「跡継ぎのためだ」と父が言うので、跡継ぎ本人に聞いてきました。弟は「言ってない」そうです
「ブランシャール侯爵からの縁談は、また断っておいた。バスチアンが、姉上を手放したくないと言うのでな。跡継ぎのためだ」
父はそう言って、焼き立てのパンに蜂蜜を塗った。
朝食の席で父がこの言い方をするのは、珍しいことではない。跡継ぎのためだ。この十五年、ラフォン伯爵家では、その一言で決まらなかったことのほうが少ない。
私は紅茶のカップを受け皿に戻した。
(縁談。しかも、「また」?)
一度目も、初耳だった。
「お父様。縁談というのは、私にでしょうか」
「ほかに誰がいる。去年の秋と、この春だ。どちらもバスチアンが嫌がったので断った。ところが侯爵は、明日ここへ来ると言ってきた。学院が休みに入ったのなら、嫡子殿に直にお目にかかりたい、とな。しつこい男だ」
父は一通の手紙を、指先で皿の脇へ弾いた。封蝋は、北隣の領地のブランシャール侯爵家のものだった。
「お前は明日、部屋にいなさい。顔を出すと話がこじれる」
父の隣で、母が小さく頷いた。
「バスチアンは寂しがり屋ですもの。お姉様がいなくなったら、泣いてしまうわ」
私はナプキンを畳んで、皿の横に置いた。
「では、バスチアンに聞いてまいります」
「……何?」
父がパンを持ったまま顔を上げた。母は「どこへ行くの、まだお食事中よ」と言ったけれど、私はもう椅子を引いていた。
弟のバスチアンは三日前、王立学院の夏の休みで屋敷へ帰ってきた。帰ってきてからは、朝食に一度も間に合っていない。それでも父の向かいの弟の席には、毎朝、一番いい皿と、焼き立てのパンの一番大きいのが並べてある。私の皿には、昨日のパンの残りが温め直して載っている。
二階の東の端の扉を叩く。二度叩いても返事がなく、三度目でようやく、中で何かが床に落ちる音がした。
「……なに。姉上?」
扉が半分だけ開いた。蜂蜜色の短い髪が片側だけ逆立ち、寝間着の袖は手首の上で止まっている。この春から背が伸びて、弟の服はどれも袖が足りない。
「おはよう、バスチアン。一つ聞きたいことがあるの。あなた、私を手放したくないと言った?」
「……言ってない」
弟は目をこすった。
「手放すって、何を。姉上を? どこに」
「ブランシャール侯爵から、私に縁談があったそうよ。それをあなたが嫌がったから断ったと、お父様が」
「えんだん」
弟は二度まばたきをして、それから扉を全部開けた。
「姉上に縁談があったの? 僕、知らない。いつの話?」
「去年の秋と、この春ですって」
「僕、どっちも学院だよ。……ブランシャール侯爵って、北隣の?」
「そう、北隣の」
「ふうん。……ねえ、それ、僕が何か言ったことになってるの?」
「なっているわね」
「言ってないよ」
弟はもう一度そう言ってから、大きなあくびをした。
「ありがとう、それだけ聞きたかったの。もう少し寝ていていいわよ」
「寝ない。目が覚めた。……姉上、その侯爵って、どんな人?」
それは、私も知りたかった。
朝食の間に戻ると、父はまだパンを持っていた。
「言っていないそうです」
父の口ひげが、わずかに動いた。
「寝ぼけているのだ」
「起きておりました。目が覚めた、と申しておりました」
「あの子は優しいから、あなたに遠慮しているのよ」
母が、困ったように眉を下げた。
「ポーリーヌ、あなたはあの子の姉でしょう。あの子のために、家にいてあげて」
あの子のために。跡継ぎのために。
私の十六のお披露目は、弟の学院の入学の年と重なって、一年延びた。母は私が十四の春から二年、弟の家庭教師探しと入学の支度で王都に付きっきりになり、そのあいだ領地の屋敷で、十四の私が執事のレオンスから家の帳簿と鍵束を預かった。母は王都から戻っても、帳簿を引き取らなかった。預かって五年、鍵束は今も私の腰に下がっている。弟に字を教えたのも、学院の弟へ毎週手紙を書いているのも私だ。どれも、姉なら当然だと言われてきた。
当然なのかもしれない。ただ、私には一つ、決めていることがある。
誰かのためだと言われたら、その本人に聞く。
弟が五つのとき、父は跡継ぎのためだと言って、大きな葦毛の馬を買い与えた。弟は毎朝、厩の前で泣いた。父は「跡継ぎが馬を怖がるはずがない。嬉しくて泣いているのだ」と言い、母もそうだと言った。九つの私が厩の裏で弟に聞くと、弟は鼻をすすりながら「大きくて怖い」と言った。それで私は、自分の栗毛の小さな仔馬を弟に貸した。弟はその仔馬で馬に乗れるようになり、今では休みの日のほとんどを厩で過ごしている。
本人のことは、本人に聞けば分かる。この家では、それを確かめる人が、私のほかにいなかった。
「とにかく」
父がパンを皿に置いた。
「明日、侯爵が来ても、お前は部屋にいなさい。跡継ぎのためだ」
「はい」
私は鍵束を腰に掛け直し、残りの紅茶を飲まずに、帳簿の部屋へ向かった。今日は肉屋と酒屋の払いの日で、その前に、昨日使った蝋燭の数を合わせておかなければならない。
北隣のブランシャール侯爵とは、三年前に一度だけ、言葉を交わしたことがある。
* * *
侯爵は、翌日の午後二時に、大きな葦毛の馬で来た。
私は言われたとおり、二階の帳簿の部屋にいた。窓から見下ろすと、従者を一人連れた背の高い人が、玄関の前で馬を降りるところだった。黒に近い焦げ茶の髪に、深緑の上着。三年前の夏に見たときも、同じ色の上着だった。
あの夏、領地の境の川にある堰の水の分け方で、両方の村が揉めた。私は執事と侍女のマノンを連れて堰へ行き、両方の村の粉屋に一人ずつ話を聞いて回った。その帰りに、向こう岸から馬で来た人に名を聞かれた。それが侯爵で、言葉を交わしたのは、そのときの一度きりだ。
仕立て屋への払いの帳面を執事のレオンスに渡しに、私が階段を下りたのは、侯爵が客間に通されて少し経ってからだった。払いは今日のうちに済ませなければならないし、レオンスは一階にいる。部屋にいろとは言われたけれど、帳面を持って階段を下りるなとは言われていない。
客間の扉は、半分開いていた。
「嫡子殿が反対しておられると、二度伺いました」
落ち着いた、低い声だった。
「ですから今日は、嫡子殿ご本人に伺いに来ました。学院が休みに入られたと聞いたので」
「せっかくですが、侯爵」
父の声は、いつもより一段高かった。
「息子は、お会いしたくないと申しております」
私はレオンスに帳面を渡した。レオンスは受け取ると、何も言わずに一歩下がった。
私は客間の戸口に立った。
「お父様。では、バスチアンに聞いてまいります」
父が振り向き、母は扇を取り落としかけた。客間の真ん中で、侯爵がこちらを見た。
「ポーリーヌ。部屋にいろと言ったはずだ」
「はい。聞いたら、すぐ部屋に戻ります」
私は侯爵に膝を折って礼をし、厩へ向かった。
バスチアンは、思ったとおり厩にいた。昔の栗毛の仔馬はとうに年を取って、領地の牧場で暮らしている。今いるのは、弟が去年の秋にもらった鹿毛の若い馬だ。弟はその首を撫でながら、隣の仕切りに入れられた見慣れない葦毛を、口を開けて見上げていた。
「バスチアン。ブランシャール侯爵がいらしているの。あなたは、侯爵にお会いしたくないと言った?」
「侯爵? この葦毛の人?」
弟の目が、ぱっと開いた。
「会う! 姉上、この馬すごいよ。脚がこんなに太いのに、さっき入ってきたとき、蹄の音がぜんぜんしなかったんだ」
「では、客間へどうぞ」
弟は乗馬靴のまま走り出した。私は約束どおり部屋へ戻るつもりだったけれど、二階へ上がる階段は、客間の前を通った先にある。私が客間の前まで来たときには、弟はもう侯爵の前に立っていて、母が「靴! バスチアン、靴!」と悲鳴を上げていた。
侯爵は、母の悲鳴にも父の咳払いにも構わず、弟と目の高さを合わせるように、少しだけ身を屈めた。
「ブランシャールだ。嫡子殿に一つ伺いたい。君は、姉上を手放したくないと泣いたそうだが」
「泣いてません」
弟は即答した。
「春は学院でした。秋も学院でした。縁談のことは、昨日、姉上に聞いて初めて知りました」
「そうか」
「それに、手放すって何ですか。姉上は物じゃないです」
客間が、しんとした。
「バスチアン」
父が、低い声で言った。
「子どもは黙っていなさい。これは跡継ぎのための話だ」
「……僕が、その跡継ぎなんですけど」
弟は小さな声でそう言い返して、それきり口を閉じた。父の前では、弟はいつもこうなる。それでも今日は、一言だけ言い返した。侯爵の口の端が、ほんの少しだけ動いた。
侯爵は身を起こし、父に向き直った。
「伯爵。二度のお断りの手紙には、どちらも『嫡子が姉を手放したくないと泣いております』とありました。春のお手紙を読み返して、嫡子殿は春のあいだ学院の寄宿舎にいらしたはずだと気づきました。それで、休みを待って伺ったのです」
父の耳が赤くなった。
侯爵は、それから私を見た。
「三年前の夏、堰の揉め事のとき、ラフォン伯爵の名で届く手紙は、毎回『両方の村の者に聞いてから決めたい』と結ばれていた。伯爵がそういう方だとは聞いていなかったので、気になって堰まで行った。そこで、両方の村の粉屋に一人ずつ話を聞いて回っている令嬢を見た。手紙を書いていたのが誰なのか、そのとき分かった」
父の名で出したあの手紙の下書きは、たしかに私が書いた。あのとき名を聞かれた理由を、私は三年経って初めて知った。
「ポーリーヌ嬢。あなたに聞きたいことがある」
侯爵は私のほうへ一歩踏み出しかけて、止まった。
「だが、今日は聞かない。この部屋では、あなたは自由に答えられない」
何を、と聞き返す前に、父が立ち上がった。
「侯爵、お引き取りを。娘の縁組は、当主の私が決めることです。それに来週は、夏の届け日です。バスチアンの嫡子の届けと一緒に、家の定めを爵位院に出します」
父は、私ではなく弟のほうを見て言った。
「長女ポーリーヌは、嫡子の望みにより、嫡子が十八になるまで家に留まり、家政を預かる。その間、縁組を結ばない。そう書きます。爵位院の記録に載れば、それに背く縁組の届けは受けられません。跡継ぎのためです」
弟の顔から、血の気が引いた。
侯爵は、怒らなかった。
「では、それは来週、爵位院で嫡子殿が答えることです」
爵位院は王宮の役所の一つで、貴族の家の家督と嫡子と、家の定めの届けを預かっている。十五になった嫡子は、夏か冬の届け日に当主に伴われて院へ行き、院長の前で嫡子の誓いを立てる。同じ日に読み上げられる家の定めにも、嫡子が一つずつ答える決まりがある。ほとんどの嫡子はどの定めにも「沿います」とだけ答えるのだと、私は作法の本で読んだことがあった。
侯爵は帰り際、玄関で弟を振り返った。
「嫡子殿。君に手紙を書いてもいいか」
「僕に?」
弟は目を丸くして、私を見た。私は何も言わなかった。それは私が決めることではない。
「……いいですけど」
「ありがとう」
葦毛の馬が門を出ていくのを、弟は玄関の石段の上から、見えなくなるまで見送っていた。
* * *
それから届け日までの六日間、父は毎晩、書斎に弟を呼んだ。
「院長に問われたら、『沿います』とだけ言え。ほかのことは言わなくていい。跡継ぎのためだ」
書斎の扉は厚いけれど、父の声はよく通る。廊下の先の私の部屋まで、毎晩同じ言葉が聞こえてきた。母は母で、夕食のたびに弟の皿へ肉を取り分けながら言った。
「バスチアン、お姉様がいないと寂しいでしょう?」
弟はそのたびに、「はい」とも「いいえ」ともつかない声を出して、肉を噛んでいた。
母は、私にも言った。帳簿の部屋で、来月の小麦の払いを書き写しているときだった。
「ポーリーヌ。あなたからも、バスチアンに言ってあげて。『沿います』と答えれば済むことなのよ。あの子は、あなたの言うことなら聞くでしょう」
「お母様は、バスチアンがどう答えたいのか、聞かれましたか」
「聞かなくても分かるわ。母親ですもの」
「では、私からは何も言いません。バスチアンのことは、バスチアンに聞いてください」
母は唇を結んで、帳簿の部屋を出ていった。扉の閉まる音が、いつもより少しだけ大きかった。
届け日の四日前の夜、弟が私の部屋の扉を叩いた。寝間着の上に上着を羽織り、袖の短い腕を組んでいた。
「姉上。僕、どう答えたらいい?」
弟は戸口に立ったまま言った。
「父上は『沿います』って言えって言う。母上は寂しいだろうって言う。……姉上は、どうしてほしい?」
私は口を開きかけて、閉じた。
ここで私が答えれば、弟は私の答えを、自分の答えとして院長に言うだろう。それでは、父がしていることと変わらない。
「それは、あなたが決めることよ」
「……姉上は、いつもそれだ」
「ええ。いつもそれよ」
弟は少し笑ってから、真顔になった。
「分かった。考える」
翌日、侯爵から手紙が届いた。宛名は「ラフォン伯爵家嫡子 バスチアン殿」で、父は領地の差配と会うために出かけていたから、レオンスはそれをそのまま弟に手渡した。
弟は封を切って一枚目を読み、中からもう一通、小さな封筒を取り出した。
「侯爵から、僕に。……『姉上宛ての手紙を一通入れた。渡すかどうかは、君が決めてくれ』だって」
弟は小さな封筒を指でつまんで、ひらひらさせた。
「渡すよ。……姉上、聞くまでもないよね?」
「聞いて」
「……姉上、これ、受け取る?」
「受け取るわ」
封筒の中には、一行だけ書いてあった。
届け日には、傍聴席にいます。あなたに聞くのは、そのあとにします。 オーギュスタン・ブランシャール
私はその紙を畳んで、届け日の朝まで、ドレスのポケットに入れておいた。
* * *
夏の届け日の爵位院の広間は、石の床がひやりとするほど涼しかった。
前には院長の机が一つ、その脇に書記の机が一つ。後ろの半分は傍聴席で、長い木の椅子が十列並んでいる。届けを出す家の者のほかに、誰でも座ってよい決まりだ。ここで読まれたことは、その夜のうちに王都の社交界に広まるのだと、マノンが教えてくれた。今日の届けは三家で、傍聴席は半分ほど埋まっていた。
侯爵は、傍聴席の三列目の端に座っていた。目が合うと小さく頷いただけで、何も言わなかった。
院長のオーベール卿は、白い髪と白い眉の、細い老人だった。黒い院長の長衣を着て、書類を読むときだけ、鼻の先に眼鏡を載せる。
最初に子爵家、次に男爵家の嫡子が呼ばれた。どちらも十五の少年で、院長の前で嫡子の誓いを立て、それから読み上げられる家の定めに、一つずつ答えていった。
「この定めは、そなたの望みに沿うか」
「沿います」
子爵家の嫡子は四度、男爵家の嫡子は三度、同じ言葉を繰り返した。二人とも一度ずつ、読み上げが終わる前に「沿います」と言いかけて、院長に目で待たされていた。
「ラフォン伯爵家」
父と母と、弟と私が、院長の机の前に並んだ。定めに名の出る家族は、読み上げに立ち会う決まりがある。
弟が嫡子の誓いを立てた。家を継ぎ、王に仕える。声は少し震えていたけれど、最後まで言えた。
院長が、眼鏡を鼻に載せた。
「家の定め。一つ。当主ロドルフ亡き後、妻シモーヌに、寡婦の扶持として、領地の収入の十分の一を与える。……嫡子バスチアン。この定めは、そなたの望みに沿うか」
「沿います」
「二つ。長女ポーリーヌの持参金を、金貨三百枚とする。この定めは、そなたの望みに沿うか」
「沿います」
院長が、三枚目の紙をめくった。
「三つ。長女ポーリーヌは、嫡子バスチアンの望みにより、嫡子が十八になるまで家に留まり、家政を預かり、その間、縁組を結ばない」
傍聴席が、ざわりと揺れた。
「三年も?」
「十九のお嬢さんを、二十二まで家に置くの」
「嫡子の望みにより、ですって。あの坊やの?」
院長は、ざわめきが静まるのを待ってから、弟を見た。
「嫡子バスチアン。この定めは、そなたの望みに沿うか」
弟が、私を見た。
私は何も言わず、小さく一つ頷いただけだった。あなたが答えて、という意味で。弟には、それで通じたと思う。
弟は院長に向き直った。
「沿いません」
傍聴席のざわめきが、今度は大きくなった。
「院長」
父が一歩前に出た。
「息子は緊張しておりまして。家では、姉を手放したくないと泣いて——」
「泣いてません」
弟の声は、父の声より大きかった。
「春は学院にいました。秋も学院にいました。縁談があったことも、この定めのことも、僕は誰にも聞かれていません」
弟は一度息を吸ってから、続けた。
「父上は、僕のためだと言って、僕に聞いたことが一度もありません。聞いてくれたのは、姉上だけです」
広間が静まり返った。
院長は眼鏡を外し、指で鼻の付け根を押さえた。
「この院が、父親ではなく嫡子に問うのはな」
誰に言うともなく、院長は言った。
「父親に問えば、父親の答えしか返らぬからだ。百年ほど前、幼い嫡子の名で借財の定めを残した伯爵がおった。その家は三代、借財を払い続けた。それ以来、この院は嫡子に問う」
それから、父を見た。
「ラフォン伯爵。『嫡子の望みにより』と書いたのは、そなたか」
「……跡継ぎのためを思えば、同じことでございます」
「同じではない」
院長の声は、少しも高くならなかった。
「嫡子の望みとは、嫡子の口から出たものだけを言う。そなたは、そなたの望みを嫡子の望みと書いた。この院に出す書類の偽りだ。……なぜ、そう書いた」
父の口ひげが震えた。母が父の袖を引いた。父はそれを振り払うようにして言った。
「ポーリーヌがいなくなったら、誰が家のことをするのです。帳簿も使用人も、領地の手紙の下書きも、全部あれが——」
「あなた!」
母の声が広間に響いて、父は口を閉じた。けれど、言ったことは戻らない。
「跡継ぎのため、ではなかったのか」
傍聴席の誰かが、はっきりとそう言った。笑いをこらえる音が、あちこちで続いた。
「帳簿も使用人も、ですって」
「伯爵夫人は、何をしていらしたの」
母は扇を開いて顔を隠したけれど、扇の縁が細かく震えていた。
院長は、もう一度弟を見た。
「嫡子。では、そなたの望みは何か」
弟は少しだけ考えてから、答えた。
「姉上のことは、姉上に聞いてください」
傍聴席の前の列で、年配の夫人が「まあ」と小さく言った。
「いい跡継ぎだこと。お父上には、もったいないくらい」
院長の白い眉が、わずかに上がった。院長は、私のほうへ顔を向けた。
「長女ポーリーヌ。三つ目の定めは、そなたの望みに沿うか」
「沿いません」
自分の声が、思っていたよりはっきりと、石の広間に響いた。
院長は頷いて、書記のほうを向いた。
「三つ目の定めは、記録せぬ。一つ目と二つ目は、記録する。ラフォン伯爵は、書類の偽りにより、過料、金貨五十枚。また、嫡子が十八になるまで、家の定めに嫡子の望みを書くときは、嫡子をこの院に伴い、本人の口で問うこと」
書記のペンが、紙の上を走った。
そのとき、傍聴席の三列目で、侯爵が立ち上がった。
「院長。一言、よろしいでしょうか」
「名を」
「ブランシャール侯爵、オーギュスタン。ラフォン伯爵に、昨年の秋とこの春、ポーリーヌ嬢への縁談を申し込み、二度とも、嫡子殿が姉を手放したくないと泣いているとのお返事をいただいた者です」
傍聴席が、またざわめいた。今度のざわめきには、はっきりと笑いが混じっていた。
「二度も」
「泣いてないって、さっき坊やが」
「春は学院だそうよ」
父の顔が、赤から白に変わった。
「侯爵、今さら何を……。そもそも、当主の私が同意しなければ、娘の縁組は」
「成人した娘御の縁組に、当主の同意は習わしにすぎぬ」
院長が、手元の眼鏡を机に置いて言った。
「習わしを守りたければ、今ここで守るがよい。皆が見ておる」
父は傍聴席を振り返った。どの顔も、父を見ていた。
長い間があった。
「……同意、いたします」
父の声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
侯爵は傍聴席の通路を下りてきて、私の前で足を止めた。
「ポーリーヌ嬢。客間で、今日は聞かないと言った」
「はい」
「伯爵の同意は、今、皆の前でいただいた。あなたを縛る定めも、もうない。今日なら、あなたは自由に答えられる。だから、当主にではなく、あなたに聞く」
侯爵は、私の目を見て言った。
「私と、結婚してくれないか」
誰かのためではなく、私のことを、私に聞いている。だから、答えるのは私だ。
「はい」
隣で弟が、ふうっと長い息を吐いた。
* * *
父はその月のうちに、金貨五十枚を爵位院に納めた。
届け日の広間で読まれたことは、その夜のうちに王都じゅうに広まった。父はそれから、「跡継ぎに聞かない伯爵」と呼ばれるようになり、その季節ラフォン家に届く夜会の招きは、半分に減ったそうだ。
持参金の金貨三百枚は、爵位院に記録された二つ目の定めのとおり、婚礼の前にブランシャール家へ届けられた。
鍵束は、私が執事のレオンスに返し、レオンスから母に渡った。母は五年ぶりに家の帳簿を開き、蝋燭の数え方から一つずつ、レオンスに聞いて覚え直しているらしい。
弟は夏の休みが終わると、学院へ戻った。最初に届いた手紙には、こう書いてあった。
姉上へ。家のことは、レオンスと領地の差配に、自分で聞きながら覚えます。父上には、何か僕のためだと思うことがあったら、先に僕に聞いてくださいと言っておきました。父上は返事をしませんでしたが、次の日の朝、僕に、朝食は何がいいかと聞きました。卵と答えました。
私は婚礼までのふた月を、王都のブランシャール家の屋敷で、オーギュスタン様のお母様のもとに預けられて過ごした。お母様は、私が何か手伝おうとするたびに「それは、あなたがしたいこと?」と聞いた。何度目かで、私は笑ってしまった。オーギュスタン様が誰に似たのか、よく分かった。
「あの子ね、三年前の夏から、ほかの縁談を一つ残らず断っていたのよ。理由を聞いても、聞きたい人がいるとしか言わなくて」
お母様は、そう言ってから、私の顔を見て付け足した。
「やっと聞けたのね」
秋の初め、ブランシャール家の領地の礼拝堂で、婚礼を挙げた。
花嫁に付き添って祭壇まで歩くのは、父の役目だと決まっている。けれど花嫁が望めば、兄弟が務めてもいい。私は弟に頼んだ。頼む前に、ちゃんと聞いた。
「バスチアン。付き添いを、あなたにお願いしたいのだけど。あなたは、どう?」
「やる」
弟は、私が聞き終わる前に答えた。
秋の学期はもう始まっていたけれど、弟は婚礼のためにと学院に願い出て、三日の暇をもらって来た。願い出の書き方は、レオンスに聞いたそうだ。
礼拝堂の通路は、思っていたより長かった。弟の肩は、夏のあいだにまた少し高くなっていた。新しく仕立てた礼服の袖だけは、今日はちゃんと手首まであった。父と母は、前の列の端に並んで座っていた。
祭壇の手前で、弟が前を向いたまま、小さな声で言った。
「姉上。聞かれてないけど、言っていい?」
「どうぞ」
「本当は、ちょっとだけ手放したくない」
私は思わず弟の横顔を見た。弟はまっすぐ前を見ていて、耳だけが赤かった。
「……でも、行ってらっしゃい」
祭壇の前で、オーギュスタン様が待っていた。弟が私の手を渡そうとすると、オーギュスタン様は、その手を受け取る前に弟に言った。
「嫡子殿に聞こう。姉上を、もらってもいいか」
弟は、少しだけ笑った。
「それは、姉上に聞いてください」
オーギュスタン様が、私を見た。
私は、自分の口で答えた。
「はい」
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