女神の一声
この業界は、吐き気がするほど残酷だ。
努力が報われるなどという戯言は、寝言にすらならない。
建前と本音の境界すら見破れないまま、キラキラした瞳でノコノコやってくる夢想家たち。彼らにまず教えるべきは、希望ではなく、喉元まで浸かる泥水の味だ。
「——君の歌声は、まるで朝露のようにピュアだ。存在感が希薄すぎて、バック演奏の振動に完全に殺されている。次はマイクを丸ごと飲み込んで歌ってみたらどうだ? 審査員たちが困惑する顔を拝めるかもしれない」
「——歌を愛している? 結構。なら今頃、ハワイに僕の銅像が立っているはずだ。現実は、その『愛』とやらを捏造して売り捌き、カップ麺を啜っているわけだが」
次々に毒を吐く。
怒りに震える拳、涙を溜めて俯く顔。ああ、阿呆臭い。
君たちは何をしに来た? 「キミタチノ ウタハ スゴイヨ」なんていう無責任な承認が欲しかったのか? 狭いコミュニティで持て囃されただけのパペット。そんな、ドブ臭い自意識の垂れ流しを誰が聴きたいと思う?
「次」
ガチャリ、と扉が開く。
空気が変わった——そんな生易しいものではなかった。
無機質な会議室が、底の見えない深海へ一気に沈み込んだような錯覚。
適当にズタボロにして、早期退場させてやる。それが唯一の救済だと冷めていた僕の思考は、彼女が踏み出した最初の一歩の音で霧散した。
才能、華、コネ、あるいは環境。そんな断片的な話ではない。
圧倒的で、絶望的にすべてを喰い尽くす悪魔。
【天は二物を与えず】。嘘をつけ。
二物どころか、この世の全てを強奪し、それでいてなお空虚な美しさを湛える怪物こそが、この業界で唯一生き残ることを許された【真の表現者】なのだ。
「城崎唯です」
自己紹介はそれだけ。
だが、その明瞭な響きは、たった一言で脳内に極彩色のオーケストラを奏でてみせた。
彼女の背後、真っ白な壁には、これまで彼女が歩んできたであろう凄絶な研鑽と、これから切り拓く黄金の未来が、暴力的なまでの解像度で【視】えた。
「……ッ」
着飾ることもない制服姿。だが立ち姿ひとつ取っても、計算された名画のような機能美がある。
僕は一度目をつぶり、誰に聞かせるともなく舌打ちをした。
審査員である僕がそれをする意味——それは本来「拒絶」だ。だが、今の僕の心拍数は、それを拒むどころか彼女という劇薬を脊髄に刷り込めと、猛烈に警告を発している。
「合格」
射抜くように彼女を見据えて言い放った。
他の審査員たちの呼吸すら止まっている。同意を得る必要もない。
この熱量、この支配感。
落とすという選択肢は、宇宙の法則から【亡くなって】いた。
「ありがとうございます」
その言葉をもっと聴かせてくれ。その声を、その仕草を、その冷徹なまでの眼差しを。
淡々とした返事。喜びも、卑屈さもない。
彼女はただ、単純な進路希望としてここへ来た。ただそれだけ。
その「当たり前」の一歩が、僕たちの世界を崩壊させようとしている。
「詳しい日程は明日連絡する。君に相応しい、最高の曲を用意させよう。準備しておけ」
「わかりました」
退室する彼女の後姿。
ハッと映ったのは、彼女の背負う、途轍もない黄金と名声の幻影だ。
「ははっ……」
扉が閉まった瞬間、乾いた笑いがこぼれた。
横の連中も、椅子に深く沈み込み、あるいは頭を抱えて唸っている。
愛では食っていけない? ……まさか。
「彼女は……神を殺しうる、女神だよ」
しばらく動けずにいた。
別室にいたスタッフを呼び寄せ、ようやくこの「下らない時間」に終止符を打つ。
外からは不合格者たちの醜い怨嗟が漏れ聞こえてくるが、何のノイズにもならない。
早く、彼女の【歌】で殺してほしい。
この世の全てが、価値を失ったのだから。




