4 はじめの町
三体の魔物を倒した日から、二日が経った。
朝露に濡れた草を踏みしめ、山を越え、森を抜け――ようやく、二人は隣町へとたどり着いた。
そこは、クライの故郷よりも一回りほど広く、建物の数も多い。
屋台も立ち並び、焼き菓子の甘い匂いが風に乗って鼻をくすぐった。
本来なら、初めて訪れる町に心を躍らせていたかもしれない。
だが、クライの顔はどこか冴えなかった。
本当は、もっと続いてほしかった。
森を歩き、焚き火を囲み、アイネの凄まじい剣捌きを間近で見て学び、自分も剣の真似ごとに汗を流した日々。
朝には鳥のさえずりで目を覚まし、夜には星空を眺めながら話をした――そんな旅路が“終わってしまう”ようで、胸の奥がじわりと冷えていく。
「……行くぞ」
無表情にそう告げて歩き出したアイネの背を、クライは黙って追いかけた。
向かったのは、町の中央にある冒険者ギルドだった。
灰色の石を積み上げた頑丈な建物で、入口には傷だらけの剣を模した紋章が彫られている。
その下をくぐった瞬間、空気ががらりと変わった。
中は喧噪に満ちていた。
武骨な男たちが酒を煽り、依頼掲示板を睨み、時には肩を叩き合って笑っている。
木の床は踏み鳴らされてすっかり擦り減り、壁には牙や爪といった戦利品が飾られていた。
まさに、戦いを生業とする者たちの巣窟――力と欲がうごめく場所だった。
扉が開いた音に、ギルド内の視線が一斉にアイネとクライに注がれる。
その目には、興味、侮り、そして――欲望が滲んでいた。
「……あの姉ちゃん、えっらい色っぽい体してんなぁ」
「ありゃ上玉だぜ。一晩いくらで相手してくれんのかね?」
「なぁ姉ちゃん、そんなガキより、俺のほうが気持ちよくさせてやるぜぇ?」
下卑た声がそこかしこから浴びせられ、空気は濁り、笑い声さえも汚れていた。
クライは不安げに、そっとアイネの袖を引いた。
「……アイネ。」
「気にするな。あんなダニどもは、無視しておけ」
低く、冷ややかな声。
だが、それすらも彼らの興奮を煽ってしまった。
「おっ、気も強ぇのかよ……たまんねぇなぁ、おい!」
――そのときだった。
「おいガキ、犬みてぇに尻尾振ってろよ。……女の次は、お前でもいいぜ?」
クライに向けて男が絡み出し、クライは肩を跳ねさせる。
「……ふん、犬よりよく吠える馬鹿の命令など誰も相手にしないな」
「なんだと?……女が調子こいてんじゃねぇぞ!」
「そうだな。だが女、子供にしか吠えられん腑抜けではないがな。」
「テメェ……大人しくしてりゃ……」
その言葉が終わるより早く、空気が凍りついた。
「面倒だ……貴様らもう黙っていろ。」
その一言と、圧倒的な殺気。
賑やかだったギルドが、静寂に包まれた。
笑っていた者や飲んでいた者、そしてクライもまた、声を発せなかった。
ただその場に立ち尽くし、そこにいる者全てが脂汗を流して硬直していた。
「――てめぇら、営業妨害するなら他所でやれ!!」
緊張を裂くような声が、カウンターの奥から響いた。
現れたのは、灰混じりの髪を後ろで束ねた壮年の男。年の頃は四十を少し越えたあたりだろうか。
その目は鋭く、歴戦の戦士を思わせる。
片腕から先が失われていたが、動きには一切の無駄がなかった。
どうやらこのギルドの受付――いや、番人のような存在らしい。
アイネは男を一瞥し、無言でカウンターへと歩いた。
その背を、誰も追わなかった。追えなかった。
先程の殺気がこの場の人間全てを縛り付けていた
「お姉さん、バカばっかりですまないね」
男は肩をすくめ、気の抜けた調子で言った。
「どこのギルドもこんなもんさ。……ここから東の山で狩った、小型だが三体分の魔物の核だ。依頼は出てないか?」
「ほう、三体分とは……だが、依頼は出ておらん。討伐料は下がるが、良いかい?」
「ああ、わかっている。それでいい」
アイネは首元に手を伸ばし、黒革紐を引いた。
紐の先に揺れていたのは、鈍く光る金属の小札。表面には細かい刻印が施されている。
「ほう、Bランクか」
男は小さく目を細めただけだった。
「すごい殺気だったのも納得だ」
その声を聞きつけて、ギルド内の冒険者たちがざわめき始めた。
「まだあの歳で?」
「女の身でBだと?」
「三体も魔物を倒したのか!?」
囁きとざわめきが一気に広がっていく。
受付の男はわずかに苦笑しながら、慣れた手つきで核を確認し、奥から金貨袋を取り出して差し出した。
そのやりとりを聞きながら、クライはまた一つ、知らなかったことを覚えた。
――依頼がなければ、報酬は減る。冒険者とは、そういう世界なのだ。
「で、お姉さん。他にご用は?」
「この村に、孤児院はあるか?」
クライの心臓が、どくんと跳ねた。
(別れたあとは、誰に剣を学んで、誰の言葉を聞けばいい?)
(焚き火の前で笑った声を、もう二度と……)
心の中で、必死に祈る。
どうか、ここにはありませんように――
「ん〜……残念だが、この村にはねぇな。だが、南西の大きな街にはあるはずだ。あそこは行商も多くて、孤児や施療院も受け入れてると聞く」
「……そうか」
「……!」
クライは、思わず息を吐いた。
胸の奥に広がる安堵は、ほのかに温かかった。
けれどその温もりは、じわじわと別の感情に変わっていく。
(フローネン……次に向かうのは、そこかな)
(そしたら、僕は……)
答えのない問いが、心に静かに根を張る。
「ちょうど良かったな。明朝、フローネンへ向かう行商の護衛が一つ空いてる。少々危険で報酬は並だが……どうだね?」
フローネン――そこは、アイネが目指す西方からも大きくは外れない。
一度は即答しかけたが、視線が自然とクライへと向く。
子どもを連れて行くには、少しばかり危険な旅だ。
だが、ここで足を止める理由もまた、見つからなかった。
「……受けよう」
アイネは短く告げた。
こうして次の任務を決めた二人は、ギルドを後にした。
日が傾き、村の影が長く伸びていく。
石畳の道を歩きながら、二人は宿を探していた。
道の脇には串焼きや甘い饅頭が並び、子どもたちのはしゃぐ声が響いている。
その匂いに惹かれたのか、アイネがふと立ち止まり、表情を変えずに、饅頭をふたつ買ってくる。
何も言わず、そのうちのひとつをクライに差し出す。
「あ、ありがとう……」
手のひらに収まる饅頭は、ほんのりとあたたかかった。
ひと口かじると、甘い芋餡が舌の上でとろける。
胸の奥に滞っていた何かが、そっとほどけていく。
故郷とは違う空気。
違う言葉。違う音。違う世界。
――だけど。
(まだ……少しの間、一緒にいられる)
それだけで、少しだけ心が軽くなった。
そして、クライの中に小さな決意が芽生える。
(剣がなくても、背中で眼で語るんだ……)
(あんな風に、誰かを黙らせる強さが……いつか、僕にも)
残された時間を、大切にしよう。
それは、小さくも、確かに灯った祈りだった。
宿にたどり着いたふたりは、簡素ながら清潔な部屋に通された。
木の床と寝台がひとつずつ、小さな机と水桶が置かれた、旅人用の質素な部屋だ。
「ふぅ……やっと横になれる……」
そう言いながら、クライは荷物を置き、ほっと息をついた。
だがその瞬間――背後で布の擦れる音がした。
振り返ると、アイネが無言で上着を脱ぎ始めていた。
「えっ……ちょ、ちょっとアイネ!?」
「身体を拭くだけだ。何を騒いでいる?」
露わになった肌は、戦いを生業にしているとは思えないほど白く、なめらかだった。
細く引き締まった肩の線に、クライは思わず目を奪われてしまう。
さらに下着に手をかけたところで、我に返る。
「ぼ、僕だって男なんだよ! はしたないよ! そ、外出るから! ごゆっくりどうぞ!!」
クライは顔を真っ赤に染めて、転がるようにして部屋を飛び出した。
怒声にも似た声に、取り残されたアイネは不思議そうな顔をしていた。
閉じた扉の向こうからは、静かに水音だけが聞こえてくる。
廊下の片隅でうずくまりながら、クライは顔を覆った。
赤くなった頬がなかなか冷めないまま、彼はしばらく帰るタイミングを完全に見失うのだった。