5 少年の報酬
朝の陽が斜めに差し込む石畳の上で、馬が鼻を鳴らした。
木枠の荷車の前で、年配の行商人がせわしなく荷を積み込んでいる。
樽や麻袋の上には、風除けの粗い布がかけられていた。
二人の姿を見るなり、男は露骨に顔をしかめた。
「女の護衛に、しかも子供連れだと……? どうなってんだ、あのギルドは……」
ぶつぶつと文句を垂れながらも、出発時間が迫っていたせいか、男は深く詮索することなく肩をすくめて許容した。
「ま、何かあったら責任取ってもらうからな……」
そのやり取りをそばで見ていたクライの胸に、小さな棘がちくりと刺さる。
クライは、何も言わずに視線を落とした。指先が、ふと力なく握られる。
不安と申し訳なさが、痛みが胸にこみ上げてくる
その気配を察したのか、アイネが低く、ぶっきらぼうに言った。
「私ひとりでも、反応は変わらん。気にするな」
それだけで終わるかと思ったが、アイネはちらりとクライを見やり、続けた。
「何かあれば、そのとき仕事で示せばいいだけの話だ」
あくまで淡々とした口調だったが、それがクライには何よりの救いだった。
「……うん、そうだね!」
クライの顔が少し明るくなる。
「なんたって、アイネはめちゃくちゃ強いし、僕だって……剣はまだ持ってないけど、自分の身を守るくらいなら、弓の腕に少しは自信あるから!」
そう言って笑ったクライを、アイネはちらりと横目で見て――わずかに口元を緩めた。
荷馬車に乗り込むと、馬が鼻を鳴らし、荷車が軋む音とともに出発した。
揺れる車体に身を預けながら、二人は揺れる日差しの中を進んでいく。
日が傾き始めたころだった。森の中の一本道を進んでいた荷馬車の前方に、数匹の野犬が現れた。
「襲撃だ!」
アイネが、わざと行商人にも聞こえるように叫ぶ。
野犬たちは馬車の前方へと回り込み、馬の足を止めるように吠えたてた。
続いて、左右の茂みからも次々と現れ、馬車を囲い込むように取り巻いていく。
「ひ、ひぃぃ……!」
御者席にいた行商人は顔面を蒼白にして、馬の手綱を放したまま頭を抱えた。
アイネは無言で馬車を降りると、静かに剣を抜いた。
薄紅の瞳は氷のように冷え、抜かれた剣は月光のような輝きを放つ。
次の瞬間、野犬のひとつが飛びかかる――
鋭い閃き。
一閃で、喉を裂かれた野犬が地面に転がった。
アイネの動きはほとんど残像すら残さず、野犬の群れは本能で怯みかけた。
だが、そのときだった。
一匹の野犬が、車輪の影からするりと潜り込み、馬の後脚に向かって跳ねた。
(狙える……落ち着くんだ)
それを見たクライが、咄嗟に矢をつがえた。
狙いを定める時間などない。野犬の牙が馬の脚に届こうとした、その瞬間――
「……っ!」
放たれた矢が、風を裂いて飛ぶ。
野犬の眉間に、ぶすりと突き刺さった。
跳ねかかる直前で動きを止めた野犬が、地面に崩れ落ちる。
馬がひとついななき、後脚をわずかに震わせた。
「……よしっ」
クライの手が、無意識にわずかに震えていた。
その間にも、アイネは群れの中を舞うように駆け、的確に数を減らしていく。
一太刀ごとに、吠え声が悲鳴へと変わり、やがて――
大柄な一匹、リーダー格と思しき個体が、アイネの気配に気圧されて逃げを打とうとした。
だが。
「逃がすか」
低く呟いたアイネが地を蹴り、銀の閃光が宙を斬った。
風のような踏み込みとともに、リーダー犬の首元が裂かれた。
残った数匹も、叫び声とともに森へ逃げ込んだ。
アイネは深追いせず、静かに剣を収める。
戦いは、わずか数分の出来事だった。
戦慄していた行商人が、ようやく腰を上げる。
「あ、ありがとう……本当に助かったよ」
素直な礼の言葉に、アイネは軽くうなずいた。
礼を告げたあと、ふと行商人は野犬の死骸のひとつに突き刺さった矢を目に留める。
「……あれは君の矢か? 見事だな」と、クライに小さく笑いかけた。
「もう暗くなる。こんな死骸の中で野営しても仕方ない。少し先に進んで、泊まるとしようか」
そう提案したのは、行商人だった。アイネも静かに同意する。
少し離れた丘の木陰で火を起こし、馬に飼い葉を与え、荷を整え――
一通りの準備を終えた頃、行商人が二人のもとにやってきた。
「改めて、助けてくれてありがとう」
そして、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……最初に見たときは不安しかなかった。でも、見くびってた。ほんとに悪かった」
アイネは鼻を鳴らすように笑う。
「別に気にしていない。……どうでもいい」
それでも、謝罪を拒むことはなかった。
一方、クライは慌てて手を振る。
「ぼ、僕なんて全然……! 役に立ったかどうかも……」
「いや、君も立派に一匹仕留めた。すごいじゃないか。……ありがとうな」
行商人は、そう言って腰の袋から小さな革袋を取り出す。
「これは、ギルドの報酬とは別だ。受け取ってくれ」
「え、えっ……でも、僕ギルドにも所属してないし、そんなの――」
クライが慌てて辞退しようとすると、行商人はゆっくりと首を振った。
「本来なら、あんな野犬の群れが現れたら4、5人のパーティが必要だった。それがたった二人で、しかもこの働きっぷり。……少ないが、ワシの顔を立てると思って受け取ってくれ」
そう言って手渡された小袋は、小さいながらもずっしりと重みを感じた。
「……ありがとう」
それは、生まれて初めて自分の手で得た報酬だった。
手のひらに感じる重みが、少しだけ“自分が世界に通じた”ような感覚を与えてくれる。
クライの顔には、年齢よりほんの少しだけ大人びた、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
その表情を見たアイネは、焚き火の向こうでふっと微笑んだ。