プロローグ
少年と女剣士が旅をする、少しずつ関係が変わっていく物語です。
プロローグ〜第9話まで一気に公開しています。
初めての投稿で、まだ至らない点もあるかもしれませんが、
静かに始まりながらも、ふたりの心が少しずつ動いていく様子を楽しんでいただけたら嬉しいです!
その背中に、なりたいと――彼は、そう思った。
けれど、あの日のクライは、ただ泣くことしかできなかった。
山に囲まれた小さな村に、クライという少年が住んでいた。
父と二人きりの生活。母はクライが物心つく前に病で亡くなった。
父は狩人だった。腕は確かで、口数は少ないが、よく笑う人だった。
貧しくとも、焚き火を囲む夜はいつもあたたかく、優しい時間が流れていた。
クライは父譲りの黒髪と金の瞳を持ち、母譲りの端正な顔立ちをしていた。
村の誰からも、まるで本当の家族のように可愛がられていた。
朝は弓の手入れを手伝い、父の背中を追って森に入る。
夜は焚き火の前で、母の話や遠い森の出来事に耳を傾けるのが好きだった。
「いつか、僕も父さんみたいに強くなりたいな」
「強くならんでいい。優しくなれ。強さは、後からついてくる」
そんな日々は、何の前触れもなく終わった。
それは、“黒の巨影”だった。
陽を遮るように、突如として村に現れた。
形は人に似ていたが、その輪郭は常に滲み、揺らめいていた。
黒煙のような粒子が空気を巻き込みながら集まり、巨大な人影を形作っている――そんな存在だった。
目も口も、あるのかないのかわからない。
ただ、深い井戸の底から響くような、濁った咆哮だけが、周囲の空気を震わせていた。
地を踏みしめるたび、音もなく村の地面が砕け、家々が圧し潰されていく。
父は弓を構え、矢を放った。
だが、矢は音もなく巨影の胸へと消え、風すら起こさなかった。手応えは皆無だった。
まるで薄い膜を裂いただけのように、黒い身体はわずかに揺れただけだった。
傷口は一瞬だけ空白を見せたが、すぐに黒煙のような靄が集まり、元の形を取り戻していく。
「……効いてない……?」
父が呟いた声に、クライは息を呑んだ。
確かに矢は刺さった。
けれど、ほとんど意味がなかった。巨影は痛みも怯みも見せず、ただ無感情に、重く、村へと踏み込んでくる。
目の前の“それ”は、生き物とは思えなかった。
だが、死んでもいない。
矢が通る程度の実体はありながら、心も命も感じられない――そんな“何か”だった。
「クライ、逃げろ! 森へ行け!」
「一緒に行こうよ! 父さんも!」
「馬鹿……! お前だけは、絶対に生きろ……クライ!」」
言葉のあと、黒い塊の腕が振るわれ、空を裂いた。
その一撃に、父の姿は飲まれ、影のなかへと消えた。
「父さあああああん!!」
崩れかけた土壁の陰で、クライは地面を殴りながら泣き叫んだ。
耳に焼き付くのは骨の砕ける音。鼻を突くのは泥にまみれた血の臭い。
そして瞼の裏には、もう戻らない父の笑顔だけが焼き付いていた。
だが、そんな悲劇は、この世界では珍しいものではなかった。
人の命はあっけなく、無慈悲に失われる。
クライもまた、その現実に突き落とされたひとりにすぎなかった。
――そのとき、場違いな声が、無残に荒らされた村に響いた。
「村長はまだ、生きてるか?」
かすかに、土を踏みしめる音が近づいてくる。
土煙の向こうから現れたのは、一人の女だった。
銀の髪が、灰混じりの風に揺れる。
肩にかかるほどの長さ。薄紅の瞳。
荒れ果てた光景を前にしても、その目には冷たい光しか宿っていなかった。
「で、あの魔物を倒したら、いくら出せる?」
崩れた倉の陰から、血まみれの村長が這い出るようにして姿を見せた。
顔には恐怖と困惑が浮かび、血の混じった唾を吐き捨てる。
「な、何を言っておる……!? お主、女だろうが……!」
「ふん、ならお前がヤツを倒すか?――で、払える額は?」
「こ、こんな状況で金の話か……!? だが……いい、十枚だ! 金貨十枚払おう! だから……頼む!村を、村人たちを助けてくれ!」
「……まぁ田舎ならそんなものか。――引き受けてやろう」
女は一歩、前へ出た。
風が止まり、空気が張りつめる。
淡く青白い魔力が、彼女の身体を月光のように包み始めた。
剣が抜かれる音がした。
その銀の刃が、空に軌跡を描いた次の瞬間――
影の巨影は、抵抗する暇もなく真っ二つに斬り裂かれていた。
静寂。
その背に、淡く光る魔力をまとい、銀の髪を揺らす剣士の姿。
土埃のなか、まだ涙も止まらぬクライは――
その剣に、その背に――
恐怖も痛みも、ただ吹き飛んだ。
「なりたい」と、そう思ってしまった。