58:深層の縁
好きなことも嫌いなこともない、そんなつまらない人間だった。
けれどもあの人と会ったときに、ようやく人生に意味を見出したのだ。月並みな言葉で言うと恋のようなものをした。性別も年齢も何も気にならなかった。
ただ、この美しい人の盾になって死ねたなら最高だと思ったのだ。
殺されたのなら、もっと嬉しい。
自分が歪んでいることは知っていたが、こんな歪み方をしていることは知らず、それはとても面白い発見をしたような心地になれた。
ロムは晴れた窓の外へ視線を移す。
ゼラの護衛に戻れたというのに、それを満喫する間もなく、オーディルーの王女と会うことになってしまった。
部屋から出ないと聞いていたのに、散々だ。ゼラの世話を焼いて、おすすめの本でも聞いて、読みながら空気を共有したかったというのに。
グレフィリアでは得られない穏やかな時間がやってきたと思ったのに。
ロムは不機嫌ではあったが、表情はいつも通り飄々としていた。
支度を手伝っていたスラーが頭を下げる。
黒いローブを脱いだ清廉潔白な少年がそこに立っていた。ちらりとロムを振り返ってくれる。
「――似合わないな。そう思わないか?」
「ありえないです。お似合いです、殿下」
「ロムがそう言ってくれるのなら大丈夫かな」
小さな笑みを寄越したゼラは、グレフィリアでは決して着られなかった高貴な衣装に身を包んでいた。用意をしたのは、あのフツリとか言う年増の王女だ。
ロムは微妙な気持ちを顔に出さずに、目が覚めるような白い背中を見つめた。もう結婚でもするつもりなのか、と毒づきたくなる気持ちを抑える。
苛立っていると、いつかの自分が言葉が戻ってきた。
――君は殿下にとってペットなんだよ。とっても便利で自分に忠実なペット。人としてではないし、愛されてなんてない。自覚した方がいいよ。
そう言った。
あの、月光を溶かしたような長い髪の女に。
何を考えているのかわからない、穏やかな顔をした、決して穏やかではない治癒士。人を癒すどころか、目の前で二人も殺した、あの女。
エルダー。
ロムは彼女が羨ましかった。
自分だってできる。手を汚すことだって厭わない。むしろ、喜んでする。
だというのに「護衛」という立場のロムが力を振るうことは許されていない。そんなことをすれば、ゼラの立場を危うくしてしまう。
それでもできることなら、ロムはその見知らぬ王女を殺してやりたかった。
顔に出せない苛立ちが腹の中で膨らんだとき、ふいにロムの頭の中で甘い声が響く。
――愛しているからいいの。あの人にとって都合がいいなんて、最高の立場だわ。
あの哀れな彼女が、ロムの思考を宥めるようにそう言った。
浅い息を吐く。
エルダーのことを思い出すと冷静になれた。
自分と同じようにゼラに焦がれていても、届かなくて当然と諦めているロムとエルダーは違う。
彼女は悲惨だ。
異性であるというのに、近くにいたってどうにもなれない。
ロムはすっと心が軽くなるのを感じた。
マシだ。
自分はエルダーよりずっとマシなのだ、と。
「ロム。おちついた?」
全く気配のなかった背後から、ぽん、と肩を叩かれる。
振り返らなくてもわかった。
「……イノン」
「はーい。イノンですよ」
ぱっと手をどけて朗らかに言う男を見上げる。背が高く、もさもさした髪のよくわからない男。
わからないなりにわかるのは、ロムは自分とは気が合わないと言うことだった。
それを顔に出してもどこ吹く風でイノンはロムを見下ろす。
この目が嫌いだ。
何をしても刺さらない感じ。
フェーネは聖職者のようににこにこしている底の知れない男だが、こちらの言葉が届いているのはわかる。受け止めもしないし、かわすこともないのでやりにくいが、意思の疎通ができないわけではない。ここに来るまでの馬車の中で、合わせ方だって測ることができた。
けれどこの男は違う。
戦地から行動を共にすることになったこの男には、何も刺さらない。何も届かない。それであるのに、親しげにこちらを見てくる。
ロムは弱者になった気分にさせられた。
「きみ、ご家族とは疎遠?」
突然イノンに聞かれる。
答える義務はないと睨むと「そっか」と納得された。
「おとうさんって呼んでもいいよ」
「……はあ?」
「ふふ。息子がいてもいいなあって思ってね」
「何言ってんの。意味分からないんだけど」
ロムがじろりと睨むと、イノンは楽しげに笑った。
「なるほど、息子は反抗期」
「やめてよ。なんなの?」
「――イノン。やめてやれ」
穏やかな声がくすくすと笑って割って入り、ロムのむっとしていた顔が自然と輝いた。
今まで顔を隠すようにしていたゼラの髪を、スラーが結っている。ゼラはイノンを諌めるように見つめた。
「お前たちが親子になるのは似合わないな」
「そうですか?」
「ロムは私の大切な友人であり、護衛だ。お前に渡せるのは娘だけだよ。我慢しなさい」
ゼラの言葉に、イノンは諦めたように「わかりました。殿下がそう言うのなら」と引き下がる。ついでににこっと笑いかけられたので、睨んで返しておいた。
彼らの言う「娘」が誰なのかはわかっているロムは、その話題に触れたりしない。
ここにいる男達がどの顔を思い浮かべているのなど、聞かずともわかる。
「で、お前は今までどこに行ってたんだ?」
ゼラから聞かれたイノンは、ようやくロムから意識を外してくれたらしい。解放されたような妙な気分になったロムは、ゼラの元へ歩くイノンの背中を睨む。No.10の刺繍を。
「フェーネとレカのところですよ」
「そうか」
ほんの少し。
ロムが気づいたのは、ほんの少しの間だ。
ゼラが「そうか」と言うまでの間の違いに、ロム以外は気づかなかっただろう。
やはり彼女が嫌い。
ロムは心の中で呟く。
ゼラは、エルダーの様子を知りたがっていたのだ。




