66:一滴の上澄み
どうしてそんな顔をするのだろう。
自分を見るいくつもの顔を見て、思わず笑みがこみ上げた。
心配しなくとも、その王女様を殺したりなどしない。
エルダーは東屋へ、ゆっくり、ゆっくりと歩く。
彼らは大人しく待っている。
ふと、ゼラの唇がかすかに動いた。
――おかえり、私のエルダー。
エルダーはそれを見つめ返す。
口元はいつものように微かに笑みを浮かべているが、その目はいつもよりも冷たい。
東屋の中にいてもわかるほど内側から健やかに光る少女がイトセであり、彼女がゼラの理解者となり得る境遇であることを、数分前にアキレアから聞いた。
同時に、エルダーは知ってしまったのだ。
このオーディルーで彼女と一緒になれば平穏な毎日が約束され、ゼラが誰からも狙われずに生きていけ、彼女の汚れなさに腹が立つこともあるだろうが、それがゼラを癒すことになるだろうことを。
生きていてくれるならそれで十分だ。
たとえ、自分を生かしてくれた狂気を少女に削がれ「ゼラ」という人間の中身が柔らかに変化したとしても、生きていてくれるならそれでいい。
裏切り者――そう言いたい気持ちをこらえて、幸せを願うふりだってできる。
いい子にできる。
もうお前は不要だよ、と言われれば、目の前から消えることもできる。
綺麗な子だ。
イトセ。
イトセ。
ゼラを慰めるであろうその可愛らしい少女を、頭の中で何度も呼ぶ。
エルダーはイトセを見た。
アキレアから聞いた彼女の話を思い出す。
○
「王配の子?」
エルダーが聞き返すと、アキレアは頷いた。
庭に二人きり。不自然なほどに誰も近寄ってこない。
何となく。
本当に何となく、アキレアの後方に続く細い道を見る。薔薇のアーチをくぐって歩いていくと、どこに繋がっているのだろう。
きっと、もっと広くて美しく整えられた庭に違いない。たとえば、そこに密会できるような東屋があって、初めて顔を合わせる者同士が安全に話ができるような、そんなところが。
エルダーの視線に気づいたように、アキレアが身じろぐ。
ああ、なるほど。
エルダーはアキレアの目を見つめる。
静かな獣は必死に守っているのだ。
それが幼い頃のお姫様なのか、それとも敵国の王子なのかはわからないが。
「ゼラ様の婚約者になる人が、王族ではないと言うの?」
「ああ、違う」
「彼女の母親は?」
「侍女だった」
「まあ……夫が侍女に産ませた子を、女王陛下は優しく王族として迎え入れたってこと? 寛大ね」
「陛下はそういうお方だ」
「グレフィリアとは違って?」
エルダーが笑う。
アキレアの目がほんの少し同情的になった。
あんな王だったから、エルダーは地下に放り込まれたと言わんばかりだ。
「大丈夫よ。私は心底グレフィリアが嫌いだから。あの王だったものも、王太子も、城の正しい皆様も、殺したいほど嫌いだった。けどそれは、自分の境遇に対する怒りではないわ」
ひどい扱いだった。
ゼラが、だ。
「知っている」
「いいえ。知らない」
エルダーは苦笑する。
「ああ――ごめんなさい。あなたも不遇の王子だったわね。それで? 王配の裏切りの娘は、ゼラ様の側に置いても大丈夫なの?」
「……イトセ様だ」
「イトセ様、ね。失礼しました。アキレア殿下」
恭しく胸に手を当ててみると、アキレアは視線を外してため息を吐いた後、話を続けた。
「イトセ様は庶子ではあるが、王族から忌み嫌われるどころか、皆が心を寄せている。その伴侶となれば、ゼラ殿下は生涯安全に生きていけるだろう。それほど、健やかに、イトセ様は守られ、慈しまれてきた。大丈夫だ」
「そうかしら」
「どういう意味だ」
「怒らないで。彼女を悪く言っているわけではないわ。あのフツリ様が可愛がっているのだから、いい子なんでしょう。あの人が小さな頃からそばにいたのなら、牙などとっくに抜かれているわよ」
エルダーは鼻で笑う。
会わなくともわかる。
美しく、聡明で、健気。そんな少女なのだろう。
「私が言いたいのは、そこじゃない。敵国の王太子の次は、国を出て降伏してきた第五王子の妻になって首を繋げだなんて、真っ当な扱いじゃないわ。慈しまれている王族ならば、ね」
アキレアは珍しく苛立たしげに視線を外す。
「情のない相手にとっては、扱いが面倒な子なんでしょう? できれば目の前にいてほしくない、早くどうにか片づけたい、そんな子供。それはなぜ? 庶子だから? 違うでしょう。本当に大丈夫なの?」
黙ったままのアキレアに、エルダーは一歩近づく。
「誰が彼女を厄介に思っているのかしら――いえ、言い方を変えるわ。誰を担いでいる人間にとって、イトセ様は目障りなの? この国の内情を全て話して。そうでないのなら、私は今すぐここを出て行く。どうやって出て行くのかは、あなたの想像に任せるわ」
○
エルダーは裸足のまま、ゆらゆらと東屋に近づいていく。
後ろからついてくるアキレアは一体どんな顔をしているのだろう。
全てを話して後悔しているだろうか。きっといつものように無表情に違いない。
エルダーは東屋の中をじっと見ている。
イトセの隣にいる、フツリを見ている。
全ての元凶である女を。




