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一章

 左を曲がれば橋がある。五月の晴れた夕方は橋の上に羽虫が群がる。特に橋の欄干あたり、自転車に乗っている俺の顔の高さ。知っている俺は少し姿勢を下げて、口を閉じ、目を細めて橋の真ん中を自転車で駆け抜ける。


 視界の奥に信号機、青の点滅が終わり赤に変わる。このタイミングなら右に曲がって次の信号に向かうとちょうど青になって渡れる。

 知識通りに走って、その通りに事が運ぶ。達成感なんてない。染み付いた動作で体が動くだけで、脳はいつだって死んでいる。


 着いたスーパーは一年前に改装工事した。ただそれもせいぜい一ヶ月で脳が慣れた。お使いを頼まれるのも、その理由として暇そうだからと言うのも、ホコリ被った思考に鞭を打つことは無い。

 スマホにメモした買い物リスト、入り口から近いものを先に買う。まずりんご、棚の前で品定めをしている女性を尻目に適当に一つ手に取ってカゴに入れた。どうせどれも大きな味の違いなんてねぇんだ。りんごが少しへこんでたらハンバーグの味になる訳でもない。たとえ世界がそうだったとしても、繰り返し買えばりんご味のりんごを選ぶ動作が染み付いて、いつしか今日のように上の空でりんごを買っている。そういった事の寄せ集めで、この世界はできている。


 生きれば生きるほど、食うことに飽きて、景色に慣れて、脳が死ぬ。それでも生きるために仕方なくと続けて十四年、得たのはでかくなった体と退屈だけ。

 変わらない日々の繰り返しで、今日と昨日の区別がない。このままこんな世界で生き続けていたら、いつしか食べるものも景色も全部一緒になってしまうような気がする。だからってお使いで買うリンゴをアテモヤにしても、せいぜい母の機嫌が変わるだけ。それじゃあダメなんだよ。こんな人生を変えたいって欲求だけが毎日膨れ上がって、昨日より俺を焦らせる。


 食べるものを変えるとか、夢を見つけるとか、誰かと出会うとか、そんなんじゃ足りない。重ねれば重ねるだけ、もとの形を忘れてしまう。一時的な変化じゃだめだ。

 俺の生きる世界、敷かれたレールをぶっ壊す。例えば巨大隕石が降ってくるみたいな、決定的に世界を変えてしまえる、きっかけがいる。


 自転車カゴに言われた通りのものが詰まったビニール袋を入れて来た道を帰る。西の山は燃えて、東の空には星が疎らに輝き始めていた。ただそのどれも、まだこちらに落ちてくる様子は無い。だからって落とすことも俺には出来ない。

 そう、いくら俺が不満を垂れて、駄々を捏ねたって意味が無い。先に退屈な世界が変わらなきゃ、そこで生きる俺の欠伸が減るわけない。つまり俺がつまらない人間なのも、暇なのも、全部きっかけをよこさない世界が悪い。漫画や小説のような創作物でさえ、主人公は主人公足りうるきっかけを与えられて主人公になる。いわんやリアルで生きる俺はきっかけもなしに主人公になれる訳が無い。当然の事だ。俺がどんな行動を起こそうと、世界が鼻で笑えばそれまでなんだよ。


 知っている道のりは脳内で続く不平不満の濁流を止める事は無い。つまらない体に染み付いた、つまらない動作を、無意識下で処理する。

 またあの橋を視界に捉えた。日が落ちて、羽虫は近くのコンビニの誘蛾灯に集まっていく。俺はそのままの姿勢で橋に突っ込んだ。案の定、羽虫はいない。想定通りに事が運ぶ。後は真っ直ぐ走るだけ。家に帰ったら風呂を洗い、飯を食い、歯を磨いて寝る。それだけ。想定した残りの一日に思わず欠伸が出た。大きな口を開けて弛緩した身体、静かな住宅街、無限に続いていくように思えるその世界は、突然、切り裂くような「悲鳴」が響いて、バランスを崩した。


 油断しきった体にその悲鳴は落雷のようで、思わず吸った欠伸が肺に留まる。だけどそれは一瞬で、直ぐに俺の体はいつものレールに戻って息を吐く。

 どうせお調子者が騒いでいるだけだ。俺が今想像するような事はそうありはしない。

 分かっている俺は無意識下で漕いでいた自転車を止めて、その声のした方にハンドルを向けた。りんごを食べてりんご味を感じるならそれでいい。ただ万が一、ハンバーグ味に変わる瞬間があるのなら、俺はそのチャンスを逃すわけにはいかない。


 向かう先、あるのは羽虫の集まるコンビニ。二十四時間営業で国道沿い。深夜ともなれば治安のいいイメージは無いが今はまだ七時過ぎ、何か事件があったとは考えにくい。実際、こんなことは俺の人生で何回もあった。その度に俺は行動を起こしたが、想像以上の感情を抱くことは無かった。

 世界ってのはそう簡単に変わらない。これが今までの人生で得た教訓で、隕石が降ることを望む理由でもあった。ただ今日の世界はなんの気まぐれか、俺のそんな教訓を容易く裏切ってきた。


 店の駐車場裏、川沿いの道。薄暗い視界の先に、うずくまる女性が一人、それを囲むように大人の男が四、五名。一目で穏やかじゃない出来事が起こっているのが分かった。たった今、この瞬間もその男達はうずくまる女性を蹴ったり踏んだりしている。

 安定したレールから片足落ちて、俺はバランスを崩した。脳は積もった埃を一瞬で吹き飛ばすような回転速度で思考を回す。


 いじめ? 男女の、いや、なんだ、なんで、死ぬぞ。警察、救急車、だれか呼んだか、誰かいるのか、なんでいないんだ。いや、俺がいる。俺が行く? 行ってどうする? 話が通じるか、あんな奴らに。喧嘩だって、死に物狂いで二人の手を止めるぐらいが関の山。


 だったら。

 だったら?


 無視? 警察を呼んで、ただ呆然と、何とかなるまで、この光景を見ている。そんなの、まるで。


 その間、心臓が三回大きく脈打っていたのだけ分かった。五秒も経っていなかったかもしれない。それでも俺を、この世界の脇役だと自覚させるには十分過ぎる時間だった。

 震える体には一歩も踏み出す余裕はない。情けなく、まず警察を呼ぼうとスマホを取り出そうとした。その姿は脳内の理想というレンズを通すとピンボケして、代わりに、突然視界に現れた。見覚えのある一人の女子を鮮明に映した。


 街灯に照らされて、肩にかかる髪が光り脳をくすぐる。そして目の前の輪郭が、俺の記憶に唯一はっきり存在する一人のクラスメイトと重なった。

 吉田結菜(よしだゆいな)。間違いなくあいつだ。俺の隣の窓際に座り、毎日飽きずに本と睨み合っている。物静かで友達も少ない。そんな女子、のはずだ。

 しかし吉田は俺の抱くイメージでは想像できない所に立っている。俺の視線の先、羽虫が集まる店の少し手前、蹲る女性に暴力を振るう男達のすぐ目と鼻の先。

 そして吉田は重ねるように、俺のイメージを壊し、暴漢たちの血管を切らせるような言葉を言い放った。


「恥ずかしくないの」

 その声は酷く、冷淡だった。


 しかし冷たいのは吉田の声だけで暴漢たちは一斉に手を止めて、吉田の前に集まる。何やら話しているようだが一触即発の雰囲気だけは伝わった。さすがにこれ以上はまずい。吉田が何を言ったってどうせ奴らは暴力で解決するような野蛮人だ。


 止めなきゃ。吉田の声が反芻する。聞いた時、背筋が凍った。俺に言われている、気がしたからだ。

 重い足を一歩前に。ただその間に吉田は二歩も三歩も、俺の前に行っていた。


 カチカチ。聞き覚えのある、だがこの状況では異質な音が聞こえた。吉田が手に何か持っている。暴漢たちが身構えた。そのシルエットと音から察するに、吉田が持っているのは恐らく、カッターナイフだ。

 やばい。それが口から出る更に一歩前、吉田はそのカッターを暴漢たちにではなく、なんと自分の手のひらに当てて、スっと、なんの躊躇いもなく、引き下ろした。


 途中が抜けた小説を読んでいるような違和感と、分からないが重なる恐怖。もはや立ち尽くすしかない俺に気づくことなく、吉田は切りつけた腕を隣の川の方に突き出す。


 欄干を超えて、吉田の腕は周りの人工的な光で身をよじる川の上にある。そして底の見えない夜の川へ、吉田の腕から一粒の水滴、いや、血液が落ちた。

 もはや異質を通り越し、幻想的にすら見えるその光景は、留まるところを知らない。そしていよいよ、白昼夢を疑わなければ腹落ちしないところまで加速する。


 吉田の腕から血液が川に落ちて、二秒後、絶え間なく続いていた川の水音が変わった。湧き上がるような、捻れるような、そんな音と共に、俺の視界には、川の上に、巨大な黒い塊が膨れ上がってきていた。それは常に不定形で揺れている。よく見れば街灯の光を塊の中でぐちゃぐちゃに混ぜ込んで光っている。それで川の水だとわかるが、理解はできない。


 そして水の塊は明確な意志を持っているように、一直線で呆気に取られている暴漢たちに向かって突っ込んだ。暴漢たちは水の塊の中に閉じ込められて苦しそうに藻掻く。ただそれも二分と持たない。動かなくなった暴漢たちを吐き捨てるように地面に置いて、水の塊は水面から伸びた体をゆっくり元の姿へと戻していく。


 一連の流れが終わると、世界はたった今の事など忘れたかのように元の静けさを取り戻し、残るのは倒れた男たちと女性、その中に佇む吉田だけ。何を考えているか分からない後ろ姿は男たちの前に出る時も、一触即発の空気の中でも、それを収めた今でさえも、変わらない。

 淡々とスマホを取りだし警察と救急車を呼ぶと、今度は男たちと女性、全員の額を触って去って行った。


 その様まるで夢のよう。誰でも言えるような比喩しか出ないのは、呆けて眺めていた部外者だから。どれだけ回っても現実に思考が追いつかない。ただ一言、ハッキリと俺の脳内に浮かぶのは「やられた」それだけだった。


 きっかけを求めて生きてきた。重ねるだけの毎日に嫌気がさして、重ねさせる世界に憤って、変わらない景色が続くこのレールから抜け出すためのきっかけをずっと、求めていた。

 きっとそれは、何も考えずに暴漢達へ挑むことが出来ていたなら、叶っていたのかもしれない。実際の俺はグズグズ悩んで保守的に、合理的に物事を考えようとして、それを逃した。つまらない人生に拍車をかけた。もしそれで終わっていたなら、俺は一生、今日のことを悔いて生きることになっていただろう。


 吉田結菜が現れなければ。


 あいつが俺の掴み損ねたチャンスを悠々とさらって行った。それにあの能力。恐らく吉田にとって今回の事はきっかけにすらならないような、もっと、本当に世界を巻き込む大きなきっかけを持っているに違いない。

 何も成せなかったクラスメイトBは考える。何一つ結論には至らないのに、向かう場所だけは、縋るべき人物だけは理想のレンズが掴んで離さない。

 これを見られたのも何かのきっかけだ。自ら重ね掛けた凡人の烙印を拭うにはそれしかない。縋るしかない。吉田結菜に。

 遠くからサイレンが近づいてくる中、俺はただそれを反芻していた。

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