第1話「翼の静寂」
空港の滑走路は夜明け前の薄い光に包まれていた。A380の機体は静かに待機し、乗客たちが少しずつ座席に収まる。
蒼井悠翔は、窓際の席に座りながら、軽く肩を落とす。手元の計器を何気なく見つめるが、心臓は少しだけ早鐘を打っていた。過去の事故の記憶が、まだ彼の胸に影を落としている。
隣の席で霧島天音が微笑む。柔らかく「大丈夫ですか?」と声をかけられる。悠翔は小さく頷き、微かな安心感を覚えた。
機内の空気は静かだが、どこか張りつめている。子供の兄弟は窓の外を見つめ、老人カップルは手を取り合ったまま、静かに会話を交わしている。
「離陸準備が整いました」
客室乗務員の声が穏やかに響く。だが、悠翔は計器の微細な異常に目を留めた。表示の針がわずかに揺れている。心拍が少し速まる。
天音がそっと肩に手を置く。
「怖いですか?」
悠翔は小さく息を吸い込み、窓の外に目をやる。遠くの滑走路灯が瞬く。
「いや、大丈夫だ」
言葉は落ち着いていたが、胸の奥で緊張の波が広がる。
機体が滑走路に動き出す。静かな機内の空気に、微かな振動が伝わる。
悠翔は視線を前方に向け、手のひらで座席の縁を握る。五感のすべてが、わずかな揺れに敏感に反応する。
窓の外に見える夜明けの光が、まだ薄い蒼に染まった空に溶けていく。静寂の中に潜む、わずかな予感。これから始まる長い空の旅の、ほんの小さな予兆に過ぎなかった。




