その言葉に、ウルは驚きの余りに声に出して問い返してしまった。
「え、えぇ!?中に閉じ込められてるんだよ!?」
服を着終えたマイカが春の近くに寄ってきていたが、唐突に吠えたウルに対して肩を震わせる。
一瞬足が止まったマイカに気づいた春が笑いかけて手招きすると、マイカは安心したように春の脇に寄り添うように並んだ。
『僕が障壁を張る。思いっきりやっていいよ』
『……わかった』
春に後押しされ、ウルは決意したように一歩前に出る。
「お、おい、何をする気だ?」
ウルの様子が違う事に気づいた男が春に向かって問いかける。
春は答えずに、ただ暗がりに見える、縋るような視線に目を合わせて目元を綻ばせた。
「今助けるよ!」
ウルが遠吠えの様に吠えた途端、身体が光に包まれて緩やかに大きくなってゆく。
その光景を、男は呆然とした様子で眺めていたが、光が収束して姿を現したウルの姿に、足を縫い留められたかの様に動けなくなってしまう。
暗がりの中でさえ、ウルの蒼い双眸はギラギラと輝いて、カッと開かれた口には鋭い牙が並んでいる。
口の中で膨大なマナが渦を巻いて、本来マナを目視する事のできない男にさえも、その威力が想像できてしまうほどの光が溢れた。
――ウルの咆哮に、建物全体が震えたような錯覚を覚えた。
いや、錯覚ではない。
ウルの咆哮と共に放たれた圧倒的な破壊の光。
薄暗い部屋の闇をかき消す様な輝きが部屋全体に拡散し、景色そのものを消し去ってゆく。
……閃光の嵐が過ぎ去った後。
そこには茫然自失で立ち尽くす男と、何一つ突起の残らない真四角で平らな室内。そして緩やかに目をあけて周囲の状況を確認するように首を動かす年老いた魔獣の姿があった。
咆哮の余波で罅の入っていた首輪の石が、魔獣が首を振った拍子に硬い澄んだ音を立てて砕け散る。
静寂の中、首輪の落ちる硬質な音と、石が飛び散って消えてゆく音だけが、部屋の中に小さな音の残滓を残す。
「あはは。ウルはとても機嫌が悪いみたいです」
再び訪れた静寂を引き裂いて、春の笑い声だけが、音の消えた世界に現実を呼び戻す様に響いた。
男はハッと我に返り、恐怖のあまりに後退りしようとするが、自分の足で絡まって盛大に尻餅をついてしまう。
その上に、何かの影が男を飲み込んだ。
「よくも、長い事捕らえてくれたものだ」
そこには檻と言う囲い、そして、首輪という枷から解き放たれた魔獣が居た。
痩せ細ってはいるが、その体は大型の魔獣に相応しく、ライオンのような顔が、生気を取り戻して怒りに震え、尾が逆立って無数の針のように硬質化してゆく。
「ひ、ひいっ!?」
今度こそ男は悲鳴をあげ、先ほどまでの粗野な態度など見る影もない程に狼狽した。
「ストップ」
男を切り裂く為に振りかぶられた尻尾を、春の一声が止める。
「何故止めるニンゲン」
低く唸って春を見る魔獣の前に、ウルが立ち塞がって睨み返す。
「ボクはハル兄ちゃんに言われてキミを助けた。ハル兄ちゃんのいう事は聞いてもらうよ」
ウルの言葉に、僅かに逡巡した魔獣は小さく息を吐いて体の力を抜く。
「……恩には酬いねばならんな」
「ありがとう。それじゃあ、奴隷商さん」
魔獣に柔らかな笑みを向け、そのまま男に向かって無機質な声を向ける。
「は、はい!?」
完全に心を折られた男は頓狂な声を上げて反応した。
目を見開きすぎて、春の姿が男の瞳いっぱいに映し出される。
すらりと伸びた、華奢にも見える様な指の一つ、その先にすら男は自分の命が握られている様な錯覚を覚えた。
「もう二度と僕らの前にその面を晒す事がないように。次に見かけた時は、貴方にも刻印を刻んで放り出してあげましょう」
静かに告げる春の髪は深紅に染まり、静かに男を見据える双眸は金色の威圧を放っていた。
男の脳が本能的な警鐘を打ち鳴らす。
圧倒的過ぎる強者を前に、弱者は動く事すら許されない。
生まれて初めて、男は本当の恐怖を悟った。
完全に言葉をなくしてしまった男から視線を外した春が、マイカに振り向いて手を差し出す。
「さぁ、行こう。キミも」
おずおずと手を取ったマイカに笑いかけた後、顔のみを魔獣に向け、春は声を掛ける。
「その力……そう、か。貴方はニンゲンではないのか」
春の力は龍のそれに良く似ている。
魔獣は男に興味をなくして春の方へ静かに歩み寄り、春の前で頭を垂れた。
「彼はニンゲンだ。我の契約者でもあるがな」
悪戯っぽく笑う春とは別の声、今度こそ本当に驚いたという風に魔獣は目を見開いて、声の主を探す。
春の瞳の奥、金の輝きの向こうに、うっすらとではあるが、確かなシンクの威光を見つけた魔獣が深く低頭する。
「古の龍王……道理で強すぎる力を持っている。何なりと、わが主よ」
今更ながらに畏まった魔獣に、春は表情を引き締めた。
「僕らは貴方を拘束する気はない。好きに生きるといい。もし、行く所がないなら彼の下を目指しなさい」
緩やかに目を細める春の瞳の奥、シンクの光が柔らかく揺れて、シンクも同意するように頷いているようだった。
「私を、神域に招待していただけるのか……」
春とシンクの提案に、魔獣は感極まった様に声を震わせて顔を上げた。
魔獣に対して、春は頭に手を乗せながら柔らかな声音で、まるで大人が子供を諭すような調子で語りかける。
「……貴方は辛い時を過ごしすぎた。でも、出来る事なら、人間を恨まないで上げて欲しい」
春とマイカを交互に見比べ、魔獣は無言で再度春に目を向ける。
「ここにいるマイカさんの様に、君たちの味方になってくれる人だって、いるのだから」
「え、私は……」
突然水を向けられたマイカは戸惑うようにしつつも、それが悪い評価ではない事に、赤面しつつ俯く。
ウルが歩み寄ってマイカを見上げる。
今は大きくなっている為、ウルの顔はマイカの胸の辺りにまできていた。
「マイカ姉ちゃん、ありがとうね!」
元気良く笑いかけるウルだったが、残念なことにマイカには何を言っているのか分からなかった。
「あ、あの……」
マイカが困ったように春を見る。
その当人である春は既に意識を外に向けていたようで、優しくマイカの手を引く。
「さて。出ましょうか。ここは空気がよくない」
「外ー!」
ウルはそれほど長い間捕らえられていたわけでもないにも拘らず、まるで長年日光を浴びていなかったかのようにはしゃいで飛び跳ねた。
「ああ。その前に、ウルは小さくなってからね」
釘を刺すような春の言葉に、ウルは小さく舌を出して笑った。
後には、呆然とへたり込む男と、凹凸がすべて抉られたように更地と化した、巨大な箱の様な建物だけが残されていた。
闇市を抜けた春達が大通りに戻る頃には、既に高く上っていた日は傾き始めていた。
空が斜陽に輝き、町並みがより一層赤みを増す。
巨大な城砦の近くには濃い影が落ち、そこだけがすでに夜のような様相を呈しているのが春達の目には新鮮に映った。
「あの……」
魔獣を外に連れ出した帰り、再びギルド本部へ向かう道を歩く春のやや後ろ。
各々が帰路へつく雑踏の中で、奴隷商の店を出てからずっと無言だったマイカが遠慮がちに呼びかけた。
「……?なんですか?」
柔らかな表情を浮かべて振り返る春の茶髪が、夕日を受けてキラキラと光る。
それは奇しくも赤みを帯びて、マイカは一瞬春の髪が深紅に染まっているように見えた。
「あ……の、ご主人様」
改まった様子でそう言ったマイカに、春は一瞬きょとんとした顔をしてしまう。
「え?」
問い返す春に、マイカは僅かに紅潮し、緊張した面持ちで見つめる。
「ご主人様は、私を……買ってくださいました。だから……」
「マイカさん」
マイカの言葉を遮った春に、マイカは思わず姿勢を正す。
何かを命令されるのだろうか。
例えそれが身体を要求されても、私自身がハルさんに、主である事を求めたのだ、嫌と言えるはずがない。
覚悟の上での事ではあったが、頭の片隅にはもう二度と戻りたくもない過去がフラッシュバックする。
「僕は貴女を拘束する気はありません。もう、刻印もありません。貴女は自由なんです。無理に僕に付き合う必要はありませんよ」
春の声が、一瞬マイカの胸に鳴り響いて、駆け抜けた。
何を言っているのか分からない。
マイカは春に買われたのだ。ならば、春の命令は遵守せねばならない。
その春が、自由だと言った事が信じられなかった。
確かに刻印は消えたが、マイカという人間は間違いなく春に助けられているのに。
何一つ恩返しする事もできず、まだ何も、春のことも知らないのに。
そんな風に中途半端に放り出されるとは思っていなかったマイカは目に見えて狼狽してしまう。
「……い、あ、あの……私は――」
しどろもどろになりながらも言葉を紡ごうとするマイカに、春はなおも、諭すような優しい調子で言う。
「待ってる人が居るんでしょう?早く帰ってあげないと。それじゃあ……またの機会があれば」
何時取り出したのだろう、数枚の銀貨をマイカの手に乗せ、そのまま立ち去ろうとする春に、マイカは思わず駆け出して後ろから腕に縋りつく。
「待ってください!」
春の腕を掴んでから、マイカはハッと我に帰る。
何を言うつもりだ自分は。
命の恩人に、この、目の離せない少年に。
親などとうに居ない事?親類にも捨てられた挙句が奴隷生活だった事?
そんな事を言ったら、この少年は同情するだろうか?
きっと同情してくれるだろう。盗賊に囚われていたというだけで助け、ここまで連れて来てくれたのだ。
だからだろうか。恩以上に、この人から離れたくないと思う自分が居る。
奴隷の癖に何を夢見た事をと、冷静に自嘲する私が透けて見える。
しかしそんな事、彼と出会ってからが、ずっと夢のようなのだ。
まだ少し。もう少しだけ、夢の続きを見てもいいじゃないか。
そこまで考えて、マイカは漸く自分の中の感情が何であるかを察した。
「何です?」
予想していなかったマイカの行動に内心驚きつつ、春が問い返す。
ウルは春の頭の上で成り行きを見る事しかできず、春とマイカの様子を窺うように押し黙る。
「私、私……ご主人様に縋るしかないんです」
道行く人の波の中。
春の耳にかろうじて届くようなか細い声で言う。
「何を――」
言っているんだ。そう口を動かそうとした春が音を発するより先に、マイカの唇が春の口をふさぐ。
すでに当たりは仄かに暗くなっているとはいえ、大通りで突然接吻された春は呼吸も忘れて目を見開いた。
突然の出来事に驚いた春の身体が揺れて、ウルは思わず春の頭から飛び降りて事の次第を窺う様に二人を見上げる。
春の視界いっぱいにマイカの顔が映る。
長い睫毛と、揺れる様な藍色の瞳。夕闇の暗さも手伝って、春には藍色が一層黒々と見えた。
僅かな間を置いて、唇が離れる。
再び正面から春を見るマイカは恥らうように頬が紅潮し、唇が潤み、先ほどまで春の唇と重なっていたのだと嫌でも理解させられる。
しかし、緊張と不安が強く映ったマイカの目から、春は視線を離せない。
「親は居ません。親類も、生活苦を理由に幼い頃に私を奴隷商に売りました。もう、私にはご主人様しか居ないんです」
湿った唇が、息が掛かるほどの距離で呟く様に告白する。
「マイカ……さん」
「見捨てないでください。私を、安全な場所まで、送ってくれるって、言ったじゃないですか」
春の肩に手を置いて、体を寄せる。
視界の下に感じる感触に、春は半歩引きかけ、止める。
「それは……」
マイカを拒絶するような、そんな態度を取る訳には行かなかった。
約束。マイカの口から発せられた春の台詞は、別の角度を持って春に突き刺さる。
シンクの目的とは何のかかわりもない、春自身の言葉だ。
それは、春自身が取るべき責任でもある事を意味していた。
「私にとっての安全な場所は、ご主人様、貴方の傍だけなんです」
不安よりも、怯えよりも、マイカが伝えたいものが、春は自分の胸に染み込んでくるのを感じた。
「……マイカさん」
マイカの腕をやや強引とも取れるような強さで引っ張り、春は大通りをそれて歩き出す。
「え?あっ――」
マイカは戸惑いながらも春に引かれるままに歩き、人気のない路地にたどり着いた。
まだ壁の外は日が地平線に掛かる前のはずだが、城砦国の中はすでに夜の様に暗い。
路地裏ともなれば、よほど注意深く見ない限り、そこに誰かがいるなどと誰も思わないだろう。
暗闇の中、立ち止まった春が振り向くと、マイカは戸惑った様子ではあるが、春を信じているのだろう、その目には既に揺らぎ無い。
澄んだ藍色の瞳が真っ直ぐに春を見つめ返していた。
春が静かに目を閉じる。
徐々に春の体が淡く発光を始め、茶色の柔らかな髪が、夕日の赤より尚赤い、深紅に染まってゆく。
そして、深く息を吐きながら開かれた瞳は、暗闇でも鮮明に分かる程の眩い金の色彩へと変貌していた。
「僕は貴方に言っていない事がいっぱいある。それでも、僕について来てくれますか?」
闇の中で妖しく揺らめく春の瞳に、マイカは吸い込まれそうな錯覚を覚える。
深い、底の見えない春の秘密。
きっと尋ねても答えてはくれないのだろう。
そこまで分かっていたとしても、マイカの答えは変わらない。
僅かに頭を振って、マイカは柔らかく微笑んだ。
「……隠し事は、お互い様じゃないですか。私の秘密はもう言ってしまいましたけど、ご主人様も、いつかは打ち明けてくれるって、信じてます」
信じる事。それが自分にできる、春を支える為の形なのだとマイカは思う。
「――ハル」
春は一つ指を立てて、悪戯っぽく口元に当てて自分の名を言う。
「え?」
きょとんとするマイカに、春は穏やかに語りかける。
「ハルと、呼んでください。もう貴女は奴隷ではないのだから、僕と対等に接して欲しいんです」
その声はとても優しくて、髪が、目が、人とは違っていても、それでも春は春なのだと実感できた。
「でも……そんな事」
春を支えたいと、近くにいたいと願ったマイカではあったが、長年の奴隷生活の名残からか、対等な口を利く事に身体が抵抗を示す。
見かねた春が大げさに首を振り、やれやれと肩をすくめて笑ってみせる。
「じゃあ、矛盾するようだけど、“命令”だ。いいね?」
「あ……はい」
命令という言葉に素直になってしまうあたり、マイカは自分の中に染み付いた奴隷根性を恨めしいと思ってしまう。
しかし、そのお陰で一歩を踏み出せたのだと思うと嬉しくもあり、不思議な気分だった。
「僕もマイカの事を呼び捨てにするけど、いいかな?」
悪戯っぽく笑いかける春に、マイカは自然と笑って頷く。
「それじゃあ、マイカ。もう一度ギルド本部に行こうか。結局、話の途中で慌てて出てきちゃったし」
「あ、わ、私の所為で……ごめんなさい」
頭を下げるマイカに、春は首を振って手を差し出す。
「気にしなくていいよ。僕も、ウルが一緒なら大丈夫だろうって高を括っていたからね」
差し出された手を取ったマイカには、既に躊躇いは無かった。
大事な話が終わったのを感じ取ったウルが、春に再び頭に乗せるように催促するのを見て、春とマイカは二人して苦笑した。
路地を抜けて再び大通りを歩き出す頃には、空はすっかりと暗くなっていた。
頭上には流れの速い気流に乗って、千切れた雲が綿の様に糸を引いて流れてゆく。
外壁の外は今も強い風が吹いているのだろうが、高い壁に阻まれた風は緩やかなものとなって春の髪を撫でる。
揺れる髪がくすぐったかったのか、頭の上にしな垂れかかるウルが小さくくしゃみをして、春に釣られて同じように空を見上げた。
空を見上げる春とウルを横目で見て、マイカはまるで春とウルが本当の兄弟のようだと思った。
キラキラと光る目が、童心のままの子供のようで、春のそんな表情に、マイカは一瞬ドキッとしてしまう。
吸い込まれそうな程に黒く澄み渡った、現代の日本ではお目にかかれないような満天の星空に、ぽっかりと浮かんだ真っ青な月の後ろから、シンクの鱗よりも赤い月が徐々に姿を見せ始めている。
蒼月と紅月、二つの月の事を、フェミュルシアでは双子月と言う。
四季によってその配置が異なり、それがそのままフェミュルシアの四季の名前で呼ばれている。
春はクレミエールが完全にアスルークスの影に隠れてしまうので、そのまま《アスルークスの節》。
夏ならば、アスルークスの影から徐々に姿を現したクレミエールが並ぶ《アクリプスの節》。
秋にはクレミエールが完全にアスルークスを隠してしまい、《クレミエールの節》となる。
冬になると今度は徐々にクレミエールの影からアスルークスが姿を現し、《クレミエリプスの節》に入る。
そして、年の終わりと始まりにかけて、両方の月が欠けて行き、完全な新月になって夜空に暗闇を作る。
これを、《エクラーシュヴァインの落日》と言う。
今は春の終わりなので、アスルークスの影に隠れていたクレミエールが徐々に姿を現し、《アスルークスの節》から《アクリプスの節》へと移り変わりつつある。
双子月が姿を現しつつある様子は、この世界での夏の始まりを意味していた。
春はシンクのお陰で知識としては知っていたが、双子月を実際に見るのは初めてだった。
そういえば、ここへ来るまでは森の中で木々や雨にみまわれた所為で空を見上げていなかったなと、春は思う。
初めて見るその光景は、日本から見える月とは全く異なる姿をしていて、やはりここは異世界なのだなと改めて幻想的な気分にさせられた。
不意に視線を感じて、春は横に立つマイカがずっとこちらを見ている事に気づき、純粋に感動して放心していた事が急に気恥ずかしく感じて、思わずはにかみながら照れ隠しのように視線を前に向ける。
暖色を基調とした町並みは夜の帳の中で色褪せて、夕焼けのような色彩を放っていた。
二つの月に照らされた街路は仄かに明るく、家々からもれ出る光も相まって、日本の都会とはまるで違った夜の風情があった。
夜も営業しているのだろう、酒場や宿屋の様なお店がいくつもの明かりを大通りに分け与えていた。
そうした、煌々と明かりを放つ建物を横目に通り過ぎつつ、時折聞こえてくる昼とは違う喧騒が耳を打つ。
道を行き交う人々も、昼とはまた違った空気を纏っている。
使い古した風の外套を羽織った男達が酒場や宿屋へ這入ってゆく。
男女比は明らかに男が勝っているが、しかし、女性が全くいないというわけでもない。
ただしどの女性にも大抵男性が付き添っており、人目をはばからずに腕を引いて路地裏へと消えてゆく様に、春はマイカをちらりと見る。
周囲からそういう目で見られているかもしれないのが申し訳ない気持ちだったが、マイカはまるで気にしていないようだった。
春達と同じく、ギルド本部のある中央へ向かって歩く人も少なくなく、この分ならばまだ閉まっては居まいと春は歩調をやや緩めながらちらりと頭の上のウルに視線を向ける。
先ほどから一言も声を発さないウルだったが、しかし寝ているわけではなく、ただ、夜であるにも関わらず、ここまで活気のある人間の町というものに完全に意識が向かってしまっているだけのようだった。
「珍しい?」
春がそう声を掛けると、ウルは尻尾をぱたぱたと振りながら大きく頷いた。
「凄いよね!ニンゲンって寝ないの?」
「寝るよ。ただ、仕事とか、用事とかで、寝る時間が疎らになりがちなだけでね」
そんな会話をしていると、マイカが不思議そうに春とウルを見比べながら口を開く。
「ハルさ……ハルは、すごいですね」
「うん?」
首をかしげる春に、マイカはぽつりぽつりと呟くように答えた。
「一人で何でも出来てしまって、私なんて、ハルと出会って間もないのに、ずっと助けてもらいっぱなしで……」
突然、幻のように現れた、燃える様な赤い髪と、黄金の様な澄んだ瞳。
どこか人間離れした空気の少年は、マイカを盗賊から、そして、運命だと半ば諦めていた、奴隷と言う鎖から解き放ってくれた。
それはまるで夢のようで、マイカは未だに、春という少年が、自身が望んで生み出した幻影なのではないかとすら思う。
魔物と対話し、盗賊を退け、圧倒的な力を持つ春。人間ではないのではないかとすら考えてしまう程に、マイカの目から見た春は万能だった。
「僕だって、ただの人間だよ。できる事なんて限られてるし、僕に出来ないことだって、いっぱいある」
春は謙遜するでもなく、ただそうであるように、当たり前のことを言う風に苦笑する。
「……じゃあ、例えば?」
この少年が不可能とする事など、あるのだろうか。
マイカが俄かに信じられない思いで尋ねると、春は小さく、困った顔をして答える。
「文字が読めない」
「はい?」
思わず尋ね返してしまったマイカを誰が責められるだろうか。
あれほどの魔術を難なく操る春が、文字の読み書きが出来ないなどと。マイカは本気で意味が分からなかった。
普通、常識として、魔術に精通するためには高名な師の下で何年も修行を積み、知識を蓄え、研鑽を積まなければならない。
それはマイカほどの、奴隷と言う、人間社会における末端ですら知っている常識だ。
にも関わらず、春はその過程で必須とも言うべき、読文も出来なければ、筆記も出来ないと言う。
ならばどうやって春はあれほどの力を行使するに到ったというのか。
「だから、文字が読めないんだ。僕」
惚けた様に言葉を失う。文字通り絶句しているマイカに、春は照れるような、困ったような調子で再度言った。
「え……冗談ですよね?」
漸く紡ぎだされたマイカの声は驚きと戸惑いに掠れていた。
それをどう受け取ったのか、春は普段どおりの柔らかい口調で、クイズでも出すように笑いかける。
「本当だよ。今までだって、一度でも僕が文字を読んでいるところを見た?」
「あ。言われてみれば……入国手続きのときも、読んで貰ってましたね」
そう、春は、マイカの前で一度も文字を読んでいないのだ。
「それでなんだけど。よかったら僕に文字の読み書き、教えてくれない?」
納得したように目を瞬かせるマイカに、春が言う。
「私が、ですか?」
マイカは一瞬時間が止まったような錯覚に陥った。そして、その感覚が徐々に抜けると共に、今度こそ完全に狼狽してしまった。
なぜなら、マイカが春に施しを受け、助けられる状況ならば容易に想像できるが、その逆というのは、全く想像になかったからだ。
「うん。是非ともお願いできないかな」
再度提案された春の要求に、マイカは自分の聞き違いではない事を確認して、思考が少しずつ澄んでいくのを感じた。
そして、心の奥から沸きあがってくる感情に気づく。
春が、自分を必要としてくれている。
その事実が嬉しくて、気づけばマイカは春をしっかりと見据えて首を縦に振っていた。
……というわけで、あと1回、もしくは2回ほど、春の話が続きます。
そうすれば今度こそ本当に春の章・第二章が終わり、里桜の章・第二章が始まります。
長い目でお付き合い頂けたら幸いです。