7 別れた後に(アイネside)
クライと別れ宿へ戻ったアイネは、無言で扉を閉め、重たい鞄を床に落とした。
――その鈍い音が、やけに耳に残った。
預かった剣と短剣を部屋に置くと、うるさいギルドで仕事を探す気にもなれず、酒場の片隅に腰を下ろす。つまみとエールを注文し、静かに杯を傾けた。
昨日と同じ宿の酒場なのに、どこか落ち着かない。
昨日と変わらない味。けれど、何かが違った。
味も匂いも、喉を通らない。苦いだけだった。
何にイラついているのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、どうにもムシャクシャする。胸の奥が、ざらついている
(……飯は、こんな味だったか?)
そう思った時ふと、鼻腔に煙の香りが残っている気がした。
クライが作ってくれた、あの素朴であったかい料理。
火の匂いと、湯気の向こうで笑っていた、あの顔。
思い返すつもりもなかったのに、浮かんでくる。
目を閉じれば、無邪気な笑顔と、真っ直ぐな眼差しが、脳裏から離れなかった。
(……どうして、こんなに気にしてる?)
自分でも意外だった。
ずっと一人でいた。誰かを手放して、こんなにも落ち着かなくなるなんて――思ってもみなかった。
(教会で……ちゃんとやっていけるか?)
(剣を贈ったのは、間違いだったな……少し考えれば、教会に武器を持ち込めるわけもないのに……クライに申し訳ない)
考えが堂々巡りする中、背後から声がかかる。
「おまたせ、エールのおかわりだよ」
陽気な女将がジョッキを運んできて、隣に腰を下ろし、軽く問いかける。
「そういえば、お客さん。あの可愛らしい弟さん、今日は一緒じゃないのかい?」
「……アイツは弟じゃない。訳あって預かっていた子供だ。今朝、教会へ預けてきた」
「おやまあ……」
女将は少し驚いたように目を見開いたあと、声をひそめてアイネの耳元にささやいた。
「ここだけの話だけどね、あそこ、最近子どもが減ってるって話でね……」
「……何?」
アイネの表情が一変する。
「寄付金を着服してるとか、孤児たちを奴隷商に横流ししてるとか……そんな話をちらほら聞くのさ。あくまで噂だけどねぇ?」
「……それは、本当か?」
エールのジョッキを置く手が震えていた。声には怒気がにじんでいる。
女将はやや引き気味に、肩をすくめる。
「だから、あくまで“噂”さ。確証はないけど、妙な話が尽きないのは確かだよ」
アイネは立ち上がり、テーブルに多めの勘定を置いた。
「釣りはいらん」
それだけ言い残し、店を飛び出す。
が、教会へと向かう途中――女将の言葉が頭をよぎる。
(……もし噂がガセだったら、私が暴れれば、迷惑をかけるのはクライだ)
一瞬、激情に任せて扉を蹴破ろうとした足を止める。
大きく息を吐き、拳を握りしめる。
(……突っ込むのは簡単だ。でも、アイツに恥じるような真似はできない)
自戒するように、教会の扉を三度叩いた。
しばらくして、丸眼鏡の修道士が姿を現す。
「どうかなさいましたか?」
「ああ。今朝預けた、クライという子供のことだ。……やはり引き取りに来た」
その一言に、修道士の表情が硬くなる。
「申し訳ありません。それはできません」
「……何?」
「近年、よくあるのです。感情のままに子を預け、都合が悪くなると引き取り、また気まぐれで手放す者が」
「……私はそんなつもりで――」
「あなたが、とは申しません。ただ――」
修道士は静かに言葉を継ぐ。
「神の庇護のもとにある子供たちは、我々の責任の下で守られています。犬や猫ではないのです。一度預かった命を戻すには、それ相応の手続きと、理由が必要です……それとも、何か問題でも?」
アイネは、唇を噛んだまま、しばし無言でその言葉を受け止める。
「……そうか。騒いですまなかったな」
それだけ言い残し、アイネは踵を返した。
――理屈は、分かる。
あの修道士は、至極真っ当な正論を述べていた。
だが、それでも――女将の言葉が、胸にひっかかる。
噂話だと切り捨てるには、あまりに悪質だ。
(……やはり、確かめないと)
アイネは足を向け直す。次の目的地は、冒険者ギルドだった。
ギルドの扉を押し開けると、ざわついていた室内が一瞬静まる。
アイネの殺気立った気配に気圧され、昨日のように下卑た言葉を投げかける者は誰一人いなかった。
まっすぐ受付へと向かい、昨日と同じ青年に声をかける。
「昨日紹介された教会について、少し話を聞きたい」
青年はアイネの鋭い目にたじろぎながらも、丁寧に応じる。
「は、はいっ。どういったご用件でしょうか?」
「……その教会、悪い噂が絶えないと聞いた。何でもいい、何か知らないか?」
「うっ……申し訳ありません。そういった話は……私にはわかりません」
少し間を置き、青年は頭を下げて言った。
「上の者に確認してまいります。少々お待ちください」
そう言って、慌てて奥へと下がる。
代わりに現れたのは、スキンヘッドに顎鬚を蓄えた、厳つい壮年の男だった。
「俺はここのギルド長だ。話は聞いている。込み入った話だ、個室へ移ろう」
静かな部屋に通され、ギルド長は椅子に腰を下ろす。
「まずは、詳しく話してもらおうか」
アイネは端的に事情を語った。
女将から聞いた教会の噂。クライをそこに預けたこと。そして――その噂が真実なら、絶対に見逃すことはできないと。
ギルド長は腕を組み、重々しく頷いた。
「……なるほどな。あの狸爺、怪しいとは聞いている。確実な証拠はまだないが、十中八九、黒だ」
アイネは席を蹴る勢いで立ち上がる。
「なら、すぐにでも――!」
「待て。話はまだ終わっていない」
ギルド長の声が鋭く制す。
「奴は貴族の出、“ロートシルト家”の人間だ。下手に手を出せば、あんたも、巻き込まれたギルドもただじゃ済まん」
「この街の憲兵は、何も動かないのか?」
「この国は奴隷制を認めちまってる。だから曖昧なんだ。
孤児は守られる立場のはずだが、保護者が“売った”と言えば通る。
ましてや、貴族と教会だ。そいつらを敵に回してまで、動く酔狂はそういない」
「……なら、どうすればいい」
「どうしたらいいか――それが分かれば、とっくに誰かがやってるさ。
身分だよ、この国じゃ、それが正義だ」
アイネの瞳が細く鋭くなる。
「……つまり、“誰もやらないから”、見て見ぬふりをしろと?」
ギルド長は一瞬黙し、やがて静かに答えた。
「火遊びをすれば、燃え移るのはあんたと、その周囲の人間の方だ。
あいつを相手にするには、“ちょっとやそっと”の証拠じゃ足りん。名誉毀損で潰されるぞ」
だが、アイネの決意は揺るがない。
「なら、“ちょっとやそっと”以上の証拠を掴んで、あのジジイを地獄に叩き落としてやる」
その瞳に宿る凄みに、ギルド長は戦場を知る直感で「止めねばならない」と悟った。
立ち上がり、力づくで止めようと一歩踏み出す――が。
その瞬間、空気が変わる。
アイネの身体から、魔力と殺気が吹き出すように溢れた。
「……やめておけ。今の私は、加減ができん」
その声は、静かでありながら、鋭く全てを刺し貫く。
ギルド長の背に冷たい汗が伝う。戦場で命を賭けた男が、一歩も動けなくなっていた。
――こいつは、“本物”だ。
沈黙の中、ギルド長はわずかに頷いた。
「……せめて、ギルドに火の粉が飛ばない場所でやってくれ。あんたの覚悟に水を差したくはないが、こっちも守るべき仲間がいるんでな」
アイネは一言も返さず、踵を返す。
その背に宿るのは、ただ一つ――
自ら手放した。
だから今度は、奴らを殺してでも守る。