ミドリノ病院まで200m
雨が降り始めたのは火曜日の午後3時頃だった。小さな雨粒が窓ガラスを叩く音が、部屋の静寂を心地よく乱していた。僕は窓辺に座り、向かいのビルの屋上にある緑色の看板を眺めていた。「ミドリノ病院まで200m」と書かれたその看板は、10年前からそこにあったが、僕はまだ一度もその病院を訪れたことがなかった。
僕の部屋は6畳一間のアパートで、キッチンとバスルームが付いている程度の質素なものだった。壁には古いジャズのレコードジャケットをいくつか飾り、本棚には村上龍と小川洋子の小説が並んでいた。ベッドの横には、使い込まれた木製の机があり、その上にはタイプライターと半分だけ書かれた原稿が置かれていた。
電話が鳴ったのは、コーヒーを淹れ終わった直後だった。
「もしもし」と僕は言った。
「久しぶり」女の声だった。懐かしい声だったが、すぐには誰だか思い出せなかった。
「誰?」
「覚えてないの?私よ、加奈子」
加奈子。そう、5年前に別れた元恋人だ。彼女が最後に僕に言った言葉を今でも覚えている。
「あなた自分が性的に不能な事をコンプレックスに感じてるんでしょうけど、傍から見たらそんな事どうでもよくなるくらい欠点だらけよ」
その言葉は僕の心に深く刻まれ、それ以来、僕は誰とも親密な関係を持とうとしなかった。
「何の用?」僕は冷たく尋ねた。
「会いたいの。話があるの」
僕は窓の外を見た。雨はさらに激しくなっていた。
「どこで?」
「ミドリノ病院の前で」
ミドリノ病院は想像していたよりも小さかった。白い壁に緑色のドアが付いた3階建ての建物だった。雨は止んでいたが、地面は濡れていて、僕の靴底が水たまりを踏むたびに小さな音を立てた。
加奈子は病院の前のベンチに座っていた。5年前と変わらない姿だった。黒いコートを着て、赤いマフラーを首に巻いていた。僕が近づくと、彼女は微笑んだ。
「来てくれたのね」
僕は黙ってベンチに座った。
「このあたり、変わったわね」彼女は言った。
「そうかな」
「あのカフェ、覚えてる?私たちがよく行ったところ」
僕は覚えていた。僕たちが初めて出会ったカフェだ。今はもうない。
「なくなったよ」
「知ってる。今はプリン専門店になってるのよ」
僕は何も言わなかった。
「行ってみない?」彼女は提案した。
プリン専門店「月の裏側」は小さな店だった。店内には3つのテーブルしかなく、壁には月の写真が飾られていた。店主は40代くらいの男性で、白いエプロンを着けていた。
「いらっしゃい」と店主は言った。「今日のおすすめはキャラメルプリンだよ」
僕たちはテーブルに座り、キャラメルプリンを注文した。
「ここのプリンは特別なんだ」店主は言いながらプリンを運んできた。「ああそうだ。このプリンは業務用スーパーで買って来たプリンだよ。でもね、私が売るから価値が出るんだよ」
加奈子は笑った。「面白い考え方ね」
店主は微笑んで去っていった。
「で、何の話があるの?」僕は尋ねた。
加奈子はバッグから小さな鍵を取り出した。古い真鍮の鍵だった。
「これ、あげる」
「何の鍵?」
「わからない。でも大事なものよ」
僕は鍵を手に取り、光にかざして見た。特に変わったところはない普通の鍵だった。
「どうして僕に?」
「この鍵は使われない事に意味があるんじゃないかと思ってるよ」彼女は真剣な表情で言った。
僕は鍵をポケットに入れた。プリンを食べながら、加奈子は5年間の出来事を話した。彼女は結婚して子供が生まれたこと、そして今は離婚して一人で暮らしていることを語った。
「あなたは?」彼女は尋ねた。
「変わらないよ。小説を書いて、時々翻訳の仕事をして」
「幸せ?」
僕は考えた。幸せとは何だろう。毎日同じルーティンを繰り返し、誰とも深く関わらず、ただ生きているだけの日々。それは幸せと呼べるのだろうか。
「わからない」と僕は正直に答えた。
加奈子は微笑んだ。「正直ね」
別れ際、加奈子は僕の頬にキスをした。「また会えるかしら」
「わからない」と僕は言った。
彼女は笑って去っていった。僕はポケットの中の鍵を握りしめながら、ミドリノ病院を見上げた。なぜか今日は、その建物が僕にとって特別な意味を持つように感じられた。
僕はゆっくりと病院の入り口に向かった。緑色のドアの前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出した。試しに鍵穴に差し込んでみると、ぴったりとはまった。
回すべきか迷った僕は、結局鍵を回さずに引き抜いた。加奈子の言葉が頭に浮かんだ。「この鍵は使われない事に意味があるんじゃないか」
僕はアパートに戻り、窓辺に座って雨が再び降り始めるのを眺めた。タイプライターの前に座り、新しい物語を書き始めた。それは、緑色の病院と不思議な鍵の物語だった。
そして僕は気づいた。加奈子が僕に与えたのは、単なる鍵ではなく、新しい物語を紡ぎ出すきっかけだったのだと。
雨は一晩中降り続けた。