1 剣と少年
魔物を斬り伏せたのは、一瞬の出来事だった。
あまりに速すぎて、村人たちの理解が追いつかない。
泥と血に染まった広場には、ただ恐怖の余韻だけが残っていた。
斬られた魔物の体は、悲鳴を上げることもなく崩れ落ち
やがて、黒い霧となって空気に溶けるように、静かに霧散していった。
――では、報酬を頂こうか。
凛とした声が、その静寂を切り裂いた。
生き残った村人たちは、はっとして顔を上げる。
ようやく事態を飲み込んだのか、ぽつぽつと歓声が上がり、それはやがて歓喜の波へと変わっていく。
「……倒した? 本当に?」
「見たか……真っ二つに……!」
「う……嘘だろ……。あの女、本当に人間か……?」
村長も我に返り、慌てて叫ぶ。
「い、急げ! 約束の金貨を用意しろ!」
騒然とする広場の中、アイネは無表情のままその光景を見つめていた。
やがて村長が、畏れと感謝、そしてどこか釈然としない面持ちで金貨の袋を差し出す。
「約束の報酬だ……さ、さあ、受け取ってくれ……」
村長の手は震えていた。金を渡すことへの惜しみではない。目の前の“それ”が、人間とは思えなかったからだ。
アイネは黙ってそれを受け取り、ちらと空を見上げた。
「今日はこの村で一泊するつもりだったんだが……泊まれる場所は、なさそうだな。……また野宿か」
その独り言に、ふいに少年の声が飛び込んできた。
「うちに泊まってよ!」
クライだった。
その瞳は屈託なく、まっすぐにアイネを見つめている。
「クライ、お前……!」
村長が思わず声を荒げかけたが、アイネの顔を見て、言葉を呑んだ。
アイネは静かに首を横に振る。
「気持ちだけ、受け取っておく。……遠慮しておこう」
常識の外にいる者として向けられる拒絶や警戒――それには慣れていた。
だが、クライは一歩も引かなかった。
「でも、僕は知ってるよ! この人は、僕たちを救ってくれた英雄なんだ! 村を守ってくれた剣士のお姉さんだよ!」
小さな背が、広場に響くように叫ぶ。
その声は震えていたが、確かに皆の胸に届いていた。
アイネはしばし少年を見つめ――ふっと目元を緩めた。
アイネはしばらく口を開かなかった。
風が吹き、銀の髪がなびく。
やがて、ほんの僅かだけ目を細め、わずかに肩を落とした。
「……泊まらせてもらおうか」
「やった! ありがとう! あっ、僕、クライっていうんだ!」
差し出された小さな手に、アイネは一瞬だけ戸惑い、そして静かに握り返す。
「……アイネだ。よろしく頼むクライ」
ややあって、村長がそっと近づいてきた。
どこか硬い表情のまま、視線も合わせずに口を開く。
「……とにかく、助かった。……その、礼は言わせてもらうよ」
ぎこちないが、精一杯の感謝だった。
アイネはうなずくだけで、それに応える。
「じゃあ、うちに案内してくるね! 家の様子も見ておきたいし!」
クライが声を弾ませる。
村長は少し戸惑いながらも、頷いた。
「……ああ。気をつけてな。お前の家は丘の上だったな。あそこなら無事かもしれん」
「うん、ちゃんと残ってるの、見えたから! 行ってきます!」
クライが歩き出し、アイネも無言でその背を追った。
村の外れ、緩やかな丘を登る。
途中、クライが斜面の先を指さした。
「あれが僕の家。丘の上だったから、魔物の攻撃も届かなかったんだ」
村の惨状の中で、ぽつんと形を保った一軒家。
マモノからの傷ひとつなく、穏やかな佇まいを見せていた。
「父さん、森へ通いやすいようにって、この場所に家を建てたんだ。」
アイネはしばらく無言で家を見つめていたが、ぽつりとつぶやく。
「……なるほど。理にかなっている」
クライは扉を開けて中に入ると、軽く靴を脱ぎながら言った。
「中、あんまり片付いてないけど……ゆっくりしてて!」
壁に掛けられた弓、炉端に置かれた乾いた薪。
食器棚には、二人分の茶碗と皿が揃っている。
ふと、棚の上に置かれた木彫りの小さな動物を手に取った。
「……親の手か。器用だったんだな」
形は稚拙だが、どこか温かみがある。
母親の気配が見当たらなかったが、込み入った話だと思い、あえて触れなかった。
「僕、ちょっと村に戻ってくるね。……見送ってあげたいんだ。父さんに、生きてるって……ちゃんと伝えなきゃ」
明るく言ったつもりだった。けれど、その笑みはほんの少しだけ陰っていた。
目を伏せ、クライは小さく息を吐く。
それを見ていたアイネが、そっと問いかける。
「……お前の父親も、あの魔物にやられたのか?」
クライは、うなずいた。
「うん。村を守ろうとして、戦って……」
静かに、だが確かににじむ痛み。
クライはあえて明るく言い換えるように続けた。
「だから今、村のみんなも大変なんだ。片付けとか、やることいっぱいでさ」
アイネが一歩、前に出る。
「私も手伝おう。力にはなれる」
だが、クライはすぐに首を振った。
「大丈夫。あんな魔物を倒したんだから、きっと疲れてるよ。今は休んでほしい。……せめて、僕にできることをしたいんだ」
その言葉には、優しさと子どもなりの気丈さが滲んでいた。
アイネはしばらく黙り――やがて、そっと息を吐く。
「……わかった。しばらく甘えさせてもらおう」
「うん、すぐ戻るから!」
クライは元気よくそう言い残し、玄関を飛び出していった。
その背を見送ったアイネは、ぽつりとつぶやく。
「……変なガキだ」
静かに呟き、少しだけ口角を緩める。
「……だが、嫌いじゃない」