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三ヶ月ぶりだった。
フツリと話したあの夜――人きりで部屋で泣き疲れたあの夜から、まともにゼラと対面して話すのは、三ヶ月ぶりだった。
カイの背中に隠されたエルダーは、ほっと肩の力が抜ける。というよりも、冷静になれた。
どうにかここを抜け出さなくてはいけない。とにかく、早く。
「君は誰かな?」
親しげに、穏やかにカイに話しかけたゼラの声にぞっとする。これは相当、機嫌が悪い。
しかし、カイは微動だにしなかった。それどころかエルダーの手を握る。
「カイです」
「ああ……それで?」
にっこりと笑っている顔が容易に想像できたが、やはりカイは少しも怯まない。驚くと同時に、エルダーは心配になった。彼は余程鈍感なのかもしれない。
「それはこちらの者だ。返してくれるかな」
「……グレフィリアの第五王子殿下、ですよね?」
「そうだ」
「エルダーは何も悪くありません。そんなに怒らないで下さい。彼女が可哀想だ」
鈍感ではないらしい。
ならば、次にバンザに会ったときには彼の教育を褒めなければ――そう思ったところで、気づく。
エルダーが思わず笑うと、カイがちらりと振り向いた。
「エルダー?」
「あ、ごめんなさい。ふふ……そうよね。でも助かったわ。フツリ様によろしく伝えて」
「……なんのこと?」
「あなた、誰なの?」
エルダーの優しい問いに、カイはぴくりと目を見開いた。握っていた手がゆるむので、手を離して一歩下がる。
「まあ、誰でもいいわね。ありがとう。お礼に、命だけは守ってあげる」
「待って」
「待たない」
エルダーは微笑んだ。
カイに、そしてその向こうに立つゼラに。ついでに、フェーネには「無駄よ」と伝えると、そのまま背中を向けて歩き出した。
焦らぬように、その場から抜け出す。
誰も追っては来ない。
来られるわけがない。
カイの足は止めてあるし、ゼラは婚約者がいる身で分かりやすくエルダーを追ってなど来れない。しばらくフェーネと視察のフリでもしてから出て行くはずだ。
エルダーは兵舎の門を涼しい顔で抜けると、しばらく壁伝いに歩いて距離を取ってから植え込みの間に滑り込むように倒れた。
痛い。
あちこちが痛い。
吐き気がして、口元を押さえる。
「……、はあ」
どうにか息を吐き出して、うずくまる。
指先が震えてきた。
今日の朝、心像を使えるようにしたときから違和感はあった。気のせいだと思っていたが、カイの手を治癒したとき、初めて「限界」が来たことをエルダーは悟った。
一週間。
それが限度だったらしい。
「……本当に使えないわ、私」
心像を使うのが致命的に下手で、使うまでに相当の集中が必要なのは自分の身を守るためだったらしい。エルダーの身体は治癒士に向いていないのだ。ここ数日一日中使っていた上に、兵たちに印象づけるために、普段なら決してしない派手な使い方をしていた。
今もカイに干渉を続けている。
あんなにも躊躇いなく、心像を人を傷つけるために使える男から守ってやらなくては。あれは一番残忍だ。
だからゼラはフェーネだけを連れてきた。
徐々に、目の奥が暗くなる。
わかる。
行き止まりの近くまで来ている。前はただ目を合わせていただけだというのに、今は微笑みながら引っ張ろうとしている。
暗い階段を下りていくような感覚に、エルダーの身体が寒さで震えた。
ぐっと丸まり、額を地面にすり付ける。
「……、ふ……ふふ」
おかしい。おかしくて、笑えてくる。
これではいつかのモナルダと同じだ。
休息の洋館の中庭で彼女も灰色の敷石にこうして丸まっていた。
ごめんなさい、と叫びながら、フェーネの肩を繰り返し傷つけていた。懐かしい。あの子が懐かしい。あの子を殺したことが、懐かしい。愛されていると思い込むことができていたあの子が、羨ましい――
そう思ったとき、背後からぐいっと肩を掴まれた。強い力で後ろに引っ張られる。
「!」
エルダーを見た瞬間、紺碧の目が大きく見開かれた。ゼラの顔が青白く染まる。
どうしてここに。
エルダーは反射的に肩を掴む手を弾こうとしたが、呆気なく掴まれた。氷のように冷たい手に、ゼラの手が一瞬震える。
「フェーネ」
「はい殿下、ここに」
「エルダーを」
そっと側に屈んだフェーネは、エルダーを見てすぐに「やめなさい」と静かに諫めようとしてきた。思わず鼻で笑う。
「エルダー。あの兵への干渉をやめなさい」
「……いやよ。あなた殺すでしょ」
「殺しません」
「うそ」
嘘だ。
「戻ってきなさい。その状態では治癒はできません。死ぬつもりですか?」
「できないとはどういう意味だ」
ゼラが鋭く言うと、フェーネは丁寧に「治癒はできない状態です」と伝えた。余計なことを言うなと睨んでも、涼しい顔で無視される。
「彼女は、立ち入っては行けない場所で心像を使い続けているので、どうにもできないのです」
「わかった」
ゼラはエルダーに向かって青い顔で笑むと、両手で優しく頬を包んだ。
「――ロム。さっきのを殺してこい」
「!」
フェーネの後ろを見るように目を動かすと、無表情のロムが立っていた。
「エルダーの治癒が間に合わないように首をはねろ」
「やめて」
「行け、ロム」
「やめて!」
「あれを守るつもりか?」
「あなたを守ってるのがわからないの?!」
エルダーが叫ぶと、ロムがぴたりと止まった。
安堵をしまいこみ、ゼラの目をじっと見る。
「お願い。殺さないで」
「いいよ、今すぐ干渉をやめるのなら」
「……わかったから、手を離して」
ゼラは頬を撫でてからゆっくりと手を離した。代わりにエルダーの手を握り、決して離さなかった。




