97
朝、日が射し込む前に目を覚ます。
ベッドの上に座り、右手で胸を押さえて、深くうなだれる。
エルダーの銀色の髪が、とろりとベッドの上に広がる。波打つように輝くのは、彼女が目を伏せて深い場所を目指しているからだ。
誰にも気づかれないように、小さく、細く、糸を隙間に通すようにして「回路」を抜ける。
ここ最近の、朝の日課だった。
休息の洋館にいたときも、戦地に向かう頃までにはこうして心像を使える状態に持って行っていたが、戦地でもほとんど治癒はしていなかったので、ここ数日は今までないほど心像を多用しているせいか奇妙な疲労感がある。
戦地では、常にアキレアやモナルダやマリーが率先して治癒を行っていて、エルダーやフェーネは後方支援らしいことをしているのが常だった。
エルダーの口元が「ふ」とゆるむ。
本当にフェーネは、大した治癒をしていなかった。
心像を使う姿を思い出す。
どこかで考え事をしながらも、順番に、いつものルートを抜けるようにこの複雑な回路を根気よく抜けていく。
あの書庫のようだ。
人を迷わせる本棚が幾重にも重なっている中で、本と本の隙間――ほんの少しだけ光が漏れているのところを見つけて、そっと通る。
広い場所にたどり着くまで、延々とその作業を続ける。
ふと、何も見えないほど眩しい場所に出た。
「……ふー」
エルダーはゆっくりと身体を起こす。強すぎる自制心のせいで、こうして心像を「使える状態」にするにはいつも苦労する。心なしか心臓が痛む気がするが、もう目を閉じなくても頭の中にはあの眩しい場所が常にある。力は使い放題だ。
気をつけることは一つ。フェーネからの忠告を守ること。行き止まりと呼ばれるあの地下に引きずり込まれぬようにしなければいけない。一気に心像を使えるのはかなり魅力的だが、今はそのときではないらしい。
エルダーは窓の外を見つめる。
ようやく夜が明けてきた。顔に銀色の髪がかかったまま、ぼうっとその景色を眺める目はガラス玉のように光り、ゆっくりと壁に掛けられたローブに向かった。
No.19の刺繍。
なぜかそれがぼんやりとしか見えなかった。
今日、フツリとバンザは戻ってくる。
○
「あら、イノンもだったわ」
エルダーが呟くと、カイが「どうかした?」と聞いてきたので、首を横に振った。
「なんでもない」
「? そう?」
「あれから何事もなくてよかったわね。あなた達の剣の音がよっぽど怖かったのかしら」
エルダーが冗談めかすと、一緒に洗濯物を干していたカイは同じように笑った。
「イトセ様がうまくやったんだよ、きっと」
「そうね」
「今日の夕方くらいにフツリ様も戻ってくるって言ってたけど。知ってる?」
「いいえ。初めて聞いたわ。皆忙しそうなの」
「そうだろうねえ」
カイがのんびりと呟いて、最後の洗濯物を干し終える。
二人で並んで、はためくそれを見ていると、ふとカイがエルダーの顔をのぞき込んできた。
「なに?」
「いや……顔色悪くない?」
「そうかしら。髪を結んでいるせいかも」
「外す?」
「お願い」
エルダーが後ろを向くと、カイは丁寧に髪を解く。ついでに、指先で梳くように綺麗に整えてくれた。
「長い髪は大変そう」
カイは暇を潰すようにエルダーの髪に触れている。そのうち三つ編みでも始めたらしい。後ろで「あれ」やら「どうすればああなるの」やら、ぶつくさ独り言を言いながら、それにしては優しい手つきで髪と格闘している。
エルダーがくすくすと笑った次の瞬間、カイが突然「痛っ」と声を上げた。
振り返ると、右手を押さえている。
「どうしたの?」
「手首が急に痛くなって」
「慣れないことをするからよ。見せて」
エルダーはそっとカイの右手を包み、心像を使おうとした。
「――何をしている」
知っている声に、肩が跳ねそうになる。
身体がさあっと寒くなったあと、なぜかカッと熱くなった。
苛立ちに似ているそれを押さえつけ、カイの右手の切れた腱を修復してから、エルダーはゆっくりと声の主に向かって頭を下げた。
「お久しぶりです――殿下」
「何をしている」
同じことをまた聞かれ、エルダーは頭を上げて微笑んだ。
「私にできることを」
ゼラは黙ってエルダーを見ている。
ふと、誰だろう、と思った。
黒いローブを着ず、立派な服に身を包み、誰かに会うために綺麗に整えて結われた髪を見て、エルダーは自分がゼラから切り離されたような感覚がした。
イトセのためのゼラがここにいる。
「エルダー」
たった一言。
名前を呼ばれただけで、自分の全てがゼラの元に向かう。逃げることを一切許さないその声に、心が無邪気に喜ぼうとする。それをどうにか踏みつけて、エルダーは「はい」と悪気のない顔で返事をした。
ゼラの表情は変わらない。
けれど、いつもは凪いでいる夜の湖面のような目が、激しく揺れている。
怒っている。
それに喜ばぬように視線を外せば、ゼラの後ろに控えていたフェーネがじっとカイから目を離さないことに気づいた。どうやら、カイの怪我はフェーネの仕業らしい。仕方なく、エルダーはカイを守るために心像を小さな力で使い続ける。
「そんなことは許していないよ」
「そんなこととは、何でしょうか」
「――あの!」
睨み合うゼラとエルダーの間に割って入ったのは、カイだった。エルダーの腕をぐっと掴んで、背中に隠す。
驚いた。
ずいぶん度胸のある子だわ。




