6:休息と交流
「エルダーさん」
呼ばれ、エルダーは振り返った。
細身で頼りなさそうな少年が、午後の廊下を駆けてくる。
静まりかえったそこは、二日前の異様な騒がしさや、殺人の告白などまるでなかったように穏やかな日差しに包まれていた。
エルダーの白いローブが輝き、銀の長い髪が水面のように反射する。
『戦地に赴くまでそのままゆっくり過ごされよ』
処分は保留と言ったきり、管理者である王子からの音沙汰はない。
制限をかけられることも見張られることもないが、アキレアもモナルダもフェーネも、この二日自室からは出てこなかった。
エルダーも以前はそうだったが、今回は「そのまま」ふらふらと洋館を歩き回っている。
必然的に護衛とも顔見知りとなったが、中でも王子の世話役の護衛の少年はよく話しかけてくれた。
夜空の色の長い前髪で目元を隠した華奢な少年――ゼラが、小さくはにかむ。
「談話室にお茶を用意しました。よければいかがですか?」
「ありがとうございます、ゼラ様。是非ご一緒させていただきます」
エルダーが笑って頷くと、ゼラは「では、行きましょう」と嬉しそうに先を歩きはじめた。
小さな背中だ。
背はエルダーと同じくらいなのに幼い印象を受ける。
護衛と言うが帯剣はしておらず、雰囲気から彼は王子と周りとの調整役らしかった。穏やかで、見えている頬は青白く、身体の線の細さから病弱な印象を与えるが、それが彼の強みだった。そういう朗らかな相手には、誰もキツく当たることはできない。
管理者であるその人の場をコントロールする能力を、エルダーは恐ろしく思う。
現にあっという間に、ゼラとはお茶友達になっていた。
「……は?」
談話室の扉を開けて入って早々、低い声に迎えられた。
ジードだ。いつもはきっちりと着込んでいる制服のボタンを二つ外して寛いで座っている。
エルダーが軽く頭を下げると、いつも王子の隣で澄ましている顔が歪んだ。
「何でNo.20が」
「ジード、やめてください。エルダーさんは一番に僕らに名前を教えて下さったんですよ。番号で呼ぶのはナシですからね」
ゼラがむっとして言うと、ジードは無骨な手で摘んでいたレモンケーキを口に運びながら「はいはい」と適当な返事をした。
「エルダーさん、ジードのことは気にせず座って下さい。レモンケーキ、切り分けますから」
あの日――二日前に来たときは赤い椅子を扇状に囲むように配置されていた椅子は、今や丸い大きなテーブルを囲む椅子となっている。
どこからこの大きなテーブルを運び入れたのか知らないが、気づくと談話室はお茶会仕様となっていた。一人掛けのソファまで点在しているし、この椅子もあんなにも堅く重苦しい空気の中で使っていたとは思えない。
談話室は、紅茶とケーキの香りが広がり、開け放した窓からは明るい日差しとやわらかな風が入ってきていた。
ゼラが紅茶を淹れてくれ、レモンケーキもエルダーの前に置かれる。
それを味わっていると、ここで一人が惨殺されたことがまるでなかったかのような、遠い昔の噂話のような気がしてきて、エルダーはじっとカップの中の琥珀色に映る自分を見つめた。
「あの、美味しくなかったですか?」
ゼラの声でハッとする。
すぐさま首を横に振った。
「まさか。とっても美味しいです」
「そうですか。よかったあ」
ほっとゆるむ口元は、心底安堵した様子だ。
ジードがケーキを食べ終え、指をぺろりと舐める。
「それで、No.20」
「エルダーさん、ですよ」
「……エルダー」
ゼラに叱られたジードが苦虫を噛み潰したような顔で呼ぶので、エルダーはカップをソーサーに置いてジードに向き合う。
「何でしょう、ジード様」
「……他の治癒士達と交流は」
「今までもありませんし、今は特にありません。皆様部屋から出ていらっしゃらないので、交流する相手がおりません。私はもう部屋にじっとしていても仕方ないと思って、自由に散策させていただいていますが」
「ふっ」
ゼラが思わずと言ったように笑った。
紅茶を一口飲んで誤魔化すそれを一瞥したジードが、ため息を吐く。
「殺されるとは思わないのか」
「誰にですか?」
「馬鹿が。俺たちは殿下の指示がなければ何もしない。仲間に殺されはしないかと恐ろしくはないのか、と聞いている。部屋にこもっていれば、いつでもそのおぞましい力を使えるだろう」
治癒士が使う心像は、相当な集中力を要する。
見える傷口ならば修復するところを頭に思い浮かべ、見えぬ臓器を癒すときは更に無防備になりながらそこに到達し、治癒士の使う強制的なその力で、小さな細胞一つ一つへ働きかける。何もできない赤子のようにじっと目を瞑り、自身に何があってもそれを続ける奉仕の精神があって、初めて使うことができるのだ。
治癒士を殺したいときは心像を使っているときが一番労力が少ないと言われるほどに、その間は無力だ。
個室を与えられたこの休息の洋館であれば、治癒士は安全に心像を使えるとも言える。
休暇をもらって中央へと帰った治癒士達は、城の地下で城兵に警護という名の見張りをされていることだろう。あれでは何もできない。
エルダーは目を伏せる。
「ではジード様は、治癒士である私が恐ろしくありませんか?」
「恐ろしいわ、人殺し集団」
軽い口振りで「恐ろしい」と言うが、本当に恐ろしい人はこうして顔を晒して堂々と治癒士と話したりなどしない。エルダーがくすりと笑うと、ジードの右目が少しだけ細まる。
「彼らは私を殺しません」
「なんで言い切れる」
「それは」
エルダーはふと顔を上げる。
談話室の扉が、突然ゆっくりと、あまりにも静かに開いたのだ。