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きつく掴まれた腕が痛む。
それでも、エルダーはソファから立ち上がらなかった。動けない。
ジードが鋭くゼラを呼んだ。
「ゼラ。部屋から出るなら一人で出ろ」
「少し二人で話したいだけだよ。すぐ戻る」
「駄目だ。外で二人になるな」
「じゃあ、ジードが出て行く?」
ゼラの声は穏やかだった。
腕を掴む力は一切緩まないまま、ただただ優しい声でジードを追い出そうとしている。
ジードはゼラから目を離さずに、もう一度「駄目だ」と言った。
「二人にはさせられないってわかっているだろう……いいから、エルダーの腕を放せ」
「逃げないと約束するのなら」
「……エルダー」
ジードから呼ばれ、エルダーは「逃げないわ」と顔を伏せた。
ゼラの手の力がゆっくりと抜けていく。
そうして、エルダーの前に立った。
頭上から「ふ」と笑う声が降ってくる。
ふいに、休息の洋館で同じようなことがあったことを思い出した。
到着して二日目の朝。No.20のローブを着て、談話室に入ってゼラの前に跪いたあの時も、同じようにエルダーに向かって微笑みを落としてくれた。
あの時は共犯めいたそれだったのに、今はエルダーを追いつめる。
逃げられない。
逃げようがない。
「ねえ、エルダー。ジードとの約束を破ってはだめだろう?」
「……」
「エルダー?」
「……なんのことでしょう」
かろうじて返事をしても、許してくれる気はないらしい。ゼラの両手が、エルダーの俯いた顔をぐいっと上げた。
目が合う。黒く濡れた夜の湖面のようなゼラの瞳は、エルダーだけを映して微笑んでいた。
奥底にしまってある感情が勝手に震える。
ゼラの一つもこぼさないようにと、エルダーの全てがゼラに向かってしまう。ここがどこなのかもわからなくなってしまうほど、幸せに浸ろうとする。
けれど、何かがエルダーを押さえつけた。
怒りに似た、嫉妬のようなものだった。
「――目立たず、喋らず、刺激しないように、と、ジードに言われていなかったかな?」
「申し訳ありません」
「いい子にしていて」
縋るように言われて、エルダーは頬を包む両手に触れ、ぐっと無理矢理離した。
「殿下。私はいい子にしています」
そのまま手を強く握る。力を制御できそうにない。
「自分を作り上げたものが一つずつ死んでいく中で、正気を保っていい子にしています。他に何をお望みですか?」
ゼラの治癒士という立場を失い、ゼラの理解者となりこの先を一緒に歩いていく立場も失った。
ゼラにはイノンがいるし、イトセがいる。
もうエルダーには、外側からゼラの安息を守るために誰かを殺していく道しか残っていない。
「他に、私に何をして欲しいのですか」
ゼラは黙ってエルダーを見下ろしたまま、何も言わない。苛立ちが膨らんでいく。
「殿下の望みであれば、駒として誰かの妻か妾にでもなりましょうか? どんな男が相手でも、喜んで愛するふりをしますが」
「……」
「殿下に都合のいい相手がいらっしゃいましたら、教えてくださいませ」
「そんなことはしなくていい」
ゼラは低く穏やかに言う。
「たとえ言いつけていなくても、そういうことはしなくていい。アキレアとのことも解消してきて」
「いやです」
「解消してきなさい」
「できません」
「私の言うことを聞くんじゃなかったのかな」
エルダーが強く握っていたはずの手を、強い力で握り返される。痛いほどだった。
「望みをかなえてくれるって言ったのは君だよ」
「それでも、アキレアとは解消しないわ」
「なぜ」
「イトセ様がもう知っているからよ」
「じゃああの子を殺してくるから、アキレアとは解消しなさい」
「……何を、言ってるの……?」
エルダーは思わずゼラの目を訝しがるように見た。
アキレアと恋人のふりをすることは、本人とも話はついてるし、何も問題はない。むしろ、この状況の中ではこれ以上ない正解のはずだ。
イトセは安心しきっていたし、ゼラとイトセが結婚まで行き着くまで、無駄な悪評が立たないための措置でもある。だからフツリも納得はしていないだろうが、許可はした。
それぞれを繋ぐために、あちこちに杭を打っておく。その一つに過ぎない。
「彼は人質よ。手放せない」
「気にしなくていいよ」
「……イトセ様に手を出すなんて嘘でしょう?」
「君がアキレアから手を引かないなら仕方ない」
「どうして」
「フツリ殿は本気だ」
強く握られていた手の力が緩む。そのまま、エルダーの存在を確かめるかのように親指で撫でてきた。
心臓が嫌な音を立てる。
「それが目的達成に一番の利と判断したら、周りを黙らせてまとめて、こちらがそれに気づく前に囲われるよ。君やアキレアの意志やジードとの約束など、彼女にとっては大した意味はない」
睨まれてはいない。
それどころか、愛されていると錯覚してしまいそうなほど、ゼラの目はエルダーを呼んでいた。
「そうしたらどうなる? 私は彼女に泣いて頼んで君らの結婚の邪魔をするしかなくなる。彼女に完全に降参しなければならなくなるね」
「……そんなこと、あなたはしないわ」
「それはどうだろう」
何を言っているのか。
そう思う気持ちとは裏腹に、怒りが鎮まって、代わりに期待のようなものが膨れようとしている。押さえつけるように、エルダーはゼラを睨んだ。
「私とアキレアのことは、関係を解消しようがしまいが、何にも誰にも関係ないし、影響もしない」
「本当にそう思う?」
ゼラが試すように囁く。
「あれは君たちを素敵な恋人同士だと褒めている。それを見て肯定しなければならない私の気持ちはどうなる」
「ゼラ」
エルダーは短く呼んだ。
「所有物を取られたから機嫌が悪くなったんだろうけど、あなたの飼い犬ではいてあげる。死ぬまでずっと。だから、安心してあの子と幸せになって」
「……ふうん、そう……」
ぐ、と掴まれた手を引かれる。拒絶すると、あっけなく手が離された。代わりに深く抱き留められる。知っている温もりと安堵するにおいがエルダーを包む。
息をするのを忘れていると、ゼラが「ふ」と笑った声が身体に響いた。
ゼラはゆっくり離れたかと思うと、エルダーにそっと唇を寄せる。
「……もしここに、他の男が触れたら――そいつを殺す。いい子にしていてね、エルダー」
エルダーの唇を指で拭ったゼラは、にっこりと微笑んで部屋から出ていった。ジードが後を追う。
部屋に一人残されたエルダーは、近くにあった本を扉に向かって投げつけた。バンッと鈍い音が部屋に響き、それをきっかけに涙が溢れる。
止められなかった。
一度こぼれた感情に襲われるように、エルダーはソファで丸くなって、子供のように咽び泣いた。
心から愛されている。
唯一の人に。
そんな風に少しでも思ってしまったことが、嬉しくて、悲しくて、恥ずかしかった。




