二
展望台のある山は学校からさほど遠くない。歩いて五分ほど。展望台までの山道も入り口が分かりにくいだけで、登り始めたら一本道。三十分もかからない。道案内として少し前を歩いていた俺だったが、山道に入りそれを話すと吉田がすっと俺の隣を歩き始めた。
「小山くんって意外と話しやすいんだね。もっと淡白であんまり人と関わるのが好きじゃない人だと思ってた」
少し違う一面を見せた途端、その人の事を知った気になるやつが嫌いだ。
「好きじゃないよ。必要だったから話しただけ。それに吉田だって俺と大差ないだろ」
「まぁそうだね。でも私は話すの好きだよ。ただ何を話せばいいか分からなくて。今どきの子ってなんの話しするの?」
「それはツッコミ待ち? 本気なら俺より猪狩に聞けよ」
「いやぁ小雪ちゃんと話す時はあんまり自分の話をしないからさ。そういえば私が展望台に行きたいって小雪ちゃんから聞いたの? 私小雪ちゃんにしか言ってないけど」
「まあ」
「ふーん。随分と用意周到だね」
「そりゃな。俺はなんとしてでも吉田の抱える運命に関わらなきゃ駄目なんだ」
「あ、また言ってる。それ言わない約束だよね?」
「俺は、はっきり言ってその為に吉田と話してるんだよ。隠し通そうとしてるのか知らないけど、俺はそれを聞くまで、辞めるつもりは無い」
「小山くんは私の事を相当特別な何かだと勘違いしてるね。それも仕方ないか。私たち、今日まで大した会話もしてこなかったし。そうだ!改めてだけど自己紹介しない? お互いの事を知ったら少しはその妄想も落ち着くと思う」
魔法を使えるやつがこの世界で特別じゃないわけないだろとは思った。けれどお互いの事を知るのは賛成だ。
「そっちこそ俺を妄想癖だと決めつけてない? まあ、自己紹介ぐらいしてもいいけど」
俺がそう言うが早いか、吉田は「じゃあ私からね」と咳払いをひとつ。この場に少し緊張感を漂わせた。
「えっと吉田結菜です。ちゃんと名前覚えてた? 結菜だよ、いい名前だよね。私にもったいないくらい。あ、話逸れたね。私の好きな物は本と映画、内容はザ、青春って感じの物が好き。ゲームも少しやるかな。でもどうぶつの森とか一人で黙々とやるのばっかり。人と話すのだってもちろん好きだよ。あと花とか鳥とかも好き、というか自然全般が好き。いいよね、心を無にして見るのもいいし、この風景が出来た背景を想像して感傷に浸るのもいい。夏草や、兵どもが、夢の跡。この句もいいよね。好きだな。あ、ちょっと長かったか。こんなところにしとくね。あと質問あったら聞くよ。答えるかは別だけど」
「え、まって、もう終わり?」
話は無駄に長かった。しかし俺が聞きたいことは何ひとつも聞けなかった。
「うん。自己紹介ってこんなものでしょ? 自分を知ってもらうために自分の好きな物を紹介する」
「まあ、そうだけど」
やっぱりそうだ。吉田は知れば知るほど特別とは程遠い人間に見えてくる。それも周りと溶け込むためのフェイクだと言われたらそれまでだけど、今のところそうとは思えない。
「質問がないなら次は小山くんだよ」
「え、ああ」
質問したいことは山ほどある。ただそれをまとめて簡潔にする時間が今は無い。というより吉田が与えてくれない。
しょうがないから無難にすまそうと思った。吉田の言う通り、名前を言って好きなものを言う。普遍的な自己紹介。
「小山|登です。俺は自分の名前があんまり好きじゃない。小さい山を登るなんて一生抱えて生きる名前じゃないだろ。日帰りで登れよ。それに人と話すのも嫌い。つまんねぇから。ゲームも時間の無駄、読書も飽きた。音楽も映画もなんであんなに」
「ちょいちょい」
俺の自己紹介が勢いづいてきたのを吉田の声が止めた。
「そんな嫌いなものばっか並べる自己紹介してたら嫌われるよ? 私は吉田くんの好きなものが知りたいな」
吉田に指摘されて気づいた。俺は嫌いなことしか話していなかった。それしか頭になかった。別に初めは好きなものを言って終わろうとしてたのに。
「あーそっか、好きなものね」
二、三個言って終わりにしよう。そうして考えた。俺の好きな物。好きな物。それは。
「特別なもの」
「随分と抽象的だね。例えば小山くんはどんなものが特別だと思う?」
「具体的には、分からないけど。周りの有象無象と違う、その物だけが持ってる何かがあれがいい」
実質それは俺に好きな物がないと言っているようなものだった。つまらない人間。でも仕方ないじゃないか。この世界が俺よりつまらないのがいけない。
「なるほど。ならなんで特別なものが好きなの?」
「退屈、したくない。人生で一番苦しいことがそれだから。普通に食べて、普通に寝る。普通に生きて普通に死ぬ。人はそれをさも特別な事のように語るが違うんだよ。不謹慎だっていい。俺は孫や子供に看取られての大往生より、隕石が落ちてきて赤く燃える空を眺めながら死にたい。何も無い人生を生きていたって味の無いガムを噛んでるだけだ。いずれ景色も味も匂いも全て無くなって死んだように生きるだけ。だったら俺は周りより少し高いところの空気を吸いたい、つま先を立てて足を攣ったっていい。俺は短くても苦しくても俺が俺らしく生きられる世界で生きたい。ただその為にはきっかけがいる。世界を変えるきっかけが、その為の特別が必要なんだ」
特別じゃない人間が嫌いだ。
それに対して人間みんな特別だと言う奴も嫌いだ。
その逆張りで人間みんな特別じゃないというやつも嫌いだ。
お前はどうなんだと問い詰めてくるやつも嫌いだ。
ただそんなやつに対して嫌いだとしか言い返せない自分は、もっと嫌いだ。
特別になるために特別じゃないものを蔑んで生きていたら、嫌いなものばかり増えて好きなものなんて何も無くなった。別にそれでいい。誰かに好かれるために生きてるんじゃない。
「それって別に特別なものが好きなんじゃなくて、退屈が嫌いなだけだよね」
「そうだけど」
「なら小山くんは好きなものがないってことになるけど」
「別にいいよ。どの道、特別なものが必要なのは変わんないから」
「そんなに世界を変えたい?」
「ああ。吉田の魔法さえあれば俺の世界は絶対退屈しない世界に変わる」
それだけは確信をもって言えた。けれど吉田はため息をつく。
「魔法なんかあっても、世界は変わらないよ。人の殺し方が変わるだけ」
淡々と述べる、ように聞こえて怒っているようにも、失望しているようにも聞こえる。ただ確実なのはその言葉を疑わせない説得力が、吉田の声にあった。そう思わせた。
先程まで普通の女の子だと疑い始めた俺は、その声で目を覚ます。演技かもしれない。おちょくられているのかもしれない。でも、俺の確信に対してそこまでの言葉で言い返せる、その態度にムカついて、思わずこんなことを聞いてしまった。
「なんでそんなことが言えるんだよ。吉田、お前は一体、何者なんだよ」
吉田は階段を二段飛ばして俺の前に出た。しかしその背中は黙ったまま。もう展望台まで数歩。長い木のトンネルを抜けて、開けた場所に出た。
気持ちい風が吹く。子供の頃何かもが嫌になって家出した時、ここを見つけた。ひび割れたアスファルトの地面にベンチがあって、奥の木の下には小さな記念碑みたいなものがある。ただ吉田はそんなものに見向きもせず、一番街を見渡せる手すりまで寄った。
夕日が山の奥に沈んで、街は茜に染まる。それはさながら太陽が街を熱消毒しているようだと、いつの日にか思った。その風景を数秒眺めて、吉田はこちらに振り返る。
「平野有香」
逆光で吉田の顔は薄暗く、見えづらい。そこへ不意に現れた知らない人の名前が重なって、俺はその瞬間だけ吉田を見失った。
「……だれ?」
目の前の影は揺れて答える。
「私の前世。こことは違う、魔法の世界で生きていた時の名前。いわゆる平行世界だよ。でも違いなんて魔法があるかないかだけで、どっちも普通に人が生きて、死んで、戦争してる」
すっと、全てが腹に落ちた。
吉田が時より見せる笑顔も、趣味趣向の普通さも、本物だった。時より見せる身の丈に合わない言葉と説得力も、根拠があった。
俺の違和感と疑いは正しかった。
俺はずっと吉田ではなく、平野を見ていたんだ。言葉にすると意味不明だが、直感では理解出来る。それだけで魔法だとか平行世界だとかは飲み込むことが出来た。
だからこそ、憤りもある。
「よくもまあそんな境遇で、自分は特別じゃないとか俺を妄想癖扱いできたよな」
「たしかに、そうかもしれないね。でも今の私の境遇はちょっと複雑なだけで、特別とは少し違うと思うんだ」
「魔法が使えて、平行世界を知ってる奴が特別じゃないなら、一体誰が特別になれるんだよ。そういう謙遜いらないから、早くその魔法で俺の世界を変えてくれよ」
「世界なんて、変えたところでなんにもならないよ。目新しさは刹那的。隕石だって毎日降ってきたら、いつかは欠伸が出る。魔法だって同じ。一度は小山くんの周りを変えるかもしれない。でもそれはいつまで続くかな。根本的な世界は何も変わってないと、私は思うよ」
語尾を優しく丸めた諭す口調。こいつは何も、分かっちゃいない。既に持ってただけだろ。こっちがどれだけ退屈な人生に嫌気が差してたか、分かた気になって上から語るんじゃねぇよ。
「じゃあそれを証明してくれよ。じゃなきゃ何も納得できない。吉田がどう思うかじゃなく、俺の人生だ。変わった後のことは俺がどうにかする。誰も心配してくれなんて頼んでない。ただ変わる為のきっかけが吉田、平野しか持ってないからこうして頼んでるんだろ。御託はいいから、平野がこっちに来た理由だってなにか理由があるんだろ。俺はそれを聞くだけでもいいんだ」
平野はため息をついた。そしてまた背中を向ける。
「その名前で呼ぶのは辞めて。私は吉田結菜。あと私との話は全部夢か妄想だと思って。そしたら話してあげるよ。平行世界のこと。どうせ話したところで世界は変わらないから」
吉田の最後の一言さえ俺は、俺が世界を変える前振りに聞こえた。話してくれるならあとはどうでもいい。きっかけ一つで世界は変わる。目の前にある運命はそれを確信させた。
「いいよ、それで」
吉田も俺の態度でなにか吹っ切れたようだった。
「じゃあもう私はとっととやることやっちゃうから、ちょっと離れてて」
そう言うと吉田はポケットから何か取り出す。カチカチと聞き覚えのある音。手には夕日で光るカッターナイフ。それはやっぱり昨日の夜と同じく、躊躇いなく、自身の腕に振り下ろされた。
「痛くないの?」
「もう慣れた」
その言葉通り、吉田の動きには迷いがない。左腕に一本線の赤く滲んだ傷口を作って前に突き出す。すると傷口からひとつ、ふたつ血液が地面に落ちた。俺は身構える。この前は水だった。でも今度はアスファルトだ。一体何が起こるのか。ありそうなところで地震を予測して地面に手をつけてみた。しかし、一分、二分待っても、世界は日が沈んでいくばかりで何も変わらない。吉田も二粒血を落としたあとから目を閉じて一切動かない。
不思議に思ったりしたが、強力な魔法で時間が掛かるのかもしれない。集中しているのは確かだ。
あまり刺激しないよう、その場であぐらをかいて吉田の用事が終わるのを待った。山肌に沿って街から風が吹き上がる。草木が擦れる音だけが辺りを埋め尽くす。それら全てに違いを見いだせない俺は視線が定まらずキョロキョロとするが、その甲斐虚しく世界はやっぱりつまらない。そう思ったのに、吉田は俺がつまらないと目を背けた世界の一点に何かを見つけたようだった。
前に突き出した腕をゆっくり下げて、顔を俺たちが登ってきた山道に向ける。俺も同じ方へ視線を向けるが薄暗い下り道が続いているだけで、何も見つけられない。ただ吉田は確かに何かを見ていた。そしてある瞬間、何か確信を得たのか険しい面持ちで座っている俺の二の腕を掴んだ。
「隠れるよ」
吉田はそれだけ言って、階段から反対方向の茂みへ俺を引き連れた。何も見えない俺は流されるまま茂みに隠れ「静かにしてて」と言われるがまま口を噤んだ。
それから数分、茂みの中に慣れてきて冷静に辺りを見渡すが、やっぱり何も変わったことは無い。俺はじわじわとこの状況へ、子供のごっこ遊びに付き合わされているようなしょうもなさを感じていた。
吉田の言葉、雰囲気。そして俺の直感が魔法や平行世界の事を信じさせたが、やっぱりまだ、俺は今日この目で魔法を見ていない。
昨日の夜が夢ではないことを証明できていない。
なにか起これと切に思った。このまま隣で眉間に皺を寄せる吉田が堪らず笑い出して、いつまで騙されてんの。なんて言われた日には、身投げするしか逃げ道は無い。
目を凝らして待った。道の先から何かが現れる瞬間を。あと五、いや十分何も無かったら。変化のない視界に代わって思考ばかり先行する。その時だった。
視界より先に耳が、異変を感じ取る。風や葉音の隙間から、小枝が折れる、大きいものが草の根をかき分ける、そんな音が俺たちの来た道から聞こえた。いくら山道とはいえ、ここの道は草木が生い茂るほど荒れてはいない。人なら舗装されている道を来るだろうから、動物だろうか。
そんな予測をして、近づいてくる音に身構える。時たまリズムを崩したり、足を止めたりしているようだったが、ついにその正体が俺たちが来た道のすぐ隣の茂みから姿を出した。目の前の木の枝を鬱陶しそうに腕で払い除けて辺りを見渡す。それは、俺の見る限り、何の変哲もない、ただの男性だった。歳は二十前半くらいだろうか。細身の体に白い無地のパーカー、は来た道で無地とは言いきれない装飾を付けられていたが、本人はそんなこと気に留める様子はなく、展望台の一番見晴らしのいい手すりに向かっていく。
しかしこの展開、吉田は予想していたのか。吉田は男が現れてからも一切の反応を見せないがネタばらしの前に偶然現れた一般人の可能性だってある。ただどちらであれ、実際に何かは起こってしまった。
とにかくどちらかが行動を起こすまで、言われた通りに黙っているのがいいだろう。もし本当にあの男が吉田にとって隠れなければならない存在なら、俺にそれから守る術はない。
男は現れてから見晴らしのいい場所に立っても、その景色に見とれることもなくキョロキョロと首を振っていた。ただしばらくして満足したのか、後ろポケットから人差し指くらいの茶色い何かを取り出す。遠目からではそれだけで、何かは分からない。はずなのに吉田はそれを見て、なのか。俺に小声で話しかけてきた。
「ねぇ、水筒かペットボトル持ってない?」
「え、あるけど」
「中身は?」
「残ってる」
「貸して」
男から目を離さず、こちらに片手だけを差し伸べる。なんだこいつ。俺はメス渡す看護師じゃねぇぞ。と言いたいのを視線だけに抑えて、リュックから水筒を取り出して渡した。吉田はすぐさま水筒の蓋を開け、視線だけで中身を確認すると飲まずに地面へ水筒を置いた。
何してんだと俺が訝しんで見ていると今度は自分のリュックから二リットルのペットボトルを出してきた。ラベルは剥がされていて中身は満タンに水が入っている。さすがにもう、吉田が単に喉が渇いた訳じゃないことは理解出来た。
やるつもりだ。この水で、昨日の夜暴漢たちをやっつけたみたいにあの男も。
ただ昨日のやり方は大量の水があったからこそできた技なんじゃないか。この量なら顔周りに水を纏わせるとして、少し動けば簡単に抜けられてしまいそうだ。それに前の暴漢と違って吉田はあの男を知っていて明確に敵として見ている。だとしたら素人の訳が無い。あいつも魔法が使えると考えるのが普通……いや、まだ、全て嘘だって可能性も。
疑いながらも、これからの光景に、いくらでも膨らむ空想に、口角が上がっていた。それに気づいて直ぐに手で隠すが、吉田は構う余裕はないようでペットボトルの蓋を開けると飲み口にさっき自分でつけた腕の傷口を近づけて、雑巾を絞るみたいに二粒、血を中に落とす。それを俺の水筒にも。そしてその両方に蓋を閉めて軽く振ると、一瞬手を止めてこちらに一瞥寄越した。色々言いたい事がありそうな瞳だったが、吉田の口から出たのは一言。諦めを含んだ低い声で。
「目、瞑っといて」
ざけんな。
両手にペットボトルと水筒を持って、頭の少し後ろに構える。
その様も。
白く細い腕からは想像できない腕力で、あの男の頭上に投げ上げた。
その動きも。
ペットボトルと見慣れた水筒が宙を舞う。
その軌道も。
吉田の言うこと無視して何一つ、見逃してなんてやらなかった。
そんな俺より当然少し遅れて男は投げられたペットボトルに気づいたようで、馬鹿みたいに口を開けて上を見ていた。俺は俺でその男から目を離し過ぎて、その手に細い傷口が出来ているのを今、気がついた。
ただ吉田が放った二つのボトルはそんな辺りの一つ一つに目もくれず、綺麗な放物線を描いて飛んでいく。そしてついに男の頭上に差し掛かった時、バコンと鈍い音を立てる。水筒がパンパンに脹れていて次の瞬間、腹の底に響く重い破裂音が辺りに響いた。
全てを見届けようとしていた俺だがその一瞬だけ、反射的に目を瞑ってしまう。ただその一瞬で、男のいた場所には真っ白な煙が広がっていた。斜めから差す夕日で煙は乱反射する。水蒸気……吉田は水を沸騰させることもできるのか。
釘付けでそれを見ていた。俺の二の腕を吉田はまた乱暴に掴んで引く。
「逃げるから走って。あと絶対に暴れないで」
次から次にと文句を言う隙もない。言い終えたらもう走り出しているその背中は俺に取り合う余裕が無いようだった。いつも大人の余裕を醸してる吉田がこれだから、あの男は俺が思っているより危険な奴なのかもしれない。
横目で煙幕を見る。男はまだその中にいるようだ。でも所詮は蒸気の目くらまし、すぐに追いつかれるだろう。吉田はどんどん山の中を下っていくがそれもどこかで限界がくる。なにせ今走ってるのは道じゃない。展望台から見下ろした感じ、この先かなり急な崖がある。降りるのはまず無理。これなら多少リスクをとっても来た道から下るのが良かったんじゃないか? 不安になりながら引かれて走る俺を他所に吉田は迷いなく突き進む。先に崖があるのを知らないのか、下り坂を走って順当に速度を上げていく。数秒後にはもう自分の意思で足は止めらなくなって、ついに叫んだ。
「おい!この先崖あんだぞ!止まれ!」
ただ吉田はさらに大声で押さえつける。
「大丈夫だから!! とにかくまじで暴れないで!!」
何を根拠に言ってんだ。あるのか、空を飛べる魔法か、何かが。あるんだよな? 俺は今からそれを信じて、飛ぶしかないのか。何も無かったら、死ぬんだぞ。
ごく当たり前の事実を噛み締める。ただ目まぐるしく転がる今の状況でその事実は味が薄すぎた。当たり前すぎて寧ろ、現実味がなかった。
平行世界からきた少女。それを追う?男。血を混ぜた水、爆発、水蒸気。ここ数十分で起こった出来事は今から俺達がただ落ちて死ぬ運命を否定する。
飛べる。飛べないわけが無い。もう既に俺は乗っているんだ。この世界の物差しでは図れない。吉田の、魔法が使えるやつの運命に。
確信して、強ばった頬を吊ったみたいに笑った。そしてついに、地面を蹴っていた足が空を切る。放り出された浮遊感、慣れた地面はもう数十メートル下にある。ただ別れを惜しむ暇もなく、今度は背後から草木をなぎ払ってこちらに近づく音、それは一瞬で俺達に追いつき、全身を強く押し上げた。追い風なんて日常的に使う言葉じゃ事足りない。吉田の運命力を表しているかのような風圧は重力さえ逆らわせて、俺達は乱れる青葉の雑踏を突き抜けた。
水中から顔を上げて息を吸う。そんな開放感が全身を襲った。十四年の日常は足元でバラバラに広がって、今俺を包むのは身を焦がす茜雲と、世界を熱消毒する西日。手が届きそうなんて表現が狭苦しく感じるくらい、空も雲も太陽も、すぐそこに感じる。ただそれらより近くて眩しい存在が俺の手を引くから、視線は動かなかった。このまま自由落下で死ぬ可能性を眼下に据えてもなお、俺の笑みは消えない。確信が揺るぎない事実に変わったからだ。
吉田は魔法を使える。そしてそいつの運命に乗せられて俺は今、空を飛んでいる。退屈な人生の幕落ち、劇的な人生のプロローグ、今がその瞬間。ずっと願い、待っていた。俺の世界を変えるきっかけが、ついに!
心に体に収まりきらない興奮で体が震えた。思わず強く握った吉田の手、何を勘違いしたのかさらに強い力で握り返され、風切り音に塞がれた耳に「大丈夫」の一言だけ届いた。
少しだけ我に返って下を見る。飲み込まれそうな勢いで地面が近づいてきている中、俺達が落ちて行く方向に雑草の生い茂った広めの売り地があった。吉田が上手く操作したんだろうが着地はどうするのか。他人事のように見ていると吉田が傷のある方の腕を前方に振り払う。すると猛烈な強さの向かい風が体を押し上げようとしてきた。その中に細かな砂利もぶつかって目は開けられたもんじゃない。落下速度が落ちたのかも分からない暗闇の三秒後、体が一瞬ふわっと持ち上げられた感覚と共に風が止む。目を開けるとそこは既に空き地、の二メートル上。そこからは普通に斜め後方に落とされた。先の強風でなぎ倒された草が緩衝材になって落下の痛みは無い。ただ舞い上がった砂利が目や口に入って痛いし気持ち悪いしで気分は最悪。なのに吉田がすぐ駆け寄ってきて「行こう、まだ安心できない」と二の腕を掴んでまた走り出した。俺はその最中で何とか必死に目を擦って口内の砂利を吐き捨てる。普通に目を開けることができるようになる頃には吉田も俺も、体力が底を尽きて重い足取りの小走りが精一杯になっていた。飛び降りてきた山の方に振り向く。吉田が作った煙幕は見つけられなかったが、誰かが俺達と同じように飛び降りている姿もなかった。恐らく上手く逃げられたんだろう。ひとまずの脅威が去ったこの状況はずっと溜まっていた質問を投げかけるのにちょうど良かった。
「なぁ、さっきのやつ。一体なんなんだよ」
吉田は答えない。
「あいつも、魔法が、使えんの?」
切れた息だけ。
「なんで、逃げるの。敵? 戦ってんの?」
頑と無視を決め込む吉田。さすがに気分が悪くなって側溝に砂利を吐き捨てるついでに文句を吐いた。
「それにしたって、あの着地、もっとどうにか、ならなかったのかよ。雑すぎ。めっちゃ砂食ったんだけど」
「あー!もう!」
空を仰いで叫ぶ。聞こえてはいたらしい。
「さっきからうるさいなぁ!私だってあんなこと、初めてしたんだから仕方ないでしょ。ていうかあれだって、小山くんが思うほど簡単じゃないんだからね。私くらいの術師じゃなきゃ今頃小山くん、地面のシミになってたよ。感謝して欲しいね」
「そんなこというなら早く一から説明しろよ。吉田のことも、あの男のことも、平行世界のことも」
「するって言ってんじゃん!ただ、あれは、想定外だった、だけで」
休み無しで走り続けて、切れた息で文句を言い合う気力も尽きてきた。辺りはもう学校近くの見慣れた住宅街、その安心感が背中を押してついに俺達は足を止める。日も隠れて薄暗い交差点の一角、膝に手をついて息を整える吉田と、地べたに座り込んで肩を大袈裟に上下する俺。当然のように先に息を整えて制服の汚れを払った吉田は俺を見下ろして、情けないとでも言いたげな薄笑いを浮かべた。
「一から話すなるとかなり長くなるから覚悟しておいてよ。なにせ、私が二十四年間見ていた夢の話だから」
呼吸が落ち着いてきた頃に、胸焼けしそうな濃い味の言葉。情けないとは言われなかったが揶揄されているのは変わらないらしい。お前に理解できるかなと。
俺からしたらそんなのどうだっていい。理解出来ようが出来まいが、それが俺にとって新鮮なものなら世界は変わる。今すぐにだってそれを証明してやりたかった。なのに吉田はもう遅いし早く風呂に入りたいと言って早々に話を切ってしまった。
俺を焚き付けておきながら無責任な奴だなと思ったが、もう乗りきった運命。今更焦ることもない。代わりに明日の放課後に話すという約束を取り付け、今日は解散した、
今日、どこよりも長く見ていた気がする背中が遠のいていくのを見送って、突然訪れる静寂。しばらく向かう場所を見失って突っ立っていたが、見慣れた風景に囲まれていると自然に体が現実に戻されて、いつしか記憶している道のりを勝手に歩き始めていた。今だけはその無駄に染み付いた記憶を有り難いと思う。今日の出来事を鮮明に記憶しているだけで他に何も考えられそうになかったから。
未だに体の臓器はどこか定位置では無い場所に浮かんでいるような感覚が残っている。世界が変わり始めた衝撃に、吉田という劇薬に、全身で酔っていた。これでまだプロローグだって言うんだから恐ろしい。一体吉田は明日、どんな世界を俺に教えてくれるのだろう。空想に耽っていたその時、背後から俺の名前が呼ばれた。気がした。だから無視して歩いたのに、今度は少し大きな声でそれが聞こえたので渋々振り返った先、思わず眉間にシワが寄った。姿、表情、髪型何一つ今日学校で見たのと違いないのに、どこか不穏な空気を纏っているように感じる、そう感じさせてくる猪狩の姿があったから。
「やっほ、小山くん今帰り?」
「あーうん」
「そっか」
中身の無いやり取りの後、数秒流れる沈黙。知り合いを見つけてとりあえずの挨拶だったならもう帰っていいほどの時間は流れた。でも猪狩はそんな軽い気持ちで俺を呼び止めた訳では無いらしい。さっきから聞いて欲しそうな、言って欲しそうな雰囲気を押し付けてくる。ただ今の俺にそれを受け入れてやれるほどの余裕なんてありはしない。長く続く沈黙、先に猪狩が耐えきれなくなった。
「あのさ!私見ちゃったんだけど放課後小山くん、結奈ちゃんと二人で帰ってたよね。急に予定が出来たから先に帰るって言うから怪しいとは思ったんだけどまさか。それにさっき!私塾の帰りなんだけど、偶然そこの角で二人別れてたのも見たんだよね。一体どこに行ってたの」
見られてたのか、と思う反面。一番重要な所は見られていないようで安心する。一人くらいにならバレたってどうにもならない。吉田にとってそれは二人になっても変わらないだろう。ただ俺にとって吉田の魔法を知っている事はアイデンティティですらある。一人くらい。言い換えればそれは唯一という特別な言葉だ。誰にも奪われたくない。
「別に。今日猪狩に聞いた展望台の話を吉田にしたら行きたいって言うから連れて行っただけ」
「ほんとに? 二人っきりで? いつもなら誘ってくれるのになんでだろ」
「そういう日もあるだろ。偶然だよ」
「ふーん。まあいいけど。これからはあんまり結奈ちゃんに関わらないでくれる?」
「なんで?」
強めに即、問い返した。上から目線で俺に命令するその態度も意味も分からない。ただそれがどうでもいい事ならいくらだって頷いただろう。猪狩は今、俺の唯一奪われたくないものに手をかけた。
たじろぎ目が泳ぐ猪狩、何度か言おうとしてやめて、精査の末に出たのは全く理由になっていなかった、
「私の、大切な友達だから」
それ以上話したってくだらない。そう見切りをつけて背を向けた。吉田の後では可哀想なくらい、猪狩の飲み込んだ内情は興味がそそられなかった。それに関わるなと言っても今更、猪狩にはどうも出来やしない。もう知ってしまって見てしまった。坂道で転がるボールを見ているみたいに、変わり始めた俺の世界に対して、猪狩は余りにも無力だ。それだけに、少し同情もする。
大切な友達から何も聞かされていない猪狩。
大切な友達と思ってくれている人に何も話さない吉田。
この複雑そうな関係にさっき見せた猪狩の態度の理由があるのなら猪狩は被害者でしかなく、何とかしないといけないのは吉田だ。
あいつは一体何を考えているんだろう。
少し、二人の関係に興味が湧いて三メートルくらいはその事を考えていたと思う。ただそれもすぐに明日の期待感に押しつぶされて、家にまではついてこなかった。