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無欠の怪物

作者: あきたけ

 プロローグ


 那波さんが道端に唾を吐いた。それは唐突だった。僕は彼女がそういうことをするのを初めて見た。内心、動揺した。彼女が吐いた唾は、さらりとした透明感のある液体で、アスファルトの上に、日の光を反射してキラキラと輝いていた。

「えっ、いま、唾を吐いたの?」

 僕は反射的にそう問いかけた。

「古来、人間の粘液は無知の象徴なの。飲み込むと身体に毒だから吐くの」

 彼女の言葉は驚くほど淡泊で、僕の知っている彼女の声とはまるで別人であった。

 悲しいと思ったし、幻滅もした。それと同時に少し恐怖を覚えた。素敵な女性の意外な一面。道に唾を吐く。これが彼女のただ一つの、欠点だった。


『無欠の怪物』


 那波さんと初めて会話をしたのは、高校二年の春の季節のことだった。入学当初から僕が所属していた文芸部に、彼女はやってきた。

 初めて彼女が部室の扉を叩いたとき、まさか入部しに来たなんて思わなかった。

 文化部の中でも特に文芸部は過疎化が激しく、廃部寸前だったからだ。しかも部員は僕と中泉の二人きりで、二人とも暗く無個性な冴えない男子である。

 そこに紅一点、学年のマドンナ的存在の那波さんが来たのだ。僕らは顔を見合わせた。

「これは夏に雪が降るぞ」

 中泉はそのようなことを口にしていた。

 僕らは、彼女のことを別世界の人間とは思っていなかった。確かに高値の花ではあったが、人当たりがよく、笑顔が美しく、誰とでも打ち解ける才能があった。ただ、気になるところといえば、那波さんは消しゴムを一つも持っていないということだった。

「そういえば、那波さんって消しゴム使わないの?」

 僕と那波さんは違うクラスだったから、あくまで噂を聞く程度だったが、彼女は一つも消しゴムをもっていないらしい。それどころか、彼女が使っているノートには、ただの一文字も書き損じた跡がないらしいのである。

「うん。あまり書き直しとかしないんだよね、私」

 と、彼女は言った。

 那波さんに関する噂はこれだけではなかった。定期テストでは、いつも、一問も間違えることがないらしい。これは別に、いつでも百点満点。という意味ではない。彼女は答案用紙の八割を完璧に埋め、残りの二割を空欄にするのだ。そして八割は満点。残りの二割は、時間が無くて解けなかった。と言うのである。裏を返せば時間があれば解けるという意味になるが、時間があっても「分からなかった」で済ますのが彼女だろう。那波さんはそういう特殊さを保持しているのだ。


 夏休みの前日、僕は思い切って彼女を食事に誘ってみたのだ。すると、快く承諾してくれた。僕は浮かれた。謎が多いとはいえ、那波さんは学園のマドンナ的存在の人だ。これを機に、僕は那波さんとより一層の親睦を深めたいと思った。

 しかし、本日僕は衝撃的な光景を目撃した。

 あの容姿端麗であり、性格が優しく、一挙手一投足に至るまで一点の曇りもない完璧な女性が道に唾を吐いたのだ。僕は自分の目を疑った。彼女の欠点は、まるで隙のない怪物がただ一瞬だけ見せる、一つの弱点である大きな黒い穴だった。

「……毒は飲み込まないほうがいいよ」

 その少女の目は、黒く陰っていた。


 しばらく歩くと交差点の脇に、レンガ造りの洒落たカフェバーがある。そこは高校の頃から一人でもよく来る行きつけの店だった。マスターの鈴木さんは僕の母親の同級生で、そういう関係もあってかよく話す仲だ。この店は空気が澄んでいて、いつも静かな音楽が流れている。ここに那波さんと入った。だが、浮かれる気分にはなれなかった。

 当たり障りのない会話をしているうちに時間はあっという間に過ぎ、彼女とは別れた。

 帰り際、彼女が唾を吐いた道を通った。アスファルトの地面に、キラキラと輝く唾があった。それは紛れもなく彼女の遺伝子を含んだもので、平然と町に溶け込んでいた。

 その生々しい液体を眺めているうちに僕の心はどうしようもなくかき乱されて、ほとんど衝動的に、その唾の上に、新たに僕は唾を吐いた。

 唾と唾がぺちゃりと重なり汚物の半径が二倍増しとなった。僕は普段、道に淡や唾を吐くことはない。でも今日はこれで満足だった。不思議と罪悪感は無かった。


 次の日、深刻な表情を浮かべた那波さんに呼び出された。放課後のことだった。理由は教えてくれなかった。ただ、見ればわかるとのことだった。

 今日は夕日が特に赤い。建物も全体的に赤い。心なしか赤信号によくぶつかる気がする。彼女に案内される先は、先日行ったあのカフェバーかもしれない。しかし那波さんは途中で足を止めた。

「凄いことが起きているの」

 それは先日、那波さんが唾を吐き、そしてその後に僕も唾を吐いた場所だった。

 地面に目をやる。その瞬間に僕の背筋は凍り付いた。そこにはあり得ない光景が広がっていたのだ。

「君さ、私の唾の上に吐いたでしょ。唾。別にそれは良いんだけど、きっと受精した」

 今見ている景色が理解できない。それは紛れもなく僕の唾と彼女の唾が交わったことによって生まれた謎の生物だった。

 その生物の全長はハムスター程であったが、人間の胎児のような見た目をしていた。頭には悪魔の角のようなものが生えており、全身の色は黒かった。身体が未完成なのかもしれない。生まれたての小鹿のように足を震わせながら、歩こうと試みていた。

「……受精?」

 僕はあっけにとられてそう言うしかなかった。

「唾と唾でしょ」

「ねえ、昨日言ったよね。人間の粘液は無知の象徴だって。無知と無知が掛け合わされることによって、きっと知恵が生まれたんだよ」

「何だよ、その理論」

 しかしその謎の生物は瞬く間に歩き方を理解し、さらには羽を生やした。羽を生やすその姿はまるでセミの羽化か、もしくは蕾から花へと移り変わる自然の神秘のようだ。先ほどは悪魔の姿だと感じたが、今見るとそれは天使の姿かもしれない。悪魔とも天使ともつかない狭間の生物。けれどもそれは絶対的に怪物であることに違いなかった。

「私たちの子供だね」

「変なこと言うなよ」

 内心ちょっと嬉しかった。僕は頬を赤らめたかもしれない。そのうち怪物は口をパクパクと動かし始めた。僕らに何か伝えようとしているようだ。だが、うまく聞き取れない。

「聞こえる? 内側の声に耳を傾けて」

 と彼女は言った。内側の声、僕は僕自身の内面に向き合う必要があるということだろうか。静かに深呼吸をするとテレパシーのように、怪物の声は伝わってきた。

「お父さん。お母さん。わたくしを生み出してくれてありがとう。わたくしは、完全無欠の存在です。といっても、今はまだ現実世界に存在している関係で、完璧な完全を手にしているわけではないのです。しかし、わたくしは完全無欠の存在に成り得る存在ですから、ご安心を。わたくしが完全になるためには、無欠の世界へと赴かなくてはなりません。無欠の世界は、それはそれは完璧なのです。花は枯れず、肉は腐らず、あらゆる不完全さが淘汰された素晴らしき世界なのです」

「今の聞こえた?」

 と、那波さんが言った。僕も同じことを聞こうとしていたから、首を縦に振った。まるで時が止まったかのように、周囲は静寂さに包まれていて、閑静な住宅街がより一層におとなしかった。

「僕は、行ってみてもいいんじゃないかと思う」

 少し間をおいて、僕はそう言った。


 無欠の怪物の道案内は、一挙手一投足に至るまで完璧だった。人間界とは別の世界へ行くというのに、恐怖を全く感じさせなかったし、道のりは平坦で長くも短くもなかった。

 無欠の世界への入り口は、非常に豪華な装飾がされてあった。金色の模様で飾られていたが、どのように扉が開くのか見当もつかない。内開きなのか、スライド式か、そうした開閉の仕方を全く想像させない造りになっていた。

「扉を開ける必要はありません。現実世界と、無欠の世界の境界線として便宜上扉の形をとっているだけです」

 と無欠の怪物は言った。

「入ろうとする意志を持つ者であれば、入ることができます」

 と続けて怪物は言った。

「すごい! なんだかワクワクしちゃうね」

 と那波さんが言った。彼女は本当に嬉しそうだった。彼女は再び、ワクワクしちゃう。と言って道に唾をペッと吐いた。これは彼女の治し難い癖なのであろうか。

「僕はこれから無欠の世界に行こうと思います」

 僕がそのように宣言すると、世界がくるりと一回転するような感覚に襲われ、次の瞬間、そこは無欠の世界だった。完膚なきまでに完全無欠の世界がただ広がっていた。あらゆる一切の点において完璧であり、あらゆる一切の点が特徴として機能しているので、裏を返せばあらゆる一切の点において特徴の無い世界だった。

 白色を基調とした世界で、扉がいくつかある。当然、扉であるから長方形の姿をしているものの、その長方形はイデアそのものだった。

 なんとも表現しにくい独特の感覚だ。扉が目の前にあるというのに、そのずっと奥に存在している無数の部屋と距離は全く同じだ。つまり、十メートル進まないと辿り着けないはずの扉は、三歩進んだところで辿り着くし、逆に一歩しか進まなくて良いように見える扉も三歩は進まないと辿り着かない。別次元空間に来たかのようだったし、実際そうなのかもしれない。

 怪物に案内されるままに、僕たちは一枚の扉に向かって歩き始めた。その扉は他とは違ってやや小さかった。異様なことに、その扉は見たことのない色をしていた。赤とか、青とかの色相環の外にある、人間が認識しえない色だったのかもしれない。

「お父さん。お母さん。ついに到着しました。無欠の世界の入り口でございます。ただいまより、わたくしは無欠の世界へと入り、完璧な無欠の存在となるのです。お父さん。お母さん。わたくしを生み出してくれてありがとう」

 扉は自ずと開かれた。しかし、僕たちは扉が開いたことを認識できなかった。それは、あらかじめ開かれていた。僕たちが今までいた場所は、扉の外側なのか内側なのか、その判断すらつかなかった。

 無欠の世界は、完全な白であり、一点の曇りもなかった。世界の完全な中央部分に、完璧な配置で花瓶に活けた花があった。その花は美しくも醜くもなかった。ただ完璧な花、という要素しか持っていなかった。

 花瓶の置かれた台座は、ミクロのずれもない完璧な正方形であり、極小の歪みもなく完璧な水平が保たれていた。

「すごい、すごいよ。この世界は」

 僕は大はしゃぎで花瓶に近づいた……近づくことはできた。

「ほんと、なんて完璧なの」

 と、那波さんも感嘆の声を上げた。

「きっと、こんな完璧な世界に案内された僕たちだって、完璧な存在に決まっているんだ。僕たちの存在だって、僕たちのこどもに選択された無欠の存在そのものなんだ」

 と僕は両腕を大きく振り上げて万歳をした。

 一瞬気が緩んだその時だった。

 僕の右手の甲が、完璧な花瓶にぶつかった。生々しい感触を伴った現実的な質感が、その花瓶には内在していた。時間がスローモーションに感じられた。花瓶は落下をはじめ、僕の反射神経ではそれを阻止することはできなかった。

 がしゃん、と大きな音を立てて花瓶は粉々に砕け、花は散り、水は地面に溢された。

 僕は「あっ!」と声を上げた。




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