2 旅立ちの朝
夕暮れ。父を含めた犠牲者の弔いと村の片付けが一段落した頃、クライは村の炊き出しから二人分の夕食を抱えて帰宅した。
「ただいま!」
扉を開けて明るく声をかけると、奥で剣を磨いていたアイネが顔を上げた。
久しく交わしていなかった、誰かと暮らすような当たり前のやり取り。アイネはふっと表情を緩め、静かに言葉を返す。
「……おかえり」
「ご飯、まだだよね? これ、アイネさんの分もあるから、一緒に食べよう!」
クライが差し出すと、アイネは素直に礼を述べた。
「ありがとう。……それと、“さん”付けはいらない。呼び捨てで構わない」
「うん、じゃあ……アイネ、一緒に食べよ!」
二人は簡素な木の食卓に腰を下ろした。
夕食の間、クライは父の埋葬が無事に終わったことや、どれほどアイネの剣技に感動したかを語った。母は幼い頃に病で亡くし、普段は父と二人暮らし。弓矢は父から教わり、狩りも少しできるという。
明るく話そうとする言葉の端々に、ぽっかり空いた心の穴が滲んでいた。
アイネは黙って耳を傾け、ときおり促されては、自らの旅の話を語った。魔物との戦い、険しい山道、そして眼前に広がる美しい海──
クライの目が子どものように輝くたび、アイネの胸にも小さな灯がともる。
久しぶりだった。誰かと共に囲む、あたたかな食卓というものが。
食後、クライは鍋で沸かしたお湯を桶に移し、隣室へと手渡す。
「アイネが、そっちの部屋を使って。僕はこっちで寝るから」
それが普段、父と寝ていた寝室だと気づいていたが――
アイネはクライの気遣いを受け取り、何も言わずただ礼を述べた。
「そうか。……ありがとう」
夜が更け、布団に横たわると、薄い戸の向こうから小さなすすり泣きが聞こえてきた。
一瞬、声をかけようかと迷った。
だが――少年の誇りを傷つけぬよう、アイネはそっと目を閉じた。
翌朝。台所から立つ音で、アイネは目を覚ました。
「……クライ?」
「おはよう、アイネ! 朝ごはん、もうちょっとでできるから、待ってて!」
元気な声が返ってくる。アイネは軽くうなずき、静かに身を起こした。
二人で並んでとった朝食は、驚くほど美味しかった。アイネは小さく感心しながら尋ねる。
「……うまいな。慣れているのか?」
「うん、いつも作ってたから。父さん、料理はあんまりだったんだ」
クライは苦笑しつつそう言った。
何気ない朝の会話。けれど、そこには確かに「生活」があった。
朝食を終えると、アイネは静かに立ち上がり、玄関の剣を手に取った。
「……少し、体を動かしてくる」
そう言って戸口を開け、朝靄の中へと出て行った。
クライはその背を見送り、卓上に残った湯気を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、そっと立ち上がる。家を出て、家の裏に咲いていた野花を少し摘んだ。
クライの家から少し降りた小さな丘の斜面に並ぶ墓標のひとつ。その前で、クライはしゃがみ込み、そっと花を供えた。
「……母さん。おはよう」
風が、静かに髪をなぶる。
「昨日、父さん……父さんがね、村を守って、あの魔物と戦って……」
ぽつり、ぽつりと語りながら、クライは目を伏せた。
「……父さんとそっちで二人仲良くしてね」
言葉はしだいに震え、手が小さく握りしめられる。
「それから……助けてくれた人がいるんだ。すごく強い人。たった一太刀で、あの魔物を倒してくれた。名前は、アイネっていうんだ」
ふと、空を見上げる。朝の光が、葉の隙間から差し込んでいた。
「……ちょっと変な人だけど、本当はきっと、すごく優しい人だと思う」
しばし黙って、手を合わせた。
「アイネの剣が……背中が……どうしても、頭から離れないんだ……」
声に、ほんのかすかに迷いが混じる。
「……ダメだよね? ついて行ったら……迷惑だし。村が大変なときに、僕だけ勝手にいなくなったら……」
墓は静かだった。風の吹く音や小鳥の囀りよりも。
「何とか言ってよ! 父さん……! 母さん……」
墓はどこまでいってもただの、墓だった――
「……そろそろ、私はまた旅に出る」
「えっ、もう行っちゃうの?」
「あぁ、ここには立ち寄っただけだからな。クライ、世話になった」
クライは一瞬だけ寂しげな表情を浮かべたが、すぐに明るく言った。
「そ、そっか……うん! 気をつけて。もしまた村に寄ってくれたら、今度はもっと旅のお話聞かせてね!」
アイネは小さく微笑み、扉を開けて静かに出ていった。
その背中を見て、クライは少しだけ口を開きかけて、けれど何も言えず、唇を噛み締めた。
別れを告げたクライは朝食の片付けを始めた。
……だが。
あの剣の煌めきが、どうしても頭から離れなかった。
「僕……やっぱり行きたい!」
クライは急いで簡単な旅支度を整えた。壁にかけていた小さな弓と矢筒、短剣、食料と水、使い慣れた布袋――そして村人たちが集まる広場へと向かう。
皆は朝から片付けに追われていたが、旅装束のクライを見て、驚いた村長が歩み寄り尋ねた。
「クライ? どうしたんだその格好……まさか一人で狩りにでも行くのか?」
「ち、違うんだ……どうしてもアイネについて行きたくて……」
「な、何を馬鹿なことを言っとる!?」
「……馬鹿だってわかってる。無茶なのも。……でも後悔したくないんだ!」
クライは深く頭を下げる。
「みんな、大変な時なのに……ほんとうにごめん。でも、行かなきゃいけないんだ。……今は、そう思うんだ」
その言葉に、小さい頃からよく世話になっていた老婆が、静かに言った。
「……気をつけて、行っといで」
クライは思わず、パッと顔を上げた。
「ば、ばあさん! 何を言って……」
「我儘ひとつ言いやしない、この子がここまで言ってるんだよ? 送り出してやんな」
老婆は涙を浮かべながら微笑んでいた。
「おばあちゃん……ありがとう……」
クライはまた深く頭を下げた。
その姿と老婆の言葉に、村長は言葉が出ず、やがて口を開いた。
「……わかった。もう何も言わん。だがせめて、いつか帰ってくるんだ」
「うん……いや、はい! わかりました!」
だがその直後――
「ところであんた、あの女戦士さんがどっちへ向かったか知ってるのかい?」
別の場所から声が飛んできて、クライは「うっ」と目を泳がせた。
的確すぎる指摘に、慌てて振り返る。
「……あーっ、えっと……!」
問いかけたのは、近所のお節介焼きのおばさんだった。
あきれたように、ため息まじりで西の空を指さす。
「まったくもう……西の方角に歩いてったよ。早く行かないと、追いつけないよ!」
「ありがとうっ!」
クライは深く頭を下げ、声を張って礼を言う。
そして――いくつもの眼差しに背中を押されながら、少年はまっすぐ前を向き、駆け出していった。
その後ろ姿を見送りながら、おばさんがぽつりと漏らす。
「あの子、しっかりしてるけど……まだ子供だし、本当に大丈夫かねぇ……」
すると隣の老婆が目を細めて優しく呟いた。
「――きっと、大丈夫さ。あの子なら、きっとね」