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オーディルーの戦地に足を踏み入れ、その光景に唖然とした。
野営など一つもない、ただ広い空き地が広がっていたのだ。
驚いているのはエルダーだけではない。辺りを見回したロムが「えー」と何とも言えないような声を漏らすと、フツリが無邪気な子供達を見るように笑った。
「ここは基本的には無人だよ」
「へえ、どうしてですか?」
暢気に聞いたのはイノンだ。
「怪我をしたら大変だろう?」
「けが」
「そう。痛いしね」
怪我をしたら痛い、というフツリの言葉に、レカが首を傾げる。フェーネはその様子に苦笑し、レカの頭を撫でた。しばらくして、ロムもエルダーも「ああ、そうか」と納得したように軽く頷く。
怪我をしたら痛い。確かにそうだ。
治癒をするのが当然の環境にいて、怪我をすれば大変であることなど実感してこなかった。スラーが呆れているのを感じる。やはり彼が一番まともな感覚の持ち主らしい。
フツリの人の上に立つ者特有の表情は、ゼラとよく似ている。エルダーの視線に気づいたのか、目が合った。見定めるような目だ。エルダーは穏やかな顔で自分から頭を下げた。
ゆっくりと顔を上げて、何も言わずにもう一度フツリと目を合わせる。
ほんの数秒の後、彼女が先に「ふ」と笑って目を逸らした。隣に立つゼラを見る。
「ゼラ殿、随分面白い子達を揃えているね。紹介してもらっても?」
「ええ。彼女はNo.19。訳あって、グレフィリア側には死んだことになっています――挨拶を」
ゼラに促されエルダーは口を開く。
「エルダーと申します」
「彼女が君の治癒士?」
フツリの問いに、ゼラは首を横に振った。
「いいえ。私の治癒士は彼です――イノン」
「はい、殿下」
イノンが頭を下げる。
フツリとイノンが挨拶を交わしている声は聞こえていたが、膜が一枚張ったようにその光景が自分から切り離されていくような感覚がした。
全員が顔を読まれぬようにしているのがわかる。
誰もが、敵国であった場所に足を踏み入れて内側に緊張を抱えている。それだけではなく、エルダーが爆発しないように気にしているのがわかって、妙におかしくなった。
それでも穏やかな表情は変わらない。
ジードに「何もするな」と言われたからではない。フツリという人は、エルダーの血濡れた手に気づいているからだ。ここで余計なことをして「帰れ」と言われてはたまったものではない。
ああ、また死んだわ。
エルダーはゼラがフツリに護衛たちを紹介する声を遠くで聞きながら、内側で独り言を落とす。
休息の洋館で「No.19」が死に、そして今度はオーディルーで「ゼラの治癒士」という自分が死んだ。
寂しいのだろうか。
受け入れられないことなのだろうか。
エルダーは自問する。
自分の根幹にあったものが取り上げられていく状況に、何も持っていなかった頃に徐々に巻き戻されて行っているような感覚はする。けれど不思議と、悲しさは感じなかった。
どうしてだろう。
研ぎ澄まされていく。そんな感覚に目が冴える。
一つ、また一つ、自分の中身が死んでいく。
残るのは何だろうか。
エルダーは笑う。
最後まで残るのは、何なのだろう。
○
アキレアが目を伏せるようにして歩いている。
故郷を懐かしむというよりは、感覚を取り戻すことに集中しているようだった。
戦地の奥へと歩いていくと、火を囲んでいる三人の兵士がこちらに気づいた。
「フツリ様ー、お迎え終わりました?」
「おう」
「お疲れさまです」
三人はエルダー達を気にする様子もなく、リラックスしている。オーディルーの王女であるフツリに対する気安い態度に、エルダーはここが異国であることを実感した。
たった数歩歩いただけなのに、人が違う。
彼ら兵が王族を敬ってないわけではない。それ以上に、厚い信頼感をもって接しているのがわかる。ここは、王へひれ伏すことを強いるようなグレフィリアとは何もかもが違う国なのだ。
彼らとフツリの言葉の応酬をじっと聞いていた、エルダーはジードが「何もするな」と言っていた意味を知った。なるほど、彼らを挑発するのは危険だ。上からの圧力で統制された者達ならば簡単に転がせるが、一人一人に確固たる信念のある恐怖のない者は、つつけばこちらが痛い目に遭う。
オーディルーという国については何も知らないが、そこに息づく人々は自分には合わないように思えた。ゼラがエルダーを自分から離した理由の一つもそれだろう。
けれど不思議なことに、オーディルーの空気は嫌いではなかった。
静寂に満ちていて、凪いでいる。
怒りもなければ喜びもない夜の中は、ゼラそのもののような心地よさがあった。自分の中が削ぎ落とされて、外の気配をよりクリアに感じる。
エルダーはそっと夜空を仰いだ。
そこから二時間。
ひたすら森を歩かされた。
無言で、オーディルーの休息の館への道を歩く。
先頭のフツリは年齢を感じさせない足取りで、それも歩きやすいルートを通ってくれている。
エルダーは唯一の黒いローブをひたすら追いかけた。
アキレアの森を歩く獣のような佇まいがどんどん冴えていくのがわかる。エルダーの後ろについて行るフェーネとレカの足音はほとんどしない。
歩く。
歩く。
歩く度に、細い糸で一体感を紡いでいるのがわかる。切れぬように、それぞれが細心の注意を払っている。
目前に、館の明かりがぼんやりと見え始めた。




