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契約妻は契約妻らしくしていろと言われましたので、婚姻契約書第十七条に従いました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/26

「君は契約妻だ」


 婚礼の翌朝、紅茶のカップを揺らしながら、私の夫君となられたエセルバート公爵閣下は、そう仰った。


 存じております。婚姻契約書の第1条に、確かにそう記されておりますもの。


「私の心は隣領のリーゼ嬢にある。だが家のため、皇室のため、君を妻として迎えた」


 ええ、存じております。


「契約妻は契約妻らしく、家を整え、子を産まず、私を煩わせるな」


 …………。


「分かったか、アグネス」


「左様でございますか」


 私はティースプーンを置き、夫君のお言葉の続きを待った。


 けれども、続きはなかった。


 それで、おしまいでございますか。


「ああ、おしまいだ。では私は出かける。リーゼに今夜の予定を伝えに行く」


「行ってらっしゃいませ」


 私は夫君のお背中に、深く頭を下げた。


 夫君が出ていかれた後、私は紅茶を飲み干し、書斎へと向かった。


 そして、嫁入り道具に紛れ込ませてきた、婚姻契約書の写本を取り出した。


 ローゼンタール伯爵家とエセルバート公爵家の、婚姻契約書。


 第1条――本婚姻は両家の利益のための契約婚であり、夫婦の心情的結合を必要としない。


 存じております。


 第7条――妻は嫁入り後3ヶ月以内に懐妊することを努力義務とする。


 存じております。


 第17条――。


 私はその頁を開き、声に出して、ゆっくりと読み上げた。


「妻が3ヶ月以内に懐妊しなかった場合、かつ、その期間中に夫が他の女性と接触したと公的に認定された場合は、両家の婚姻は即時無効となり、家門・財産・血統はすべて妻側ローゼンタール家に帰属する」


 我が家ローゼンタール伯爵家の初代当主は、皇帝陛下に3度仕えた、知略の家祖でいらっしゃった。


 血の繋がりを契約で縛る習わしを大切になさった方で、嫁入りにも、必ずこの第17条をお加えになる。


 エセルバート公爵家の歴代当主は、この条項を「古臭い形式」として、毎度ろくに読まずに署名なさるのが、お家芸でいらした。


 エセルバート公爵閣下も、本日のご署名で、その伝統を見事にご継承された。


 私はペンを取り、机に置いた手帳に、本日の日付と、夫君のお言葉を、一字一句違わずに書き留めた。


「契約妻は契約妻らしく、家を整え、子を産まず、私を煩わせるな」


 子を、産まず。


 公爵閣下、本日、ご自身のお口で、第7条の努力義務を放棄なさいましたわね。


 そして、これからリーゼ嬢のもとへ、行かれるのですね。


「侍女頭」


 私は呼び鈴を鳴らした。


「お呼びでしょうか、奥様」


「庭園の四阿に、紅茶の支度を。それから、皇都の警邏隊の方々にも、毎晩のお茶の差し入れを。本日からどうぞよろしくお願いいたしますわ」


「警邏の方々、にでございますか」


「ええ。皇都の警邏隊の方々は、貴族邸の門出入りを毎晩記録なさるのがお仕事ですもの。本日から3ヶ月の間、特に丁寧に記録していただかなくてはなりませんわ」


「……かしこまりました」


 侍女頭は深く頭を下げて、退室した。


 私は紅茶を一口、啜った。


 第17条発動の証拠を集める、長い夜が始まる。



 ◇



 3ヶ月が経った。


 私は、皇都に置かれた我がローゼンタール伯爵家の別邸の一室で、書類を整理していた。


 机の上には、3ヶ月分の警邏記録の写しが、整然と並べられている。


 帝国法により、皇都の貴族邸の門出入りは、警邏隊が必ず記録する。


 公爵閣下は、この3ヶ月の間、92夜のうち87夜、隣領のリーゼ嬢のお屋敷に通われた。


 すべて、警邏隊の記録に残っていた。


 それから、机の上にはもう1つ、別の書類があった。


 帝国宮廷お抱えの医師による、診断書。


「アグネス・フォン・エセルバート公爵夫人――懐妊の兆候、認められず」


 正式な、公的診断書。


 私はその診断書を、警邏記録と一緒に、革張りの書類入れに収めた。


 そして最後に、1通の書状を取り出した。


 ローゼンタール伯爵家・第17代当主代理。


 私の叔父――父亡き後、我が家を支えてくださっている方からの、ご署名入りの委任状。


「アグネス・フォン・ローゼンタールに、ローゼンタール家門法第17条発動の権利を委任する」


 すべて、揃った。


「奥様」


 侍女頭が入室した。


「公爵家から、本日午後3時の家門会議出席のご案内が届きました」


「内容は」


「『契約妻アグネスの今後の処遇について』とのことでございます」


 私は微笑んだ。


 ありがたいことでございますわ。公爵閣下が、ご自分から家門会議をお開きくださるなんて。


 これでは、こちらから動く必要すら、ありませんでしたわね。


「お受けいたします、と返信を。それから、馬車の支度をお願いしますわ」


「すぐに」


 侍女頭は退室した。


 私は革張りの書類入れを抱え、立ち上がった。


 公爵閣下、本日のお席で、最後にもう一度、お言葉を頂戴できますかしら。


『契約妻は契約妻らしくしていろ』と。


 それさえ仰っていただければ――。


 第17条は、自動的に、発動いたしますの。



 ◇



 公爵家の大広間は、家門会議の参列者で満ちていた。


 公爵閣下、公爵家の大叔父様、ご親族の伯爵方、家門法理事ベルナール侯爵閣下、そして皇室から派遣された証人として、宰相補佐ヴァルター卿。


 私が末席に着くと、公爵閣下は早速、口火を切られた。


「アグネス。3ヶ月だ。お前は懐妊していない」


「はい、左様でございます」


「契約妻として、お前は十分にその役目を果たしていない。よって、私は提案する。お前を契約妻のまま留め置き、私とリーゼの婚姻を新たに締結することを」


 公爵家のご親族のどなたかが、小さく咳払いをなさった。


「公爵閣下。それは、ローゼンタール家との婚姻継続中に、別の婚姻を結ぶ、ということでございますか」


「皇国法上、契約妻には実権がない。よって、私の正妻はリーゼとし、アグネスは契約妻として家を整える役目に専念させる」


「……」


「異論はないな、アグネス」


 私は微笑んだ。


 そして、革張りの書類入れを、机の上にそっと置いた。


「公爵閣下。1つ、確認させてくださいませ」


「何だ」


「閣下は、わたくしが契約妻として、契約妻らしく振る舞うことを、お望みでいらっしゃいますね?」


「当然だ」


「では――婚姻契約書の通りに、振る舞ってもよろしゅうございますね?」


「契約書通り? そんなものはどうでもいい。お前は契約妻として大人しくしていろ。それだけだ」


 私は、その言葉を、ゆっくりと、復唱した。


「……契約妻として、契約書の通りに振る舞え、とのお言葉、たしかに頂戴いたしました」


「ああ。何度でも言う。契約妻は契約妻らしくしていろ」


 私は微笑み、書類入れから、婚姻契約書の写本を取り出した。


 そして、第17条の頁を、家門法理事ベルナール侯爵閣下にお渡しした。


「ベルナール侯爵閣下。家門法理事として、第17条の発動条件をご確認願います」


 ベルナール侯爵閣下は、ゆっくりと頁をお開きになった。


 そして、書類を読み終え、お顔を上げられた。


「……アグネス嬢。発動条件は」


「警邏記録、診断書、ローゼンタール伯爵家当主代理の委任状、すべて整っております」


 私は革張りの書類入れから、3通の書類を取り出し、ベルナール侯爵閣下にお渡しした。


 ベルナール侯爵閣下は、ゆっくりと書類を読まれ、最後に、皇室の証人ヴァルター卿のほうを向かれた。


「ヴァルター卿」


「はい」


「ローゼンタール家門法第17条、発動条件を充足。エセルバート公爵家との婚姻を、即時無効と認定いたします」


 公爵閣下のお顔から、ゆっくりと、血の気が引いていった。


「……何の話だ。家門法とは」


 ベルナール侯爵閣下は、ゆっくりと、契約書の写本を、公爵閣下のほうへ滑らせた。


「公爵閣下。ご署名なさった、婚姻契約書でございます。第17条をお読みくださいませ」


 公爵閣下は、震える指で、契約書をお手に取られた。


 そして、第17条をお読みになった。


「……これは、何だ」


「家門法でございますわ、公爵閣下」


 私は微笑んだ。


「血の繋がりを契約で縛る、ローゼンタール家初代当主の習わしでございます。先ほど、閣下ご自身のお口で、『契約書通りに振る舞え』と仰ってくださいました。この大広間の、すべての方の前で」


「……」


「皇室の証人ヴァルター卿に、ご記録いただけましたわね」


 ヴァルター卿が、深く頷かれた。


「記録いたしました」


 公爵閣下は、契約書を握りしめたまま、動かなくなった。


 ベルナール侯爵閣下が、お席をお立ちになり、宣告なさった。


「エセルバート公爵家の家門・財産・血統は、すべてローゼンタール家に帰属。エセルバート殿は、婚姻無効により、男爵格に降下とする」


 公爵家のご親族の方々の、息を呑む音が、大広間に広がった。


 私は、革張りの書類入れを、丁寧に閉じた。


 そして、公爵閣下――いえ、もう、エセルバート様、と申し上げてよろしゅうございましょう――に、深く頭を下げた。


「契約妻として、最後のお勤めを果たさせていただきました」


「アグネス、待て、これは……」


「リーゼ嬢には、どうぞお幸せに、とお伝えくださいませ。ご婚姻、ようやく自由にお選びになれますね」


 エセルバート様は、何も仰らなかった。


 私は立ち上がり、大広間を出た。


 廊下では、宰相補佐ヴァルター卿が、お待ちになっていた。


「アグネス嬢。皇室は、貴女の知略を、高く評価しております」


「身に余るお言葉でございますわ」


「皇室の遠縁に、独り身の知略家がおります。ローゼンタール家の家祖と同じく、皇帝陛下に3度仕えた家系の」


「…………」


「ご縁、お繋ぎしてもよろしゅうございますか」


 私は微笑んだ。


「契約書を、よくお読みになる方でいらっしゃいますか」


 ヴァルター卿は、お笑いになった。


「それは、もう」


「では、ぜひ」


 ヴァルター卿は深く頭を下げて、廊下を去っていかれた。



 ◇



 後日談を、少しだけ。


 エセルバート様は、男爵格に降下なさり、辺境のとある村に小さな館を構えて、お暮らしになっていらっしゃるそうでございます。


 リーゼ嬢は、別の方とご結婚なさった。


 聞くところによれば、当代のお家柄を慎重に吟味なさった結果、エセルバート様ではなく、隣々領の侯爵子息様をお選びになったそうでございます。


 魂で結ばれていらしたお二人が、結ばれずに終わった。


 これは、なんとも皮肉な結末でございますわね。


 けれども、お二人とも――きっと、お幸せでいらっしゃるのでしょう。


 魂は、お遠く離れていらしても、きっと、通じ合っていらっしゃることでしょうから。


 私はそう信じて、お二人のことを、もう、考えないことにいたしました。



 ◇



 私は、ローゼンタール伯爵家の本邸で、皇室の遠縁の方とのお見合いの日を、心待ちにしていた。


 紅茶の支度を、丁寧に整えて。


「奥様、お見合いの方が、お見えになりました」


「お通しして」


 私は本を閉じた。


 ローゼンタール家門法第17条の発動が、すべての始まりだった。


 血の繋がりを、契約で縛る、古い、古いローゼンタール家の習わし。


 それは、私の家と、私の人生を、守ってくれた、たった1つの守り神。


 もう、誰も私を、契約妻と呼ぶ方は、いない。


「お初にお目にかかります、アグネス嬢」


「初めまして、ヴェルナー卿」


 私は、立ち上がり、深く頭を下げた。


 そして、紅茶のカップを、お差し出しした。


「契約書、お読みになりますか」


 ヴェルナー卿は、お笑いになった。


「もう、読みましたよ」


 私は、微笑んだ。


 それでは。


 これが、私の、新しい契約の――始まりでございますわ。

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