act.6 その少女、卒倒
今日は実際の舞台での練習だから見に来ないかと誘われたので、ぼくは客席に座って見学させてもらっている。
もう少し正確な言葉に直すのであれば、「もちろん、先輩なら来てくれますよね?」とぼくを脅していることを隠そうともしなかったわけだが。
舞台上では様々な人が舞台を所狭しと動き回っている。
役者たちも着替えはしていないが大きな布を被ったり、腰に巻いたりと本番できる衣装を想定した格好をしているみたい。
ぼくから見たらそれで意味があるのかと思うのだけど、やっている人たちからしたらあるのかもしれない。
本番で裾を踏んだりとか、本番前には本番さながらの通しの練習もやるようだし、それも想定して練習しているのかもしれない。
どっちにしても彼女たちの熱意はぼくから見ても相当なものがあるし、舞台に対しては並ならぬものを感じるのだが、彼女の中ではこれぐらいは当然だし、それ以下のやつはとっとと舞台から降りろというのだろう。
見学者はぼくだけではない。
いつか見た風紀委員の子も席についていた。
誰に熱心な視線を送っているのか知らないのだが、アイドルでもいるのかのように頬を紅潮させている様子は目立つ。
そんな入れ込む子がいるのだろうかと舞台上を見たが、ぼくにはやはり分からなかった。
舞台上を慌ただしく駆け回っている彼女はいつものメガネにボサボサしたような髪型をしている。
「あ、あの……こ、ここにおいておきます」
「あ、いえ、それは……ち、違います。まだ、まだですから」
気弱な感じでいかにもコミュニケーションがあまり得意ではない雰囲気を出しているつもりらしい。
素を知っているぼくからしたら酷い猫を被っているとしか思えないのだが、知らない人たちからはあれが素で見えているんだろう。
ひどい詐欺だな。
ただ、あれも彼女の努力の賜物かもしれない。
バイトがない日に彼女と会うことになったのだが、彼女は制服ではなくて、体操服に身を包んでいた。
呼び出されたのもグラウンドではなくて、中庭だったし、体操服の彼女はいつものボサボサの髪型ではなく、明るい色をしたセミロングの長さの髪になっていた。
メイクも違っているので、ちょっと通り過ぎたりだと気が付かないと思う。
彼女の学校での様子をよく知っている人ほど騙せるのが彼女のすごいところだ。
この彼女を知らないから、まさかそんな格好や性格なんて思いもしないのだから。
それにしても、なぜという疑問を問いかける前に彼女が口を開いた。
「先輩が身長を伸ばしたいようでしたので、良いストレッチがあるんで紹介しようかなって」
「……ぼくに嘘をついているわけじゃないよね?」
「あたしが先輩に嘘なんてつきませんよ。先輩を思う善意しかありません」
怪しいのだが、一応教えてもらおう。
まだ二次性徴中だとぼくは思っているから、身長も伸びるし、顔もかっこよくはなるとは思っているのだが、それでも外部からサポートできるならしてあげたい。
「今日は君を信用するとしよう」
「ありがとうございます、先輩。信頼してくださってもいいんですよ?」
小さく笑う。
「冗談でしょ?」
「あたしはいつだって本気ですよ?」
少なくともぼくは君に脅されている身だ。
一時的に信じてもいいが、それ以上は無理がある。
しかし、実際にストレッチが始まれば彼女の体の柔らかさと体幹の良さは想像以上のものだった。
ぼくが頑張って彼女に背中を押されながら、前屈をしていたのだが、彼女はぼくの補助なしで顔が太ももについていた。
体操選手とかそういうのでしか見たことがない光景だったから、ちょっとだけ驚いた。
いや、うん、確かに体づくりは大切なのだが、彼女がそこまでやっているとは思ってなかった。
開脚前屈をすれば、体が地面にぺたりとついてしまう。
ぼくが呆然としていると、彼女が顔だけ上げてニコリと口元に笑みを浮かべた。
「先輩にはこれぐらい出来るようになってもらわないと困りますから」
「出来るようになるわけないでしょ、そんなの。ぼくの体が硬いのを見たでしょ?」
「ええ、びっくりするぐらい硬くて驚きました」
「だったら、分かるよね?」
「それでもやるんです。出来ないとやらないでは大きく違いますので」
やる、と。
ぼくは彼女に付き合うことになるというわけだ。
それにしても、どうしてそこまでぼくは彼女にここまで付き合わされるのか。
ぼくは彼女に脅されているから付き合うという選択肢しかない。
彼女がぼくに構う理由は、全くの不明。
そうして、ぼくは彼女のストレッチに付き合うことになった。
決して、身長に釣られたわけではない。
他にも別の日だが、彼女とは出会った。
朝早くの時間にだ。
たまたま目が覚めてしまって、窓の外に目を向けたところで彼女らしき人物が見えたので、寮から出たところで見つけることが出来た。
その時の彼女はいつものとまったく違っていて、派手な髪色にしていて、メガネは着けていなかった。
彼女の前に立った時、一瞬だけ分からなかった。
けど、何だろう。
彼女だって確信出来た。
「どうしたんですか? 先輩」
「君の姿が見えたからね、こんな時間に何をしているのかと」
「何してると思いますか?」
彼女は挑発的な笑みを浮かべていた。
朝からそれに付き合う義理はぼくにはない。
「何か悪だくみとか?」
「つれないですねぇ。体力作りですよ。体が資本ですからね、役者は」
「いつもこの時間に走ってるんだ」
「この時間ではないです。人がいない時間に走ってるんです。目立ちたくありませんから」
「見たことのない生徒がいたら目立つでしょ」
彼女にとって、話し方なんて無限にあるだろう。
だから、見た目さえ変えてしまえばいいと思ってるだろうが、今の彼女と部活中の彼女では全く雰囲気も違う。
初見で彼女だと気が付くのは不可能だと思う。
ぼくだから、というか、知っているからこそ気が付けた。
彼女が目立たないように擬態していること。
目立たないように演技していることを。
「やっぱりあたしの雰囲気のせいでしょうかね」
得意気な顔をしているのだが、それが様になっているのが何とも憎らしい。
彼女がちゃんとした格好でメイクをしたのならば、街ゆく人は振り返るだろう。
それほどまでに彼女は綺麗だと思うし、自信に満ち溢れている。
「先輩はこれからどうするんですか? あたしはもう少し走りますけど」
「冗談でしょ? ぼくの恰好を見ていっているの?」
着替えてきたわけではない。
一応外に出られる格好で来たわけだが、ほぼパジャマだ。
それに朝早くから汗だくなるのも今は避けたい。
「いいじゃないですかぁ? そういう格好で走っても、あたしと走れるんですよ?」
「君と走れることを名誉のように言うのはやめてくれ。どちらかというと迷惑だよ」
「今日は一段とつれないですねぇ。何かありました?」
「まだ朝早くで寝起きはあまり良くないんだ」
いつもならまだベッドの中にいる時間なのは、そう。
だから、今すぐにでもベッドに戻りたい気持ちはある。
「走る以外にも何かしてるの?」
「ストレッチから声出しまでですよ。毎日やらないと調子も出なくなりますし、その日の調子を知るのに最適ですから」
どこまでも彼女は役者なのだろう。
こうして舞台を降りていても、彼女は役者であることをやめようとしない。
だけど、それなら、何故彼女は舞台に上がらないのか。
上がりたくないなんて思ってもいないはず。
上がりたいに決まっている。
「ジム的な場所も近くにあれば、そっち利用するんですけどね。ここでするなら、簡単な筋トレみたいなのものしか無理ですから」
そこまで話して、ぼくは彼女と別れた。
きっとぼくが会ったのはたまたまの一回で、彼女は毎日のようにジョギングをして、ストレッチから筋トレまで自分でメニューを考えてこなしているんだろう。
筋トレだけではない。
彼女は食事にだって人一倍気を使っている。
寮で一緒に食事を撮ることはないのだが、彼女に何かを買って行ったとしても基本的に断られる。
どうしてかと聞けば、考えて食事を取っているのだから、余計なものを混ぜたくはない、と。
食事制限をかけてはいないらしい。
だったら、何をしているのかと言えば、しっかりと食べて、栄養が偏らないようにコントロールしているとのこと。
ぼくであれば、ちょっとぐらい良いだろうというところも彼女はしっかりと自制している。
普段、そうしているからたまの休みでは、甘味やこってりしたものを食べるのだとか。
あまり制限を掛け過ぎても負担になるから、たまには多く無い量であればいいだろうと、食べているらしい。
だれにも頼らずに、たった一人で今までそれを続けていた。
それは報われるべき努力だ。
ぼくは彼女のことをよく思っていないし、何で猫を被ってあんなことをしているのかとずっと思っている。
けど、それはそれであって、これはこれだ。
彼女のことだ。
やってきたことに嘘はない。
自分を支える基礎がしっかりとしているからこその自信。
自信から来る立ち振る舞い。
それが出来ている彼女は今、舞台袖でどんなことを思っているのだろうか。
今の彼女はまだ舞台上でセットの確認を行っていたのだが、照明から声がかかる。
「ごめーん、宮城さーん、ちょっと照明見てもらっていいかなー?」
「え、いや、それは、他の人に、してもらった方が」
「ちょっとだけ! ちょっとだけだから! すぐ終わるから!」
彼女のやんわりとした否定の言葉を押し切る形で、照明の子が装置を動かしていくのだが、何度か照明が明滅した。
ぼくはそれを何の気なしに見ていたのだが、舞台上に立っている彼女の様子がおかしいような気がしてきた。
胸をしっかりと掴んで、台本は握りつぶしそうな勢いで掴んでいる。
息が荒いような感じがするけど、ここまでそれは聞こえてこないから分からない。
ただ、照明が変わるたびに彼女の状態がおかしくなってきているのは確か。
立っていられないように体を折り曲げてしまう。
ぼくが立ち上がるのと同時に彼女が倒れ込んでしまった。
「宮城さん?!」
「大丈夫?!」
近くにいた人が駆け寄るのを見ながら、ぼくも客席から舞台を目指す。
「ちょっとやがみん呼んできて! 早く!」
「宮城! どうしたの!」
ぼくが舞台に辿り着いた時には複数の生徒が彼女を囲んでいたところだし、数名の生徒は保健医の八神先生を呼びに行っているみたいだ。
舞台の上に上がってきたけど、ぼくに何が出来るのか。
大した医療の知識を持っているわけでもなし。
何が出来るわけでもない。
ただ、気が付いたらここに来ていた。
彼女は苦しいのか、息を吸っているのだが、上手く吸えないようで何度も同じことを繰り返しているのだが、それでも変わらない。
いや、悪化しているようにも見える。
「宮城、ちゃんと息しなさい!」
「息できないんじゃない?!」
二人の生徒が顔を見合わせると、
「過呼吸!」
声がシンクロした。
「宮城! 息吐いて! ゆっくりでいいから! はい、吸って」
「良い感じ、良い感じ」
「じゃあ、もう一回、ゆっくり吐いて……吸って」
徐々に彼女の息が整い始める。
だが、いつもの彼女の覇気は全く感じられない。
憔悴しきっている彼女の姿は痛々しい。
それにこんな事を思ってしまうのは、とても良くないと思うのだが、なんだかちょっとだけレアな姿だなって思ってしまった。
「……慣れてるんだね」
近くにいる演劇部の子に声をかける。
「よくあることですから」
「そうなんだ」
「プレッシャーとか色々あって……多分、ここにいる誰もが経験していると思いますよ」
そんな身近にあるもんなんだ。
確かに、役に対してとか、人前で演じる事とかプレッシャーはぼくが思っているよりも遥かにあるのだろう。
「やがみん連れてきたよ!」
入口の方にいる演劇部の子が連れてきたのは、この学校の保健医八神麗緒。
純白のコートを着て清潔感のある恰好。けど、彼女の影響か分からないけど、髪色や髪型を見るようになれば、胸元まで伸びた髪はこげ茶色に染めて、サイドでまとめて毛先に緩くウェーブをかけているところ等、色々と気を使っているところに気が付く。
ここまで走ってきてくれたのか、息を切らしている。
「せ……ぱい……」
かすれた声が聞こえて、彼女に目を向ければ手を伸ばしていた。
先輩と言われて、他の子たちも反応していた。
ここにはぼく以外にもきみよりも先輩が多いんだから、ちゃんと呼ぶべきだと思うのだが、何も言わずに近づいて、手を取れば、ふっと笑顔を浮かべて、そのまま目を閉じてしまう。
手に持っていた台本と、メガネが落ちてしまうのだが、ぼさぼさにセットしている髪が顔にかかり、彼女の顔を隠した。
それとほぼ同時のタイミングで八神先生が壇上に上がってきてくれた。
「頭はぶつけていないか? 呼吸は……うん、大丈夫そうだ」
他の生徒に細かく状況を聞いて行きながら、しっかりと見ていくところは見ていく。
脈だったり、髪を梳いて顔を覗き込んだりと、こうやって見ていると先生らしく見える。普段が見えないということでもないのだが、頼もしく見えるということで。
「あの先生……宮城は大丈夫なんでしょうか?」
不安そうに聞いた生徒に対して、八神先生は安心させるような優しい笑みを浮かべていた。
「大丈夫だ。過呼吸の時の処置もしっかりとしていたし、頭もぶつけていなかったみたいだから。今は……安心して寝ているだけだろうから、すぐに目を覚ますさ」
それを聞いて、みんなホッと安堵の息をつく。
ぼくもみんなに釣られて、息を付いていた。
「それじゃあ、彼女は保健室に連れていきたいけど……」
「どうしたの、やがみん」
見れば分かることだ。
彼女の体型は、八神先生よりもしっかりしている。
だから、担いでいくことは多分無理だ。
それに気を失っている人間というのは、存外に重たい。
「担架あったかなー……」
八神先生が探しに行こうとした時に、舞台袖から数人の生徒が現れた。
「担架ならお任せを!」
木の棒にシーツを取り付けての即席担架なのだが、造りに不安を覚える。
乗せた瞬間に落ちやしないか、と。
みんながぼくと同じように思って見ていたのかもしれないけど、作ってきた子たちが慌てて説明しだす。
支えもあるし、太さもあるから折れはしないはずだと熱く語っているのだが、疑ってしまうのだが、八神先生が乗せていこうというのであれば、みんなの雰囲気が仕方ないという風に転んでいく。
担架に載せようと、ということになりぼくは離れようとしたら彼女の手が僕の手をしっかりと握りしめていて離れない。
自由な方の手で指をほどこうとしても、力が強くて上手くいかない。
八神先生にそれを見せたら、少し考え込むようにしたがすぐに、
「そのまま保健室に連れて行くよ」
先生が答えを出したのなら仕方なくぼくは従うことにした。
担架に彼女を乗せて、数名の演劇部の生徒と一緒に保健室に向かうことになった。
ぼくは彼女のメガネと台本を持って。
保健室まで向かう間、数名の生徒とすれ違ったのだが、八神先生がいて、数名の生徒で囲まれて運ばれている子がいれば、ひそひそと噂もされる。
後になれば、誤解も解けるだろうから、今は放っておいていいだろう。
保健室に到着すれば、演劇部の子が彼女を下ろしてくれた。
演劇部の子たちが保健室から去ったが、ぼくは彼女が手を離してくれないために一人ポツンと取り残される形になる。
八神先生とはあまり面識もないから、話す話題にも困るんだよな。
ぼくが一人悩んでいると、八神先生が彼女の髪を梳いて、顔が見えるようにしたところで手が止まった。
その動きが不自然で、疑問に思う。
「どうしたんですか?」
「あー……いや、この子見覚えがあるなって」
生徒だから、というわけでもないだろう。
だったら、どこで見かけたのだろうか。
一番可能性のある場所と言えば、あそこかな。
「舞台ですか?」
「いや、舞台は見ないから違う……気のせいだろう」
何かが引っかかる。
それならどうして先生が知っているのだろうか。
彼女と先生は面識はないはず。
いくら考えても答えは出ない。
先生が知っていて、ぼくが知らない場所。
これがヒントなのだろうか。
先生が彼女から離れて、机の方に向かって行く。
カルテみたいなのでも書くのだろうか。
立っているのも疲れてきたから、彼女が寝ているベッドに腰掛けることにした。
それにしても本当に離してくれない。
暇なので、彼女がかけているメガネでもかけてみた。
あれ、視界がぼやけたりしない。
少し薄暗く感じるのはサングラス的な感じか。
ずっと目が悪いのかと思っていたが、それすらもフェイクじゃないか。
ぐしゃぐしゃになってしまった台本の中身も見てみよう。何も書いてないかもしれないし。
そう思って開いた台本の中身はびっしりと書き込みがされていた。
パラパラとめくっていけば、場面転換に合わせての大道具や小道具と自分の役割の物が書いてあるのはもちろんなのだが、セリフに対して自分が演じるのであればこうすると事細かに記されている。
役者たちに対しても評価しているところもあるが、全体的に言葉が悪い。
基本的には悪い評価を付けているのだが、彼女の目からは、その役を演じられる力はあるのになんでその役を十全にやれないのかというところで悪い評価となっている。
実際に彼女は悪態を吐くし、扱き下ろす。
それもこうして舞台が絡めばいっそう激しくなる。
そこにはきっと、何で出来るのにやらないのか、と。
役者として実力はあるのに、何でそれが出来ないんだと怒っているのではないかと、好意的に解釈してみた。
鞄とかを持っていないので、服の中に入れ、お腹のところでスカートで挟んで持っていくことにする。
彼女には悪いとは思うが、これはきっと彼女を知るためのヒントになるだろうから。
「先生、ちょっと演劇部の顧問の先生のところに行ってくるから、見ていてくれないか?」
先生に見えるように繋がっている手を上げた。
「いいですよ、動けませんから」
先生が出て行ったが、どうしようか。
何もしないでいるというのは案外暇で、保健室は過ごしやすい温度に包まれている。
ちょっとぐらい休んでもいいのではないか。
どうせ手は放してもらえないから。
寝転がって、天井を見つめていた。
知らない間に、ぼくは眠りの世界に旅立っていた。