8 別れた後に(クライside)
アイネが去ってしばらく後、司祭は穏やかな笑みを崩さぬまま、クライに声をかけた。
「さて、教会の中を案内しよう。孤児院の子たちも紹介してあげよう。
その前に、敷地内で武器を持たせるわけにはいかなくてね。弓を預けてくれるかい?」
「……わかりました」
クライは素直に頷き、肩から弓を外して差し出す。
「うむ、良い子だ。安心したよ」
司祭は目を細めて微笑みながら、廊下を歩き出す。
「まずは着替えの部屋へ。新しく来た子には清潔な服を用意しているんだ」
「はい」
クライはそう答え、司祭の背についていく。
石造りの廊下はひんやりと冷たく、昼間にもかかわらずどこか薄暗い。不自然なほどに人の気配がなく、静けさが張りついていた。
いくつか角を曲がり、重厚な木の扉の前で司祭が立ち止まる。
「少し降りるけど、すぐそこだよ。さあ、どうぞ」
クライが階段に足をかけたとき、ふと背後で、司祭の息をひそめたような気がした。
だが振り返れば、いつもと変わらぬ笑みがあった。――気のせい、だと思った。
石の階段を下りきった先、もう一枚の扉。その扉が開かれた瞬間だった。
「――っ!?」
突如、二人の修道士が無言で飛びかかってきた。
「な、なにを――!」
羽交い締めにされ、抵抗する間もなく、隣の鉄格子の中へ突き飛ばされる。重い扉が閉まり、錠の音が鈍く響いた。
「おいっ、なんで……っ!」
叫ぶクライ。その前にゆっくりと階段を下りてきたのは――さきほどの、優しげな司祭だった。
だがその顔からは、慈愛の面影は消えていた。張りついた笑みは冷酷に歪み、どす黒い悪意を隠そうともしない。
「ふふふ……まったく、馬鹿な小僧と間抜けな女だったわい」
「……僕のことはどうでもいい。でも、アイネのことを悪く言うな!」
怒りに震えるクライに、司祭は面倒そうに片手を上げる。
「黙らせろ」
その一言で、ニヤついた悪い笑みで丸眼鏡の修道士が、鉄格子越しに棒を腹に深く突き刺す。
息が喉の奥で止まった。全身の力が抜け、膝が震えた。
「う……ぐっ!」
声は震え、身体がこわばる。
「はは、愉快じゃのう。あの女、惜しい女じゃった。あれだけの器量、従順に調教できれば、価値は倍になった。剣を持つなど、なんと無駄なことか」
司祭は笑いながら、クライの目を覗き込んだ。
「ほう、なかなか良い目をする。気に入らんな」
再び合図。棒が振るわれ、クライは床に叩きつけられた。
「剣士になるだと? 笑わせる。そんな夢物語を信じて、ノコノコ売られに来るとはな……滑稽じゃ」
そう言い捨てて、司祭は唾を吐きかける。
クライはうつむいたまま腹を押さえ、唇を噛みしめていた。
丸眼鏡の修道士はニヤつき、もう一人の男は無表情に目を逸らす。
「適当に餌を与え、反抗できぬ程度に衰弱させろ。……あの顔なら、良い値がつく」
「承知しました」
「この小汚い弓も捨ててしまえ。売れそうにないしの」
何か言い返そうとするも腹の痛みで何も言えないクライを弓を受け取った無表情の修道士がクライを一瞥する。
「誰も近づけるな。監視は怠るなよ」
命令を終えると、司祭は背を向けた。
重く冷たい足音が、やがて地下に消えていった。
牢の中は、薄暗く冷たかった。
痛みと悔しさが身体を蝕むが、それでもクライの瞳は死んでいなかった。気持ちを切り替えようと、目を閉じて眠った。
鉄格子を棒でコツコツと叩きながら、無表情に告げる。
「食事だ」
クライは顔を上げ、彼を見つめた。そして、小さく問いかけた。
「ねぇ……なんで、あんな人の言うこと、聞いてるの?」
悪いことしてるって、わかってるんでしょ?」
修道士の目が、かすかに揺れる。
――クライは見ていた。さきほど、司祭がアイネを嘲笑し、少年を蹂躙していたあの場面。丸眼鏡の修道士が楽しげに笑うなかで、彼だけが顔をしかめ、目を伏せていたことを。
「……なにを……っ」
返しかけた言葉が、喉の奥で詰まる。クライの金の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。まるで――すべてを見透かしているような、透徹した眼差し。
やがて、修道士は口を開いた。
「……すまない。本当に……すまないと思っている。君だけじゃない。預かっていた子たち、売られていった子たち……みんな……」
声がかすれ、悔しさと後悔が滲んでいた。
「……なら、出してよ」
「それは……できない」
修道士の言葉に重苦しい沈黙が続く。
「じゃあ、謝るのはずるいよ」
その一言は冷たく胸を貫いた。
修道士は下を向き、黙り込んだ。自分でも、どうしてこんな惨状を許してきたのか分からなかった。
いや――分かっていた。ただ、見ないふりをしてきただけだ。
(いつから、目を逸らすことに慣れてしまったのだろう……)
あのころは、ただの理想家だった。
「ここに来れば、誰かの支えになれる」――そんな都合のいい夢を、本気で信じてた。
だが、現実は違った。
司祭の命令は絶対だった。異を唱えれば処罰され、外に訴えようとした者は――消えた。
最初の子が消えた日、何もできなかった自分が許せなかった。
それでも目を背け続けたのは、恐怖と絶望が胸を締め付けたからだ。
丸眼鏡の修道士、あの男はまるで司祭の影だった。保身と欲望のためなら、手段を選ばず、平然と踏み越えていく。
「あのガキを置いていった女、あの顔なら、市場で引く手あまただろうな」
そう言って冷ややかに笑う。ただ粘つく悪意だけが渦巻いていた。
(あんな奴にだけは、なりたくない……)
そう思うたび、自分の無力さが胸に突き刺さる。
沈黙の中、修道士はふと口を開いた。
「……あの弓、捨てろと言われたが……無理だった。手が……勝手に止まった。
いま、私の部屋の隅にある。誰にも、見せてない」
「……ほんとに?……あるんだ」
クライは痛む腹に手を当てたまま、そっと顔を上げた。
「ありがとう……おじさん」
ゆっくりと、表情がほころんだ。
牢に閉じ込められているというのに、その笑顔には曇りひとつなかった。
どうして、そんなふうに笑えるのか――修道士には、理解できなかった。
「……どうして、こんな状況でそんなに笑える?」
クライは胸を張って言った。
「だって、信じてるから!」
「信じてる……?」
「信じてるって言ったら、笑われるかな。でも、ほんとに……信じてるんだ。アイネは、来る」
その名を聞いた瞬間、修道士の脳裏に、薄紅の瞳と銀の髪をもつ女剣士の姿がよぎる。
「……君を閉じ込めたあと、彼女、戻ってきたらしい。引き取れないかって。だが……あの丸眼鏡の修道士が、追い返したそうだ」
「やっぱり! そうか!」
クライの目が、ぱっと輝いた。
痛みに耐える身体で、それでも信じて疑わぬその笑顔に――修道士は、言葉を失った。
そこにあったのは、確かな信頼と、決して折れない意志だった。
あまりにもまっすぐなその瞳に、修道士はわずかに息を詰めた。
安堵と、居心地の悪さが入り混じったまま、彼はそっと立ち上がる。
修道士は震える手を握りしめ、深く息を吐いた。
「……もう時間だ」
足早に去りながらも、心は揺れていた。
何かが、変わり始めていることを自覚しながら。