一
来た道をうろ覚えで駆け下りる。少しくらい間違っていても下っていればいつかは山を出られるだろう。今はとにかく十分以内に吉田の元から離れないといけない。
がむしゃらに走って走って、もうどれだけ経ったかも分からない。ただがむしゃらに走ったにしては奇跡的に、俺は美鈴の姿を見て道を逸れたあの場所に辿り着いていた。そして一息つく暇も無く、地面が波打つように揺れた。引っ張られるように背後を振り向く。木の葉が不穏な雰囲気で揺れる。どこに隠れていたのか無数の名も知らぬ鳥が飛び立つ。俺は心が詰まりそうになりながらそれを見ている。
何かが欠けた。心のどこか。そこから零れていく感情の名前は知っているのに、何で零れるかは、いくらそれを零しても、分からない。
数秒もたったら俺の何かを奪い去った振動も、異変を映した山の表情も、なにもかも無かったかのようにいつも通りの姿を取り戻すそれを見ていたら俺も、自然と歩き出せるようになっていた。欠けた心は治らない。でも不思議と喪失感は無かった。今でも新鮮に空いた心の穴が痛い。それが、なくした何かの存在を示す影になるから、今それが無くても息が出来る。生きていける。なんて大袈裟に思った。俺がおかしくて、一人で笑った。
「え、小山……? なにしてんのこんなとこで」
聞き慣れた声がしてその方向に視線を向ける。するとそこには、さぞ不気味な光景を見ているのだろう。頬を引きつらせて後ずさりする美鈴の姿があった。
「いや、なにって……。美鈴こそ、こんな山でなにしてるんだよ」
「質問を質問で返すなばか。あんたずぶ濡れで服も泥まみれじゃん。先に説明するのは絶対にそっち」
美鈴が俺の足から頭までを見る視線の後を追って、俺も自分の姿を確認した。そうして驚く。美鈴の言うとおり、服は泥沼にはまったかのように汚れていた。こんなの、ミートソースが飛んでいたとかそんな些細な見落としのレベルを超えている。身に覚えが無いわけが無い。はずなのに、どこまで記憶を遡っても、泥沼にはまった記憶は残っていない。
「説明って言われても、俺も今言われて気がついた。どこで付いていつ付いたかも、分からない」
今俺に起こっている事をそのまま言葉にした。そのとき、唯一俺が俺の変化を自覚した数分前のことを思い出す。
「でも、ここにいる理由はなんとなく分かるんだ。探しに来た。大切な何かを」
色んな事が曖昧な今でも、何故かそれははっきりと口から出た。それを見た美鈴も何か思い当たる節があるように斜め後ろに視線を落としてつぶやく。
「あんたもなんだ。私も、詳しくは思い出せないんだけど、何かを探しに来ていたことだけは覚えてる。それはもし見つけられたなら私の人生が百八十度変わるような。なにもかも、つまらない世界の全部をぶち壊せるような。そんな、特別な何かだった」
何だったんだろう……。
美鈴は忘れてしまったそれに肩を抱いて、深い絶望を隠せないようにうずくまった。
美鈴の言ったこと。吐露した感情。俺もいたいほどよく分かる。多分、俺たちはお互いに別の何かを求めてここに来た。けど何かを得られたのは俺だけで、美鈴は駄目だった。
でもこれは、得られた俺の満足感から来るものじゃなく、美鈴の求める何かはきっと世界を変えもしないし、人生を変えることもないと訳も分からず、ただ確信を持って、そう思う。
もちろんそれをそのまま伝えたら美鈴のことだ、あんたになにが分かると睨まれるに違いない。実際確証があるわけでもないし、説得できる自信もない。
だったら。だったら?
心臓が大きく一回、鼓動を打った。
違う。俺は美鈴に言わないといけない。ただ呆然と絶望する夜、街灯に照らされて浮かび上がる輪郭のように。一歩踏み出せる一言を。
俺だからこそ言える言葉があるはずなんだ。俺たちは何か得た人間と得られなかった人間というだけ。少し選択が違えばいくらでも立ち位置は変わっていた。でもそれは全て終わった後のかもしれない論で、今となっては俺に美鈴の気持ちを全て理解することは叶わない。俺が絶対にたどることの無い結末になってしまった美鈴に、俺が言えることは何か。
目を閉じて考える。脳裏に燻った煙の匂いを感じる。どこかで何かが燃えていた。腹の底に怒号のような音が響いたのを、覚えている。
そうだ。覚えてる。
自分のことで精一杯で救いようのない。
でも。
毎日を必死に生きようとしている。
君みたいな人間に教える言葉を。
「美鈴」
普段通りの声で、何気ないようにその名前絵を呼んだ。美鈴はしゃがみ込んだまま不安そうな顔で俺を見上げた。
「まずはさ、世界を知ることから始めないか?」
「……何の話?」
「絶望するのはそれからでも遅くないってこと。まずは八十点以上のあいさつから!」
「ぜっったいにいや」
ここまで読んでいただきありがとうございました。