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幸か不幸か、イトセがフツリの塔に滞在しているおかげで、エルダーが兵舎に入り浸っていても誰も咎めてこなかった。
というよりも、そんな場合ではないのだろう。
兵舎の医師は何かあったときのためにと塔で待機し、使用人達はイトセの世話に総出で向かっている。彼女と話したくて仕方ないのだろう。出てくる食事の飾り付けまで可愛らしくなったのだから、エルダーは笑うしかなかった。
こちらの王族は、呪与士をつけて歩くこともないらしい。
代わりに、多くの人々が彼女を守ろうと盾になる。
しかし彼女のそばに兵を置くと角が立つらしく、フツリとバンザに帯同した者以外は、兵舎に完全にこもっていた。
バンザがオーディルーを出て三日。
エルダーはローブを脱いで、洗濯物を洗っていた。
彼らと共に大きな桶で汚れたシャツを洗って、彼らが絞ったそれを広げて物干しに掛ける。
「これで終わり?」
「うん、終わり。お疲れさま」
カイがエルダーにローブを渡す。袖を通したエルダーが「じゃあそろそろ鍛錬の時間ね」と言えば、はためく洗濯物を座って見ていた者たちがぞろぞろと広場に向かいはじめた。
最初は、干すのを見ているだけだった。
カイが干す当番の時に「どうするの?」と聞けば、彼は無邪気に教えてくれたのだ。周りは冷や冷やしていたようだが、今度はエルダーが「どうやって洗ってるの?」と目を輝かせて聞けば、何も知らぬ子供に家事を教えるように懇切丁寧に指導してくれた。
ローブを置き、髪をまとめて楽しそうに参加するエルダーに、彼らはたった三日で警戒心を解いてくれたのだ。
フツリやバンザが不在の上、イトセが訪れているのに会いにも行けない彼らの中に入っていくのは、思いの外簡単だった。
「――本っ当に、何してるの」
後ろから声を掛けられて、エルダーはまとめた髪をほどきながら振り返る。
「あら、ロム。久しぶりね、一人だけ?」
エルダーの嫌味を正しく受け取って、ロムは「そうだよ」と低く唸った。
「あの小娘が来てから大変なんだよ、こっちは」
「正式に婚約者になったのだから、小娘なんて失礼な呼び方をしては駄目よ。皆して私を忘れてくれるくらい忙しいみたいだけど、イトセ様には礼儀正しくしているの?」
ロムが睨む。
忙しいのは知っている。イトセはメイドも護衛も一人も連れて来なかったのだ。
彼女は相当聡く、誰か一人でもつけてくればフツリの塔に滞在することが「危険」であるように見えることを危惧したらしかった。フツリの使用人を信頼し、婚約者とその護衛達を信用しているということを単身で証明して見せた。
誰もがそれに応えたくて、張り切っているのだ。
ロムは鼻で笑う。
「お行儀よくしてるよ。気が抜けなくて疲れる」
「殿下と一緒にしておけばいいじゃない。そっとしておくって名目で都合よく離れていられるでしょ」
「寝室以外はずっとそうしてる。おかげで護衛らしくあちこち歩き回って安全確認ばかりしてるよ」
「そう」
エルダーは空を見上げる。
知っている。これでも夜までには戻っているし、どこを歩いていてもあたたかな空気が流れているのがわかる。イトセの朗らかさが、あちこちに染み込んでいる。ロムやスラーやジードが、夜中も彼女を守るために巡回していることも知っている。
「あのさ……部屋は別だし、昼間だって、レカくんもアキレアくんも、フェーネくんも一緒だよ」
「意外ね、ロム」
エルダーはロムに微笑んだ。
「あなたなら、もっと苛ついているかと思った」
「!」
「いい子なのね、イトセ様は。本当に慕われる人間なんだわ。私とは違って」
エルダーは広場の兵達を見る。
ロムはしばらく黙り、それから口を開いた。
「君、本当に何やってるの」
「スラーに伝えたのだけど、聞いてない?」
「……何も」
「盾を作っているのよ。あなた達にとってはイトセ様が盾でしょうし、イトセ様にとってはあなた達が盾でしょう。でも、私にはあんな可憐な少女を盾にできないわ」
胡散臭そうにエルダーを見たロムは「それで?」と兵達を指さした。目を細めて返事をする。
「フツリ様もいなければ、バンザ様もいない。今が好機だわ」
「何をしたいわけ」
「知りたい? 本当に?」
「……いや、いい」
「いい子ね。じゃあロム、ちょっと彼らに混ざってきて。怪我でもしてきてよ」
「は?」
「あら、スラーと同じ反応」
唖然としたロムはじわじわと察した顔をした。
「うわー、この前もスラーにも怪我してこいって言ったの?」
「さあ」
「あのスラーが怪我するなんておかしいと思った。それも君に治癒させてたからびっくりしたんだけど?」
「――ねえ、みんな。ロムが来たわよ」
エルダーは声を張り上げる。
カイが真っ先に走ってくると、ロムを捕まえて広場に戻って行った。
エルダーはその光景を見つめ、出番を待つ。
「……あー、えーと、久々で手加減できなかった。なんかごめん」
ロムは座り込んだ十人に謝った。
口の端が切れていたり、腕を押さえたり、わき腹を押さえている彼らの周りには、先に投げ飛ばされた無傷の兵達がいて、しどろもどろになるロムを見て苦笑している。
「本当、ごめん。気を張ってたし、つい」
つい、にしてはずいぶん手加減していたが。
エルダーは静かにそばに寄りながら、彼らを観察する。ロムに手酷く殴られたところを押さえているが、その表情は晴れやかでスッキリとしていた。そうして、次々に「気合いが入った」などと言う。
さすがバンザが鍛え上げた者たちだ。
「――大丈夫?」
エルダーが声をかけて手を伸ばすと、カイは素直に腕を見せてきた。そっと触れて、心像を使う。
抵抗もせず、むしろ自分からエルダーに笑いかけて「ありがとう」と言う彼らを、ロムが信じられないものを見るように見ていた。




