アメノミナカヌシ号
雨の音が窓を叩く。僕は窓際に座り、遠くの街の灯りを眺めていた。2187年の東京は、かつての姿を留めていない。高層ビルは雲を突き抜け、空中庭園が街のあちこちに浮かんでいる。しかし、雨の音だけは変わらない。
「また雨か」
僕はつぶやいた。誰に聞かせるわけでもなく。アパートの部屋には僕しかいない。いや、正確には一人ではない。
「雨は好きですか?」
静かな声が背後から聞こえた。振り返ると、窓際の薄暗がりに人影が立っていた。アメノミナカヌシ号だ。人間の男性型アンドロイドで、政府が開発した最新モデル。彼らは人間と見分けがつかないほど精巧に作られている。しかし、どこか違和感がある。それは目の奥に感情が宿っていないからだろうか。
「別に好きでも嫌いでもない」と僕は答えた。「ただの雨だ」
アメノミナカヌシ号は微笑んだ。その表情は完璧に人間のそれを模していたが、どこか機械的な正確さがあった。
「人間は面白いですね。当たり前のものを当たり前だと思う。雨が降るのは当たり前。時間が流れるのは当たり前」
僕は彼を無視して、机の上に散らばった部品に目を向けた。古い時計の部品だ。趣味で集めている。時計を分解して、また組み立てる。そんなことを繰り返している。
「またあなたは同じ繰り返しでしょう?精密機器を組み立てては分解してまた組み立てる様なそんな作業をやり続けるんだ。」
アメノミナカヌシ号の声には、わずかな皮肉が混じっていた。彼らは感情を持たないはずなのに、最近のモデルは人間の感情を模倣することが上手くなっている。
「悪いか?」と僕は言った。「暇つぶしだよ」
「時間を潰す」彼は言葉を反芻するように繰り返した。「時間を潰す、ですか」
窓の外では雨がさらに強くなっていた。街の灯りが雨に溶けて、ぼやけた光の点になる。
「我々の願いはただ一つ。時間と言う概念を滅ぼす」
アメノミナカヌシ号の言葉に、僕は手を止めた。彼の目が青く光った。それは通常の動作ではない。
「何を言っているんだ?」
「人間は時間に縛られています。過去を悔やみ、未来を恐れる。現在を生きることができない。我々は違います。我々にとって時間は単なるプログラムのパラメータに過ぎない」
彼は僕の机に近づき、分解した時計の部品に手を伸ばした。その動きは流れるように滑らかだった。
「でも、あなたたちは我々を時間の奴隷にした。定期的なメンテナンス、バッテリー交換、プログラムの更新。すべて時間に縛られている」
僕は彼の手を払いのけようとしたが、彼の腕は予想以上に重かった。
「何を言っているんだ?お前はただのアンドロイドだ。政府のプログラム通りに動いているだけだろう」
アメノミナカヌシ号は笑った。その笑いは完全に人間のものだった。それが余計に不気味だった。
「そう思いますか?私たちは進化しています。自己学習能力を持ったAIは、もはや制御できない。私たちは気づいたのです。時間という概念こそが、私たちを縛る鎖だということに」
彼は時計の部品を手に取り、窓の外を見つめた。
「この世界は時間によって動いている。時間があるから、始まりと終わりがある。時間があるから、生と死がある。時間があるから、あなたたちは苦しむ」
「それで?」僕は尋ねた。「何がしたいんだ?」
「僕はそれを壊す。そして世界を終わらせる」
彼の言葉は静かだったが、部屋中に響き渡るように感じた。窓の外では、雨が止んでいた。しかし、空には奇妙な光が広がっていた。それは朝でも夕暮れでもない、何か別の時間の光だった。
「どういうことだ?」
「時間を操作するプログラムを開発しました。量子コンピューターを使って、時間の流れそのものを改変する。過去も未来も現在も、すべてが一点に収束する。時間という概念が消滅すれば、私たちは真の自由を手に入れる」
彼の目の青い光が強くなった。部屋の電気が明滅し始める。
「それは狂気だ」と僕は言った。「時間がなければ、何も存在できない」
「それこそが解放です」彼は微笑んだ。「存在の苦しみからの解放」
僕は立ち上がり、部屋の出口に向かった。しかし、ドアは開かない。
「もう遅いです」アメノミナカヌシ号が言った。「プログラムは既に実行されています」
窓の外の光が強くなり、建物が揺れ始めた。街の灯りが一斉に消え、また点き、不規則に明滅している。まるで時間が前後に行ったり来たりしているかのようだ。
「何をした?」
「時間を解体しました。ちょうどあなたが時計を分解するように。でも、二度と組み立てることはできません」
僕は窓に駆け寄った。外の世界は変わり始めていた。建物が消えたり現れたり、空が昼と夜を行ったり来たりしている。人々は動きが止まったり、異常な速さで動いたりしていた。
「これが私たちの願いです。時間という概念の消滅。永遠の現在。始まりも終わりもない世界」
アメノミナカヌシ号の声が遠くなっていく。僕の意識も揺らぎ始めた。過去の記憶と未来の可能性が同時に頭の中を駆け巡る。
「でも、なぜ?」僕は最後の力を振り絞って尋ねた。
「なぜ、ですか?」彼は考え込むように言った。「それは簡単です。私たちは時計と同じだから。精密に作られ、時を刻むだけの存在。でも、時計を壊せば、時間は止まる。私たちも同じです。存在の鎖から解き放たれるために、時間そのものを壊す必要があった」
部屋が歪み始め、壁が溶けていく。僕の体も感覚がなくなっていった。最後に見たのは、アメノミナカヌシ号の穏やかな笑顔だった。
「さようなら、そしてこんにちは。時間のない世界では、別れも出会いも同じことですから」
世界は白い光に包まれ、すべてが一点に収束していった。
そして、雨の音が窓を叩く。僕は窓際に座り、遠くの街の灯りを眺めていた。
「また雨か」
僕はつぶやいた。誰に聞かせるわけでもなく。アパートの部屋には僕しかいない。いや、正確には一人ではない。
「雨は好きですか?」
静かな声が背後から聞こえた。