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初代様――そう呼ばれる、グレフィリアの象徴的な治癒士のことを語る人間は多い。
彼女の神秘性、彼女の美しさ、彼女の力の偉大さを人々は讃える。
治癒士にとっても、彼女と同じ姿をすることは誇り高いことだった。何故かはわからない。ただ、身体が、そして全てが、彼女の像を見ると懐かしさに締め付けられた。悲しみと畏怖を感じた。
治癒士は聖なる者。
治癒士は人を癒す者。
それを体現するのが彼女だった。
皆が彼女を女神のように見上げ、口々にその素晴らしさを語る。
けれど皆、彼女のことを知らない。
彼女が何を考え、どんな風に笑い、何を見ていたのか、誰も知らないのだ。
「エルダー、初代様がどうして亡くなったのか、知っていますか?」
唐突な質問に、エルダーは素直に「知らない」と答えた。
「力が枯れたそうですよ」
事も無げにフェーネが言う。
「生きようと思えば、永遠に生きられたような人だったというのに」
――エルダー。
記憶の中の誰かがエルダーを呼ぶ。
――エルダー、気をつけてね。
二人で潜ったベッドの中だ。
ジードは扉の近くのソファで寝ている。
窓のない部屋。大きなベッドの中で小さな身体を丸めて、二人で声を潜めて話をしていた、幼くて無邪気なあたたかい記憶。
向かい合う夜色の髪の隙間から見える瞳が、エルダーを見ている。
――治癒士の力は枯れてしまうんだって。そうすると、死んでしまうんだ。だからどうか気をつけて。あまり使わないで。君と離ればなれになるのは、嫌だよ。
小さな手を握って、祈るように、誰かがそう言った。
「どうやったら枯れるのかしら」
夢から覚めたような心地の中、エルダーは呟いていた。隣からのぞき込まれる。
「枯れたいのですか、エルダー」
フェーネの顔は、どうしてか若々しい青年に見えた。目が輝いている。
「枯れたいですか?」
もう一度聞かれ、エルダーはまた正直に「わからない」と答えた。
フェーネの目が慈しむように細められる。
「可愛らしいですね」
「馬鹿にしているの?」
「いいえ。こう見えても、枯れたいと願ったことがあるので……懐かしくて」
「あなたが?」
「ふふ。はい」
秘密を共有するように、フェーネはこっそりと頷いた。怪訝な顔でもしていたのだろう、また笑われる。
「これでも人並みの感情は持っているつもりなのですが」
「あらそう、初めて知った」
「酷いですね。お互いを知らないわけではないでしょうに」
「前にも言ったけど、あなたのことはわかる気がしないわ。きっとずっとね」
エルダーの言葉に気を悪くすることもなく、フェーネは軽やかに笑った。
「ある少年に引き上げられたんです。おかげで今、ここにいます」
「面倒な仕事を押しつけられたわね」
「そうでもないですよ。面白い」
「あなたはそれで満足しているの?」
「ええ、とても」
フェーネが大きく頷く。
「こんなにおかしい日々が過ごせるだなんて、思ってもいませんでした。枯れるのはもう少し先でいい。エルダー、あなたは?」
「さっきと同じ答えよ」
わからない。
ここから離脱できるのならしてみたい。
けれど、本当にそれを望んでいるのかわからないのだ。
そういう素振りをして気を引きたいだけなのではないかと、冷静な声が嘲る。
あの人を怒らせたい。悲しませたい。
そう思う自分が確実にいる。
なにか感情を向けて欲しいと、子供のようにねだっている。
その反面、いざそうなったときには、彼は怒りもせず悲しみもしないのではないだろうか、とも考える。
みっともなく泣いて縋る自分の姿も見えた。
エルダーには「わからない」としか答えられなかった。
「そうですね……あなたをこれ以上追いつめるのは可哀想だ。一つ、教えておきましょう」
フェーネはエルダーの頭に手を置く。
撫でている、というよりは、まるで加護でも与えているようだった。
「心像を使うときに、集中するでしょう? その時に、行き止まりがあるはずです。これ以上は駄目だ、と感じる場所。そこを越えるだけで、枯れますよ。死ねるんです」
慈悲深い笑みで教えてくれたフェーネに向かって、エルダーは首を傾げる。
「行き止まりって?」
「……知らないのですか?」
エルダーは小さく頷いた。
そもそも、心像を使うこと自体、エルダーには相当な手順が必要だ。集中したとしても、それは「心像を使う」ために制御を外す複雑な回路を抜けるためのものだった。
心像自体に集中したことはない。
「……そうですか。あなた、とても幸運ですね」
「どういうこと?」
「行き止まりに行くと、恐怖を感じるんです。個が薄くなっていって、ここではないどこかと繋がる感覚がする。大抵の治癒士は、その一歩手前から帰ってきたら二度と近づかない。イノンはそれを教えなかったのですか?」
「ああ……教えようがなかったんでしょうね」
「どういう意味です?」
「私、心像を使うのが下手なの」
「……モナルダに使っていましたよね?」
フェーネが興味深そうに尋ねてくる。
今は遠い休息の洋館が脳裏によぎった。
腕の中で抱きしめた、柔らかな身体。直情的で素直な少女。血に濡れる、生温い感覚。
「あなたが私の後ろで窓を割った時から、ゆっくりと心像が使える状態になるようにしていたもの。使うためには時間がかかるの」
「……本当に?」
不思議そうに尋ねてくるフェーネに「嘘をついてどうするのよ」と呆れて答えれば、エルダーをまじまじと見て言ったのだ。
「いえ――エルダー、あなたが初代様の生まれ変わりだと思っていましたから」




