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オーディルー側に、ゼラの治癒士が女であることを知られてはならない。
エルダーは理解した。彼らは嫌悪しているのだ。王子達の周りに「女」の治癒士がいることを、まるで不吉の象徴のように忌み嫌っている。怯えていると言ってもいいほどだった。
フツリはエルダーがゼラの治癒士であることに気づいている。ここまで警戒する理由にしているらしい。
「エルダー」
硬質な声に呼ばれる。
フツリは自分の表情を繕うことをせず、少しだけ睨むように険しい目でエルダーを見た。
「君にとって不快なことを聞く。あの若い王は、君を大変気にしていた。No.19はそちらに本当にいないか、とね。君のことだろう?」
治癒士がそれぞれのローブにNo.を背負っていることを、フツリやオーディルーの者はよく思っていないらしい。どこまでも誠実な同情だ。この国は正しすぎる。
エルダーがそれを振り切るように「しつこい男」と呟くと、フツリが反応した。
「何をされた」
「何もされていません。強いて言うなれば、私がした方になるのかしら――ねえ、ジード」
「……」
話を振るな、と言いたげにソファから睨まれて、エルダーは「ごめんなさい、邪魔をしたわね」と本の続きを読むように促した。
フツリが怪訝な表情でエルダーを見る。
「何をした」
「そうですね……簡単に言うと、二度と人を寝室に誘えないようにしてあげました。私以外の被害者が出ぬように」
エルダーがにこやかに言うと、一瞬ぽかんとしたフツリは、数秒遅れて吹き出した。
「ふ! それはそれは!」
目尻の皺が深くなる。無邪気な少女のように笑う彼女からは、剣呑な雰囲気が綺麗に消えていた。
「さぞ気持ちが晴れたことだろうね――ああ、久しぶりにこんなに笑ったよ。それにしても君は賢い。完璧な仕返しだ」
「ありがとうございます」
「それで? 何故君が狙われた?」
探りを入れられている気配を感じながら、エルダーは彼女の思惑の間を泳ぐ。
「嫌がらせでしょうね」
「嫌がらせ?」
「ええ。私は地下から出してもらった治癒士だったので、教養も何もなく……ジードからは素養を、イノンからは治癒士とはどういうものかを教わりました」
「……苦労をしたね」
フツリが眉を顰める。
やはり「地下の正しくない治癒士」については既にアキレアから聞いているらしい。
エルダーは当時を思い出すような神妙な表情を作って、呆れたようにため息と共に吐き出した。
「第五王子殿下の護衛と治癒士が関わった者を、汚したかったんでしょう。浅はかな嫌がらせです」
嘘ではない。一つも嘘はない。
エルダーのことを見透かすような目は、それを確認したように頷いた。
「ああ、なるほど……それでか。前国王がふざけた理屈をこねて一応婚約したが、王太子自身はここ二年、特に引き延ばそうとしている様子だと聞いていた」
「時期が合いますね。彼、絶対に子供はできませんから。王位継承者を望まれることに対する責任を負いたくないんでしょう」
「卑怯な男は扱いやすいな」
フツリが笑う。エルダーも同じように笑い、目があった。
「――代わりに、ゼラ殿が婚約してくれる運びとなった」
エルダーは「そうですか」と驚き、それからゆっくりと頭を下げた。
「お祝い申し上げます」
「どうもありがとう。ゼラ殿は油断はできぬが、誠実な人間だ。あの子を安心して預けることができる。明日、あの子がこちらに来る。エルダーも顔を見せて挨拶でもしてあげてくれ」
「私が、ですか? あなたに見張られているのに?」
「見張りはやめるように言っておいた。君は自由だよ。この部屋から出るのも、この城の中を歩くのも、オーディルーから出て行くのも、君の思いのままにしなさい」
フツリが席を立つ。
エルダーが口を閉ざしたまま会釈をすると、彼女は「賢い子は好きだよ」と、念を押して部屋から出ていった。
○
晴れた晴天の下を歩く感覚が久し振りすぎて、目眩がする。
何もかも取り上げられていく。
その言葉がエルダーの頭の中にずっと過ぎっていた。一人でふらふらと歩くエルダーの後ろを、誰かがついてきている気配はない。
昨夜のフツリの言うように、監視はなくなったらしい。
庭を裸足で歩くエルダーは、その昔教えられた歌を小さな声で歌う。
フツリの塔は、緑豊かな庭に囲まれていた。
彼女が使用人から愛されているのがわかる。花々があちこちに飾られ、どこも柔らかな日差しが降り注ぎ、乾いたさわやかな風が頬を撫でる。どこにいても居心地のいいフツリの安全地帯の中は、自分たちが降伏した立場であることを忘れさせた。
なんて恐ろしい。
尊厳や規律で威圧してきたグレフィリアとは違う。
寛容で気高く実直。そんな顔をした、したたかな国。
エルダーは足で草を優しく踏みつける。
腐りそうだ。長くいるべきところではない。
「――どこへ行く」
後ろから声をかけられて、エルダーは振り向く前に風にさらわれる銀色の長い髪を押さえた。
「……私は自由らしいから、行けるところまで行っても面白いかと思うのだけど、どう思う?」
振り返った先で、アキレアがエルダーを見ていた。
哀れむような目と視線が交わる。
庭に立つアキレアは、グレフィリアにいたときの無関心さをどこに置いてきたのか、酷く普通の人間に見えた。あんなに研ぎ澄まされた、それでいて読めないぼんやりしたような男が、ここの空気を身体になじませている。
ああ、彼はこの国の獣なのだ。
穏やかで無害なフリをする、この国の高潔な王子なのだ。しかし――
エルダーは笑う。
「アキレア――あなた、まだそれを着ているのね」
アキレアは白いローブを脱いでいなかった。




