93
「何これ、どうなってるの」
ロムが帰る時間だと言うので見送りをしていると、彼らから離れた途端にロムが声を潜めて低く唸った。
どうやら本当に知らなかったらしい。
ゼラも今は室内から動けなくなったという事だろう。見張り台に立っていないのなら、こちらはもう少し自由にできるかもしれない。
「聞いてる?」
ロムの苛立った声に、エルダーは取りあえず頷いた。
「聞いてる。見た通りよ。報告するならすればいい」
「いや、できないって」
「どうして?」
「言うの?」
ロムは「ふざけないで」と言わんばかりに笑う。
「兵舎の兵達を完全にコントロール下に置こうとしてますって? 心像を使って? 殿下の治癒士である君が、他の男にそれを使ってるなんて言えるわけがない」
「馬鹿ね、ロム」
「はあ?」
「殿下の治癒士はイノンよ」
「……」
ロムが黙ってエルダーを見下ろす。
「あのさあ」
「なに?」
「前も言ったけど、味方だから」
「……あらまあ」
「そうやってふざけて返してもいいけど、何をしても変わらないよ。で、何をしてるわけ」
「洗濯を手伝っているだけよ」
「最高のタイミングで一番厄介な二人が不在になって、やることがそれ?」
「ええ」
「ふうん。じゃあ、皆には黙っとく」
ロムに腕を捕まれた。目が合う。
「――君が始めたことなら、君がちゃんと始末をつけなよ」
「素敵な味方ね」
「そうでしょ。自分でもそう思う」
腕を掴んでいた手を離して、ロムは上品に笑った。
「君が必要だと判断して動いてるのは一応わかってる。とんでもない方法だし、何がしたいのかはこれ以上わかりたくもないけど、まあ頑張って。殿下に知られないようにね」
「どうせ、あの二人が帰ってくる四日後には皆知るわ」
「じゃ、それまで頑張れば?」
「そっちも」
エルダーの返しに、ロムは少しだけ何か思い出すように遠いところを見た。
そして、薄く笑う。
「あの子、怖いね。性質はまるで違うけど、君と似てる。君が愛情深く素直に育ったら、あんな感じだったんだろうなって皆が見てる気がするよ」
「私と、イトセ様が?」
「そう。重なる部分がある」
「ロム……とうとう疲れて目も悪くなったのね」
「はいはい。じゃあね」
ロムは慣れたようにエルダーをあしらい、向こうに帰って行った。
皆、代わりを見つけたようで何よりだ。
エルダーは広場の周りではためく洗濯物を見つめる。
エルダーは哀れみの対象だったが、イトセは安心して愛でられる対象らしい。
わかる。清く美しく可憐で、健気。フツリはよくここまで上手に育て上げたものだ、とエルダーは拍手を送りたい気持ちにすらなった。
彼女を担ぎたくなる連中が出てきてしまっても、守ろうとする者がどこからともなく湧いて出てくる。
とうとうグレフィリアの者までそっち側につけた。
呪与士の子であった王子も奪い返した。
フツリの手腕は見事だ。
彼女の元でなら、ゼラは確実に平穏に生きていけるだろう。
もう兄も父も国も恨まず、すべて忘れられる。
洗濯物を見つめるエルダーの目には、白い鳥が羽ばたいている。
○
夜に控えめなノックの音がして、エルダーは扉を開けた。
イトセが一人で立っているのを見て、優しく微笑む。
「――イトセ様。今日もお一人ですか?」
「ええ。こんばんは、エルダー」
豊かな金の髪を一つの三つ編みに束ねた彼女は、エルダーに柔らかに笑いかけてから、律儀に軽く会釈して部屋に足を踏み入れた。
「何も用意をしてなくて申し訳ありません」
「いいの。私が話したくて来ているんだもの。こんな時間にお邪魔して、ごめんなさい」
素直な人だ。
窓際の丸テーブルの席に着いたイトセに膝掛けを渡すと、彼女は小さな声で「ありがとう」とエルダーの目を見て言った。
「……私の部屋に来ていること、まだ皆に伝えていらっしゃらないのですか?」
「言わないわ。巡回の間をくぐって来てるんだもの。ちょっと楽しいの」
くすくすと笑って、イトセは上品な仕草でエルダーに座るように促す。
「楽しいのならよかったです――それで、イトセ様。状況はいかがです?」
エルダーが尋ねると、にこにこと笑っていたイトセはその眼差しをゆっくりと無邪気なものから聡明なものへ変えた。
「そうね……私がここにいることに不満を表立って出す者はいないわ。けれど、そろそろ大臣の一人が様子を見に来る気じゃないかしら」
「あなた派の?」
「ええ」
「婚約は正式にまとまったのでは?」
「まとまったわ。滞りなく。だからかしら、ゼラ様がどんな方なのか気にしているみたいで」
「フツリ様が正式に椅子に座るまでは、イトセ様も大変ですね」
エルダーの言葉に、イトセは少し力を抜いたように笑った。
「ありがとう、エルダー」
「こちらこそ感謝申し上げます、イトセ王女殿下。あなたがここに滞在しているおかげで、その大臣等の手下からの急襲はないんですもの」
「私が役に立てているのなら、嬉しいわ」
「不安ですか?」
「いいえ。皆が守って下さっているもの。ただ、ゼラ様に不快な思いをさせないかと思って」
「殿下はなんと?」
「……にぎやかになって、楽しい、と」
イトセの顔がほんのりと赤く染まる。
二人は順調のようだ。エルダーはそっと窓の外に広がる夜をなぞる。
「そうですか……それはよかったです」
「あなたのおかげよ、エルダー」
「とんでもありません。イトセ様の存在そのものが殿下の癒しになっているのですから」
イトセとコンタクトを取れたのは偶然だった。
夜、一人で風に当たるのが日課らしい彼女と、ここに来て一日目の夜にはち合わせた。彼女は中庭に入ろうとしていたのだ。巡回の者がいることを教え、エルダーは自室に彼女を招き、その日からこうして夜に数分だけ話をするようになった。
窓を開けると、イトセの綺麗な金色の髪が柔らかくなびいた。気持ちよさそうに目をつむる彼女から、エルダーは目を背けるように伏せる。
夜の風は冷たかった。




