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四章

「大手柄だね。小山くん」


 それは帰りの会が終わってすぐ、まだ周りに生徒が多く残っている時だった。隣に視線を向けると吉田がいつもの笑顔の中に隠しきれない興奮を抑えている。分かるよ。俺だって話したいことがたくさんある。


「そっちこそ。生きてるってことは、大金星ってとこか」

「おお!姿も見せてないのによく気づいたね」

「そりゃ、あのやり方で俺たちを助ける理由があるのは吉田しかいないだろ」

「確かに、それもそっか。まぁ勝ったって言うより適当に掻き乱して逃げたんだけどねー。まだ下見の段階らしかったから格下の術師ばっかだったし、本番はこれからだよ」

「これからって、自分より強いやつが来たらどうすんの? 勝てんの?」

「大丈夫!大丈夫!今はどうか知らないけど、私より強いやつなんて百もいないし、そんな人をよく分からない世界に送り込んで国の守りを薄くするようなことしないと思う」

「そっか」


 知らない世界の知らない情報を根拠に大丈夫だという吉田のこと。疑いたいと思っていた俺はもういなかった。

 まず事実として昨日の絶望的な状況から助けられたという実績もあるけど、なにより突きつけられた事実に立ち向かえなかった俺とそれを肯定するように守ってくれた吉田。その距離感が正しいように思えてしまったから。


「てかそんなことどうでもよくて!凄いね小山くん!私でもお手上げだったのにあの二人の問題を解決しちゃうなんて」

「それはまあ……ん? なんで吉田は俺が関わってるって知ってんの?」

「うん? いや、ちょっとね。あの現場を二人見ちゃった訳だからさ、そのまま帰すのは心配で。少し様子を見てたんだ。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、ごめんね」


 申し訳なさそうにそれを言われてしまったらもう何も責められない。適当に流した「いいよ」が口から出る。が、それは流したにしては二人の間に長く残った。ふと辺りを見渡す。先程の喧騒はとうに無くなって、あと二、三人が帰り支度をするのみだった。

 吉田もそれに気づいた様子で、今一度椅子に座り直す。それがお互いにいつもの姿勢を作るきっかけになる。吉田は頬杖ついて、俺は椅子を後ろに倒して揺れる。俺が秘密を暴いて願望を明かしたあの日からずっと、この距離で言えない事は無かった。だから。


「小山くん」

 急に声色を改めた吉田が言うことは恐らく、今回の事件の説明か、それに準ずる重要なことなんだと察した。


「本当に、ありがとう」


 ついたばかりの頬杖も解いて、いやに真剣な顔を作った吉田が体を俺の正面に向けて深深と、頭を下げた。

 一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。吉田から向けられる初めての態度に俺はどんな返しをすればいいのか戸惑って、後ろに倒した椅子を勢いよく戻した音だけが響いた。そのうちに吉田は頭を上げてしまう。


「何度言うんだって思うかもしれないけど、私本当に感謝してるんだ。私にも責任があるって分かってたんだけど、二人の問題に私がどう入ればいいか分からなかったし、入っていいかすらも分からなかった。気づけば仕方ない、私だけのせいじゃないって自分を慰めるようになってて、そんな自分も嫌になって、どうにかしろって言ってくる小山くんに素っ気なくしたり、嫌味で返したりもした。私が気づいていないだけで精神も子供になってるのかもしれないね。ごめんねも足りないし、ありがとうも言い足りない。今日の今日で気持ちの整理もついてないからこんなことしか言えないけど本当に」


 ありがとう。


 その言葉は何度言われても新鮮に、俺の脳に溶け込んだ。長々と説明された吉田の葛藤は正直、断片しか入ってきてない。


 心ここにあらずでたった一つの感情に溺れていた。憧れて、届かななさにイラついて、到底無理だと諦めた。互いに視線を上下に向ける必要のない、対等な関係。その高揚感に。

 今だけ。分かってる。これをずっと引きずって対等だと言い続けるのはダサすぎる。分かってるけど、それでも。もう絶対に叶わないと思っていたものがこうも不意に目の前に現れたら、喜ばずにはいられないだろ。と心の中で熱く興奮して踊り狂う俺は当然、表に立ちはだかる冷静な俺に心音でしか影響を与えない。


「大袈裟だな。俺は別になんもしてないよ。ちょっと背中を押しただけで、変わったのは二人が勇気を出したからだ」


 心在らずのまま答えたそれは、半分本心で半分虚勢だった。その半分というのも言葉に含まれた気持ちの割合のことではなく、二人のことが上手くいったその瞬間と今の時系列の事。

 大したことしてない。吉田に感謝される前はそれだけだったのが、今口から出た言葉には一切残っていない。吉田が肯定した事を、自分で否定する意味がどこにあるだろう。もはや偉業ですらあると思う。ただそれを自分で言うほどダサいことはないと知っているから、強がることしか今の俺には出来ない。


「かっこいいね。私よりもずっと大人だよ」


 それでも吉田が笑ってそう言ってくれるならなんだっていいと思えた。上がるところまで上がった感情はここらで一旦俺を落ち着かせてくる。雲の上まで駆け上がって見える景色を肴に息をした。そうすると何故だろう。

 手離したくない。そう思っていた数秒前の俺が嘘みたいに、今の俺にはこの場所に執着心が無くなっていた。憧れていた場所だ。来てから失望したことは何ひとつもない。もし、何か理由があるとするなら。


 思い当たる、あの温かさ。まだ言葉にならないその思いを、ふと吉田に話してみようかと思った。意味も意義もないけれど、二人を見て見直したこの世界。魔法の無い世界のことを。


「でもさ」


 見切り発車で話し出そうとしたその時だった。短い沈黙を勢いよく裂いた吉田は見切り発車の俺より言葉ができているようで、すらすらと次の話を口から出した。


「確かに、小山くんのアイディアが素晴らしかったのは大前提として、実際起きたことは大したことではなかったよね。数年話せなくてこじれていた関係が拍手ひとつで変わるんだから」

 なにが言いたいのか。黙ってたら吉田の方から言ってきた。少し前のめりになって。


「ねえ、小山くん。今回のことで少し考えが変わったんじゃない?」

 そこはまだ散らかった部屋の中。いきなり土足で入られて俺は一言。


「なにが」


「世界を変えたいって、特別になりたいって、言ってたでしょ? 今回の件ってさ、二人の世界を変えるのになにか特別な、そう例えば魔法とか、必要なかったよね。あるのは現状に目を向けて一歩踏み出す勇気、佐藤くんがした拍手みたいな、些細なきっかけ」

 

いいから。


「はっきり言えよ」


「魔法って本当に必要かな」


 空白の解答欄。答えに行き着くまでの途中式はもう終盤だった。しかしそれは横から入ってきた他人の手によって塗りつぶされ嘲笑われた。

 吉田はそんなこと何ひとつも知らないだろうけど、俺には誤魔化しようのないほど鮮明に、下敷きになった感情が脳裏に焼き付いている。


 こうなったらもう俺のアイディア、感じた温かさ、高揚感。全部吉田の理想の授業進行をなぞっていただけに思えて、体に冷えきった空気が溜まっていく。

 さすがにそこまでは勘ぐりすぎだ。偶然が重なった。ただそれだけ。でも事実として、俺の塗りつぶされた答えは、もう生き返らない。


 吉田に与えられた答えで、この散らかった部屋をどうにかできるか。あの感情に名前をつけられるか。それを俺の答えとして、生きていけるか?

 いやいやいや…………ありえない。そんな馬鹿な話があってたまるか。無下にされた途中式がなければ、何も納得できない。それを吉田は!わざとじゃなくても、それでも!何度も俺は態度で示してきたはずだ!人生の先駆者ってだけで作られたその大人の態度がどれだけ気持ち悪いか!なのに、なのに!吉田はここにきてもまだ俺を馬鹿にしやがる。答えを教えないと歩けないと、魔法ばかり求める単純単脳で可哀想な奴だと!勝手に憐れんで膝元に小銭を落とすんだ。

 許せない!許せないんだ。けど。

 今すぐ怒鳴り散らしたい俺の肩を押さえるのは、潰れた俺の途中式に対して残る、消化不良の感情。もはや俺が出そうとしていた答えが吉田のそれだったかも分からないけど、頭ごなしに吉田の話を否定できないくらいに、吉田の答えは、俺の後ろ髪を引っ張っていた。

 そうした状況で俺は、問われた質問に長い、本当に長い沈黙を作って、ようやく、なにか言葉をついた。絞り出したそれは。


「馬鹿にすんな」

 自分自身、どっちに重心を置いているのか分からなかった。


「ずっと言ってるだろ。俺には魔法が必要だって。今回雄一が小さなきっかけで変われたからってそれを俺にも当てはめるなよ」


 そこに中身がないことは自分がよく分かってる。行き場がないから過去の抜け殻に縋っているだけ。ただ吉田から見れば俺の言葉は初志貫徹。自分の気持ちの整理も出来ないような情けない人間には見えていないはず。なら今はもう少し、このままでいいんじゃないか? 言い切った後にそう思った。改めて考えをまとめてから吉田に話した方がどちらにとってもいいはずだと。


 まとまらない現状を何とか肯定して現状に目を向ける。これが今の俺に出来る最前だった。それなのに、いつもならそろそろ聞こえていいはずの声がなかった。まるで謎解きの不正解を暗に示す静寂。

 吉田は、固く口を閉じて机の木目を見つめていた。


 俺はどっと、心臓が大きく跳ね上がったのを感じた。ごめんねでもなんでも、俺が反発した時、吉田は悲しそうな顔はしても、黙りこくることは無かった。はずだ。


 そんなに。


 いつも何を言ったってヘラヘラ笑ってるのに。なに急にもう打つ手なしみたいに絶望してるんだよ。

 俺の選んだ保留という生ぬるい選択が余計に、現状の空気を耐え難い寒さに感じさせた。それは今更でも「やっぱり」と言い出したくなるくらいの苦しさで、あともう少しこれが続いたら本当に口から出そうな確信があった俺は、咄嗟に言葉を作ろうとした。それは今縋ったばかりの抜け殻から出てくる。もしこれも無視されたらいよいよだとは、考えもしなかった。


「そういえば、昨日の奴らって何してたんだ? 前言ってた戦争のためってのは分かるけど、具体的に」

「……私にもそこはよく分からない」


 声が小さいのはやっぱり気になるけど、答えてくれただけで、空気が少しでもほぐれただけでよかった。だから俺は矢継ぎ早に質問を投げかける。


「へー。あいつら何とか隊とか言ってたけど、あれは?」

「部隊の名前だよ。戦争や遠征の時、術師は何人かで部隊を作る。そしてその部隊全員で円理術を使う。多勢円理(たぜいえんり)っていうんだ。部隊の名前はその部隊で一番階級が高い人の苗字からとる」

「え、じゃあさ、向こうの世界じゃ吉田も自分の名前の隊とか持ってたん?」


 間を持たせられるなら話題はなんでもよかった。


「まあ。私はそういうの苦手だったんだけど立場的にやらないとだから」

「おお、やっぱすごいよな。吉田なら戦争でもなんでも、無双してそうだ」


 だからこの話の流れは決して、意図的ではない。


「そう、だね。少なくともあれは命の取り合いじゃなかった」


 いや、本当はもっと早く、意図的に気づくべきだった。戦争と聞いて、なぜ俺はまずその事を考えなかったんだろう。いやいや、吉田はずっと、その事を話していた。なら。


「虐殺だよ。私も沢山、殺した」


 俺が目を逸らしていただけじゃないか。

 

久しぶりに吉田と目が合う。魔法という言葉の美しい部分だけを見ていたからか、知らなかった。

 虚空を見つめる瞳、震える手、それを抑えようと両の手を合わせて力を込めているのも。吉田の心はまだ、向こうに取り残されたままだということも。俺は知らない。知らないようにしていた。

 そんな俺を見透かして、吉田はぎこちなく笑う。


「知らなくていいよ。私もこれ以上は話さない。生まれ変わってすぐ思ったんだ。これは罪だって。景色、感覚、匂い、戦場でこびりついた、私が捨てていきたかったもの全て、何一つ忘れてない。きっとこれから私は、奪った命の数だけ転生して背負い続ける」


 だから。


「これから先に話すのは見てきたものじゃなく、私自身の自戒。一周目の人生を失敗した私がその後悔を刻みつける為に、忘れない為に、口に出してるだけ。でもただの独り言にはならないと思う。どこかで私の話を聞いてる誰かにはきっと、意味があるから」


 机の木目に視線を固定して勝手に俺の存在を消した吉田。最後の一言から何となく、また人生経験からくるお説教が始まりそうな予感がした。けれど俺の口からは話の腰を折る言葉は出てこない。期待と緊張が八割二分で混ざった呼吸を静かにしてその瞬間を待っている。なぜ俺をそうさせたのかと言うのも、やはり最後の一言が八割の感情を引きずり出したからに他ならない。


 作りかけた答えは吉田の答えに潰された。それでもまだ、吉田の言った意味ある事と言うのが俺の消化しきれない一番の感情をどうにかしてくれるなら、あるかもしれない。

 俺自身、独り言を独り言たらしめるために吉田の方には顔を背けて窓の外を眺めた。凹凸に立ち並ぶ住宅の上から放射状の光が漏れていて、家々の表情は暗く、明かりが灯るのを待っている。三年生になればあの奥の太陽を山に落ちるまで追えるようになるんだろうか。少し先に見ることになる景色を想像していたら、もう俺は一人だった。そうしてなんの合図もなく始まる話し声を、しっかり独り言として聞き入った。

「私は嘘をついた。


 表情のない声が意味だけを乗せてくる。


 この世界に来たのは私のミスじゃない。私が私の為に、明確な目的を持って引き起こした事によって、偶然こっちの世界に来てしまっただけ。その目的は。


 本の読み聞かせのような、ボーっとして聞くともなく聞こえる歴史の授業のような、頭にしれっと入ってくる情報は、もはや声というより俺の思考の一部のような気さえして。


 世界を変えたかった。


 魔法がない世界を窓越しに見て、そう思った。

 それだけが人生の真理かのように。


 長期化していく戦争で現状を否定するために、目をそらすために、その言葉を唱え続けた。当然そこに具体的な方法は無い。


 世界を変えたい。それはあくまで現実逃避に過ぎなかった。変えたいと思えば今を我慢出来る。私が求めていたのは今日眠るための睡眠薬で、明日の事なんて考える余裕はなかったんだ。

 でも戦場で見るもの感じるもの、中身のない言葉に縋るその日暮らしで消化できるほど軽くはなかった。その度にドロドロの感情を明日へ明日へとベットのシーツの皺を寄せるみたいに伸ばしていって、ある眠れない夜、まじないのように唱えていた「世界を変えたい」という言葉に中身を詰め始めていることに気がついた。


 どうすれば世界を変えられるか?


 考えれば考えるほど考えている自分に酔って、歯止めがきかなくなった。次第に私が唯一の救世主だと信じ始めて、私だけがこの腐った世界を変えられると確信して方法を模索した。そしてそれはついに明確な言葉となる。


 円理術が無くなれば、戦争はなくなる。


 それは一見、武器がなければ争いは起きないという幼稚な理論のように聞こえるが、それは互いに対等な武器を持っている前提の話だ。

 私の国は円理術の分野において他の国より二百年程の差をつけて発展していた。並べたらアリと像。それが対等になれば、少なくとも一方的な虐殺はなくなるだろう。ただ、簡単に円理術を無くすと言ってもそれは並大抵の方法では叶わない。そこで私が目をつけたのは平行世界だった。


 円理術は流れを操作する技術。ならば世界の流れの大部分をどこかに捨ててしまえば円理術の力はかなり弱まるはず。そしてその捨てる場所として平行世界はかなり都合が良かった。

 存在は昔から確認されているがそれ以外何も分からない世界。人々はそこを神の世界だの死後の世界だのと言っていたが私には心底どうでもよかった。この作戦を思いついた時、真っ先に犠牲にしようと思いついたくらいに。


 唱えるだけの言葉が方法となり、半端に実力もあるせいで、私を止めるものは何も無かった。

 ついに私は士気の下がった仲間を数人集めて世界を円理する。当然、二つの世界を直接繋げるなんて何億人の多勢円理でも出来ないので私がしたのは世界の流れに小さな亀裂を入れただけ。それでも私の狙い通りにその亀裂は内側の力で徐々に大きくなり、世界の外に漏れていった。その後はもう賭けでしかない。漏れ出た流れが元の循環に戻ろうとして平行世界にたどり着いてくれるのを。


 そして私はその成功を、生まれ変わった平行世界で知ることになる。いくら亀裂を入れるだけとはいえ世界を円理するんだ。円理過多で死ぬことくらい覚悟していた。けれどこれは、知らなかった。


 記憶を持って転生した世界が、私が求めていた世界そのものだったのも。その世界が私の仕出かしたことで戦争に巻き込まれてしまったことも。


 お前が一体何をしたのか。神様が二度目の生を与えて見せたかったのはこれだと悟った。


 後悔、なんて言葉を使っていいかも分からない。知らなかった、で許される事ではないことは分かってる。ただ、罰ではなく罪の方に目を向けたら、ここに至る全ての理由が私にある事は明白だった。


 親に褒められるのが嬉しくて、勉強した。高一には二級術師の資格を取って天才だともてはやされた。それで舞い上がって、思い上がった。

 大人たちが不満を垂れる現状を、ニュースで流れる戦火を、私ならどうにかできるって、思っちゃったんだ。


 自信満々で戦場に飛び出して、言われるがまま目の前の景色を平坦にならした。世界を変えるためだと大義名分を盾にして自分がやった事から目をそらす。それでも耐えられなくなったら今度は世界を変えるために円理術をなくそうとして、世界そのものから目を逸らして死んだ。


 現状から逃げるために、理想に縋った。


 まだどうにかなる。一発逆転が起こる。そう信じて手を汚し続けた。


 認めたくなかったんだ。私が少し円理術が上手いだけの凡人だということを。


 所詮は人の歴史で数ある争いごとの中で少し大きい歯車のひとつなのを。


 少し上手い、少し大きい、自尊心が少し強いだけの普通の人間であることを。


 そんな当たり前のことを。


 飲み込めるのが遅かった。


「小山くん。君と話をしてからやっと、気づけたんだ」


 世界を変えたい。そう思うことは、きっと罪じゃない。でもそれは流れ星に祈るのと同じくらい無力な行為で、実際に行動に移したとしたら、それは戦争と変わらない。

 世界でも、環境でも、思想でも、人間でも、自分以外の何かを無理やり変えようとする行為には代償が付きまとう。自分が生きやすい世界では必ず誰かは生きにくい。


 世界を変えたい。自分の不満をそんなに大きく表現したところで、結局は現実逃避にしかならない。そんなこと、私が言う前からみんな分かってる。でも昔の私がそうだったように、それに縋って生きないと、今が耐えられなくなってしまう。


 いつか、いつかはきっと、どうにかなる。


 明日は雨が降るようにと神へ雨乞いをしていた頃からずっと変わらない。どうにもならないことをどうにかならないと飲み込んだら絶望しかないから、明日でも明後日でもなにか天変地異が起きて救われる日が来ると信じて、生きていたい。それは世界なんて変えられないと内心分かっているからこその処世術なんだけど、それで受け止めきれる感情には限界があって、煮詰めた底には死が残っている。


 世界を変えたい。そう思うことは、きっと罪じゃない。でも、遥か先を眺めて手前の色んなことから目をそらすのは、罪だ。世界を形作っているのは他でもない。その手前の色んなこと。さらに言えば、その色んなことに意味を持たせるのは自分自身なんだから。


 世界を変えるのは、単純なことだけで良かった。

 知らなかったことを知るだけでも、その世界は変わる。

 考え方を少し変えるだけでも、その世界を理解できる。

 避けてきたものに触れてみるだけでも、別の世界を知ることができる。


 世界とは、大きな風呂敷が全てを囲んで出来ている訳じゃない。

 一人一人に一つの世界がある。

 自分の世界を変えられるのは自分だけだし、そのほかの世界は自分の意思では変えられない。できるのは話し合って理解し合って落とし所を見つけるだけ。力でそれを無理に変えても、その反動は必ずいつか自分に返ってくる。


 だから私が本当にするべきだったのは。

 目をそらす事でも。

 責任転嫁でも。

 世界を変えることでもない。

 たった一つ、何かでも誰かでもない、自分の世界と向き合うことだったんだ。


 そして小山くん、君にも」

 

 混ざった思考に突然その言葉が久しぶりに耳から入って、俺はうたた寝から覚めたかのように体をビクつかせた。何事かと日の沈んだ外の景色から右に視線を滑らせると、吉田が机の木目ではなく俺を見ていた。


「初めて小山くんの話を聞いた時、私怖かったんだ。世界を変えたいって詰め寄ってくる君が、まんま死んだ私の生き写しみたいで。否定して矯正したかった。そうすることが失敗した私に唯一できることで神様が課した使命なんだと、また性懲りも無く、思っちゃったんだ」

 そう言って笑う。吉田は今にも崩れて消えてしまいそうに見えた。


「私と小山くんは似ている。でも同じじゃない。目を逸らして突っ走って、全部めちゃくちゃにした私とは違って、小山くんは歩み寄ることが出来る。聞いて考えることが出来る。だから佐藤くんと小雪ちゃんを仲直りさせることが出来た。私なんて初めから必要なかったんだよ。当たり前だよね。元々私はここにいていい人間じゃない。そんな奴に使命なんてあるわけない。そうだよ、誤魔化したかっただけ。罪を犯して罰として生まれ落ちた世界で、私の罪が誰かを救える可能性がある。生きていていい理由がきっとあるって、思いたかったんだ。救えないね。苦しむためにここにいるのに」


 遠い目で淡々と、それはまるで走馬灯のように次々と目の前に並べられていく後悔と自白。それが俺には断崖絶壁に追い込まれた犯人のそれと大差ないように思えて、つい、こんなことを口走った。


「死なない。よな」

 情けなく漏れ出たそれに、吉田は優しく笑い返す。


「大丈夫だよ。さすがに義務を果たすまでは死ねない」

「義務って?」

「私が一方的に繋げた二つの世界。それを今、こっちに来てる術師が大きな一つの世界にしようとしてる。二つの世界で流れを循環させて円理術をさらに強くしようと考えてるんだろうね。もしそれが成功したら円理術の効率は何倍にも跳ね上がる。もちろんそれだけじゃない。他の国に攻め込むのや前哨基地に、この世界が利用される可能性もある。感覚としては地下通路みたいなものだろうね。今は私が作った片道だけで帰るのは難しいけど流れが循環してしまったら移動するのにリスクが無くなるから、存分に利用されることになる。けど私がそんなこと絶対にさせない。戦争を無くすためにやった事が戦争に利用されるなんて目も当てられないから。使命じゃなく義務として、私が引き起こした事の後始末は死んでもつけるよ」

「死んでも?」

「そう、死んでも。まあ私を殺せるような術師なんて私くらいだと思うけど」

 なんて自信に満ちた笑顔で言う。吉田はやっぱり、荒波が誘う断崖絶壁にいる。


「話逸れちゃったね。私が言いたいのはここからが本番。ここまで話したこと、全部これから伝えたいことに意味を持たせるために話したんだ。異分子の私が言えることなんて本来何も無いけど、それで何も言わなかったら小山くんに迷惑かけたままだし、なにか私に返せるものがないか必死に考えて、これしかないってものが一つだけ見つかった」


 目尻を下げた優しい瞳と角のない声、それは普段と何ら変わりない、俺を諭す時に見せる表情。

 吉田はあくまで、いつも通りで話したいらしい。それとも俺が気づいていないとでも思ってるんだろうか。

 別に、吉田の人生だ。好きにしたらいい。俺も、これから話してくれることが俺の求めている答えなら、それ以上はいらない。けど。

 けど、だろ。


 奥歯を噛み締めて、普段通りとは言い難い表情で吉田の視線に答える。それでもやっぱり、吉田は優しく笑っている。ただ、いつにないほど長い一呼吸を、かつてないほど大切そうに、教室の天井へ吐いた。その分かりやすさに思わず笑ってしまったら、吉田が得意そうにこちらを見ていた。


 押し付けられた深い一呼吸が口から出る。ああもう分かったよ。俺達は今までにないほど普段通りだ。

 観念して椅子を後ろに倒した俺を見て、吉田は満足気に肘をついた。


「特別になりたかった。特別にあこがれてた。誰かを救えるヒーローに。魔法のない世界に。私ならって思ってた。小山くん。私と君はとても似ていてるけど、私には足りなかったものを小山くんは沢山持ってる。私が何も言わなくたって君は私みたいな結末を辿ることは絶対にない。だから何か言うとしたら、その、絶対に辿ることの無い結末しか選べなかった人間の事」


 覚えていて。

 自分のことで精一杯の救いようもない。

 でも。

 毎日を苦しみながら、必死に生きようとしてる。


「私みたいな人間がいることを」

 

 落雷が、どこか遠くに落ちた。

 おずおずと窓を少し開けて、豪雨に晒される街並みの奥から細く、煙が上がっているのが見えた。

 それがどこかは分からない。何に落ちて何が燃えてどんな状態か、まるで分からない。

 だけど、雷は落ちた。腹の底に響いた落雷の音、呼吸の落ち着かない動揺が確かに。吉田の言葉が俺の求めていたものだと、叫んでいた。


 何ひとつとして、読み取れはしないけど。 そしてそんな俺は、吉田から見たら呆然として話を理解できないやつに見えたんだろう。慌てて言葉を付け足し始めた。


「あ、これは別に私自身の事を言ってるわけじゃないよ。これから小山くんが生きていく中で、必ず出会うと思うんだ。私みたいに極端な生き方しか出来ない人に。もちろん、そんな人と関わるも避けるも小山くん次第。でもまだ小山くんが他の誰の物でもない特別を手に入れたいのなら、どんな方法でもいい。その人に教えてあげて欲しいんだ。君の生き方を。まあ私みたいな人間だから素直に聞くわけないとは思うんだけど、そこは根気強く!何とかなるよ。私もしっかり、小山くんに教えて貰ったから」

「何言ってんだよ。俺はなんにも教えてなんかいない」

「だろうね。だから話したんだ」


 まるで要領を得ない。けど聞けば聞くほど俺の求める特別はそこにあるんだという確信だけが強まっていく。

 俺は不満げに吉田を睨んだが、目的を果たした吉田にはお構い無しのようで、椅子から立ち上がると気持ちよさそうに伸びをした。


「よし!話したいことも済んだし私は帰るね。これ以上一緒にいても小山くんの足を引っ張るだけだし、明日は多分早いから」

「明日、なんかあんの?」

「まあね。でもこれで最後だよ。最後にする。だから小山くん」


 じゃあね。


 ぎこちなく胸元まで持ち上げた手を振って、小走りで教室の後ろのドアから廊下に出る。そして閉めたドアのガラス窓からまた笑って手を振ると、あとは遠のいていく足音を聞くだけだった。


 俺はただいつも通りに、黙って、手を振り返さず、終始、去っていく吉田の姿を見ていた。

 吉田が言っていた本番が明日だということも。明日に吉田は全てを終わらせるつもりだとうことも。そこで死ぬつもりだということも。全て分かった上で。


 それが正しいのか間違っているのかは分からない。ただ、吉田はそうして欲しいんだと痛いほど伝わってきた。俺は、それに負けた。


 いや……いやいやいや、違う。

 違うだろ。

 この感情を吉田のせいにすんなよ。

 足りなかったんだ。

 吉田の思いを踏み潰してでも、ここにいて欲しい。そんな、なりふり構わない気持ちが。


 短い時間だった。それでも沢山、主に俺の押しかけだったけど、二つの世界のことを互いに話し合った。そのたび俺は苛立っていたような気もするけど、そのおかげで、俺は自分以外の外の世界に目を向けられるようになったんだ。

 吉田は自分がいない方がいいと言っていたけど、少なくとも俺は吉田がいて、楽しかった。ありがたかった。


 これで最後です。さようなら。


 そんなことを言われて、はいそうですかと送ってしまうほどの薄情では、収まらないと思うのに。

 今更でも、走って追いかけようという気は起きない。

 何故だろう。ただ、なんとなく、そうした方がいいような気がして、体が動かない。

 そもそも、吉田を呼び止めたところで何を言うかという話でもある。死なないでと泣きつく? 吉田が義務として果たしたいと思っていることを、俺一人の感情で止めるのか? てか止まらねぇだろ。あいつは。

 なら吉田の最後の言葉に、何か返す? 俺はまだそれを咀嚼しきれていないのに。


 特別になりたかった。退屈に溺れたくなかった。そのために円理術は願ってもない世界を変える魔法だった。でも吉田と話して、雄一と猪狩の一件で、視野が広くなった。魔法のない世界、この世界にも、まだ俺が知らない世界があって、心を満たしてくれる誰かがいる。


 ずっと、吉田が言っていた事。魔法があってもなくても世界は変わらない。そんな事を今更ながらに実感している。確かに俺は特別になりたくて退屈をごまかしたくて、なのにどうにもならない現状の責任を、世界に擦り付けていただけなんだ。一番向き合うべきは、自分自身だった。


 分かるよ。分かるんだ。でもだからこそ、向き合った自分が特別では無いという事実をどうやって受け入れて、どうやって生きていけばいいかが、分からない。


 特別じゃなくてもいい。みんな特別。そんな反吐しか出ないセリフだったらまだ、俯きながらでも生きていけたかもしれない。実際、俺はその未来も、少しは覚悟していた。

 無慈悲だ。詳しく話すつもりもないくせに。


 小さな傘の下、肩をすぼめて、靴先が雨に濡れないように、小さい歩幅で濡れたアスファルトを歩いている。そんな虚しい人生に、落雷を落とされた。世界が揺れて、何事かと顔を上げる。上げさせられたんだ。吉田の言葉で。まだ俺が特別になれる道があるんだと、期待を持ってしまった。期待だけを持たされた。


 落ちどころの分からない落雷じゃ、どこに行って何をすればいいのかも分からない。吉田みたいな人間に俺の生き方を教える? なんだそれ。教えて欲しいのは俺の方だ。


 一人残された教室で、でかい溜め息を吐く。吉田はこれからの生き方を俺に教えたつもりなのかもしれないが、それを読み取れない俺は歩き出せもしない。担任が教室閉めるから帰りなと声を掛けてくれなきゃ一晩軽くここで過ごしていた自信がある。


 永遠にその場で足踏みしているような感覚で歩く。日の落ちた廊下は、避難口の淡い光と外を流れる車のライトが混ざりあって異世界のようだった。昼に見せる学校の表情はもうどこにも残っていない。それだけに自分という存在が何処にも馴染まない異分子に思えて、いつか同じ事を言っていた人の事を思い浮かべた。そんな状態だったからか、視界の奥に人影が現れた時、幻覚かと思った。


 階段を下りて一階の下駄箱、そこの柱に寄りかかって長い前髪の間からスマホのブルーライトを見ている。俺が近づくと陰影の深くなった顔を少しこちらに向けて、また気だるそうにスマホに視線を落とした。薄暗くて分からなかったがその動作で確信する。幻覚では無いらしい。今こいつの姿は脳裏のどこにもなかった。


「美鈴じゃん。なにしてんのこんな時間にこんなとこで」


 絡まった思考も引きずる感情も表に出さないように、少し声を張った。

 美鈴は視線だけをこちらに向けて、苦虫を噛み潰したような顔を作った。


「本、このまえのらしくないやつ。あんたいつまで借りてるつもり? 催促の紙もらってないの?」

「え、ああ、そういえば。忘れてた。読んでないんだよな。いや、悪い。明日返すよ」


 想定外の言葉でこっちが挙動不審になっていても、美鈴は心底不快そうに見るだけで何も言わない。

 話し出す前に見せた表情で何を言われるか少し身構えていた俺が馬鹿馬鹿しくなる。こいつそんなに図書委員の仕事に熱心だったのかよ。にしてもそれ言うためにずっとここで俺を待ってたのか?


 美鈴から本返却の催促が俺に伝えられるまでの背景を想像して顔が引き攣った。これ以上無理に話すこともないししたくない。そそくさと隣を通り過ぎて自分の靴箱に向かう。しかし、そんな俺の背中に美鈴から、絶対に出ないはずの単語が貼り付けられる。


「円理術、ね」


 靴の踵を握ったまま手が、いや、俺の周りの全てが動きを止めた。初めて吉田以外の口から聞くその単語に、全身が拒否反応を示しているようだった。


「なーんかおかしいと思ってたんだよ。最近、やけに外向的になって馬鹿なことばっかしてるから、遂に頭がイカれたのかと同情してたんだけど。吉田結菜の影響だったんだ」


 恐る恐る後ろを振り返る。美鈴は腕を組んでこちらに見下すような冷たい視線を送っていた。


「……聞いてたのかよ」

「いや、分かんないな。あんたの厨二病に吉田結菜が付き合ってた可能性もあるし、どっちもイカれてるだけかもしれない」

「ちょっと」

「てか、あそこまで世界観をそろえられてるの素直に感心するわー。のめり込みすぎ。あれもはや中二病とかの次元じゃ無いよ。あんたら二人で小説でも書けば売れるんじゃない?」

「待てって」

「前借りてた小説みたいに分かりやすく読者に媚びればいいよ。主人公に無双させて馬鹿みたいに惚れやすい女を沢山出せば日本語少しおかしくても大丈夫らしいから。タイトルはそうだな」


「本当なんだよ!」


 人気の無い学校に張り上げた声が響いた。遠くまで反響するその声を聞いて俺自身、美鈴と同じくなに言ってんだこいつと耳を疑った。


「あーあ、ごめんごめんって。二人っきりで楽しんでたんだもんね。他人に荒らされて恥ずかしくなっちゃったね。ほーんとこんなことで声荒らげて、気持ち悪」


 それは腹の底に溜まる冷たい声だった。けれど俺は馬鹿の一つ覚えのように。


「だから違うんだよ。どこから聞いてたか知らないけど全部妄想なんかじゃない。本当の事なんだ」

「もういいって。こっちにまでそれ押しつけないでくれる? ほんと重傷だよあんた。人が変わったみたい。少し前まではこの世の全部気に食わないって顔してたのに。ああそうか。吉田結菜に洗脳されてんだ。円理術ってのは流れをどうにかするって言ってたもんな。人の思考も流れと言ったらそうだ。なるほど、じゃあいいよ。魔法はあるって事で」

「なんでそうなるんだよ。今までの俺たちが間違ってたんだ。大衆が群がる物全て馬鹿にしたら自分たちがそれより一つ上にいけるんだと勘違いしてた。本当はそんなこと無い。特別ってのはもっと複雑で、魔法とかでなんとかなるものじゃなかった」

「うっわ一緒にすんなよきもいきもい。これまじだ。まんまと洗脳されちゃってるわ。それも結構深いとこまで。早く病院行ってこいよ。それを治す薬があるかしらんけど」

「洗脳じゃない。俺がこの目で見て、感じて、考えた。嘘じゃない。円理術はあるし平行世界もある」


 美鈴の顔から嘲笑が消えた。それが俺の話を真剣に聞く気になった訳じゃ無い事はしわの寄った眉間と奥歯を噛む仕草から分かる。


「しつこい。じゃあ証拠出せよ。そんな言うなら円理術とやらを使ってる動画くらい持ってるだろ。なんならあんたが使って見せてくれてもいいよ。できるもんなら」

「それは……できない」

「証拠は? 写真も無いの?」

「ない」

「論外。頭から水浴びてこい」

「いや待てよ。証拠は無いけど、この前だって俺と雄一は平行世界から来た奴らを山で見たんだ。事実として、円理術や平行世界は俺も美鈴も他人事じゃない。話し聞いてたんなら分かるだろ。たった今もこの世界は平行世界の戦争に巻き込まれてるんだ」


 ついに、美鈴の口が半開きのまま動かなくなった。手の終えない惨状でも見ているみたいに。俺自身もここまで熱弁しておきながら何でここまで必死になってるか分からない。


 吉田も言っていたが円理術のことを人に話したところで誰もまともに信じるはずがないんだ。妄想だとか適当に流せばいい。美鈴には一生馬鹿にされるだろうけど、信じてくれの一点張りで引き下がらない奴の方が頭がおかしいんだからどちらを取るべきかは明白だ。


 じきに吉田もいなくなる。勝っても負けても、あいつは命を賭けてこの世界を元に戻すだろう。そうしたら俺の話は本当にただの妄言だ。たとえ万が一に吉田が失敗してこの世界が平行世界の戦争に巻き込まれることになったとしても、それはその時。今無理に信じさせる必要は無い。理屈では分かってる。分かってんだけど、じゃあそれでいいのかと自分に問いかけたら首は横にしか振らない。見当違いの責任感が変な意地を張らせて後ろに引けそうもない。これはまだしばらく平行線の押し問答が続きそうだと覚悟を決めた時。


「そこまでいうなら分かったよ」


 腕組みを解いて背中を預けていた柱から離れる。そして美鈴はスタスタと自分の靴を取りに行ってしまった。後腐れ無いその仕草は納得したようにも呆れきったようにも見えたが、実際はそのどちらでもなかった。


「明日だっけ。吉田結菜がなんかしようとしてんのは」

「……なにするつもりだよ」

「あんたと話してても終わんないから、現場を直接見に行ってやるんだよ。聞いてた話じゃ明日吉田結菜は平行世界の奴と一悶着するんでしょ? 死んでもって言ってし、さぞすごい戦いになるだろうね。見たら私の疑いが一瞬で覆るくらい」


 こいつまじか。頬が引きつる。嘘一つ暴くためにそこまでするか? 美鈴はしたった笑顔をこちらに向けて行くとこまで行くつもりのようでハッタリには見えない。マジで行くつもりだこいつ。確かに美鈴に信じて貰うにはそれしか道は無いだろう。ただ俺も実際経験して分かったがあの場は、素人がいていい場所じゃない。危険だし、何より最後の戦いだ。吉田の足を引っ張る物はないほうがいい。止めるのが正解だろう。と、逡巡考えたのは真っ先に口から出た疑問の後だった。


「吉田が明日どこで戦うか分かるのか?」

「そりゃ話し聞いてたら察しつくでしょ。嘘にリアリティを持たせるために現実で起きてる事件を利用してるみたいだし、その傾向を探れば明日大体どこらへんでその戦いが起こるか、馬鹿でも分かると思うけど」

「いや……そもそも俺はその事件を知らないんだけど。なんかあったの?」

「え、ニュース見てないの? 見てて察せなかっただけ? どちらにせよ疎いね。聞いたことくらいあるでしょ、最近辺りの山々で火事とか爆発音が頻発してるって話」

「ああ、そういえば」

 雄一が前に言っていた怪奇現象もたしかそんな内容だった。


「一部では心霊現象とか宇宙人の侵略だとも言われてんだよね。なんでも火事が起きても消防が到着する頃には火はおろか燃えていた形跡も無くなってるらしい。前から気になってたんだ。確かめるきっかけが出来てちょうどよかった」


 掴んだ靴を地面に落とす。その衝撃で暴れた靴、それをつま先で宥めるように揃えて足に納めた。あとぐされない動作で、もうこれ以上話すことは無いと言うように。そのまま玄関口に向かって歩いていく。


 ここまで意志が固まっている美鈴を止めるのは不可能、寧ろ逆効果なのが分かりきっている。けど、全てが事実だと知っている俺はなにも言わずに背中を見送れない。遠のいていく背中に急いで言葉を掛けた。


「やめとけよ危険すぎる。分かってんのか? これは戦争なんだぞ。野次馬精神でのこのこ顔出したらマジで死ぬんだ。そんな危険を冒してまで魔法があるかないか確かめてどうすんだよ」


 急繕い。その一言に尽きる。止めなければという義務感と止めた所で無意味だという諦めが、こんな中身の無い言葉を口から出させた。そしてそれが美鈴の琴線に触れた。


 帰る足が止まる。そこから振り返って見せた顔には、軽蔑、嫌悪、さっきから俺に向けてきた感情を上から塗りつぶして今にも爆発しそうな情動があった。そして俺は、その情動を知っている。


 魔法なんかあっても世界は変わらない。達観した口調で自分の生き方を否定してくる奴に対して、泣きたくなるくらい悔しい思いを、俺も前までは奥歯でかみ殺していた。


「ほんと、つまんなくなったね。そういうところだよ。私があんたの話を信じない一番の理由は。もし本当に魔法があってあんたがそれを実際に見たんなら、魔法を使える人間と接触して平行世界との戦争だなんて壮大な事が起こることを知ってんのなら、私の知ってる小山登はこんな人間になってない。ふざけた格好で注目を浴びようともしないし、今まで馬鹿にしてきた人間と仲良くなることもない。間違っても!俺たちが間違ってたなんて寝ぼけたこと言うはずがないんだよ。魔法なんかあるならすかした態度ばっか取ってないで早く退屈なこの世の全て壊してよ。出来ないなら黙って!私の人生の邪魔をしないで!」


 顔を赤くして、声を荒らげて、捲し立てる。守るために。生きていくために。俺たちにはそれが必要だった。たとえそれがどれだけ滑稽でみっともなくても、俺たちはそれしか知らなかった。馬鹿にする奴が悪で、それに屈しないように生きていたら何者かになれる。唯一無二の何かに。それだけを信じて生きていたんだ。


 十年以上掛けて積み上げてきた思想はそう簡単に脳から消えてくれないらしい。少し同じ感情に当てられただけでいくらでも思い出せてしまう。ただ今になってまたそっち側に戻りたくなった訳じゃない。自分が間違っていたことは痛いほど理解できている。けど、それで今までの生き方を捨てて新たな生き方が出来るかと言われたら、今はまだ頷けそうにない。


 俺がなにも言い返せずに黙っている間に、美鈴は息を整えて冷静を取り戻していた。そして俺に言い返す武器が無い事を見抜くと、今俺が言われて一番困る言葉を的確に言い当ててとどめを刺した。


「あんたが言う特別ってなに? 複雑で魔法じゃどうにもならないんなら、なにをどうすれば特別になれるの? 私を止めようとするくらいだから答えの一つくらい持ってるんでしょ」


 そう問われた俺はもう斜め下の地面を睨んで黙っているしか出来ることが無かった。今その答えを知りたいのは俺の方だ。ずっとしこりのように俺の中で残っている。無くても生きていけると知っても、じゃあいいやと割り切れない。向き合うべきは自分だと分かっていても、禅問答にしかならない。結局俺は特別という言葉を抱えて生きていく方法も、特別以外を心の支えにして生きていく方法も知らないまま世界に取り残されている。


「特別が何かも分からないくせに分かった口で私に生き方諭すなよ」


 死体を蹴るように俺へそう吐き捨てると今度こそ美鈴は校門を抜けて日の落ちた住宅街に消えていった。


 どうすればよかったんだよ吉田。俺は人になにを教えてやれるんだ。全部美鈴の言うとおりだ。俺は未だに特別から覚めてないし特別が何かもどうすればなれるかも分かちゃいない。人に生き方を教えられるような段階に、俺はいないんだ。


 深い絶望と無力感の中、今更、本当に都合よく、吉田に会いたくなった。あの言葉の答えを教えて欲しい。吉田にとってあの場で俺たちの関係を終わらせるのが理想だったとしても、自分勝手に会いに行きたい。蛇足に会話を続けたい。俺たちにとっての日常と非日常を行き来して、理解し合いたい。


 なあ、吉田。特別って何なんだろうな。戦争を止めること、隕石が落ちること、自分にうぬぼれること、他人を蔑むこと、世界を変えること、その全部が違うこと、散々話してきた。でも結局、どうすれば特別になれるのかは分からずじまいだ。


 なあ、吉田。魔法のある世界を望んでいた俺と魔法の無い世界を望んでいた吉田、俺たちが等しく特別になれる世界はあるのかな。


 そんな物無いって言われたらそれまでだし、そもそも特別になろうとする事自体が間違ってると言われても言い返せない。ただそれでもいいんだ。俺の生き方を読み取った吉田の話が聞きたい。吉田の生き方を読み取った俺の話をしたい。これが吉田の言っていた俺の生き方を教えるという言葉の意味だとは思えないけど、今はそれでいい。ただ吉田と話がしたい。


 家に帰ってもそれを考えていた。風呂から上がる頃には決心が付いていた。睡魔と布団の間で怪奇現象のニュースを読み漁った。朝早く起きて昨日の残り物を口に運びながらおおよその場所を予測した。なにも持たずに靴を履いて外に出た。空は世界の命運が掛かっている当日だとは思えないほどの快晴で、ふてぶてしく東から昇ってくる太陽が街に巣くう闇を物陰に追いやった。あとはもう、吉田に会いに行くだけ。自転車にまたがって重いペダルの一回転目を踏み下ろした。


 俺が今日吉田がいると予測した山はここから大体六キロ、自転車で飛ばせば山の麓までは二十分で着くだろう。美鈴の言っていた通り、山での火災や爆発音の怪奇現象にはある法則があった。俺が遡れる範囲で最古が五年前、不自然な発火がとある山で起きたが五分後には跡形も無くなっていたと言う記事を皮切りに、半年に一回のペースで同じような記事が見つかった。そしてここ二ヶ月前から突然一週間に一回のペースに跳ね上がる。それが何のきっかけなのかは分からなかったが、その怪奇現象が起きた場所を時系列順にスマホのマップへ印をつけてみると東から西に向かっているのが分かった。それも五年前の場所から二ヶ月前の場所までは一つ一つの場所が西に二キロほど離れているのに対して、それ以降の場所は一キロと離れていない。直近は俺と雄一が直接現場を見たあの場所だとして、これまでの傾向から次の場所はそこから西の方角の一キロ以内と考えていいはず。いや、それ以外だったらもう俺には手の打ちようがないからそうとだけ考えよう。


 まだ人気の薄い住宅街の風を切って、目的地の山肌へ定期的に視線を送る。


 頼む。まだ、まだなにも起こらないでくれ。願えば願うほど、山の木々は朝日で赤く燃えていく。


 直感で近道になりそうなところがあれば知らない道でもかまわず突っ込んでいった。行き止まりでも、空を飛べない俺は素直に元の道を戻った。砂利道でも、それを全て吹き飛ばせない俺は体を揺らす振動を楽しんだ。


 生きていく世界の鮮やかさは理解したんだ。あとは夢見た世界から覚める言葉を教えて欲しい。


 散々迷って、遠回りして、それでも目的地だけは常に視界に収めていたからか予定より十分遅れて山道の入り口まで辿り着いた。別に急いだからって結果が変わるわけでもない。朝早くとしか聞いてないからとっくに全て終わった可能性だってある。それでも昨日追いかけられなかった背中に追いつけるように、空いた距離と時間を埋めるように、急いでいないと落ち着かない。


 適当な場所で自転車から降りて山道に入る。数秒後自転車が倒れる音がした。構わないで坂を上った。しばらくして道の先に人の背中を見つける。俺と同い年位の女子、一瞬期待してしまったがよく見れば長い髪と猫背、美鈴で間違いない。怪奇現象のニュースから傾向を探ったらここに行き着くから居るかもとは思っていたがまさか鉢合わせるとは。


 ここであったらまず面倒なことになる。吉田と話す時間を奪われてしまうのは避けたい。ただ山頂までの道はこれ一本、それもまだ麓だから道も緩やかな曲線でひらけている。このままでは見つかるのも時間の問題。じゃあどうするか。考える時間も惜しく思えた。


 道の右側、木や草が生い茂っているそこに、ためらいなく突っ込んだ。吉田がどこにいるかまるで分からない。なら山道を行こうが草の根を分けて行こうが関係ない。むしろ前の経験から言ったらこの方が見つけられる可能性が高いだろう。


 蜘蛛の巣をかぶって草を踏み荒らして、あてもなくただ上を目指す。次第に来るときには見えなかった霧が辺りを覆い始めた。そこに朝日が差し込むと無数の光の柱と共に霧は暖色を帯びて視界は一層悪くなる。体力もそこを尽きかけて、気持ちに体が追いつかなくなってきた。悲鳴を上げる体の代わりに思考が回る。複雑なことはなにも出ない。ただ吉田、君に会いたい。それだけを吐いては吸っている。いくら繰り返しても薄まらない。それを吉田に教えたい。


 膝に手をつきながら、しゃがんで辺りを見渡しながら、誤魔化し誤魔化し歩いて歩いて、もうどれだけ経っただろう。地面はぬかるんで体もちょうど気持ち悪いくらいに濡れている。さらに体温も下がってきて少し冷静にさせられた俺は一旦、その場で足を止めた。諦めたくはないが、諦めざるを得ない限界は着々と近づいてきている。救いを求めるように辺りを見渡す。もう何度も同じ事をしてきたがどこを見ても木と草ばかりで求める人の姿は無い。


 腹から重いため息を吐き出した。それは薄い霧に混じって消えた。もうこの際何か異変が起こるまでここで待っていた方が確実なんじゃないか。なんて酷く消極的な意見が強くなってきた。そんなときだ。草の葉が擦れる音。雫が落ちる音。名も知らない鳥の鳴き声、鼓動、呼吸、俺の周りにある様々な音を掻い潜って、耳をくすぐる程度の小さな音が俺に届いた。

 雑音と大差ない。いや、実際ただの雑音だったのかもしれない。ただ偶然そう聞こえただけだと決めつけてしまえないほどの僅かな違和感。


 声が聞こえた気がした。少し山を下りた東の方角から。目で確認できる距離に人影は無い。本当に雑音の可能性もあるし人が居ても部外者かもしれない。ただ一体どこにそんな体力が残っていたのか自分でも驚くくらい、体はその方角に走り出していた。


 疲労の溜まった体で無理に走るから姿勢が悪くなる。何度も転けて斜面を滑った。けれどその度に人の声らしき雑音がどんどんはっきり聞こえてくるような気がした。そしてそれは何度目か分からない転んで坂を滑り落ちた先で確信に変わる。


「残りの記憶血形(きおくけっけい)、時間は」


 頬に地面の冷たさを感じながら、立ち上がろうとする体を止めた。


「窒素一つ、水素一つ、どちらも十五分です」

「あいつは」

「右脇、左手負傷。止血に手一杯と思われます」

「よし、正確な場所を割り出せ。見つけたらまず水素だ」


 理解できない会話が寝転ぶ俺の先で飛び交っている。この理解できなさは嫌になるほど知っている。俺の知らないところで進んでいる、俺の知らない世界の常識。この声の主は間違いなく平行世界から来た奴で、あいつというのは吉田のことだろう。ただ見つけられた喜びが全身を駆け巡る前に聞こえてきた一言が気になって仕方ない。


 負傷? 吉田が? 自分しか自分を殺せないって息巻いてたのはどうしたんだよ。


 心配、焦燥、不安、それらがこの先の景色に押し寄せて、おとなしくしていた方がいいとは理解しつつも、耐えきれずに体を起こして声の先を草の影からのぞき見た。


 気づけば半分水中のような濃い霧に囲まれた視界の中に、前のような大きなクレータや火が燃えている様子は無い。ただ木が何本か地面に横たわっていたり、他の木に寄りかかっていたりしていて、戦いの激しさを物語っている。そしてその中の少し開けた場所に五、六人の術師が固まって四方を警戒している。その警戒対象である吉田の姿は俺からも見つけられなかった。


 怪我しているならもう逃げた可能性は、昨日の口ぶりでは無いだろう。おそらくどこかで息を潜めて反撃のチャンスを窺っている。こいつらもそれが分かっているからか警戒を怠らない。空気は硬直、どちらかが動けばもう終わりまで止まらない。そんな一触即発の緊張感が漂って、少しも動けそうにない。


薄々、こうなるんじゃないかとは思っていた。美鈴のように遠くから様子を確認できないかと期待するだけならまだしも、直接会って話すのは無謀すぎる。だからせめて戦いが始まる前に会えたらと思っていたが、もうとっくに手遅れ。相応の覚悟を持って戦いに挑んでいる吉田の足は絶対に引っ張りたくない。機をうかがって遠く離れるべきだろう。


 後ろ髪引かれるが仕方ない。今更になって会いたいと言い出した俺が悪いんだ。どうしも会いたいなら昨日の夜にでも吉田の家に直接行けばよかった。家の場所も連絡先も知らないから雄一から猪狩につないでもらって聞かないといけないけど、本当になりふり構わずにいくならそれが確実。稚拙な推理が案外体を成していたからそれを使うことしか頭になくなっていた。


 戦う吉田に俺が駆けつけて最後の言葉を交わし合う。そんないかにも小説の幕落ちにありがちな展開を、身の程知らずに夢見てしまった。


 自分のかっこ悪さに押しつぶされて再び草の影に体を隠した。もうこのままほふく前進で少しでもここから離れようと体を少し引きずった。それが原因なのかは分からない。


「北西の草むら!子供が隠れてます!」 


体を動かした直後にその声、反射で俺のことだと気がついて顔を上げた。四方に注意を払っていた術師たちの視線がすべて俺に集まっている。


 俺は、情けなく助けられて尻尾を巻いて逃げたあの時からなにも変わってない。学習していない。前も経験したじゃないか。俺たちがなにもしていなくても居場所が正確にばれた。円理術は索敵も出来るんだ。今更それに気づいた俺は術師達と目が合ってから逃げようと立ち上がった。しかし一歩目を踏み出す前に右足に切りつけられたような鋭い痛みが走った。そのまま倒れ込んでその箇所を見ると感じた通り、ふくらはぎに一直線の細い切り傷ができている。見た目はそこまで深くない。ただもう一度走り出せないくらい足に力が入らなくなってしまった。これが円理術か腰を抜かしたと言う物なのかは分からないが、今から立ち上がっても遅いことは、俺と違って前回の失敗を覚えている術師達がひとかたまりになって吉田の介入を警戒しているのを見て分かった。

 なんてざまだ。人には危険だから行くなと言っておいて自分はこれ以上無いくらい上等な足手まといになってるじゃないか。


 自分の失敗で硬直状態だった形勢は大きく術師集団に傾いた。それに合わせて吉田は怪我まで負っているらしい。生半可な行動でまんまと最悪な状況になってく。とっくに逃げていてくれたらいいと心底思った。たとえその結果自分が死ぬことになっても。


 なんて、吉田のことをあれだけ知った後じゃ白々しいにも程がある。


 俺の虚勢を鼻で笑うかのように、突然地面が大きく揺れた。それと同時に目の前で土煙が上がる。しばらく地面に手を付いて揺れが収まるのを待った後顔を上げてみると、土煙の下には、ここからでは底が見えないほどの穴が一瞬でその口を開けていた。


 スケールが違う。吉田にとって俺の登場なんかアクシデントにすら入らないように思えてしまう。頼もしすぎて自分の情けなさを忘れそうになる。


「小山くん!!」


 ただその声を聞いたら情けなさどころか余計な感情全部忘れ去ってしまっていた。

 たった一つの情動で声のした方に顔を向ける。斜め後ろから駆け寄ってくるその姿は服や肌に赤黒い血を纏っていて猟奇的そのものだったが、俺の知っている笑顔は、変わらずにそこにあった。


「今日だけは、絶対に来て欲しくなかったのに」


 叱るでも呆れるでも無く、目を細めてため息が出るほど安心する笑顔、迷惑掛けた俺が思うべきじゃ無いとは分かってるけど、来てよかったと思ってしまった。いつも見ていたから分かる。普段通りなその笑顔にこぼれ落ちそうな感情が滲んでいることを。


「ごめん。迷惑なのは分かってたんだけど、どうしても会いたくて」

「いいよそんなこと。とりあえず傷口見せて」

 そばまで駆け寄ってくると吉田はすぐに俺の隣に膝をついて傷口を確認し始めた。


「俺の傷なんか大したことない。それより吉田の方だろ。腕と脇、止血に手一杯だって」

 俺が身を乗り出す勢いでそう言っても吉田は俺の傷しか見ない。

「傷は大丈夫。痛みになれてるし止血もすぐにしたから。あいつらが止血してると勘違いしたのは私が落とし穴作っている時間だよ。結構深くしたかったから時間が掛かったんだ」

「落とし穴なんかであいつらどうにななるのか?」

「ほどほどの実力はあるみたいだし死にはしないだろうけど、上がってくるには結構時間かかると思うよ。案外円理術はこういう単純な攻撃に弱いんだ。よし、ちょっと傷口触るね」


会話をしながら傷を見て何か分かった様子で傷口に数秒手を当てた。すると霧に濡れて冷え切っていたはずの体がみるみる温かくなって不思議なくらい傷の痛みも溜まっていた疲労も無くなっていく。

 何をしたのか目を見開いて吉田を見つめたが、吉田は難しい表情で俺の足を見ている。


「止血と筋肉の痙攣。あとできる限り痛みとと疲労を取ってみるけど応急処置だから。帰ったらちゃんと病院に行ってね」


吉田はこんなことまで出来るのか。なんて呆然とその処置する様子を見ていた。俺の脳に電流が走る。

 デジャブ、とは違う。痛いほど記憶に残ってる。俺のつまらない日常が崩れたあの夜。吉田は颯爽と暴漢を倒した後にその場にいる全員の額を今のように触っていた。当時はなにも知らなかったからその行為が記憶を消しているんだと結論づけたが、やっと分かった。あの時もこうして、治療していたんだ。


「よし。まあこれで山を下りるまでは普段通りに歩けると思う」

言われたとおり立ち上がってみると痛みどころかこのまま駆け下りてしまえそうな程からだが軽い。


「ありがとう。俺はもう大丈夫。それより問題なのはやっぱり吉田の方だ。ほどほどの実力だなんて言っても、傷をつけられるくらいには苦戦してるんじゃないのか?」

「それは、まあそうだね。一級の血形を持ってこられてちょっと手こずっちゃった」

「その血形ってやつ、あいつらまだ二つ持ってるぞ。窒素と水素」

「おお、なかなかだね。休戦中で暇なのかな一級術師様も。まあ多分あの落とし穴から出るのに水素の方は使っちゃうと思うから。うん。大丈夫。なんとかなる」


 ぽっかり空いた穴を見て唱えるようにそういう吉田。それを疑えない俺は不安げな瞳で訴えるようにそれを見ていた。ただ吉田の言ったとおり、辺りに漂う霧が一斉に落とし穴の口に吸い込まれていく。

 来た。もう時間ないか。ぼそっと吉田がつぶやく。そして俺の方に振り向くと、頬に血がついた顔で真剣に瞳を見つめてきた。


「小山くん、今から言うことよく聞いて。私は今から自分が繋げた世界の流れを断ち切る。世界の流れを元に戻して全てを終わらせる。でもその時、私と私の周りにいる人も向こうの世界に送ることになる。あいつらはいいとして、小山くんはあと十分でこの山を下りて。それまではなんとか時間を稼ぐから」


 もう。まだ。少し。喉元まで自分勝手に這い上がってきた言葉を気合いで押し込んで頷いた。吉田は殊勝な子供の姿を見るみたいに優しく笑った。


「会いに来てくれてありがとう。すごく嬉しかったよ。こんな私でも最後に会いに来てくれる人がいる。ちょっとぐらいは、この世界にきた意味を残せたのかな。なんて」


 最後言い切る前、自信なさげにわざとらしく口角を上げる。こんな吉田を俺はこのままで帰せない。帰しちゃいけない。


 頼む。否定しないでくれ。俺がどれだけ吉田のおかげで世界が変わったか。吉田は知らない。俺の生ぬるい選択のせいでまだ伝えられていない。


 吉田のおかげで。

 俺は俺の殻を破れた。

 俺の知らないところで、俺の知らない考えで進んでいる世界の事を知った。

 俺の周りにある世界の美しさを知った。

 つまらないと目を逸らした世界の広さを知った。


 荒療治だったとは思うけどそれだけに、吉田と関わらないままだったら俺は一生小さな窓の付いた一部屋で外の景色に唾を吐いているだけの腐りきった人間になっていたと確信できる。全部吉田がくれた、きっかけのおかげだ。


 全部伝えたい。叶うことなら。もう二度と自分がいた意味を考えて不安になれないくらい。


 ただ俺たちにはもう悠長に話している時間は無い。どれほど吉田のおかげで俺が救われたか。吉田が言っていた俺の生き方を教えるという言葉の意味。特別とは何なのか。どうすれば特別になれるのか。俺は一体、なにを吉田に教えたのか。上げ出したらきりが無い。だからせめてたった一言。吉田の生き方を読み取った俺の、一番吉田に伝えたい言葉は。


 不安げに笑う。吉田をまっすぐ見つめた。


 魔法の世界と魔法の無い世界。お互い違う世界で生きていて、お互いに真逆の世界に憧れていた。


 しかし吉田も、吉田から教えて貰った俺も、すでに気づいている。花は与えられた場所で咲く。見つめ返すべきは自分。

 

 楽しいもつまらないも。

 嫌いも好きも。

 特別も普通も。


 世界が決めることじゃない。


 俺たちが生きて、知って、理解して、決めていく。



「俺、これからも生きていくよ。吉田がいない、魔法の無い、この世界で」



慣れない笑顔でそう言った。吉田は一瞬肩を上げて目を見開く。そしてずっと笑顔に滲んでいた感情が破裂しそうになって、急いで顔を下に隠した。両目を服の裾で拭いてまた顔を上げる。そこにはもう、俺の心残りになりそうな感情は残っていなかった。


「ありがとう。私も生きるよ。一度逃げた魔法の世界で。納得できる生き方をしてみせる。何があっても、小山くんが私の特別でいてくれるから、道は間違えない」


「最後の、どういう意味?」


「この世界に来てから気づいたんだ。特別って言うのは、自分と周りを比較して付ける称号じゃない。人に対して、向けたり、向けられたりするもの。誰かの特別になったとき、初めて人は特別になる」


 人が話す、声がする。穴の縁には、人の手が掛かっている。吉田は立ち上がって、俺に手を差し伸べた。それをためらいなく取って、視線を合わせる。そして、もう二度と会えない別れ際とは思えない普通の笑顔で、僕らの夢のような日々に幕を落とした。





「特別だったよ。小山くんと話した、二つの世界の全て」





 瞼を閉じて、その裏に赤黒く残る影。幕が落ちて照明が息を吹き返す数秒間。震える体から深い息がもれる。満たされた心に溺れそうになる。一生この座席に座ったまま瞼に残る赤黒い影だけで生きていけそうなほど劇的な感情。ただこれから先も生きていくために、新鮮な息を吸って、目を開いた。

視線の先にあるのはごく普通な笑顔。それに釣り合いがとれるように体の力を抜いて笑った。そして、俺は走った。


 三秒後、普通とは言いがたい物音が背後から迫ってくる。それでも走った。


 六秒後、嵐が来たかのような暴風が辺りに吹きすさぶ。それでも振り返らなかった。


 吉田に貰った特別を胸に抱いて。

 俺たちが互いに生きるべき世界に。


 もう大丈夫だ。散々自分勝手に行動して迷惑かけたけど、欲しい言葉は最後に吉田が全てくれた。俺ももう一度、吉田が特別だというこの世界で吉田に恥じないような生き方をするよ。


 魔法のある世界を望んでいた俺と魔法の無い世界を望んでいた吉田、俺たちが等しく特別になれる世界は、考えるまでもなくすぐそこにあった。


かみ合わなくて言い合って、不満で苛立って、ただお互いの生き方をぶつけ合った。あの時間が。放課後の堅い椅子と冷たい机、頬杖をついて、椅子を揺らして、視線を交わした。あの教室が。


 魔法があるかないかで測れない。


 俺たちが等しく特別だった世界だ。

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