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「――知らなかった」
イノンがぽつんと呟く。
中庭には二人。
ジードは、エルダーの「お願い」を黙って聞き入れて、部屋に戻って行った。
エルダーとイノンは何となく、ジードが消えた方を見つめる。
「きみ、あの人を呼び捨てにするの?」
「……ああ言うと、絶対にお願いを聞いてくれるのよ。昔から、私がそう呼ぶときは本気だってわかっているから」
小さな頃は「ゼラ」とよく呼んだ。
まだ幼い彼に監視はついていなく、エルダーを引き取った後は特にそれを知られぬように人払いをされていたようで、自由に過ごせていた。今思えば、あれが人生の最高に幸せな瞬間だったかもしれない。
邪魔されず、無邪気でいられた。
名前を呼ぶとジードに叱られたが、仕方なさそうに許してくれた。ゼラと手を繋いで、身を寄せ合うように笑った。
今も、ジードは時折「ゼラ」と呼ぶ。
そう呼ぶときは特別だった。
だからわかるのだ。エルダーの本気が。
イノンが軽くため息を吐く。
「ジードに言わなくてもよかったんじゃない。すごい顔してたよ。可哀想になっちゃった」
「何を言ってるの。大事なときに止められたら困るでしょ」
「一番面倒なところに目を閉じてもらうわけね。さすがエルダー、こわいことをする。ジード傷ついてたよ」
「彼は大丈夫」
大丈夫。ゼラのために動く人だ。
エルダーがはっきりとそう言うと、イノンはどこか哀れんだ目でエルダーを見つめた。
「ジードに止められたら諦めるかもしれない? 情にほだされて」
「そうじゃないわ」
エルダーはその目に向かって苦笑する。
「私のことを知ってる人よ。私のどこを刺せば響くのか、よく知ってる。そして忠実だもの、異変があればすぐにあの人に知らされるわね」
「おやまあ、それは困る」
イノンが笑う。目を細めて、納得してくれたように。
「うん、出て行くのはわかった。がんばって」
「あっさりね」
「きみの好きなように生きればいいよ。きみの人生だから。元々、治癒士にもむいていないし」
「どういう意味?」
「そのままの意味。なにも持たず、だれにのためにも動かず、ただ自分のためにだけ生きればいいのにって話。世の中には、ひとに尽くすことが幸せに思える人がいるけど、きみはだめ。情が深すぎる。ひとに関わると自分を殺すことになる」
「そうかしら。人を殺す方が性に合ってるわ」
「自分のためには殺さないくせに」
イノンの優しい声に、エルダーは睨むように見上げる。
慰められてなんてやらない。
「嫌いよ」
「ぼくも大好きだよ」
にこっと笑われると、肩の力が抜けていく。その様子に、またイノンは笑った。
「で、どうやって出ていくつもりか、ぼくには教えてくれるよね?」
エルダーは思い出す。
そういえば、この男には隠し事や秘密なんてものをしたことがなかった。出来た試しがなかったのだ。
仕方なくエルダーが簡潔に話すと、イノンは呆れたような顔を返してきた。
「本気?」
「ええ」
「本気でそれするの?」
「確実だと思うんだけど、駄目かしら」
「いや、その方法が確実だとは思うよ。無事かどうかはわからないけど。というか、ジードに言ったようにほぼ無計画なんだね?」
「ジードに嘘は言えないもの。その時その時で状況は変化するし、最善な道を選ぶためには計画なんてものは邪魔でしかないわ」
「ちゃんと育てられてるねえ」
イノンは感心したように漏らした。
「そうよ、残念ながら育てられてるの。イノンは知らないふりをしていて。得意でしょう」
「うん」
「ありがとう。最終の目的地は変わらないわ。それに向かって行く。どんな方法をとるかはわからないけど……私をずっと信じてくれる?」
イノンの手を取ると、軽く握り返された。
「もちろん。きみを信じてる」
「私もあなたを信じてる」
「エルダー、痛いよ」
目を伏せて笑うイノンが、手を緩く振る。
どんな顔をしているのか目に焼き付けたおきたかった。けれど、エルダーは自分の手を握るイノンの手に視線を落とす。
「私の監視をスラーにして」
「監視って……部屋のこと?」
「そう」
「それは……それはなあー……」
珍しく「うーん」と難色を示した声に、エルダーは畳みかけた。
「もうジードでは駄目だわ。私を見る度に罪悪感で死んでしまいそうよ。あれでいて繊細なの。一人部屋を与えられないのは私たちを監視するためでしょう。誰か一人を選ぶなら、スラーが一番共犯には見えないわ」
「きみの恋人と一緒にいれば? 自然だ」
「それはできない」
短く拒否したエルダーに、イノンは何も言わなかった。
ゼラの顔がよぎる。
アキレアに何かをするとは思えないし、ましてやあの状態でイトセに何かをするとも思えない。
ただ、あの人は「自分のもの」を持てなかった人だ。持たされなかった。自分すらも持つことを許されてこなかった。そんな中でゼラが自ら選んだのは自分の治癒士だけだということを、エルダーはちゃんと知っていた。
だから大切にしてくれる。
だから執着をしてくれる。
何もしないだろう。けれど、自分が選んだものを取り上げられる絶望感や怒りは痛いほど理解できる。
エルダーはそれをゼラに与えたいわけではない。けれど結果的に与えることになるのだから、今だけはそれを少しでも小さくしたかった。
イノンは小さく頷く。
「なら、しかたないなあ。向こうがエルダーを一人にするようにどうにか誘導してみるよ」
「助かる」
これからすることを思えば、常に一緒にいる人間は共犯に見えるだろう。そのうち、尋問を受けるかもしれない。
ゼラの周りにいる者は一人も欠けない方がいい。味方は多くいたほうが安全だ。
「イノン――お願いがあるの」
イノンが「いいよ」と微笑む。
これから一人で無計画にこの国を出ようとするエルダーに向かって、ただただ見守るようにあたたかな眼差しを向けてくれたのだった。




