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囁く声がして、エルダーはゆっくりと目を開けた。
白い壁に茜色の光を反射して滲んでいる。
ああ、眠っていたのだ。
こんな風に休めたのは久しぶりだった。
治癒士になってからは、三時間ほど目を閉じるだけで動いていた。安心して眠れていたのは、ゼラとともにベッドに潜り込んでいた幼い時だけだ。あの頃、ジードはよく部屋のソファで寝ていて、今思えば一番ゼラの命を狙われていた時期であったと思い当たる。
私のせいね。
エルダーはぼんやりした頭で思い出す。
治癒士をつけたゼラを監視していたのだろう。そして、エルダーが有能ではないことを試していたのだ。
あの頃のエルダーは今以上に心像を使うのが下手で、咄嗟に本能的に使ってしまう以上のことはできなかった。治癒士の力について教えてくれていたのも治癒士ではないジードで、二人で医学書を呼んで人体の構造について学ぶことくらいしかしていなかった。故に、ゼラが命を狙われても治癒をすることはできず、怪我が絶えなかった。
――わざとだから、大丈夫だよ。
ゼラはそう言って小さな手でエルダーの頭を撫でた。
ちょうどいい、とも言った。レカを探すために動いていることを悟られない程度に怪我をしているだけだから、と。
確かに、ゼラを本気で殺す気はないらしく、父親の放ってくる刺客はぬるかった。
今はわかる。そんなわけがない。二人が見えぬところで、ジードが始末していたのだ。あの王太子を毛嫌いしているところを見ると、本気で殺そうとしていたのは父親ではないようだが。
意識が覚醒するのを感じながら、エルダーは部屋の中の気配に耳を澄ませた。
「わかりました。そのように」
ジードの声だ。その言葉に、胸が跳ねる。
ジードが警戒を解いて丁寧に話す相手は一人しかいない。
「ああ、頼む。ロムの面倒はこちらで見るよ」
「あいつ、大丈夫でしたか?」
「張り切りすぎていたから、イノンと二人にしてきた」
くすくすと笑う控えめな声。
エルダーは目を見開いて、身じろぎできずにベッドの中で身体体を強ばらせた。
ゼラだ。
「……それは、嫌でも落ち着くでしょうね。スラーは?」
「消息不明のアキレアを探そうと思ってね、少しうろつかせている」
「まだわかりませんか」
「あれのことだから一度は私の元に来ると思ったのだが、読み間違えたかな」
ゼラが微笑むような声で口にするのとは反対に、ジードが考え込んでいる気配がした。
「生きていますかね?」
「生きてはいるだろう。彼も治癒士であるし、呪与士だ。何より、この国はグレフィリアよりもよっぽど正しい。数少ない呪与士を減らすような真似などしないよ」
ジードは「でしょうね」とため息と共に吐き出す。
「グレフィリアの情報ならば、すでにアキレアからフツリ様に渡っているでしょう。もう暇になっていてもおかしくないのに、一度も顔を見せないのは確かに不自然ですね」
ゼラはそこで、ふと無邪気に笑った。
微かに布擦れの音がする。
「愛する誰かと密会でもして離れ難いのかもしれないね。私のように――目が覚めたのなら顔を見せてくれ、エルダー」
ゆっくりと、視界に黒いローブが入ってきた。
じっとローブだけ見ていたエルダーの視線をさらうように、よく知っている手のひらが目の前に近づいてくる。
「エルダー?」
顔を見ようとしないエルダーの頬にゼラの指先が伸びた瞬間、身体が動いていた。ベッドから飛び出すようにゼラの首元にしがみつく。
握っていた封筒と同じ香りがした。
「……エルダー、眠れた?」
「うん」
「そう。よかった。ジードがいるから、ちゃんと休んで」
「うん」
子供の時のようなやり取りに、全身の力が抜けていく。濁って蓄積していた何かが晴れて行くのを感じた。
軽く受け止めているゼラは、エルダーの背中をなだめるように叩く。
「元気そうでよかった」
「うん、ゼラも」
つい、心地良さに身を任せていたせいで昔のように呼んでしまう。エルダーはすぐに「ごめんなさい」と謝ろうとしたが、言葉にはできなかった。
今まで優しかった腕が、急に強くなってエルダーを抱きすくめたからだ。
それは一瞬で、夢の続きでも見ているような儚さですぐに手放される。
ゼラの深い夜色の瞳はやはり凪いでいて、よろよろとベッドにずり落ちるように座ったエルダーを見下ろしていた。長いまつげがやけにゆっくりと動く。
しばら見つめ合うと、ゼラまでもが目を覚ましたようにわずかに目を見開いた。そうして優しく笑む。
エルダーの顔に両手で触れ、額に唇が落とされた。
「エルダー、覚えてる?」
「……え?」
「最後の夜の約束」
少しだけ離れた唇が額をくすぐる。
――君を一人にはしない。
グレフィリアを去った夜のことだとわかると、エルダーは顎を引くようにして小さく頷いた。
「そう。よかった。絶対に忘れないで」
「……うん」
ここで「はい」言えば、ゼラを悲しませるような気がして、昔のように返事をする。それは正しかったらしく、ゼラはもう一度額に触れ、エルダーの銀色の髪を慈しむように指先でそっと混ぜた。
「オーディルーの末の王女と、明日、会えることになった――意味がわかるね?」
柔らかな声が降ってくる。
宥めるような動きで、エルダーの頬をくすぐり続けるゼラは、それ以上何も言わない。
王女との婚約を視野に動くことは聞いていた。
理解していた。
けれども、思った以上の早さで事態がゼラが思うように進んでいたことなど、知る由もない。
会えると言うことは、婚約はほぼ決まったものだということだ。もうどうにもならない。時間もない。
「はい、ゼラ様」
エルダーはゼラの手から逃れるように、その場で深く頭を下げた。
子供じみた真似をしていることはわかっている。
それでも悲しげに説得の一つでもしてほしいという浅ましい願いを捨てきれない。
けれど、ゼラは何も言わずに部屋を出ていってしまった。
部屋を出る直前、ジードが「ゼラ、我慢しろ」と声をかけても、返事一つしなかった。




