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そのことに気づいたのはエルダーだけだった。
カイへの干渉をやめ、脱力する一瞬の隙間に「入られた」のだ。
強引に、暗い地下への階段からぐいっと後ろへ引っ張られて別の場所に置かれる、そんな奇妙な感覚だった。自分が小さな駒になった気分になる。気分の悪さや寒さはあるものの、暖かな何かで包まれたような幸福感にも似たものがエルダーを安心させた。
――フェーネじゃない。そもそもこれは「治癒」ではない。だとしたら――
「……どういうことです?」
フェーネがエルダーに心像を使おうとしたところでようやくそれに気づいたらしい。ゼラが察したようにさっとロムを見る。
ロムが周りを見渡すと、ある一点で視線が止まった。
全員がそれに気を取られた隙に、エルダーはどうにかゼラの手をふりほどいて距離を取った。
ゼラはそっとエルダーを睨み、立ち上がる。
「誰だ」
ロムが見ていた一点――柱の影から、灰色の布に身を包んだ者が出てきた。細い枯れ木のような、それにしては背筋がピンと伸びた、老女だ。
ゆっくりと近づいてくる。彼女はゼラの顔を見ると、記憶を探るように目を細めた。顔に細かい皺が刻まれる。
「フロイドの息子よ――その娘をこちらに渡してほしい」
「どなたでしょうか」
ゼラが硬質な声で聞き返す。
それは微動だにせず、ちらりとエルダーを見た。
「失礼した。私はオーディルーの」
「いえ――どなたの呪与士かと尋ねているのです」
「……女王陛下の呪与士であるソトだ。彼女をこちらへ」
「何故」
「死なせたいのならそのままで良いが」
「脅しているのか」
ゼラの声が鋭くなり、フェーネが一瞬身じろいだ。ゼラに心像を使い始めたのだろう。ロムも察したのかゼラの前まで駆けてきた。しかし、名乗った老女は悠然と構えたまま、小さく首を横に振る。
エルダーはその目を見てわかった。
彼女の力は、桁違いだ。
やはり「治癒士」と「呪与士」は根本的に違う。
「脅してなどいない。純然たる事実だ――この娘は限界を超えて使いすぎた。今私が別の場所に置いてはいるが、それを止めれば再び意識が引っ張られるだろう――そうなると、前の状態に戻る。ただ死ぬのを待つことになる。連れ戻すことはお前にはできぬと思うが、やってみるか?」
フェーネに尋ねたソトの言葉には、言うように脅しは全く含まれていない。ただ淡々と彼女の知っている事実とやらを示しているだけだ。
エルダーにはわかる。
呪与士にしか触れられない領域がある。
これがわからぬフェーネではない。
「……フェーネ」
「この方の言うとおりです、殿下。不甲斐なくて申し訳ありません」
フェーネが歯を食いしばるように言うと、話かついたと言わんばりにソトがすっと手を上げた。影からアキレアが出てくる。
「あの娘を」
「はい、ソト様」
無表情のアキレアは、ゼラの前に立つと深々と頭を下げた。ゼラが「アキレア」と呟くと、その肩がびくりと震えた。
「……殿下、お退き下さい。今彼女はソト様のお力で引き離していますが、身体はボロボロです。すぐさま隔離してソト様に助けていただかなければ」
「そう。お前は助けてくれないのかな?」
「助けたいからここにいます。ソト様でなければ無理なのです」
不意に、ちらりとロムから視線を受けたエルダーはどうにか立ち上がった。
ゼラは自ら退いたりはしない。
ふらつくエルダーにフェーネが手を貸す。わざとその身体にしがみつくようによろけて、耳元で大事なことを伝えると、エルダーはフェーネの手を離してゼラの隣を追い越した。
自ら出てきたエルダーに、アキレアが安堵したように手を差し出す。
「エルダー、手を」
「結構よ。一人で歩ける」
ゼラから見えなくなるまでは。
青い顔をしたままのエルダーを見て顔をしかめたアキレアにも、ソトにも意図は伝わったらしい。エルダーは背を向けて先導するように歩く。
「……失礼します、殿下。エルダーのことはお任せください。状況は必ず追って知らせますので」
「そうだといいが」
ゼラが静かにそう言った声を聞きながら、エルダーは鉛のように重い足を繰り返し動かす。ゼラの視線が背中に刺さっているのを感じる。怒っている――たまらなく幸せな気持ちが溢れる。なんだったらこのまま死ねたら楽かもしれない。
「エルダー。殿下達は去った」
「……そう……悪いけど、後は頼むわ。このまま死んでも良い。あなた方の判断に任せる。フツリ様に謝っておい、て」
そう言うのが精一杯だった。
視界が暗く狭くなっていき、エルダーは意識を手放した。
○
朝の日差しをうっすらと感じて、目を覚ます。
相変わらず湿っぽい空気にエルダーはゆっくりと起きあがって伸びをした。
頭を乱暴に掻くと、短くなった髪がふわふわとはねた。
高い場所にある小さな窓を見上げる。鉄格子のはまったそれは、隙間から見上げると緑色の芝生が見える。今日も晴天らしい。朝日がきらきらと輝いていた。
コンコン、と重苦しい木の扉がノックされる。
丈の長い灰色のワンピース一枚のエルダーは、ベッドから降りると冷たい石畳の上に落ちていた薄手のストールを拾いながら返事をする。
「起きてるわ。どうぞ」
すると、向こう側で鍵を開ける音がやけに重く響いた。こんなに厳重にしなくたって、誰も来ないし出て行かないのに、とエルダーは笑う。
「朝食、持ってきたぞ」
「あらバンザ様。お暇なのね」
軽装のバンザが、パンとスープと果物といういつもの朝食をテーブルに置く。
エルダーが隔離されてから、もう七ヶ月が経っていた。




